歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (1)

今月の歌舞伎座 『花形歌舞伎』は、昼が四世鶴屋南北の作品で夜が河竹黙阿弥の作品である。南北は『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』で、昭和48年に国立劇場で上演され、今回は再演である。染五郎さん、菊之助さん、松緑さん、七之助さん、等の若手にとっては新作と言ってよい作品である。それに対し黙阿弥の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』は通しとして、「浜松屋」と「勢揃い」の単独や二つセットを数えると何回上演されているか分らないほどである。

この二作品を花形の役者さんで観て思ったことは、歌舞伎は型の芝居であるということである。他の演劇と歌舞伎を分けているのは型である。そしてその型があるゆえに生き残ってきたのである。『心謎解色糸』は、型が決まっていない、模索状態である。型が決まっていないだけに台詞まわし、声のトーン、息継ぎなども定まらない。人物の寸法も、善と悪の演じ分けもすっきりしないところもある。芝居がメチャクチャだということではない。複雑な人間関係を解り易くし役者さんもそれなりの登場人物たちをこなしており早変わりもある。しかし、観ている側に何かもっとと求める声がする。それがなんであるか。『青砥稿花紅彩画』を観て明らかになった。古典で型があり、がんじがらめに縛られているはずなのに、こちらのほうがのびのびと演じられているように見える。観ているほうもストン、ストンと気持ちよくこちらの感性に入ってくるものを受け止めている。

おそらく花形役者さんたちも、先輩や師匠(親)から口うるさく言われてきたことが沢山あったであろう。あちらからも、こちらからもそう沢山のことを注意しないで欲しいと反発もしたことであろう。それが、身体の中に少しずつ積み重なって、身体が味方してくれているのである。花道から去る時の不敵で怪しい目つきと視線。そこに色気があり、その顔の表情を受けて立つ身体に型があるのである。この身体があるからこそである。

これがあるからこそ、歌舞伎は幼い頃から舞台に立たせられ身体に染み込まされるのである。そうしなければ、何代も続いて工夫してきたことを、覚え込む時間が足りないのである。身体に覚え込んで覚え込んで自分の芸を探し当てていくのである。さらに、観客の目も意識しないわけにはいかない。こんなに一生懸命なのに受け入れられないのか。この程度で喜んでもらえるのか。どちらにも落とし穴があるかもしれないし正解があるのかもしれない。それをどう捉えどう平衡感覚を保つかも役者さんの仕事である。

新作は、かつての役者さんたちがやってきたように、再演の度に工夫して積み重ね、自分の代で駄目なら次のいやもっと先の次の次の世代での花を夢見て伝えていく足掛かりとなるものである。若手の役者さんがそれを苦労し模索しているのもまた違う意味での観る楽しさではある。

今月の筋書きに新歌舞伎座の軒丸瓦の写真が載っている。歌舞伎座の座紋の鳳凰が丸瓦に型採られれている。歌舞伎座タワーの5階に上がると庭園もあるが、歌舞伎座のいぶし銀の屋根瓦を間近で見ることができる。その軒丸瓦を大写しにした写真である。筋書き買おうかどうか迷ったのであるが、この写真がボーンと出てきてそれだけで満足した。(古い瓦はどうしたのか気になるが。)表紙は後藤純男さんの奈良の當麻寺の『雪景』である。當麻寺といえば中将姫。中将姫と言えば国立劇場での新作歌舞伎『蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)』であり、玉三郎さんの初瀬である。。この新作も是非再演し伝えていって欲しい作品である。中将姫伝説の人形アニメーション映画『死者の書』も人形を使うことによって伝説の幻想性を浮きだたせていた。