歌舞伎座十月 『伊勢音頭恋寝刃』

『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』<油屋店先><同奥庭>

伊勢神宮の参拝客で賑わう古市の遊郭で多くの人が殺された実際の事件を芝居にしたものである。お伊勢まいりには、御師(おし)という神職でお伊勢まいりの斡旋をしていた職業の人がいて、主人公の福岡貢(ふくおかみつぎ)はその御師でもとは武士で、旧主の刀折紙(鑑定書)を探している。その折紙を油屋にいる旅行者が持っているとの情報がはいる。油屋には恋仲の遊女お紺がいる。このお紺は折紙を手に入れるため、貢に愛想尽かしをして、折紙を手に入れる。もう一つ事態を複雑にするのが、旧主の今田万次郎が探している名刀青江下坂(あおえしもさか)を貢が手に入れ、それを油屋で鞘と中身を取り替えらてしまう。それを知った貢の元家来で今は油屋の料理人となっている喜助が、貢が帰る時、名刀のほうを渡すが、鞘が違うため油屋に引き返した貢は、逆上しているため、些細なことから大量殺人となってしまう。

その最初の犠牲者が仲居の万野である。まあこの万野が憎たらしいのである。万野にしてみれば、貢はお金にならない客である。もろに仲居の仕事上の意地悪さが出る。もともと万野は貢をよく思っていないらしく、貢に恋するお鹿に貢がお鹿のことを思っているように細工していたのである。本当に憎らしい仲居の万野。仲居の万野は誰?玉三郎さんである。貢を苛めるのが楽しみで、玉三郎さんが出てくると待ってましたである。こういうのは芝居であるだけに楽しい。しぐさ、声、台詞の調子、憎たらしさがそろっている。貢の勘九郎さん煽られるだけ煽られる。お紺の橋之助さんはしこめなのだが、顔のつくりも大袈裟にせず、おふざけも押さえて、お紺そのものという感じがいい。

お紺の七之助さんは自分は、折紙を手に入れるのが私の仕事とその事に集中しているらしく、貢の腹立ちなど何のそので愛想尽かしをある。この時観客はお紺の気持ちを知らないから、そのさっぱり感が今回は効を奏す。ますます貢は怒り心頭にたっするのである。

料理人喜助の仁左衛門さんは、予定通り中身が本物の刀をしっかり貢に渡す。お客が自分の刀ではないと騒ぎ、取り替えてくるよう万野に言われるが、貢に本物を渡してあるので落ち着いて追いかける。ところが、行き違いとなる。

そもそも、はじめに、貢は旧主の万治郎と行き違ってしまうのである。ここで会って刀を渡していれば、事は起こらなかったのである。その万治郎の梅玉さんの品を表す柔らかい出はいつもながらのさすがさである。

<奥庭>のしどころの多い場面も、押さえていた怒りが名刀と共に狂い舞い、勘九郎さん見せ場を一つ一つ決めていく。白かすりがよく映える。

歌舞伎座十月 立派に追善公演を果たした中村屋兄弟 『寺子屋』

歌舞伎座10月は、<十七世中村勘三郎 二十七回忌、十八世中村勘三郎 三回忌 追善>公演である。先輩達の胸を借り、立派に上質の舞台を作りあげた。十八世勘三郎さん亡きあと、勘九郎さんと七之助さんは、肩すり合わせて頑張るといった感じであったが、今回は、それぞれが一人の役者であるといった気概が見受けられた。それぞれの持ち場が違えば、兄弟でもライバルである。芸のうえでは、親子でも師弟であるのは、未熟なうちでも舞台に立たせてもらえるという特権があるからである。他の演劇関係ではありえない。未熟なものは、自分で勝ち取らねばならない。だからこその修行なのである。

その修行の成果を見せればこそ、観客も、今回は見逃し、次回に譲り、いつの日かを待った時間を納得するのである。『伊勢音頭恋寝刃』『寺子屋』は、芝居を壊すことなく勤めあげたのは立派である。仁左衛門さんと玉三郎さんに押しつぶされることなくつとめあげられた。

『菅原伝授手習鑑』<寺子屋>。玉三郎さんが、これまでにない情を出されたのには驚いた。夫の松王丸(仁左衛門)が首実験で、自分の子が管秀才の身代わりとなったのを確かめたあと、再び源蔵の家に現れる。妻の千代も我が子はどうなったかと源蔵宅へきている。松王丸は妻に、倅はお役に立ったと告げる。その時から覚悟していたはずの千代は取り乱す。夫の松王丸にたしなめられ松王丸の横にかしこまる。松王丸は、兄弟三人の中で、自分だけが菅丞相と敵対する藤原時平に仕え、病気を理由に時平との縁を切ろうと願いでると、管秀才の首を検分したら暇をやるとの最後の勤め。その勤めが自分に一子がいたために秀才の身代わりとし、我が子によってずっと松王はつれないと言われなくてもすむ身となった。この時から、源蔵夫婦(勘九郎、七之助)は、松王丸夫婦の悲嘆を受ける形となる。

そして、千代は自分に言い聞かせるように、夫の言葉を受ける。持つべきは子であるとは小太郎も喜ぶであろう。しかし千代は、最後に小太郎にわかれた我が子の姿が忘れられずその様子を語るのである。千代よりも、こちらのほうが涙である。ここで涙したのは初めてである。いつもなら、そのあとで松王丸が小太郎の最後の様子を源蔵から聞き、逃げ隠れもせずにっこり笑ってで、小太郎の姿が浮かび涙なのである。

千代を叱りつつ松王丸も子を思う気持ちと、小太郎に比べ桜丸が無駄死にをしたことを嘆く。親として、弟を思う兄としての辛さを男泣きする松王丸。

松王丸が源蔵宅に再び現れたときからの芝居の膨らみは素晴らしかった。そこまで運びとおした、源蔵の勘九郎さんと、戸浪の七之助さん。管秀才の身代わりがみつかり、決心する二人。検分役の松王丸と春藤玄蕃(亀蔵)を受けて立ち、千代に対しても受けて立ち、そして、松王丸夫婦に対し、引いて受ける。大きな『寺子屋』になった。

 

映画 『破戒』『乾いた花』『鋪道の囁き』(2)

『乾いた花』は二度目なので、最初に観たときのドキドキ感はない。自分の観た時の印象で映画を再構築しているから、役者さんの登場や場面など、自分の中での登場と違っている。それと、映像が途中で数か所切れているように感じた。ただ、表情などはじっくり観察できた。冴子が、村木が人を殺し終わったあと微笑むのだが、その微笑みの意味が解らなかったので、それも虚無感の一つとしておいたが、加賀まりこさんがトークで、篠田監督からマリアのような微笑みをしてくれと言われたと話された。あの時の冴子は、村木が殺しのあと冴子を見つめる眼に対して、村木に自分が殺された時の恍惚感の微笑みではないかと思ったのだが、今はその解釈としておく。

加賀さんのトークは、演じた時の状況など、簡潔に話され、観た者としては、映画の場面に即反応でき、裏話も手短に話される。『泥の河』では、小栗庸平監督から、お化粧なしの素顔で、演じて欲しいと言われたが、加賀さんは少年から見た母親は美しいはずだと、周囲のスタッフの意見で決めて欲しいと提案したところ、ほとんどのスタッフが加賀さんの意見のほうに賛成したのだそうである。皆さんが母親の場面は白黒なのにカラーと思ってくれて嬉しいですと言われていた。私は少年がカニに火をつけて友達に美しいだろうというところと母親が呼応して観ていて切なくなり今もその炎には色がついているのである。『麻雀放浪記』では、真田広之さんを叩くシーンで、パイの並べ方が上手く出来ず20数回叩いたそうで、この映画は、良い機会なので観なおすことにする。

加賀さんは高校生の時、住まわれていた神楽坂を歩いているとき、篠田監督と寺山修司さんにスカウトされ初映画が『涙を、獅子のたて髪に』である。

その神楽坂で、父の制作映画を上映できて親孝行ができましたと言われた映画が『鋪道の囁き』である。この映画は当時正式には公開できず、その後行方がわからなかったが、アメリカの大学に保存されていたのである。保存状態がよく、映像も音も綺麗である。ジャズが主人公のような映画であるから、音の良さには驚いた。

1936年の作品で、日本のアステア&ロジャースを目指した映画で、タップダンサーの中川三郎さんのタップが素晴らしい。甘いマスクの美男子で演技は下手、これが若き日の中川さんなのであろうかと観ていたら突然、ジャズシンガーのベティ稲田さんの歌でタップダンスを始めたのには驚いた。この場面と、バンドコンクールで、中川さんとべティ稲田さん二人で歌いタップダンスを踊る場面を観れただけでも、よくフィイルムが残っていてくらたと思う。映画のあらすじはたわいない。アメリカ帰りのジャズシンガーが、興行者に騙されそれを守る男がいて、ジャズシンガーはバンドマンでタップダンサーの男と出会い、結ばれるという和製ミュージカルの卵といった感じである。監督が鈴木傳明さんで、この方も演技は下手である。演技性に中心をもってきていないのであろうが、道化役の俳優さんは上手いし、その動作も計算されているので、軽いタッチで描くということであったのかもしれない。それに比べ、音楽、歌、タップはしっかりしているので、その落差が可笑しい。

和製オペレッタは、その流れを調べていないが、傑作は1939年の『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博監督)である。出演は片岡千恵蔵さん、志村喬さん、ディク・ミネさん、市川春代さんなどである。

トークショーの司会者である横堀加寿夫さんが、実は、ディク・ミネの息子でしてと言われたときは、驚いてしまった。加賀四郎さんの映画が成功していたら、ディク・ミネさんは当然参加されていたであろう。映像と音が良いだけに、新しさ古さとが交差する摩訶不思議な映画である。この映画が流布していたら、ジャズも特定の世界だけで楽しむ音楽でなくもっと広く浸透していたかもしれない。

 

映画 『破戒』『乾いた花』『鋪道の囁き』(1)

今、映画館が呼応して面白い企画で映画を上映している。インドの映画からインド料理に眼がいったが、<第5回 東京ごはん映画祭>には、小津安二郎監督の『お茶漬』が入っているし、トニー・レオンとマギー・チャンの『花様年華』も入っている。美しく悩ましいマギー・チャンがペンキ入れのような入れ物に食事を調達していたのが妙に印象づけられたので、やったり!とほくそ笑んだ。『エル・ブリの秘密 世界一予約の取れないレストラン』は、やはり舞台裏が面白かった。その他、こういう映画があったのかと映画名をみているだけで楽しい。

神保町シアターが<生誕100年記念 宇野重吉と民芸の名優たち>で、宇野重吉さんが出演、監督した映画や民芸の名優といわれる方々の映画の特集である。その中に、池部良さんの青年教師丑松の『破戒』があった。名画座ギンレイホールは<名画座主義で行こう>として、『乾いた花』~加賀まりこさんのトークショー~『鋪道の囁き』の二本立てである。『鋪道の囁き』は、映画プロデューサーであった加賀まりこさんのお父上である加賀四郎さんが制作された映画である。神保町に行く前に神楽坂のギンレイホールで当日券を購入する。

映画 『乾いた花』 で、篠田監督が、池部さんが名監督たちに起用されてることをいわれていたが、その時から、木下恵介監督の『破戒』は観たいと思っていた。池部さんが、戦争から戻り両親の疎開先に居た時、高峰秀子さんと助監督だった市川崑監督が、阿部豊監督で『破戒』を撮るからと迎えに来た。再び映画に出ることに躊躇していた池部さんは、二人の熱心さから戦後映画復帰第一作のはずが、東宝争議のため撮影途中で中止となる。

そして、1947年木下監督のもと『破戒』が撮られる。お志保は、桂木洋子さん。丑松が敬愛する部落解放運動家・猪子に滝沢修さん。丑松の友人の土屋に宇野重吉さんである。宇野重吉さんのほうが、丑松に合いそうであるが宇野さんには、宇野さんの役目があった。木下監督は、部落問題をきちんと捉えつつも自然描写などは、千曲川の流れや、リンゴの樹などを写し、信州の美しさを抒情的に描いている。部落民ということがなければ、丑松もこの美しい風景のなかで子供たちと楽しい長い時間を過ごせたのである。撮影は楠田浩之、音楽が木下忠司である。映画の始まりから、琴の音が流れる。志保は家の事情で、丑松の下宿するお寺の養女となっていて、お寺のお嬢様として琴などたしなみ、その琴の音を効果音としても使っている。そして、お志保の心の動きもこの琴の音であらわされる。

お志保はが部落民の丑松について行く決心は、丑松に対する愛情も当然であるが、猪子の奥さんの生き方に共鳴し、その先達の姿に力を得てのことである。この映画では、友人の土屋と丑松の男のつながりのほうに重点が置かれている。この宇野重吉さんの土屋が、お仕着せがなく、悩む丑松を自分で立ち上がるまで待っていて、いざというときにここぞといい笑顔を見せる。池部さんは、役柄上俯き加減である。猪子先生を失ったあと、丑松は泣くだけ泣く。それに対し、宇野重吉さんは、心配したり、行動する丑松の脇にしっかりついていて、丑松が俺を認めてくれたと感じた時の土屋の笑顔は宇野さんならではの演技であり観ているこちらも勇気づけられる。丑松はきちんと部落民であることを認める、生徒たちにも伝える。池部さんの丑松に苦しみはあるが卑屈さはない。

千曲川を舟で猪子先生の奥さんとお志保と丑松は、東京に向かう。そこへ教え子たちが見送りに土手を駆けてくる。木下監督にとって千曲川は外せなかったようである。

市川崑監督の『破戒』も観直した。市川監督のほうがリアルである。風景も丑松の見る心の晴れない風景描写である。市川雷蔵さんの丑松の生徒たちに語るところはしみじみと語りかけ、部落民だということを隠していたことを土下座して謝る。どちらがどうというよりも、それぞれの映画であるとして観たほうがよいであろう。

 

鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

大佛次郎さんの本名は、<野尻清彦>で<大佛次郎>は、鎌倉の長谷の大仏の裏に住んで居たことから、<大佛(おさらぎ)>とし、鎌倉の大仏が太郎なら自分は<次郎>であるとしてつけた、ペンネームと言われている。

『大佛次郎茶亭』は鎌倉八幡宮に近い雪ノ下にあり、住まいは小路を挟んだところで、この茶亭は、大佛さんの書斎と訪問者の接待の応接間として使われていたようである。係りの人の説明に拠ると、廃材を使って建てた<風>の平屋木造建物で、柱も細く、軒の天井裏の押さえの木もそこらに落ちていたような木を使っている。しかし、規格外なので実際には大工さん泣かせの建物でもある。屋根は茅葺で、茅も囲炉裏の煙が茅の隅々に行きわたり虫食いを防ぐのだそうで、全ての部屋にお茶用の炉が切られているが、それだけでは長持ちはさせられないそうである。囲炉裏の煙にはそういう働きがあるのかと初めて知る。大佛さんのねこ好きがわかる猫の蚊取り線香置きが三匹並んでいた。

この茶亭は鎌倉風致保存会が助成、保存している。大佛さんは、鶴岡八幡宮裏山の御谷(おやつ)山林の開発に反対し、ナショナル・トラスト(英国の環境保全団体)を日本に紹介したかたでもある。その運動から鎌倉風致保存会が生まれたのである。無料公開は年2回だが、土・日・祭日には<大佛茶廊>として開いているようである。その日はお庭で茶亭を眺めつつ抹茶をいただく。

そして、横浜の大佛次郎記念館が発行している、「おさらぎ選書 第22集」を購入。大佛さんが主宰していた雑誌「苦楽」と「天馬」のことが書かれていて、<安鶴さんと「苦楽」 大佛次郎 >と見出しにある。安藤鶴夫さんの『落語鑑賞』はこの雑誌「苦楽」からの出発であった。「苦楽」という雑誌自体を知らなかった。大佛さんは、戦後文学史に「苦楽」の名が出たのを見たことがないと書かれている。雑誌「苦楽」の調子が少し硬くなったので、柔らかくしようと云うので落語をのせることとする。江戸からの口語文、特に下町の言葉をきちんと残したいと思ったようである。大佛さん自身が小説を書くとき、武士や町人の話し方を三遊亭円朝の噺の速記をお手本にしていたのである。

雑誌「苦楽」は、表紙が鏑木清方さんで、執筆者も画家も様々な方が参加している。例えば<オ>で始まる方を並べるなら、小穴隆一、大池唯雄、太田照彦、大坪砂男、岡鹿之助、岡本一平、荻須高徳、荻原井泉水、奥野信太郎、尾崎一雄、尾崎士郎、大佛次郎、織田一麿、折口信夫

「苦楽」は昭和21年11月に創刊し昭和24年7月に廃刊となっている。

川喜多映画記念館に近い「鏑木清方記念美術館」で < 清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー>(10月31日~12月4日)がある。ここも絵の数は少ないが喧騒から逃れほっとできる場所である。

横浜の「大佛次郎記念館」では <大佛次郎、雑誌「苦楽」を発刊す>(11月20日~来年3月8日)のテーマ展示がある。

英国のナショナル・トラストの力添えした人として、『ピーターラビット』の作者、ビアトリクス・ポターがあげられる。ポターの半生を描いた映画『ミス・ポター』がなかなか良かった。自立した女性の職業など考えられなかった時代に、それを成し遂げ、さらに資本家から自然環境を守るのである。ポター役のレニー・ゼルウィガーが多少クセのある演技ともおもえるが、絵本の主人公たちも飛び出して動き、婚約者の妹役がエミリー・ワトソンでもあるから許せる。相当考えた役づくりであったろうと想像できる。婚約者のユアン・マクレガーもはまり役となっていた。『ピーターラビット』やその仲間たちは子供たちの良き友となり、さらに自分たちの住む環境をも、自分たちの力で守ったことになる。

鎌倉『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』公開

鎌倉市の秋の施設公開で、『旧華頂宮邸』『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が、10月4、5日に公開された。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』は鎌倉駅から近いので、いつでもと思いつつやっと実現である。今回はこの二つを中心に据えての訪れとした。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』のほうが時間的に先に訪ねたが、映画のこともあるので、『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』からにする。

ヨーロッパ映画の輸入に貢献された川喜多長政、かしこさんご夫妻の邸宅跡に鎌倉市川喜多映画記念館 が建て変えられ、その同じ敷地に別邸として『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が残されている。旧和辻邸とあるように、東京の練馬にあった哲学者・和辻哲郎さんの住まわれていた江戸時代後期の民家を鎌倉に移築したものである。この別邸には、多くの海外の映画監督やきらびやかな映画スターが訪れている。

アラン・ドロン、フランソワ・トリュフォー監督、サタジット・レイ監督など、記念館にその写真パネルなども多く展示されている。映画『聖者たちの食卓』でのトークイベントで神谷武夫さんが、司会者にインド映画について尋ねられたとき「岩波ホールで上映されたサタジット・レイ監督の三部作(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)もよいが『チャルラータ』がよかった。」と言われていた。残念ながら『チャルラータ』はDVDにはなっていない。私が驚いたその後のインド映画は『ボンベイ』である。美しい別天地のような歌あり踊りあり。テーマは宗教の違う男女の愛を、実際にあったヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いを背景に描いていたのには呆気にとられた。そして、宗教の違いの難しさも知らされた。

『旧川喜多別邸』は、入れるのは土間の部分であるが、開け放たれた縁側からも、テーブルと椅子の置かれた居間と和辻さんが書斎として使っていた部屋を見ることができる。

 

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縁側には、先日亡くなられた、山口淑子さんと川喜多長政さん、川喜多夫妻、フランソワ・トリュフォー監督とマリー・ラフォレさんと田中絹代さんが一緒の写真パネルが置かれている。この家で写されたものである。『東京画』でインタビューを受けられた笠智衆さんと、ヴイム・べエンダース監督 の写真もある。様々な映画人を包み込んだ家屋である。

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「記念館」の特別展は<映画女優 吉永小百合>で吉永さんが出演した映画ポスターが展示されている。吉永さんのデビューは1960年の『電光石化の男』であるが、同年に『不敵に笑う男』『霧笛が俺を呼んでいる』『疾風小僧』にも出演され、全てに(新人)とされていて、日活が力を入れていたことがわかる。展示されたポスターのところどころに吉永さんのコメントがある。吉永さんも印象的なこととし『キューポラのある町』の永六輔さんのメッセージが紹介されていた。<この映画でもう映画に出ないで欲しい>というものであった。それほど、主人公のジュンが生き生きとしていて、ジュンが吉永さんか、吉永さんがジュンか区別できないほどの演技力だったからであろう。吉永さんのコメントを読んでいると、吉永さんが放送関係から子役としてこの世界に参加し、映画の撮影現場とその作品からご自分の感性と生活感覚、社会感覚を育てられていったことがわかる。

『幕末』で、中村錦之助さんと仲代達矢さんの個性に挟まれてのお良、『華の乱』の与謝野晶子、『北の零年』の志乃など、自分の意思を前面に出す役のほうが、輝いて見えるのだが、受け身のほうの小百合さんを好きなサユリストが多いかもしれない。

モントリオール世界映画祭で二冠を受賞した『ふしぎな岬の物語』の受賞現場の映像も放映されている。これから12月25日まで吉永さんの映画や共演者の浜田光夫さんのトークイベントなどが目白押しである。

観ることはできないが、書棚には、見たいと思うVHSがずらーっと並んでいる。そして映画関係の本も。本のほうは時間さえあれば見放題である。ここは、小町通りから少し入っただけなのに静かで、4回ほど立ち寄っている。そして、いつも指を加え、棚を見上げ映画のタイトル名を眺めるのである。

映画『めぐり逢わせのお弁当』『聖者たちの食卓』

映画『めぐり逢わせのお弁当』はインドのムバイが舞台である。世界のそれぞれの国には、思いもよらないシステムがあるのだと驚かされる。

イラは夫のために腕をふるいお弁当を作る。ところが、夫の反応はいつも同じ。戻ってきたお弁当にある日手紙が入っていて、お弁当の批評が書かれている。お弁当は、夫ではない人に届きその人からの手紙であった。イラはその人のためにお弁当を作り、手紙を待つようになる。相手のサージャンは、早期退職を前にした単調な日々に楽しみを見つけるのである。二人は次第に相手に好意をもつようになり、愛を感じ始めるのである。

このお弁当を届ける仕事がある。<ダッバーワーラー>と呼ばれ、各家にお弁当を取りに行き、それを自転車で貨車に運び、貨車が着いた所にそれを受け取る人がいて、自転車に積み、会社の働く人の机の上にお弁当を配達するのである。飲食店にお弁当を頼んでいる人もいて、<ダッバーワーラー>は、飲食店にお弁当を(自分用のお弁当入れを預けているらしい)取りに行きそれを届けるのである。5千人の<ダッバーワーラー>が一日20万個のお弁当を届けるのである。その様子がドキュメント映像のようで、まず驚いた。ハーバード大学の分析によると、誤って配達されるのは600万分の一だそうである。あり得ないような確率を突破して生じた誤配によって生まれたロマンスということである。

イラのお弁当入れの容器は四段重ねで、一つにはイラが焼いたチャパテが入っており、残りの三つに手をかけた料理が入っている。イラがこの料理を上階の年配者の意見を窓から聞きつつ作る様子は無関心の夫の関心を曳こうとする気持ちが伝わる。ところがその一途さは手紙の返事のために使われることとなる。

恋愛映画としても面白い発想で、心あたたまるが、<ダッバーワーラー>とインド料理ってこんなに種類があるのかと、そのことに興味が奪われた。そしてその時手にした『聖者たちの食卓』のチラシである。

ドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓』。黄金寺院(ハリ・マンディール)での、毎日豆カレーを10万食作っている無料食堂である。インド北西部バンシャープ州の都市アムリトサルにある、シク教徒の神聖なる寺院<黄金寺院>で500年以上伝わっている習わしである。

この習わしの意味は、宗教、カースト、肌の色、年齢、性別、地位などに関係なくすべての人が平等だというシク教の教義によるのだそうで、巡礼者、旅行者のために無料提供しているのである。その舞台裏を公開し映像を許可したわけである。ひたすらニンニクの薄皮をむいたり、豆をさやから出したり、チャパテを焼いたり、巨大なべをかき混ぜたり、当たり前の行為として、粛々と執り行われていく。皆で食べ終わると、その後かたずけも圧巻である。食器は上手に投げ入れられ、洗い場では人々が一枚一枚洗い、次の人は綺麗に磨き、それらに使うふきんが鋏で綺麗に切られ畳まれ、あらゆる作業が一つの流れとなってどこかでつながっていくのである。分業なのであるが、工場の分業作業の冷たい感覚とは違う空気である。音楽は時々聞こえてくる、シク教のコーラスの声だけである。後はその場で起こる音だけでありそれもこのドキュメントには合っていた。

映画のあとで、建築家でインド建築の研究家である神谷武夫さんのトークイベントがあり、<黄金寺院>の解説があった。映画でも映されたが、廻りを白い建物で囲まれた中庭が池になっていて、門をくぐって橋を渡ると池の真ん中に<黄金寺院>が建っているのである。

眺められているだけではなく、この建物の中で一度に五千人の人が豆カレーを食べるのである。10万人とすると、一日20回の食事である。陽が白々と明けるころから、陽が沈むまで、この寺院の無料食堂は、お腹を満たす幸福の食器の音を奏でている。

インド映画は幾つか観ているが、またインドの違う面を見せてもっらった。

〈 神谷武夫と黄金寺院 〉 で検索すると、<黄金寺院>の様子が探しあてられるでしょう。