歌舞伎座十月 『新版歌祭文』『鰯賣戀曳網』

『新版歌祭文』<野崎村>は、筋的にはわかりやすいが、時代性のなかでの若者たちのありかたを思うと、その個々の生き方の進み方を問う視点では、深いところに触れることとなり、難しい作品である。今はそこまで触れる時間がないので、いつかこの作品は考察することがあるかもしれない。

歌祭文とは、中世のころ、神に奉げる祝詞を山伏修験者が流布したものが、芸能化され、近世になって、その時に世の中でおこる大きな事件や心中などに節をつけ、門付けなどで歌われたものらしい。<野崎村>でも久作が、「お夏清十郎」のたとえを話すところがあり、「お夏清十郎」も歌祭文になったようである。「お染久松」も歌祭文などで評判となり、新版とはそれらの<新版>であるという意味と思われる。どうやら歌祭文と浄瑠璃、歌舞伎などの芸能は切っても切れない関係があるようである。

<野崎村>は、今でも大東市にある野崎観音(慈岩治眼寺)の地であり、観音まいりには、陸路と水路があり、この芝居のラストも、久松は籠で、お染は舟で大阪にもどるのである。江戸時代に歌舞伎を観たお客さんたちは、こうしたこともリアルタイムに感じていたわけで、現代人はそこに想像力と役者の技量と音楽、舞台装置などなどで味わうわけで、歌舞伎ははまると出口のない世界であるから、逃げ道は作っておかなければならない。私の場合は作らなくても入口と出口が隣りあっていて探す必要もないが。

というわけで言い訳をしておいて安心して。<野崎村>はお光という、村娘が主人公である。お光は久松の許嫁である。今日祝言を挙げようという時に、許嫁の久作の恋人お染が現れる。そんな、びびびびのびーである。お光には残酷なことに、久作とお染の愛の語らいを聞いてしまう。それも、お染は叶わなければ死ぬと剃刀を出す。お光は、そこまでの二人ならと、尼になるのである。

今日祝言だからと、自分で祝言のお祝いの料理の下ごしらえをしている。嬉しくて嬉しくて心には羽根がついている。七之助さんのお光はそんな感じである。いつもは、さらりの七之助さんもそうはいかない。大根を切りつつ手鏡を見たり、手鏡を包丁と間違えたり、そんな自分が可笑しくて一人微笑む。きちんと約束ごとは守りつつ、浮き浮きしている様を身体ごと表現する。

この可愛らしい田舎娘は、大阪のお店の娘と対決しなくてはならなくなる。先ず、お染を一目見てその雰囲気に気おくれする。その後、久松とともに父の久作の灸をすえたりするが、何とか自分の気持ちを立て直そうと一生懸命である。お光には、常に胸騒ぎが湧き出しているのであろう。

祝言の支度のため久作とお光が消えると、お染が入ってくる。お染は諦めないでのである。お染に対してなすすべのない久松。お染には許嫁があり、奉公人の久松にはお染をどうすることもできない。そこで、お染は死を決意するわけである。久作が加わりそれをさとすが、お染と久松は心中の覚悟である。それを知って出てきた白い綿帽子のお光、綿帽子を取ってみると髪を下していた。ここからが、お光の純真さの見せどころである。七之助さんの透明感が生きる。二人結ばれしっかり生きてほしい。

お染の母が迎えにきて、世間の目もあるからと、お染は母と舟で、久松は籠で去るのである。この部分が長い。いつも思う、お光はずーっと悲しみをこらえているのである。残酷。それは、お光が最後に、父にすがりつき泣き、久作が「もっともじゃ、もっともじゃ。」というが、その言葉を聞きつつ、違う意味で「ここまで悲しい時間を延ばさないで。もっともじゃ。もっともじゃ。」と思っている。それだけ、お光の気持ちに入っているわけで、七之助さんのお光に入れ込んでいたということである。

彌十郎さん(久作)、扇雀さん(久松)、歌女之丞久さん(久作の妻・おさよ)、秀太郎さん(お染の母)、児太郎さん(お染)らが好演である。お光が主人公であるゆえ、このお染は難しい役だと認識でき、児太郎さんも、もう少し時間がかかるであろう。

『鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)』は、三島由紀夫作で、お姫様がお城で鰯売りの売り声に恋焦がれ、お城から抜け出し、人買いにだまされ、京の遊女・蛍火となる。この鰯売り・猿源氏は蛍火に一目惚れして、大名になりすまし蛍火のもとへ。近辺の大名ではばれてしまうので、宇都宮弾正となりすますのも手がこんでいる。猿源氏は、蛍火の膝上で寝てしまい、寝言に「いわしこうえ~い」と鰯売りの売り声を発してしまい、猿源氏が蛍火の恋焦がれていた鰯売りとわかりハッピーエンドである。あきれてしまうほどの成り行きである。お光は、お染は、久松はどうなるのと云いたくなる展開である。そこが、三島さんの手なのだそうで、そういうしがらみ、時代性らを取り除いて、自分の思い通りに進んで上手くいってしまったよという明るさと喜劇性ということらしい。初演は六世歌右衛門さんと十七世勘三郎さんであるが、どう演じたか資料が少ない中で、十八世勘三郎さんと玉三郎さんが引き継がれた。十八世勘三郎さんの演出で、勘九郎さんは動かれているといった感じであった。父そのままを受け継いでいた。玉三郎さんは勘三郎さんの動きには呼応せず、高貴な身分を崩さない。そのままを七之助さんは受け継いだ。

可笑しいのは、蛍火は<伊勢の国の阿漕(あこ)ケ浦の猿源氏が鰯買うえ~い>の売り声に恋焦がれたのである。お姫様だから、恋焦がれたというより、あれは何なのであろうかという自分の世界にない音に曳きつけられたのかもしれない。歌舞伎の中のお姫様は、時々、とんでもない大胆な飛び方をするので、その面白さをも加えているのであろう。猿源氏が、遊女たちに乞われて、魚になぞらえた「軍物語」は必見である。

十八世勘三郎さんの動きそのものを継承した勘九郎さんの芝居で追善も華やかに結ばれる。

歌舞伎座10月 『近江のお兼』『三社祭』『吉野山』

舞踏を三つまとめるが、並べてみると十八世勘三郎さんの踊りが浮かぶ。しかし、実際にはそれぞれ演者の踊りである。

『近江のお兼』は、馬も出てきて楽しい踊りである。舞台の背景画に近江琵琶湖の堅田の浮見堂が描かれている。近江八景の堅田の落雁にも関係しているらしいが、お兼は力持ちとの設定である。それを現すのに、花道で暴れ馬の手綱を高足下駄で踏み止めたりする。だからといって、いかつい女性ではない。可愛らしい田舎娘である。高足下駄であるから、リズミカルに下駄の踏み音を聞かせるところもある。また、この娘、片手に抱えた桶に晒布を所持し、新体操のごとき、布さらしも披露する。

琵琶湖周辺の地名も歌いこまれており、馬の参加もあり、扇雀さんが、愛らしく丁寧に踊られた。そのため長閑な昔の琵琶湖風景に働き者の娘が時には恋心を語り溜息をつく様子などがふんわりと浮かび上がらせる。動きがあるのに、長閑さも感じさせるとは踊りかたによる力なのであろう。

『三社祭』は、橋之助さんと獅童さんである。隅田川で漁師が二人網打ちをしていて、それから踊り出す。すると黒雲が降りてきて獅童さんが善玉、橋之助さんが悪玉と書かれた丸い面をかぶり踊り出す。善玉が三味を弾き、悪玉が善玉に迫ったりと様子の判る箇所もあるが、意味不明の身体の動きの部分もあり、深くわからないが、二人の意気が上手く軽やかに伝われば良いような踊りでもある。獅童さんは踊りが苦手と思っていたが、近頃身体が軽やかになり、橋之助さんと良い雰囲気を出していた。勘三郎さんは何んと言われたであろうか。その言葉が聞けないのも悔しいことである。

『吉野山』。ゆったりと桜の吉野山の藤十郎さんの静と梅玉さんの狐忠信である。藤十郎さんの静が、辺りを気にしている。そして、初音の鼓に眼が行き、そのそれとない微かな動きに心がある。これは長い間に、静、狐忠信、鼓の関係が当たり前のこととして気持ちの内に入っていて、それでいながら、全く新しい事として発する芸の力のように感じた。品のある静と狐忠信で、梅玉さんの狐のしぐさの動きも自然で、そっと狐の正体をあらわす様子は、初音の鼓に対する深い想いと重なった。橋之助さんの早見藤太も今回の『吉野山』の雰囲気に合っていて台詞もしっかりされており、今月は道化役で芝居を締めてくれた。

今月は踊りも充分楽しませてもらった。芝居との流れの相性も良かった。