森鴎外と『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』

森鴎外の小説『青年』は、田舎から出て来た文学青年が主人公である。

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行きの電車に乗った。

 

この<東京方眼図>は、鴎外が考案したものである。 『永井荷風展』 (1) 『青年』には、夏目漱石や森鴎外自身をモデルとした作家も出てくる。文学青年たちは、拊石(漱石)と鴎村(鴎外)を比較して、拊石が教員をやめただけでも、鴎村のように役人をしているのに比べると、よほど芸術家らしいかもしれないなどと論じている。

純一は拊石の物などは、多少興味を持ってよんだことがあるが、鴎村の物では、アンデルセンの翻訳だけ見て、こんなつまらない作を、よくも暇つぶしに訳したものだと思ったきり、この人に対してなんの興味も持っていない・・・

 

この青年たちは、拊石のイプセンの講演を聞きに来ているのである。拊石はイプセンについて話し、最後は、イプセンは「求める人であり、現代人であり、新しい人である」と締めくくる。純一は、この<新しい人>について考え仲間と論じ合う。当時の青年たちが、イプセンに強く惹きつけられていたということだけにして、これ以上深入りするのは止める。その後、純一は有楽座に『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を、観に行くのである。

十一月二十七日に有楽座でイプセンのジョン・ガブリエル・ボルクマンが興行せられた。これは時代思潮の上からみれば、重大なる出来事であると、純一は信じているので、自由劇場の発表があるのを待ちかねていたように、さっそく会員になって置いた。

 

ここからは、純一が観劇した様子の描写となるが、この芝居の対する感想なり批評はない。観劇にきた女性達の様子と、青年の眼に映る舞台の様子が書かれているだけである。ただ、イプセンとシェイクスピアやゲーテと比較している部分がある。

しかしシェエクスピイアやギョオテは、たといどんなにうまく演ぜられたところで、結構には相違ないが、今の青年に痛切な感じを与えることはむずかしかろう。

 

このあたりに、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳者としての森鴎外さんの気負いが感じられる。

芝居としては、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』より、『ソルネス』のほうが面白かった。