映画『陰陽師』『陰陽師Ⅱ』(2)

『陰陽師』で安倍晴明を演じるのが、野村萬斎さんで、この人の起用がこの映画の成功の鍵であろう。権力争いには興味なく、自分が必要とされぬ世界を望んでいるのかもしれないが、そのあたりもノーコメントと言った感じでいながら、自分の能力には自信がある様子。なんとも、捉えがたき人物であるが、動き出すと古典芸能で鍛えられた身体表現を駆使して、シャープな動きをしてくれる。ぶつぶつ唱える言葉も特別に思え、その通りに力があるのである。

悪玉陰陽師の真田広之さんの道尊との闘いの場面も、晴明は武器を持たず狩衣の袖を大きくひるがえしたりして、鳥の羽のようであり、柔らかい布の起こす動きは優雅でいて剣よりも風を呼ぶ感じである。おそらくワイヤーなども使い飛んだり跳ねたりしているのであろうが、重心の決まった動きは、互いに武器を持つよりも迫力がある。

道尊は、人の権力欲や怨み、憎しみ等の心に火をつけその情念を大きくさせ災いをもたらすのである。そしてそのことにより、人を操り、自分の意の儘にしようとするのであるが、そこに立ちはだかるのが安倍晴明である。道尊はついに、桓武天皇の御代、無実なのに天下転覆の首謀者とされた、早良親王の霊をよみがえらせ、その恨みの心を利用しようとする。

早良親王の恋人だった青音は、桓武天皇から頼まれ、不老長寿の身となり早良親王がよみがえるようなことがあったらそれを、止める役目で生き続けている。この青音が小泉今日子さんで、出て来た時から不思議な存在で、この人は何であろうかと思わせ、途中でその役割が解かり、この展開も面白い。そして、生きつづけることの辛さを伝えつつ、恋人である早良親王の萩原聖人さんの心をなだめ、ともに死の世界に入って行くのである。

常に晴明のそばに蝶の化身の蜜虫の今井絵里子さんがいる。この蜜虫の登場も晴明の友人の源博雅が驚くような登場である。博雅の伊藤英明さんは、悠然としている晴明にとってかけがいのない友であり笛の名手であり、女性に惚れっぽい。しかし、晴明にとってかけがえのない存在であることも明かされる。月のそばで輝く二つの星は一つであってはならないのである。

『陰陽師Ⅱ』は、滅ぼされた出雲の人の復讐である。家族劇を神話と結び付けているが、神話をとってしまうと、父の野望に逆らう姉弟愛でもある。

滅びされた出雲の長・幻角(中井貴一)は息子・須佐(市原準人)を鬼に変身させ都を脅かす。幻角の娘であり、須佐の姉である日美子(深田恭子)は戦の時藤原安麻呂(伊武雅刀)に助けられその娘となって大きくなった。しかしこの娘は夜夢遊病者のように歩き周り安麻呂は晴明に相談する。そのことから、晴明の謎解きが始まる。

玄角は最終的には、須佐に姉のヒミコを食いちぎらせ、アマテラスとして岩戸に隠れさせてしまうのである。須佐はスサノオノミコトを意味するわけで、玄角はこの鬼と化かした須佐を使って朝廷に復讐を考えたのである。そうはさせまいと晴明は巫女となって岩戸の前で舞うのである。これまた、萬斎さんならではの出番である。アマテラスは姿を見せ、弟の須佐を諭す。須佐は、琵琶を愛する優しい若者であるが、父の力には抗えなかったのである。須佐は姉に従い二人天上へと去ってしまう。

家族に見捨てられた玄角は、一人力尽きてしまう。

『陰陽師』では博雅が死に、青音によって生き返り、『陰陽師Ⅱ』では晴明が死に、玄角によって生き返り、晴明と博雅は、やはりそばに寄り添う二つの星なのである。

付け加えると、歌舞伎の『陰陽師』の染五郎さんの晴明が、自分の出生をどこかで憂い、博雅の勘九郎さんの天真爛漫さを羨む心情は捨てがたいものがあった。

映像のスペクタクルな部分と、生で伝わる舞台のそれぞれの表現の形式の違いともいえる。その辺が表現形式の違いの腕の振るいどころであり、観る側の楽しみともいえる。

監督・滝田洋二郎/原作・夢枕獏/脚本・福田靖、夢枕獏、江良至(『陰陽師』)滝田洋二郎、夢枕獏、江良至(『陰陽師Ⅱ』)