日本近代文学館 夏の文学教室 (2)

木内昇さん「日常から見た歴史的事象」

いろんな切り口から時代をみるべきだ。佐賀藩は新政府に加わらなかった。新政府の長州は国のお金は自分のお金と思っている。武家と町民の文化は違っていたが、明治になって一緒になり、勝海舟は、国が庶民文化を一緒くたにするのをいやがった。江戸時代の識字率の高さ。外国では絵なぞは貴族しか持っていなかったが、日本では庶民が浮世絵を楽しんでいた。『三四郎』で、広田先生は日本は「滅びるね」と言った。高杉晋作の日記。中原中也に一番絡まれたのが太宰治。

〔 切り口が早くて繋がっているのであるが、感覚的にしか捉えていない。『三四郎』に関しては、その部分を読み返した。三四郎は、広田先生を「日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。」と思う。そして三四郎が日本もだんだん発展するでしょうというと、広田先生は「滅びるね」というのである。漱石の頭の中がそこにある。今までどういう事かわからなかったが、今という時代にやっと実感となる。事実のほどは知らぬが、<中原中也に絡まれる太宰治>が可笑しい。

横須賀の三笠桟橋から船で15分のところに<猿島>というのがあり、友人に誘われ暑い日に行った。そこで、今の政治家を2、3日食料無しで置き去りにしてはどうかという話がでた。ほんのわずかな時間、取り残され、閉ざされ、食糧もなく、さらに殺されるかもしれない状況の想像の中に自分をおく。倖せのことにそれはまだ、想像の世界でしかない。海辺では、家族や若い人がバーべキューを楽しんでいる。ペリーがこの島にペリーアイランドと命名したらしいが、「ダメ!もっと昔から<猿島>と名前があったのだから。」。記念艦「三笠」も見学。「勝ちすぎたんだよね。たまたま。」と友人がいう。日露戦争がたまたま勝ったのかどうか、私はきちんとその関係のものを読んでいないのである。勝ち過ぎたという気はする。しかし、戦争が始まって間違った始まりでも自分の国が勝つ事を願うであろう。勝って早く終わることを。そこが怖いのである。 〕

池内紀さん「森鴎外の「椋鳥通信」」

「スバル」に鴎外は「椋鳥通信」という海外の情報を伝えていた。無名の人が伝えているという形をとっていたが、皆、鴎外であるということを知っていた。横文字が多く読者は少なかったはずである。斎藤茂吉は読んでいた。キュリー夫人の不倫やトルストイの家出のことなども、伝えている。オーストリアの皇太子夫妻暗殺も伝え、その後戦乱となり情報も途絶えてしまう。この『椋鳥通信』の原語部分を訳し、ところどころに<コラム>をのせ、解かりやすいようにして構成し、上・中とまで出ました。

〔 鴎外さんという人は、公人として超多忙でありながら、本を訳したり、小説を書いたり、海外の情報まで選択して紹介までしていたとは、驚きである。それも、ゴシップ的ことまでもである。鴎外さんは、『舞姫』のごとく、若かりしころ大恋愛をして自分の立身出世も捨てようとした人であるから、ゴシップ的なことも、人間の一面として重要な部分としたのかもしれない。『舞姫』のエリスのモデルの方は、NHKの特集であったか、一応そうであろうとの確率の高さで探しあて、彼女は母方の遺産が入り生活を助けてくれ、新しい家族に恵まれ穏やかな最後を送ったと放送されたことがある。

<トルストイの家出>は、映画『終着駅 トルストイ最後の旅』が関係ありそうで、DVDが出番を待ってそばにある。文京区森鴎外記念館で『谷根千“寄り道”文学散歩』を展示していた時、鴎外の作品関係の文学散歩の地図があり、これも、涼しくなった時のために出番を待っている。

鴎外記念館に3本映像があり、その中で安野光雅さんが、無人島に一冊本を持っていくとしたら鴎外の『即興詩人』であり、山田風太郎さんも『即興詩人』と言っていたと語っている。これには驚いた。読んでいないから何とも言えないが、山田風太郎さんと鴎外さんとは意外な組み合わせである。〕

山田太一さん「きれぎれの追憶」

戦時下の様子を知る人が少なくなって、映像で描かれるものにも首をひねるものがある。たとえば、豆かすをご飯に混ぜて食べていて、「豆を選んで食べている」というセリフがある。大豆油を搾り出したあとの豆かすである。選んで食べるようなものではない。大岡昇平の『野火』の場面で、福田恒存と大岡昇平が論争をしている。、福田恒存は、大岡の表現に異議を唱えている。

〔 豆かすの話しも、福田さん大岡さん論争も、作家が書いていることが、そうは思わないであろうと、事実ではないとする考え方のそれぞれの立場を説明しているわけであるが、これは、浅田次郎さんのウソと関係する。そもそも小説は歴史的事実のみではなく、人間も書く。体験していない者としては、出来る限り事実と生活をも忠実に書きつつその中でどう人は考え感じたかを書かなくてはならないわけで、体験していなくても書かなくてはならない。ウソのないように。

体験した人が書いたものにも、違うという意見もあるわけで、戦争作品がどれだけ大変な作業であるかが分る。福田さんと大岡さんは仲が良かったそうであるから、あえて福田さんが自分の思ったことを伝えたのであろう。山田さんは、そいう福田さんの詠み方を、それは違うであろうとしていたが、『野火』を読んでる途中なので何とも言えない状況である。

戦争物を書くと言うのは本当に大変だと思ったのは、映画『一枚のハガキ』で、兵隊さんたちは、検閲の中にいる。家族への返信や近況報告を正直に書けないのである。もしかすると、残された手紙には本心は書かれていないかもしれない。そこにすでにウソがあるかもしれないのである。語れない死者の言葉を書くと言うことは重い仕事である。しかし、書かなければ論争の対象にもならず、無かったものとなる。考える必要もなくなる。

福田恒存さんと大岡昇平さんの論争文がないかと探していたら、高見順さんと大岡さんの対談があり個人的に興味を持った部分で締める。大岡さんの『野火』が最初に発表されたのは、宇野千代さんが『スタイル』という雑誌でもうけたお金で出した、季刊雑誌「文体」ということである。宇野さんのお気に入りの連中の雑誌ということで『野火』は注目されず、「展望」にのったら評判をとったので、大岡さんは「癪にさわったね。」と言われている。面白い。〕