無名塾『バリモア』(再演)

贅沢な時間と空間を貰ってしまった。『授業』も仲代劇堂での公演だったので、仲代達矢さんの演技を間近で観せてもらったが、今回は中央三列、脇二列の座席の設置で50席である。それも、好きな芝居の再演であるから、台詞と動きが、生き生きと蘇ると同時に、役者の演技が等身大で観れてしまう。

しかし、演じられているのだが、生身の役者と役のすき間がない。演じておられるのに、演じているということを意識させないのである。それだけ、仲代さんの一挙手一投足に見惚れていた。だからといって、ぼーっとしていたのではない。セリフ動き全てが観る側の力を抜いてくれて、苦笑、悲哀、懐旧、自愛、後悔、自信等のあらゆるバリモアの感情を網羅してくれて、それを素直に受け入れられるたのである。

バリモアは悲劇の役者と言えるかもしれないが、もっとバリモアに添って観ている位置にある。私たち観客は、バリモアからすれば、アルコール依存症のために見える幻覚のなかの実態のない亡霊なのかもしれない。バリモアはそれに向かって無防備に自分をさらけ出し語っているようである。

『リチャード三世』を演じるべく、プロンプターをつけて練習をしているが、プロンプターに聞かせているのか幻覚の相手に聞かせているのか判然としない。バリモアは、観客であり同時に幻覚の中の相手に語っているのであるから、こちらはバリモアの表情、仕草がよく判るが、プロンプターには判らない。半分以上が、幻覚の中のバリモアである。台詞を思い出すたびに、かつての自分がバリモアの中で出現し、それが、別れた四人の妻のこと、偉大なるバリモア一家のこと、共演した俳優のことなどと幻覚と妄想の中で現れ言葉にしてこちらに語り掛ける。

プロンプターはそれを辛抱強く聴き、時には、バリモアの言葉から芝居の台詞を探し、それは『ロミオとジュリエット』の台詞だと注意をし、『リチャード三世』の台詞を引き出そうとする。バリモアの頭の中は、幻覚への語りと芝居の台詞が混同しているのだが、それがまた、この芝居を面白く引っ張て行く要因にもなっている。そして、面白く引っ張ているのが、仲代さんの演じている力なのであるが、そこには無駄な力が無い。無い様に感じさせる。芝居の中の台本にない登場人物として、観客は座っている。

プロンプターは、邪魔にならないように、それでいて何んとかバリモアに今回の『リチャード三世』で復帰させたいかが分る。劇場と違い、バリモアに対するプロンプターの受け答えが密接感を伝えてくれる。実際に、プロンプターのフランク役の松崎謙二さんの声だけの仲代さんとのやり取りの間が、円滑に一段と面白くなっている。

映画にもなった、人も羨む芸能一家のバリモア一族にあっての、幼い頃からの圧迫感。登りつめていきながら、そのキャリアの土台を上手く使えないバリモア。四度の結婚。お酒に逃げるバリモア。老い。バリモアの一生の回顧でありながら、俳優あるいは役者の普遍的問題が詰まっているのである。仲代さんは、どこかで共感し、どこかで相違点を見つめられながら演じられているのであろうが、その辺の手の内もみせられない。

いつもの劇場とは違う少数の観客でありながら、使うエネルギーは同じである。いやもしかすると、観客が近いがゆえに、押さえるエネルギーも必要で、その均衡のバランスのエネルギーは相当なのかもしれない。

二回のカーテンコールの後、観客は誰も立つ人がいなく、自然に拍手が起こり、バックのジャズ音楽の終わるまで、芝居の余韻を楽しんだ。

松崎さんが出て来られて、何でもなくやっているように見えるかもしれませんが、ご本人は倒れてますので失礼しますと言われた。観客もそれは解っていた。共有出来た時間をゆっくりと味わっていたかったのである。

再演でもあるので、『リチャード三世』を読んでおこうかとも思ったが、中途半端に『リチャード三世』の台詞が引っかかっては、つまらないことになりそうで、止めておいた。正解だったと思う。

バリモアと仲代さんとが繋がっている『リチャード三世』いつかは読まなければ。

2014年11月公演の感想である。→ 無名塾 『バリモア』

作・ウィリアム・ルース/翻訳・演出・丹野郁弓