志の輔らくご『牡丹灯籠』

恒例の下北沢・本多劇場での 志の輔らくご『牡丹灯籠』である。昨年は聴いていなくて、その前の2013年8月が、志の輔らくご『牡丹灯籠』との出会いである。

今回は、歌舞伎座での『牡丹灯籠』を観て次の日である。頭の中に歌舞伎の映像が鮮明に残っていての落語である。志の輔さんが、<歌舞伎座では玉三郎さん、香川照之さんの中車さん、海老蔵さんですからね。クオリティが高くて短いか、クオリティが低くて長いかですが。>といわれ、お客さんが笑われて<今のは笑い過ぎです>と。こちらは観て来たばかりなので、志の輔さん歌舞伎座へ行かれたのであろうかなどと良すぎる反応をしてしまった。

圓朝が15日かけて噺として30時間ぶんを口述筆記させたもので、それを、休憩を入れて2時間半でやってしまおうという大胆な試みである。その日は19時から始まって22時を10分ほどまわっていたが。

これを志の輔さんが始めたきっかけは、『牡丹灯籠』を読み始めたら知っている名前が中々出てこなくて、『牡丹灯籠』を何も知らなかったことに気が付いたからだそうである。私は、幽霊の話だくらいで、『牡丹灯籠』といえば文学座の杉村春子さんの知識はあっても観たことがなく、歌舞伎で初めて観たのである。そして、全貌は志の輔版『牡丹灯籠』で明らかになったのである。

新三郎をとり殺すお露の二度目の義理の母が、笹屋で伴蔵が入れ込んだお国で、お国はお露の父を情夫・源次郎とともに亡き者としようとするが、家来の考助に邪魔をされ二人で栗橋に逃げてきていたのである。考助はこの時、誤ってお露の父・平左衛門を殺してしまう。しかし、この平左衛門は、ひょんなことから考助の父を殺してしまっていた。孝助の母は離別されて再婚し、義理の娘がお国である。こうした人間関係をパネルを使い先ず説明してくれるわけである。

単なる解説といっても、そこは噺家・志の輔さん。興味がわくように、えっー、ほーう、まあ、わくわくさせるわけである。

お露と新三郎を合わせたのが医者の山本志丈で、ここから、噺は始まるのである。ここで、歌舞伎座の役者さんが頭の中に像を結ぶかというとそうではない。噺家は噺の中で人物像を作り上げていくわけで、しっかり、その人物像になっていく。お金を手にしたことによって伴蔵夫婦は、欲のほうが強くなってなっていき、しまいには邪魔者は消せとばかりに、伴蔵はお峰を殺してしまうのである。それも、金の海音如来を幸手の土手に埋めてあるからとお峰を誘いだすのである。どうやって手の入れた仏像であるかなど忘れている。金目のものとしてしか映っていないのである。

思うに、お露さんの乳母のお米さん幽霊も、百両持ってきたのが良くなかった。幽霊はお足がないはずなのに。お峰は、百両など持ってこれないと思って提案したのであるがそれが手に入ってしまう。伴蔵の悪への変化の流れが上手い。この伴蔵の関口屋の女中が変なことを口走り医者が呼ばれる。それが山本志丈である。このあたりの膨らませ方の語り口も面白い。

巡り巡っての展開を飽きさせず、それぞれの登場人物を語りわけ動かしていくのである。一方は破滅の道を、そして一方の考助は敵討ちの道をと進み目出度く成就されるのである。

と書きつつ、本当にこうだったかなと怪しくなっている。人相をみる有名な人も出て来て、新三郎の人相を観て死相を観た人はこの人で、とさらに細部を思い出しつつ次第に混乱してくる。

では、また来年お世話になることにする。パネルの名前を書いた磁石が持つ間は、続けられるそうであるから。それよりも強い味方は客の記憶力の低下かもしれない。

2013年のはこちらである。 志の輔さんの『牡丹燈籠』

日本近代文学館の夏の文学教室が始まり、聴きにいっているが、兎に角、作家というかたたちは、小説を書くために驚異的な時間を、資料を読むことに使われている。その刺激もあって、『牡丹灯籠』は、言文一致に先駆けるものとして、一度は目を通したほうがよさそうである。