『デトロイト美術館展』『ゴッホとゴーギャン展』(1)

上野の森美術館で『デトロイト美術館展』、東京都美術館で『ゴッホとゴーギャン展』を開催しています。ゴッホを主軸として観ることにしました。ゴッホは何を見ていたのかという視点も気にかかります。ところがいつもながらの力なさで、そこに個人の好みの視点を入れると、ガラガラとゴッホが崩れていくようで、ただその瓦礫を拾っているような気分もしてきます。

『デトロイト美術館展』では、ゴッホがパリで見聞きし影響を受けたであろう雰囲気を印象派やポスト印象派などの絵の中から味わい、『ゴッホとゴーギャン展』では、ゴッホとゴーギャンの関係を感じとるようにしようと思いました。これまた難しい。今までの観て来た眼力では横道にそれるか、再構成力のなさから袋に瓦礫を入れてそれを静かにそこへ置くだけという状態です。

デトロイト美術館展』に入ってまず驚いたのが、写真OKだったことです。月曜日と火曜日がOKなのです。写真を上手く撮ろうとすると時間がかかり観る眼が中断されてしまうので、全部みてから邪魔にならないようにピンとはそこそこに気になった作品を写しましたが、その人の好みで曜日を選んだ方が良いでしょう。

解説文は写して置いて参考になりましたが、実物の絵と写真では全然比較になりません。絵は自分の眼に焼き付ける時間をとったほうがいいという結論でした。

ゴッホの黄色い麦わら帽子をかぶった自画像の麦わら帽子の感覚が写真ではとらえられないのです。とにかくゴッホの絵の具の凹凸感は、写真では無理です。

ゴッホの麦わら帽子の色一つとっても変化をします。その中でこれだけ黄色い麦わら帽子の色の絵はないでしょう。それも筆触が絵の具の量であらわすかのように多いのです。明るさに反撃しているようにもおもえます。

『志村ふくみ展』の図録で、高階秀爾さんが、志村さんの日本独特の美意識の例として茶と鼠を挙げていることに対して、印象派のことにも触れて書かれています。茶と鼠は地味で暗い色の感じの色で、印象派の画家たちがパレットから追放した色であるが、日本人は、四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)というほど多様な色を認めていたと。茶と鼠は江戸の粋な色でもあったんですよね。

ゴッホは、暗い色から始めています。ゴッホは四十八茶百鼠のように、わずかな色の違いを感じていて、その色を捨てていけなかったのかもしれません。パリでその新しさを吸収しつつ闘い、細い線描の集まりの自分の顔に対して、麦わら帽子に太い筆触をもってくるあたりにも、闘いそのものが感じられます。

セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」などは、いかに平板に描くかを試みていたのだそうで、そういう試み方もあって描いていたのかとはじめて知りました。

その後のピカソにいたると、「座る女性」などは茶と鼠色だけで、絵画史の流れにとらわれない独自の色の使いかたをしているように思えますし、愉しくなるような色の組み合わせもありますし、また少し楽しみかたが増えました。

ゴッホの自画像は、パリの新しい風になじもうとしつつも自分の絵に迷いが生じ、その絵が売れるかどうかによって決まる絵の価値に対する反逆など、あらゆることが含まれている自画像です。

ゴッホのもう一枚は「オワーズ川の岸辺、オーヴェールにて」はこれからボートを楽しむ人々の姿がある風景ですが、川は直線のタッチで周りの木々の葉は曲線のタッチで男性は黒で縁書きされていて、赤系の色も少し入り、一枚の絵に今捨てきれないすべてをえがきこむゴッホの姿があるようにおもえました。ゴッホは二枚でしたが、少ないだけに細かく見入りました。

この展覧会では、出口のそばに凹凸感もある手でさわれる複製画があります。ゴッホとセザンヌの絵もあって、ゴッホとセザンヌは実物の絵を観ていて触りたいとおもいましたので粋な試みでした。