『デトロイト美術館展』『ゴッホとゴーギャン展』(2)

ゴッホとゴーギャン展』のほうですが、ゴッホからのゴーギャンとして考えていたのです。ところが、それぞれの表現者ですから、絵を観ているとゴーギャンって何なんだということにいってしまいます。

ゴーギャンといえばタヒチで、タヒチの太陽と文明から解放された島の人々というような感覚ですが、解説読んでみるとそれだけじゃなくて、絵のなかにゴーギャンの思想といいますか追及しているものが隠されているようなんです。解説に書かれていても絵の中にそれを読み取ることはできませんでした。

ただ、ゴッホとゴーギャンが一緒に住んで居た時、絵描き仲間という簡単な枠組みでないことだけはわかりました。

ゴッホはゴーギャンを迎えます。ゴーギャンを歓迎しその部屋に飾るためにひまわりの絵を描きます。ひまわりの絵はゴーギャンとの関係なければゴッホの象徴的絵とならなかったのかもしれません。

ゴーギャンはゴーギャンで自分の絵の定義を求めています。ゴッホも模索していますが、どこかゴーギャンに依存しているようなところがあります。ゴーギャンはゴッホの神経につき合いつつ自分の道を探すほどの余裕はありません。

ゴッホには弟のテオという経済的援助者もいますが、ゴーギャンは家族すら捨てて絵の道を進んでいます。生活基盤の相違からしてそれぞれの想いも違います。

ゴーギャンとの共同生活では、並んで同じ風景もえがいたでしょう。ゴーギャンに対する想いからでしょうか、「ゴーギャンの椅子」も描いています。しかし、ゴーギャンとの共同生活は短いものとなりました。

ゴーギャンはゴッホが亡くなったのちに、タヒチにひまわりの種を送らせてひまわりを咲かせ「ひじ掛け椅子のひまわり」の絵を描いています。この時ゴーギャンは自分の絵というものの本質をつかまえ方向性はきまっています。ゴーギャンはゴーギャンでそこまで走りつづけてきたのです。

ゴッホの神経はそこまで走り続ける程の強靭さと柔軟さはありませんでした。宣教師としても失格で、画家を目指し、機織りをする男性「織機と職工」など働く人々を描き、パリでは自画像を、アルルでは外に出て作物畑などを、「グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝」というゴッホには珍しい小さな花の絵もあります。今回は展示されていませんが、テオに子供ができたとき、青空に咲くアーモンドの花の絵「花咲くアーモンドの木の枝」を送っています。ゴッホと同じヴィンセントを名前つけました。

テオは兄のゴッホが亡くなった次の年に亡くなっています。その後、テオの奥さんがゴッホの展覧会を開いたりして、最終的にはゴッホの甥が、ゴッホの作品を守り父であるテオの想いを成し遂げるのです。

ゴッホもそうですがゴーギャンに関してはもっと表面的にしか絵に接することができず、自分の中でゴッホとゴーギャンの絵をぶつけ合わせることが出来ませんでした。神に対する想いも二人それぞれに屈折しているところがあり、そのあたりも関係してくるようにおもいます。

こちらの展示会には、ゴッホとゴーギャンの椅子のレプリカが置いてありました。

ゴッホとゴーギャンに関しては不完全燃焼です。もう一回観ても無理でしょう。それぞれの画集で時代を追って検証してから、原画をもう一度見直す作業が必要のようです。ゴッホとゴーギャンの自画像を観れただけでも良しとします。ゴッホはどこか不安そうで、ゴーギャンはくわせものといったような斜に構えた挑むようなところがあります。

その他、ゴッホの「収穫」「刈り入れする人のいる麦畑」、ゴーギャンの「家畜番の女」「タヒチの牧歌」などもよかったですし、結果的に観て置いて良かったということでしょう。

さて気分を変えて、ゴッホの映画で違う愉しみ方をみつけることにします。しっぽをまいて早々と逃げるが勝ちです。