ふたたび『三峯神社』と『秩父』

  • 早々と『三峯神社』への再挑戦である。解ったことは、やはりバスがかなり気力を奪われてしまう。行きも帰りも、あのカーブを登って下りるのでバスの車体だと振りが大きいのである。帰りは三峯神社で頂いた気をかなり使いきった感じであった。平日とあって先日より少しは人は少ないが、紅葉は見ごろなのでやはり人気である。

 

  • 三峯神社』では、しっかり「遥拝殿」から「奥殿」のある山にむかって手を合わすことができた。遥拝殿もっと距離があると思っていたが階段を少し登るだけであった。もともと高い場所なので見晴しがよい。この「奥殿」へ歩いて登るツアーも見つけたが期間がきまっている。乗り物の席が保証されているのが魅力である。スーパー歌舞伎でかなり身近になっている日本武尊像にもおそばから右手を挙げて挨拶できた。日本武尊は東国に来たおりこの地にのぼり、周囲のあまりの美しさに、イザナギノミコトとイザナミノミコトの二神をお祀りし、国の平和を祈られたのが始まりだそうである。

 

  • 拝殿へ向かう階段の脇に並ぶ石塔は東京築地市場講とありお店の名前が記されてあった。拝殿の横には水をまくと龍が現れるという石畳あり、小教院という古い建造物はコーヒーハウスとなっていた。先日見落としていたものを確認できた。拝殿への道も、隋心門を通らずに歩く楽な道があり、多くの摂末社が祀られている。早めにバス停にむかったので無事座ることができた。座っていても身体がゆれるカーブなのである。紅葉は綺麗であった。穏やかな自然体である。陽の光が当ったところだけが色づいている。その素直さは、あの大災害と同じ自然とは思えない。

 

  • 今回は『ちちぶ銘仙館』と『やまとーあーとみゅーじあむ』に行く予定を立てていた。秩父銘仙は、平織りで裏表がなく色があせれば裏を使って仕立て直しができ、明治後期から昭和初期まで人気があった。秩父銘仙は「ほぐし模様」といわれる変化に飛んだ斬新な模様で喜ばれたのである。「ほぐし模様」というのは、タテ糸に型紙を使って模様を染め、これを「ほぐし捺染(なっせん)」という。大正ロマンでは竹久夢二さんの描く女性の着物が明るい太い縞や植物、幾何学模様で銘仙であったとされている。当時の女性たちへのあこがれの相乗効果をもたらしていたようにおもえる。普段のおしゃれ着として開放的な可愛らしさを楽しめたのである。

 

  • 先に糸を染めて織りつつ模様を出していくものはしっかりめの硬さがあり、織ってから染めたものは手触りにも柔らかさがある。秩父銘仙はそのどちらでもない特徴を考案したものです。先にタテ糸で型染するのでタテ糸が柄を作り、横糸は一色で織り「ほぐし織」という。「ほぐし捺染」で大胆な柄を描くことができ、柄を簡略に織り込むことができ、さらにこの技法は光線の加減で玉虫色に光るという効果をも生み出したのである。「ほぐし」というのはたて糸だけではばらけてしまうので仮の横糸を織り込み、それは本織りのときにはほぐしてとってしまうところからきているのようである。秩父の織物は神話の時代にさかのぼる。

 

  • 秩父の織物は、神話時代、崇神(すじん)天皇が国造りのため知々夫彦命(ちちぶのひこのみこと)をつかわされ、知々夫彦命が秩父地域に養蚕と機織りの技術を伝えたのが始まりと言われている。このかたが秩父の祖神を祀ったのがはじまりで知知夫国の総鎮守としての『知々夫神社』があるわけだ。織物にもどすと、盆地で石灰質の強い土で稲作に向かず養蚕による絹織物が盛んになる。盆地というのはよくわかります。

 

  • 江戸時代、出荷できないような繭をあつめ作ったのが「太織(ふとおり)」。丈夫で江戸で評判になり「鬼秩父」と呼ばれ、いまでいうデニム感覚で歌舞伎役者や江戸っ子が着こなして秩父の織物が世に知られるようになる。歌舞伎役者の着るものは江戸ファッションのさきがけである。この「鬼秩父」は残念ながら展示されていなかった。見たかった。そのあとで『秩父銘仙』を作りだすわけである。

 

  • 秩父銘仙の歴史の年表が掲示されているが、上のほうで字も小さいのが残念。江戸時代の寛政の改革では、秩父夜祭の曳きまわしが禁止されている。そんな事まで目が届いていたのである。12年後に復活する。現『ちちぶ銘仙館』は秩父工業試験場として建ち、その後、繊維工業試験場となり変遷があって廃止となる。建物は、建築家ライト氏が考案した大谷石積みを使い、三角屋根の工場棟は渡り廊下になっており、市民運動によって残され『ちちぶ銘仙館』として開館する。

 

  • 最盛期には約7割の市民が織物関係に仕事にたずさわっていたという。おしゃれ着から、座布団や寝具などの製品としても送りだすが、時代の波は変わってしまった。「ほぐし捺染」に関しては、映像があって20分位かかる。案内チラシでは現在、毎週第2土曜日にすべての設備が稼働して、繭から秩父銘仙になるまでの工程がみれ、体験コーナーもあるらしいが確認が必要とおもう。銘仙は、秩父、足利、桐生、伊勢崎、八王子が関東の五大産地と呼ばれていた。

 

  • 同じ方向の先に『やまとーあーとみゅーじあむ』がある。ここは、棟方志功さんの作品を中心とした美術館ということである。羊山公園の北側の端にあって、南側の端が芝桜で有名な場所となる。今回芝桜の位置もわかったので来年は芝桜観にくるである。途中に「牧水の滝」という小さな憩いの場所があった。案内板の文字が薄れてしまっているのが残念である。ここの道を登って行けば美術館に行く道に出るのでできれば書き直して欲しいものである。若山牧水さんと奥さんの貴志子さんの比翼歌碑がありそこには記されてあった。

 

  • 牧水さんは、大正9年に秩父鉄道の秩父駅で下車し、徒歩で妻坂峠越えて名栗に向かっている。そのとき片側町の家並みから機織りの音がして、男女が声を合わせて唄う家もあると、紀行集『渓(たに)より渓へ』に記しているとある。牧水さんの歌は 「秩父町 出はづれ来れば 機をりの うた聲つづく 古りし家並に」。貴志子さん歌は、夫の歌碑のお礼として詠んだ歌で 「のび急ぐしたもえ草の あさみどり あやふくぞおもふ 生ひ立つ 子等を」。牧水さんの歌では、旅したころの秩父の様子がよくわかる。

 

  • そこからも秩父市街がみえるがさらに登ったところに『やまとーあーとみゅーじあむ』があり、お隣には『武甲山資料館』がある。資料館のほうは寄れなかった。武甲山は秩父市街の南にそびえる石灰岩質の山はだをみせる名峰である。秩父神社とも関係が深く、秩父観音霊場はこの武甲山への信仰が基盤なのだそうである。隣駅の横瀬駅から近い『横瀬町歴史民俗資料館』にも信仰と祭りというコーナーがあるらしく興味ひかれる。

 

  • やまとーあーとみゅーじあむ』の棟方志功さんの作品たちよかったです。個人の方が収集されたそうです。「大和し美(うるわ)し」もあり、三峯神社でヤマトタケルノミコト殿に挨拶したばかりなので嬉しい。よくこれだけの文字を彫ったものである。秩父の夜祭りの版画もあった。観ているとしぼんでいた<気>が膨れ上がってくる。書も恰好良くて元気がもらえる。棟方志功さん、やはり爆発している。熊谷守一さんの絵も三点あった。アリとネコである。爆発なんのそので、これまた可笑しくて素敵である。帰りの電車、爆睡であった。秩父また行くよ~。