浅草散策から「いわさきちひろさん」さらに浅草(4)

  • 宮沢賢治さんが浅草オペラを観ていたという記述をみつけた。『浅草六区はいつもモダンだった』(雑喉潤著)にである。1983年(昭和59年2月4日)、東京の新橋ヤクルトホールで『宮沢賢治没後50年記念のつどい』があった。「賢治へのいざない」の中で関係者から宮沢賢治さんがペラゴロの一人であったことが明らかにされ、1918年(大正7年)の暮れ以来、上京のたびに浅草オペラに通っていたのである。

 

  • その後花巻農学校の生徒を連れて修学旅行に行った際の函館港を詩にし次のようにうたっている。「あはれマドロス田山力三は  ひとりセビラの床屋を唱ひ  高田正夫はその一党と  紙の服着てタンゴを踊る」(『函館港春夜光景』)このとき浅草オペラはすでに無く、函館港の灯りに懐かしく思い出したのであろう。高田正夫は高田雅夫さんであろう。記念のつどいで田山力三さんは、「浪をけり風を衝く 舟人に海は家」を歌い、「賢治さん、終わりのない銀河鉄道に乗りながら、この歌を聴いて下さいね」と挨拶した。

 

  • 『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎」(矢野賢二著)には宮沢賢治さんの「弧光燈(アークライト)の秋風に、芸を了(おわ)りてチャリネの子、その影小くやすらいぬ。」(「銅鑼と看板 トロンボン」)を紹介している。チャリネというのは、西洋からのサーカス団「チャリネ曲馬団」が人気を博し、日本人による曲馬団が「日本チャリネ一座」と名乗り、チャリネがサーカスを意味していた。

 

  • 宮沢賢治さんは新しい芸能に興味がありそれを実際の演劇にも反映し、詩のなかにも新しい感覚として使っていたようにおもわれる。灯りと芸を演じる人を上手く組み合わせている。農業に関しても新しい方法を探求し胸の内には既成の物事にとらわれない生命が常にふつふつとわき上がっていた。それに肉体がついていけなかったのである。参考まで少し。「チャリネ曲馬団」を歌舞伎で一幕の舞踏劇にしたのが五代目菊五郎さんの『鳴響茶音曲馬』(なりひびくちゃりねのきょくば)』で黙阿弥さん作である。

 

  • 島津保次郎監督『浅草の灯』は古い映画でもありオペゴロやその当時のようすを面白おかしく紹介しているだけのもの思っていた。ところが、この映画はしっかり当時の浅草オペラとその周辺の人間関係などを撮っているということである。原作は浜本浩さんの小説『浅草の灯』でこの原作自体が架空の小説ではなく事実に即した浅草の生態「正義と勇気と友情と純粋な恋愛に生きた浅草の人々」の生活記録としている。金竜館の裏の射的屋や看板娘とペラゴロの様子。給料の前借りをしてドロンして夜逃げ。舞台と観客の様子など実際にあったことを盛り込んでいるのである。

 

  • 『浅草六区はいつもモダンだった』は、大正の浅草オペラ、昭和戦前のレビュー、軽喜劇、その流れからの戦後の六区の芸能のことが詳しく語られている。驚くのは『鉄砲喜久一代記』を書かれた茂在寅男さん(ペンネーム・油棚憲一)、が浜本浩さんに、自分に弟子入りして小説家にならないかと誘われていることである。茂在寅男さんが海洋小説の懸賞に応募し、その作品を選考委員をしていた浜本浩さんが気に入ったのである。茂在寅男さんは迷ったが海洋学者の道を選ぶ。『鉄砲喜久一代記』は、そのおかげでとも言えるような資料を丹念に調べ、読者の気をそらさない作品となっていて大変参考にさせてもらった。浅草六区に魅かれた起爆剤のひとつでもある。 『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

 

  • 五代目菊五郎さんも驚くほどの新しがり屋で、キクゴロがいてもいいくらいである。舞台に浅草公園を登場させている。イギリス人の風船乗りスペンサーが来日して上野公園の博物館まえでも公開し、それを歌舞伎にしたのが五代目菊五郎さんと黙阿弥さんである。『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』。「高殿」が凌雲閣で、そこに登って風船乗りを見物していた様々なひとが茶店に集まってそのうわさ「評判」をしているのである。そこに圓朝に扮した五代目菊五郎さんがあらわれるということらしい。もちろんその前半には五代目菊五郎さんが歌舞伎版スペンサーとなって演じている。ここでは浅草公園と十二階が歌舞伎に出てきたということだけにする。こちらはこの芝居と反対にそろそろ浅草公園から上野公園の博物館に誘われているようである。

 

  • 面白いことに浅草で不良だったサトウハチローさんの詩の挿絵をいわさきちひろさんが描かれている。いわさきちひろさんは、ずっーとかわいらしいものが好きだったようである。サトウハチローさんは色々なことにたずさわるが、すぱっと童謡詩人にもどる。かわいらしいものや小さいものがお好きなようだ。