『満映とわたし』に登場する映画『無法松の一生』(3)

  • 岸富美子さんと内田吐夢監督は中国の人々に映画の編集理論と技術を教えることになる。富美子さんにとっては内田吐夢監督と一緒に教壇にたてることは夢のようなことであった。富美子さんは、編集におけるモンタージュを教えるために映画『無法松の一生』(1943年・昭和18年)を選んだ。阪妻さんの無法松である。あの映画の終盤の盛り上げかたを編集によってどう工夫しているか。モンタージュとは何かを語りたいとしている。この映画の撮影は宮川一夫さんで、彼の出世作となった。富美子さんもそれを喜んでいる。宮川一夫さんは、アメリカで亡くなった兄・聡さん(次男)の一年後輩にあたり兄と大変親しかった。家庭の事情もしっていたので日活時代は富美子さんを慰めてもくれた。

 

  • 「映画のクライマックスは、カッティングに次ぐカッティングで、すばらしい臨場感をだしている。坂東妻三郎の演じる車引きの無法松が櫓太鼓を叩くカット、海で波しぶきが上がるカット、祭りに集まる群衆のカットが、打ち鳴らされる太鼓のリズムに合わせて、目まぐるしくモンタージュ(編集)されているのだ。」編集は西田重雄さんでもの静かなかたであったので富美子さんは、そのギャップに驚いたようである。内田監督も賛成され、リズムと音の必要性とそれと画をどうやって組み合わせるかを講義されたらしい。聞く方の真剣さも想像できる。

 

  • かつてテレビで映画と音についての番組があって、ヒッチコック監督の映画『サイコ』で女性が車で逃げる場面を音ありとなしでやっていて、音楽が加わることによる緊迫感とスリリングさが増すことについて解説していた。無しと有りでは全然臨場感が違っていた。反対に音がなくて不気味なのが映画『鳥』である。何事もないように電線だった思うがそこにとまったカラスが映される。ベンチに座っている女性が映され、再びカラスを映す。それが映されるたびにカラスの数がふえているという怖さ。『鳥』についてはちょっと記憶があいまいなのであるが見つかれば観直したい。

 

  • 映画『無法松の一生』は稲垣浩監督で、吉岡大尉未亡人に対し車夫の松五郎が未亡人に対する気持ちを打ち明けた部分が内務省の検閲で削除されてしまう。戦意高揚にふさわしくないということである。そして戦後は、戦勝の提灯行列の場面がGHQに削除される。稲垣浩監督は、完全版として1958年(昭和33年)三船敏郎さんでリメイクしている。小倉祇園太鼓を叩く松五郎は、無学の自分がボン(敏雄)の高等学校の先生の役にたち、さらにボンの役にたったと自信に満ち高揚した場面である。リメイク版から想像するにその高揚感と吉岡未亡人がお化粧したのをみて、高等学校の教師の出現にも少なからず動揺し、秘めていた気持ちをおさえられなくなった。そのあとは、お酒の力のみで生き、死をむかえるのである。

 

  • 1943年のほうは、言ってみればズタズタに削除されているが、白黒で風景が明治に近い感じがする。阪妻さんの松五郎に対し吉岡未亡人を演じているのは広島の原爆で亡くなられた園井恵子さんで、松五郎だけではなく支えてあげたくなるタイプである。リメイク版は高峰秀子さんで、もしかすると一人でも頑張っていけそうかなと思わせるが、カラーでもあるし三船敏郎さんの強烈さに対するには好い組み合わせである。脚本は伊丹万作さんで、リメイク版には伊丹万作さんの脚本を守るぞというように稲垣浩監督の名前も脚本に加えてある。この時すでに伊丹万作監督は亡くなられている。

 

  • 1943年版は、松五郎が、かえり打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ打ちと打っていき、そこからモンタージュが使われ、そのまま思い出の場面へとつながり、回っていた人力車の車輪が止まる。そして雪景色が映る。そのあとに松五郎の遺品を整理する場面となるので、松五郎が吉岡未亡人に自分の気持ちを伝える場面は完全に削除されているわけである。松五郎が自分は汚れていると苦悩する場面がなく、竹を割ったようなさっぱりとした人間として締めくくられているのである。吉岡未亡人からもらったお金には手を付けず、さらに少しずつ未亡人とボンの名義で貯金していたのである。無学ながらも自分の生き方を貫いたヒーローとして当時の観客は涙したことであろう。本来の映画は、人間松五郎にも踏み込んでいたわけである。

 

  • GHQに削除された部分は宮川一夫キャメラマンが所有していて、DVDでは、その部分を挿入した映像も観ることができる。ただ音は無しである。なぜ宮川一夫さんが持っていたのか。それは映像の確認用として所有していたのである。提灯行列と花火を重ねて写っているが、それは編集機器が発達していなかったため、キャメラで合成しつつ撮影していたのである。その他、フイルムの感度やキャメラの性能が低いため、夜の撮影は夕景撮影で、そのあとで処理して夜景としたようである。そのため、宮川さんはその撮影具合を自分の目で確認したかったのであろう。当時のスタッフの力量と苦労のあとがかえってわかることとなった。だからこそ満映の映画人は映画機器を守るべく奔走したのである。映画人の想いは、日本にいても、満州にいても変わらなかったのである。

 

  • 『大アンケートによる 日本映画ベスト150』という本がある。初版が1989年であるから昭和から平成に変わった年にだされている。この本を参考に映画を選んだ時期もあったがずーっとご無沙汰であった。久しぶりで観ていない映画を数えてみたら120本は観ていることになる。この本から離れて違う繋がりで観ていた映画もその後たくさんある。『無法松の一生』は8位で観た人の観た時の感想が載っている。

 

  • 「小学生の頃お使いに行く時、阪妻の車夫のかけ足にホレて、あのガニ股的歩きをマネてよく転んだ。」「戦中の中学生に、庶民の男の美しさを教えてくれた。」とあり、広く子供たちにも松五郎は印象に残ったようである。さらに、「学徒出陣でもう映画をみることもあるまいと思いながら見た忘れがたい作品。」「産業戦士慰問映画として感激しながら見たのを覚えている。」当時の人々は、削除されたことなどには関係なく自分の想いを映画の中にぶつけていたのであろう。

 

  • 伊丹万作監督が岩下俊作さんの小説『冨島松五郎伝』を映画化しようとしたが病臥中のため稲垣浩監督が撮ることになったとある。そうであったのか。稲垣浩監督はリメイクして完全版を残し伊丹万作監督に代わって作品を守り通したわけである。松五郎が継母に辛くあたられ4里離れた父の仕事場へ一人行く田んぼの風景は、こんな美しい風景があったのかと見惚れてしまう。そのあと、木々の中をお化けに追いかけられているような怖さを味わう場面などは映像的工夫を凝らしている。リメイク版は削除もないだけに、人力車の車輪の回転場面の映像が松五郎の気持ちを代弁するように何回も登場する。一度止まった車輪がよっしゃ!もう一回走るぞと生き込んでいるようであった。