11月 「国立劇場」「歌舞伎座」

  • 今回はあらすじについて触れるかどうかはいまのところ未定である。自分のなかでこうなってこうなるとすっきりさせたくなれば書くであろう。どちらも歌舞伎音楽に惹きつけられたのである。音楽を言葉で表すのが厄介である。とらえられないのに気にかかる。ジリジリした状態であるが、観劇は楽しかった。時間の前後が目茶目茶なのであるが、ラジオを聴いたことが触発されているかもしれない。

 

  • NHK・FMで金曜日、11時~11時50分『KABUKI TUNE(カブキチューン)』という放送がある。昨年までは『邦楽ジョッキー』であったのがかわったのである。すいませんが聞いてるわけではありません。興味は非常にあるのですが。パーソナリティーが歌舞伎役者の尾上右近さんで、正確には、清元栄寿太夫(7代目)の名前もありまして今月の歌舞伎座では、清元も語られて役者としても出演されるという劇的な登場をされている。

 

  • ラジオの『KABUKI TUNE(カブキチューン)』で、歌舞伎座からの録音中継をするというので今回は興味があり聞いたわけである。それも再放送。朝の5時~5時50分。その日一日の生活時間に狂いが生じ、国立演芸場の「花形演芸会」の申し込みを忘れたというおまけつきである。気が付いていたとしても購入は無理だったと思うが。ラジオのほうは歌舞伎楽屋の臨場感があり聞いた甲斐があった。そのなかで竹本葵太夫さんがしびれるような素敵な声で出演されていた。その時は、国立劇場の『通し狂言 名高大岡越前裁(なもたかしおおおかさばき)』を観たあとであった。葵太夫さんが浄瑠璃を語られる「大岡邸奥の間庭先の場」が見せ場であった。

 

  • 葵太夫さんは、歌舞伎座の『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』でも語られていてお忙しい月である。この舞台の石川五右衛門の吉右衛門さんの大きさと真柴久吉の菊五郎さんが上と下でバランス良く対峙して、内容なんてどうでもいいような歌舞伎の醍醐味であった。そして思ったのは、歌舞伎役者さんは体の中に浄瑠璃の音が入っていないとその動きに大きさと面白味が加わわらないのではということである。ただ観ていてもそれがこうだとはわからないし説明できない。何か息の詰め具合の微妙さがあるような気がする。

 

  • 葵太夫さんがラジオで言われて印象的だったのは、竹本では葵太夫さんが一番上なのだそうである。教えてもらえる先輩がいない。清元は沢山先輩がいていいですねと。そうなのかと驚いた。江戸からの音楽は伝えていかなければならないわけでそちらも大切である。歌舞伎は演者も音楽もナマが本来の形である。その基本を守りつつも新たな試みもしていかなければならないわけで、若い歌舞伎役者さんに求められているのは新旧二刀流の構えである。となると、尾上右近さんは三刀流でなければならないとうことになる。ということは、『ワンピース』のゾロということか。口にも刀。

 

  • 国立劇場の『名高大岡越前裁』は天一坊改行と名乗る男が八代将軍徳川吉宗のご落胤(らくいん)だとして世の中を騒がせそれを大岡越前守が名お裁きをするという話しであるが、実際には大岡越前守はこの事件にはかかわっていなかった。どなたが裁かれたのかしりたいところであるがそれは置いといて、この芝居では、大岡越前守は切腹まで追い込まれるという危機一髪のところで証拠がそろい、お裁きとなる。この切腹場面が「大岡邸奥の間庭先の場」である。

 

  • 白装束の大岡越前守と妻・小沢の間には息子の忠右衛門も自分も切腹をさせてくれと父に頼みこむ。大岡の梅玉さんと小沢の魁春さんに挟まれ、市川右近さんがきっちりと演じられ、その臨場感を守られた。浄瑠璃の語りはあるが、梅玉さんと魁春さんは大げさに演じるわけでもなくむしろ淡々としているのであるが、その覚悟のほどは広い劇場に浸透していく。大岡はすでに将軍の怒りをかい閉門の身でありながら再吟味の場を作り証拠が不十分で覆せなかったのである。立ち回りが一切ない舞台だけにこの場で大岡の窮地を家族の情で伝え、さらなるお裁きへの踏み台としての場面としてよく出来上がっていた。

 

  • 歌舞伎座での『十六夜清心』での清元にのっての極楽寺の僧侶・清心と遊女・十六夜との心中である。清心の菊五郎さんと十六夜の時蔵さんの身体の音楽性の年季が如実であった。自然に心と体が動いて行く。栄寿太夫さんの声綺麗である。ただ清元も詞を聞き取るのは難しい。心中した清心が泳ぎが上手で死ねなかったのであるが、再び死のうとして端唄が聞こえてくる。端唄は聴きやすい。端唄を聴いて清心が死ぬのをやめてしまうのがなんとも可笑しい。浄瑠璃系はむずかしい。若い栄寿太夫さんによって若い方が清元になじまれ、より歌舞伎の深さと楽しさを探られることを期待する。こちらは、曲と離して読むことから始めないとだめなようである。

 

  • 文売り』は清元の舞踏である。雀右衛門さんが一人で踊る舞台はめずらしい。文売りという恋文の代筆業のことであり、それを売って歩く女性が登場する。現れた場所が逢坂の関ということで二つの道が一つになるという恋の成就をかけているのであろう。様々な人物の踊り分けもあり、詞を調べて目を通してから観ると楽しさが増すことと思う。『素襖落』は狂言を舞踏劇にしたもので、太郎冠者がお姫様に素襖をもらって主人らと取り合いになるという喜劇性だけが頭に残ってた。ところが竹本の義太夫と長唄両方の登場となる。松緑さんは最初から愛嬌ある表情で、喜劇性と那須の与一の扇の的を射る踊りもあるというものである。それも酔いつつなので、こんなに大曲の踊りだったのだと思わせられた。

 

  • お江戸みやげ』は、舞台が開いた時、この芝居は歌舞伎座では広すぎるなと思わされた。結城紬の行商人の話しで色彩的には地味な人情物である。お辻の時蔵さんとおゆうの又五郎さんの演技の機微は申し分ないがそれが伝わるには広すぎる。お辻は、お江戸の大切な思い出ともなる人気役者の片袖を貰い。この片袖、『名高大岡越前裁』でも重要な意味がある。法沢(天一坊)が自分が死んだと思わせるために片袖を使うのである。後にこれが命取りの証拠となるのであるが。法沢の右團次さんも好い人とおもわせてさらさらと悪事を働いて行く。それに加担する弁の立つ山内伊賀亮の彌十郎さん。悪事の役者もそろい名お裁きの一件も落着。テレビでの大岡越前といえば加藤剛さんである。(合掌)

 

  • 隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ) 法界坊』は、『ワンピース』の仲間たちが歌舞伎座に集結の感である。ルフィの猿之助さんが法界坊で、いいだけ仲間たちに絡んでいる。一番絡まれているのが手代の要助の隼人さんで実は松若丸で、「鯉魚の一軸」を探している。え!大阪・松竹座で一件落着だったのではなかったの。あれからまた紛失したらしい。絵の鯉はもどったが軸の本体は人の手から手えと移動してのてんやわんや。ルフィの代役をした尾上右近さんのおくみは代役のお礼の意味か、法界坊に言い寄られてしまう。そして文売りが書いた恋文ではなく法界坊本人が書いた恋文が道具屋甚三の歌六さんに読み上げられてシュン。要助は番頭の弘太郎さんにも落とし入れられる。はっちゃんよりはまっている。いい男はひたすら笑わずに耐える。うむ!

 

  • 双面水澤瀉」では、法界坊に殺された野分姫の種太郎さんと甚三に殺された法界坊の猿之助さんの亡霊が合体して、もう一人のおくみとしてあらわれる。肉体の猿之助さんが、常磐津と竹本の掛け合いで野分姫と法界坊の踊り分け。亡霊を退治する観世音像をかざす渡し守おしずの雀右衛門さん。音楽と肉体。肉体と幽霊。三浦雅士さんの講演の話しが重なってくる。(寺山修司展記念講演『ベジャール/テラヤマ/ピナ・バウシュ』神奈川近代文学館)かなりいびつなモンタージュが頭の中を駆け巡る。書き手本人だけが面白がっているのでほっといて自分で観劇するのが一番である。