関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(4)

近江今津駅から二つ目の駅マキノ駅で下車するグループのかたがいた。今人気のメタセコイア並木へでもいくのであろうか。こちらはさらに進み近江塩津で乗り換えて二ケ所目途中下車の余呉駅。余呉湖がある。ここは湖北にあたる。湖北は戦国時代の戦場の舞台でもある。「姉川の戦い」「賤ヶ岳の戦い」など。賤ヶ岳古戦場へは、余呉湖を半周して閉館している国民宿舎余呉湖荘のそばから登ることもできる。楽にいくなら木ノ本駅からバスとリフトを使うのがよいのであろう。

 

余呉湖をレンタルサイクルで一周もできるのでその予定だったが、のんびりと眺めることにする。余呉湖観光館があるところまでぶらぶらと。中に入ると清掃しているかたが申しわけなさそうに今日は休館なんですと言われる。余呉湖ってどうしてできたのですかと尋ねるとパソコンから印刷して下さった。ありがとうございました。琵琶湖とは賤ヶ岳で隔たれていて遠い遠い昔は琵琶湖の一部だったらしい。安土・桃山時代に湖の氾濫防止のため現在の高田川が排水路として掘られている。パンフレットなどをもらって外の案内板などをながめる。

 

案内板に「賤ヶ岳の戦い」の秀吉と勝家の陣地と進路やぶつかった場所などが描かれていて、これが面白い。これパンフレットにしてくれると嬉しいのだがとおもう。見ていると賤ヶ岳に登りたくなる。賤ヶ岳の上から琵琶湖と余呉湖が見たいものである。余呉湖には、柳に羽衣をかけたという天女伝説もある。天女と村人との間に生まれたの男の子が菅原道真公で、幼い頃預けられたという菅山寺がある。北野天満宮からお話が羽衣に乗って追いかけてきたようである。秀吉さんは北野天満宮から過去にもどっての登場であった。

 

『琵琶湖周航の歌』の資料館で6番までの歌詞と歌碑のある場所を示し、琵琶湖を取り巻く神社・仏閣などを記した絵葉書を売っていた。琵琶湖周辺の名所どころなどが一望して描かれていてすぐれものである。拡大コピーして使おうと思う。鈴鹿山、油日神社、石山寺、比叡山、鯖街道、余呉湖、伊吹山、湖東三山などがぐっるっと取り囲んでいる。湖北は美しい仏像群がおわす地域でもある。三ケ所目の途中下車は、高月駅。めざすは歩いて10分の向源寺(渡岸寺)である。

 

渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音立像は三回目の対面である。一回目はツアーで訪れたのである。この辺りは交通の便がよくないのでほかの仏像を拝観するなら車でなければツアーとなる。そして二回目が東京国立博物館。今回は、お寺の案内人さんつきでの独り占めの贅沢な拝観である。ツアーのときは修学旅行のようでわさわさしていたが時間の流れが違う。頭上にある十一面観音が、左右の耳の後ろに二面ある。そして大きな耳飾りをされているのである。アンバラスになりそうなものであるが、その優雅さは損なわれるどころか素晴らしい調和となっている。そしてさらに全体像を美しくしている。

 

ここの仏さまたちは、浅井・朝倉と織田信長との「姉川の戦い」で戦火にみまわれてしまうのである。その時の住職巧円と土地の人々が外に運びだし土に埋めてお守りした。民家のような場所で守られたこともあったが、明治に入って国宝となる仏像もあり近畿一円の人々の浄財により本堂が建立され、さらに十一面観音立像が国宝となり重文の大日如来坐像とともに収納庫に移されたのである。

 

高月駅に井上靖さんが駒澤晃写真集「湖北妙音」に書かれた序文と小説『星と祭』の一部が紹介されていた。渡岸寺観音堂に井上靖さん筆による「慈眼 秋風 湖北の寺」の文学碑があり、高月駅そばの大きな石灯籠にも同じ文が見える。井上靖さんといえば、今は映画『わが母の記』のイメージが強いので小説『星と祭』あたりでも読むことにしよう。

 

今回の旅、締めが渡岸寺の十一面観音立像というのもよかった。駅そばの総合案内所で荷物を預かってくれ、近いのだがわかりやすく渡岸寺観音堂への道を教えてくれた。井上靖さんが書かれている。

 

「この湖北の旅で知った最もすばらしことは、こうした湖北の仏さまたちが、鎮護国家とか仏法守護とか、そういったものとは、さして関係なく、専ら地方庶民の生活の中に入り込んで、素朴で、切実な庶民の信仰の対象になっていることであった。」「それからもう一つすばらしいことは、永年に亘って、その集落の守り本尊である仏さまたちを、代々、村人たちが守って来ているということである。」

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(3)

JR湖西線は山科、西大津と琵琶湖の西に向かうのである。堅田までは行ったことがことあるが、今回はさらに近江塩津まで行きそこから米原まで回ってくるのである。電車は敦賀行きで京都から北陸がこんなに近いのだと実感である。そのまま北陸に行きたい気分であった。今度体験してみよう。

 

時間がかかるので観光は駅から近いところを選ぶ。菅浦とか旧塩津宿など琵琶湖そばまで行きたいが路線バス旅行の計画が必要である。鯖街道の拠点朽木へも行ってみたい。というわけで、次々浮かぶが今回は駅から徒歩で行ける場所を三か所選んだ。

 

一か所目は近江今津駅から2分の『琵琶湖周航の歌』の資料館と歌碑である。『琵琶湖周航の歌』と『琵琶湖哀歌』が混同されているところがある。私も琵琶湖でボート遭難事故で亡くなったのが三高(京都大学)の学生と思っていた。金沢に行って四高(金沢大学)の学生であったと知ったのである。『琵琶湖周航の歌』は、やはり三高のボート部に所属していた小口太郎さんが琵琶湖周航中その美しさに、今津湖岸の宿で披露したのが『琵琶湖周航の歌』の詩である。これに当時学生たちが歌っていた『ひつじぐさ』の曲にのせたところ上手く合い、その後クルー仲間が歌い始めたのが始まりだそうである。『ひつじぐさ』は吉田千秋さんが作曲されたもので、詩ができたのが1917年(大正6年)である。

 

作詞、作曲のお二人は若くして亡くなられていた。小口太郎(長野・岡谷市出身)さんは27歳で、吉田千秋(新潟市出身)さんは24歳であった。

 

このあとに生まれたのが四校のボート部の合宿での遭難事故の鎮魂歌『琵琶湖哀歌』(作詞・奥野椰子夫、作曲・菊池博)である。遭難事故は1941年(昭和16年)である。この歌のほうが先に人々に知られるようになる。曲も似ているのである。ところが、戦時下、士気を損なうとして哀歌は歌うことが禁止されてしまう。戦後になってようやく心おきなく歌われるようになったのである。この遭難事故の日、地元の人は琵琶湖にでるのはやめたほうが良いと言われたそうである。この時期「比良の八荒、荒れ仕舞い」と呼ぶ大しけが発生するのである。

 

比良山(蓬莱山、武奈ケ岳、打見山などの高峰)と琵琶湖の気温差から山麓一帯に強い北西の季節風が吹き琵琶湖は大しけとなる自然現象があり、この荒れが長い冬の終わりで春の訪れなのだそうである。今年も3月26日に、「比良八講」という水への祈りが行われる案内があった。滋賀・京阪神地域の水瓶をつかさどる琵琶湖への報恩と、その水源である比良山系の保全・水難者回向と湖上安全祈願を捧げる法要である。(近江舞子湖畔にて開催) 悲恋伝説「比良八荒」という説話もある。

 

琵琶湖周航の歌』にもどると、今津が歌の発祥の地であることは、小口太郎さんが寄宿舎に残っていた学友へのハガキや学友の記憶でも明らかで1917年(大正6年)6月28日である。湖岸に歌碑があるがそこから見る琵琶湖はやはり美しかった。歌詞は六番まであって今津が出てくるのが三番である。

「浪のまにまに漂えば 赤い泊火なつかしみ 行方さだめぬ波枕 今日は今津か長浜か」

資料館では、色々な歌手の方の声やオーケストラ、ギター、大正琴の楽器などの『琵琶湖周航の歌』を聞くことができる。全てさわりだけ聞いたが、映画『有楽町で逢いましょう』の映画を観たばかりだったので、フランク永井さんの声に反応してしまった。係りの方が『琵琶湖哀歌』と『七里ケ浜の哀歌』も曲が似ていますから聴いてみてくださいと教えてくれた。『ひつじぐさ』もあった。美しさと哀しさを味わうこととなった。吉田千秋さんは肺結核で茅ヶ崎南湖院に入院していた時期もあった。そうか吉田千秋さんんもあそこに入院されたのかと感慨深かった。

 

今津には、ヴォ―リズが設計した建物が残っている。ヴォ―リズ通りに「今津ヴォ―リズ資料館」「日本基督教団今津教会」「旧今津郵便局」と並んでいる。もう一つ離れて個人宅の前川邸があるらしいがそこは見なかった。ヴォ―リズさんの洋館は近江八幡に多くあり有名であるが、湖西では今津が数が多い。それにしてもヴォ―リズさん随分沢山の洋館を残されたものである。やはり伝道という情熱が形となって表されたのであろう。

 

観光案内のかたが、かつての今津の駅が残っていますからそちらもと教えてくれたのでせっかくだからとそこを見てから駅に向かったが、ヴォ―リズさんの設計した建物と同じようにもう少しきちんとして残して欲しい。何か旧駅舎可哀想であった。江若鉄道 近江今津駅とあった。江若鉄道はJR湖西線が走る前、大津市の浜大津駅から近江今津駅まで走っていた路線である。琵琶湖の西にも色々な歴史があったわけである。