えんぴつで書く『奥の細道』から(8)

芭蕉は最上川を下るため大石田につきます。水運が盛んになったのは、関ヶ原の戦いの後、庄内地方を領有した最上義光が五百川峡(いもかわきょう)、碁点峡(ごてんきょう)、最上峡(もがみきょう)の難所を開削したことによるようです。

尾花沢の紅花もこの川から酒田へ運ばれ、酒田から北前船で京に行き、京で美しく布に染められたりお化粧となって戻ってきたのでしょう。

摘んだ紅花は紅餅と呼ばれるものに加工されます。その紅餅を並べるムシロを花筵(はなむしろ)といい、花笠音頭の踊り手がかぶる笠は花筵に並んでいる紅餅を表しているのだそうです。

体験したくなる映像です → 芸工大生が紅花摘んで紅餅作り – YouTube

大石田で細々と自分たちで俳諧をする人たちがいて、よき師がきてくれたと頼まれて連句一巻を巻きます。この時最初に詠んだのが<五月雨を あつめて涼し最上川>ですが、最上川を舟で下った時には<涼し>が<早し>に変っています。

⑦五月雨を 集めて早し最上川

奥の細道』では、大石田から舟に乗ったように書かれていますが、実際はここから移動して元合海(もとあいかい)からの舟下りのようです。これも<五月雨を 集めて早し最上川>の句をだけを載せて際立たせるためでしょうか。

「最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などといふ恐ろしき難所あり。」そして酒田の海に入るのです。

最上川の源流 (mlit.go.jp) ←山形と福島の境

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のお二人も川下りをしています。黛まどかさんが、芭蕉が<凉し>から<早し>にしたのは、新しい土地を訪れたり、どこかに呼ばれたりしたときは、挨拶の句を詠み、句会に招かれた家に、最上川からの涼しい心地よい風が入ってきたのを詠われ、そのあと舟下りの実感が句を変えさせたのではとされています。

梅雨の時期だったので川の水量も多かったのでしょう。『奥の細道』は旅が終わってから時間をかけて書いていますから色々な脚色を探すのも一味違う旅の楽しさとなるでしょう。

黛さんと榎木さんは6回目に月山登山もされていまして最上川下りは、案内人の船頭さんと楽しく談笑されての短い舟下りでしたので少し付け加えます。

「白糸の滝は、青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって、舟危ふし。」

白糸の滝は『義経記』にも出てきていて、仙人堂は義経主従が奥州に逃れる時立ち寄ったともいわれ、家臣の常陸坊海尊は生き延びてここで修業し仙人になったとも伝えられています。

羽黒山についても少し。芭蕉は羽黒山で別当代会覚阿闍梨(べっとうだいえがくあじゃり)により厚いもてなしを受け俳諧の会もしています。

出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、月山と湯殿山は冬は雪のため閉ざされるのでいつでも拝観できるように羽黒山山頂に三神が合祀された「出羽三山神社」があります。

個人的旅についてはこちらで → 2014年7月3日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

さて次は月山です。

えんぴつで書く『奥の細道』から(4)から歌舞伎座『小鍛冶』

えんぴつで書く『奥の細道』から(4)からなぜ歌舞伎座『小鍛冶』かといいますとえんぴつで書く『奥の細道』から(4)で能の『』の紹介をしました。『』が再度観たくなりました。その同じDVDに能の『小鍛冶』も録画されていまして観たわけです。

さらに歌舞伎の『小鍛冶』の録画もありました。そのことは2013年に記していました。

2013年11月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

そこで友人がダビングしてくれた狂言の『釣狐』と白頭の『小鍛冶」が観れなかったとあります。観たいという執念でしょうかそのDVDを処分せず残しておりました。ただのものぐさですが。ふっと思ったのです。友人の機器はブルーレイが観れるといっていました。もしかしてそれかな。今の機器はブルーレイが観れるので試してみたところ映ったのです。その嬉しさといったら。これはお狐様のお告げで歌舞伎座の澤瀉屋の『小鍛冶』を観るべきだと。

「芸能花舞台」で解説の利根川裕さんが澤瀉屋の『小鍛冶』は能に近いと言われていたのです。

というわけで四月歌舞伎座は一部の『小鍛冶』だけの観劇です。

舞台は紅葉の時期で、三條小鍛冶宗近(中車)が登場しますが衣装がはっきりした濃紺で舞台に映えます。中車さんは舞台人として板に身体がなじんでこられました。上手に赤い稲荷の鳥居。宗近が参拝に訪れたわけです。本来は文楽座の出演なのでそうですが、今回は竹本でした。

童子(猿之助)の登場です。登場場所はわらぼっちからです。狐は豊作の神様でもあります。稲を食べる野鼠を退治してくれるからです。だから稲荷神社でもあるわけです。紅葉は火とも重なります。

童子の出としても可愛らしくていいです。童子は手に稲穂を持っています。童子は過去の名剣についても語ります。語るといっても竹本の語りで身体表現をするのですが、動きの良い猿之助さんですので安心して鑑賞させてもらいました。

狂言の『釣狐』では人間に化けた狐が面白い動きをするので、この童子はどんな狐の動きをするのかなと注目していました。消える前に大胆に飛び跳ねました。

次は長唄で巫女(壱太)、宗近の弟子4人(笑三郎、笑也、猿弥、猿三郎)の5人による間狂言の踊りで本来は3人なのだそうですが今回は5人で楽しませてくれます。猿翁さんに厳しく訓練された役者さんだけに心配なしです。巫女は袖を朱の紐でまとめていて、その材質が柔らかくふわーっとしていて顔に映えて明るい巫女となりました。宗近の相槌がいないという話もしています。

童子は実は稲荷明神でした。稲荷明神(猿之助)は白頭でした。頭上には狐。歯を金にしてましたが、金泥の能面を意識されたのでしょうか。

次の場面がいよいよ刀つくりとなるのですが、そこに座っているだけでも風格をあらわしてくれるのが勅使橘道成の左團次さん。舞台の重みが増します。

再び竹本となり胡弓もはいっていました。宗近は稲荷明神の相槌を得て軽快につちを打ちます。リズミカルな音楽性も豊かな場面です。竹本の三味線のテゥルルルルルの音は初めて聞いたような気がしますが。

稲荷明神は途中で遊びに行くように場を離れますが、遊んでいる場合じゃないでしょといいたくなる余裕の体です。笑えました。時々狐の足もみせてくれて緊張感のなかにも可笑しみがあります。

無事、小狐丸の名刀もできあがって稲荷明神は揚揚と花道を飛ぶように去っていきます。それを見送る小鍛冶宗近と橘道成。これが澤瀉屋の『小鍛冶』なのだと鑑賞できて満足でした。

あとは赤頭と文楽の『小鍛冶』ですが、今月文楽は大阪で公演しているそうで何とか映像でも良いので観たいものです。それぞれに工夫が多い作品です。

画像が悪いですが能の童子と稲荷明神です。(能では稲荷明神の使者の狐としているようで、黒頭、白頭ではその狐の設定もちがっているようです。)

観世流の童子

観世流の黒頭の稲荷明神の使者

宝生流の童子

宝生流の白頭の稲荷明神の使者

十七歳の時の勘九郎さんの稲荷明神、隈取が狐を表しています。長唄の『小鍛冶』は宗近との相槌の場面だけでした。

(今月の『小鍛冶』の舞台の画像は制限がかかっておりますのでご自分で検索してみてください。)

能『』のDVD鑑賞は今回笑ってしまいました。老人が僧に近辺の名所を案内するのですが突然急いで去っていくのです。消えるのですが、それを観ていて、そうよね名所を案内してる場合じゃないですよ。六条の河原院に想いを馳せてもらわねばと思っていましたら、融の大臣が気品のある姿で現れたのです。内容は知っているのですが、こちらの雑念が通じたようで能がぐっと近くなりました。

狂言『釣狐』がこれまた今までにない面白さでした。狐が人間に化けて狐を罠にかける猟師にそれをやめさせようとするのですが、うまく化けたかどうか水に姿を映して確かめたりする動きが鋭角的であるのになんともユーモアにあふれています。歌舞伎舞踊『黒塚』で鬼婆が自分の影を振り返るのと雰囲気が似ていたり、ぴよんぴょんと軽く跳んだり急にすり足で動いたりと目が離せません。

さらに奥州の殺生石の話を持ち出して狐は死んでも妖力があるので恐ろしいのだと脅すのです。

この殺生石は芭蕉さんも寄っています。旅としては通り過ぎています。場所は日光と白河の間である那須温泉に殺生石はあります。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: image-7.png

芭蕉は日光のあと黒羽(くろばね)城下に入ります。那須野を越えて九尾の狐が埋められたと伝わる玉藻の前の古墳を訪れます。さらに那須神社の八幡宮へ。屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなどの功績をあげた那須与一ゆかりの八幡宮です。那須与一は義経について従軍しました。さらに雲巌寺に寄ったあと那須温泉に向かいそこで殺生石をみています。

玉藻の前という絶世の美人は鳥羽上皇と契りを結びますが、玉藻の前は妖力を持った狐の化身で鳥羽上皇は病に伏せてしまいます。陰陽師が対峙しますが玉藻の前は那須野に逃れさらに討伐の軍の矢に射られて死にます。ところが毒石となるのです。毒を発し近づく生き物を殺してしまうのです。

現在でも硫化水素や亜硫酸ガスなどの有毒ガスを発しているといわれる場所です。(危険な時は見学させないそうです)

釣狐』ではその話をして猟師を脅し罠を捨てさせるのです。さて狐と猟師はその後どうなるのでしょうか。

狂言の猿(靭猿・うつぼざる)から始まって狐(釣狐)に終わるという作品のひとつです。

そんなわけで芭蕉さんは様々な伝説の地も見学されているのです。それだけ情報もとりいれていたわけです。

追記: 今月の歌舞伎座の『小鍛冶』のお話を巫女で出演されている壱太郎さんがされています。解りやすくてお見事です。是非どうぞ。

「小鍛冶」の見どころを解説【四月大歌舞伎】 – YouTube

追記2: 三津五郎さんの『馬盗人』の録画を観ました。チャプリン顔負けです。シャボン玉売りの『玉屋』はご本人は柔らかくが難しいと言われていましたが、動きが綺麗で内容も解らないまま見惚れていました。そう簡単には処分できないです。

えんぴつで書く『奥の細道』から(7)

芭蕉は立石寺へは寄る予定ではありませんでしたが、鈴木清風にすすめられ訪れます。平泉の中尊寺が中尊寺の名前のお寺がないように、立石寺もその名のお寺はありません。比叡山延暦寺の別院として慈攪大師円仁により創建されました。山岳仏教の古刹で山寺とも称されています。

建立当時延暦寺から不滅の法灯を分けてもらいました。延暦寺が織田信長によって焼き討ちになり再建されたとき、この山寺から不滅の法灯を再び分けもどしてもらったそうです。油断することなく守っておられるわけですね。

電車なら仙山線の山寺駅でおります。初めて行った時もこの駅でおりました。駅からすぐなのだと嬉しかったのですが前に見える山寺を眺め、あそこまで登るのかとちょっとひきました。

芭蕉さんが立石寺に寄らなければこの句もできなかったわけです。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』で榎木孝明さんが俳句に挑戦してまして、黛まどかさんの意見が興味深かったので先で紹介します。

詳しい立石寺の拝観図は下記で。

map (yamaderarisyakuji.info)

           

姥堂(うばどう)に座す奪衣婆で、あの世へ来た人の着ていた衣をはぎとります。ここで現世の汚れを払うということでもあるようです。ここから下が現世でここから登っていくにしたがって極楽に近づくのだそうです。

せみ塚(地図の赤丸。芭蕉の句をしたためた短冊を納めた記念碑。)で榎木孝明さんは俳句を二句披露されました

(1) 俳聖の登りし道にシャガの花

(2) 俳聖の登りし道に風薫る

私は(1)のシャガの花が視覚にうったえて良いなと思ったのですが、黛さんは、(1)では報告になってしまうので(2)の風薫るのほうがよいとされました。

風薫るのほうが空間が広がり芭蕉の時代ともつながっていけるというのです。なるほどです。さらに俳句は切れが大事で<俳聖の登りし道に>を<俳聖の登りし道や>に変えたほうが好いのではと言われます。

<閑かさや>のと同じです。切れ字を使うことによって一句を二つの世界に分けて、足し算の世界から、掛け算の世界に広げるのだそうです。切ることによってひろがる。

俳聖の登りし道や風薫る

確かに色々想像が広がります。芭蕉もこの道を登ったのだ。今自分も登っている。なんと心地よい風だろう。今まで気がつかなかった風の香りだなあ。今通り過ぎた人はどんな風を感じでいるのであろうか。ちょっと脱線しすぎでしょうか。ある方によりますと香りとは禅ではさとりととらえるのだそうです。そうするともっと深くなります。

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

この句も芭蕉さんのすごい境地を現わしているのかもしれません。人によっては、蝉の声を死者の声と同化して解釈されるかたもおられます。

切れ字によって広がるという新しい事を気づかせてもらいました。芭蕉さん結構切れ字みうけられます。そのほかの切れ字にかなけりなどがあります。

五・七・五に季語も入れて報告ではなく広がりも持たせなければいけないのですか。型にはめて発するというのはなかなか難しい事ですね。

山寺は新しい発見があり、新しい境地を体験できる場所なのかもしれません。ただミーハー的に芭蕉のあの句の山寺に登ってきたというだけの旅人が約1名ここにいますが。

芭蕉さんに立石寺をすすめた鈴木清風さんはさすがです。

えんぴつで書く『奥の細道』から(6)

平泉を後にした芭蕉は、友人の鈴木清風の住む尾花沢にむかいます。途中尿前(しとまえ)の関できびしい取り調べを受けます。尿前の関は仙台藩と新庄藩の境で出羽街道の要衝でした。ここから中山峠越えをして堺田に入ります。

この中山峠越えは今は遊歩道になっているらしく、途中には義経にまつわる伝説が残る道でもあるようです。

おくのほそ道 散策マップ~出羽街道中山越 芭蕉の道を訪ねて~ (nakayamadaira.com)

堺田では封人の家(国境を守る役人の家)に泊めてもらいます。今もその家は解体修理して残っています。ここでの < 蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと > の句に芭蕉は農家の小さな家に泊まったのだと想像していましたが、これは芭蕉の滑稽味を加味した句でした。泊まった家は代々庄屋もつとめており、馬の産地である堺田は母屋で馬を飼っていたのです。

ここからさらに難所である山刀伐峠(なたぎりとうげ)を越えますが主人に危険な道だからと屈強な若者を案内につけてくれます。

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』でも、黛まどかさんと榎木孝明さんはボランティアの方に案内され山刀伐峠越えをされてます。

最上町からは頂上まで急な斜面で1時間。頂上から尾花沢市まではなだらかで2時間半。頂上までは二十七曲がりと呼ばれる曲がりくねった道です。頂上からは天気がよければ月山が見えるそうです。

難所の山刀伐峠を通らなくても他の道があったのですが芭蕉はこの道を選びました。尾花沢の鈴木清風の祖先が義経の家来で、高館から落ち延びるとき一族が山刀伐峠を通ったとしてその道を体験して清風に会いたかったのではとされています。

そんな想いで訪ねた芭蕉を清風は心からのもてなしをしたことでしょう。鈴木清風は紅花を商う豪商の俳人で江戸へ出たとき芭蕉と交流していたのです。芭蕉は彼のことを次のように記しています。

< かれは富める者なれども、志卑(こころざしいや)しからず。都にもをりをり通ひて、さすがに旅の情けを知りたれば、日ごろとどめて、長途(ちょうど)のいたはり、さまざまにもてなしはべる。 >

清風宅は現存していないので古い商家を移築して「芭蕉・清風歴史資料館」としていま

芭蕉が到着したころは、紅花の咲いている季節でした。当時、芭蕉の故郷伊賀上野も紅花の産地だったそうで発見でした。芭蕉は花の咲く時期を知っていて行動しているようにも思えます。清風は紅花の摘む時期でもあり多忙のため芭蕉を「養泉寺」へ案内します。寺は高台にあり下は田園、遠方には鳥海山や月山が見える場所でした。尾花沢には十日間滞在します。

近隣からも俳諧好きの人々が訪れ、芭蕉を自宅に招待したりしています。清風は俳諧の会も主宰しています。俳諧は連句で、五・七・五の長句と七・七の短句を互いに詠みあってそれを三十六句連ねて一巻としていました。その最初の五・七・五が発句(ほっく)といわれ、それが独立して俳句となったのです。

連句の中では恋の句も詠む決まりがありそこで読んだ芭蕉の句が < まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花 > 口紅の原料でもある紅花から化粧道具を表しそこからお化粧する女性のおもかげをも連想させるという艶っぽい句となっています。

興味があるのは俳諧師としての芭蕉です。句がつながっていく中で、空気を換えたり増したり深めたりするセッションの芭蕉の腕前です。それを知りたいものだと思うのですがそこまでの能力がないのが残念です。

芭蕉は、尾花沢での心地よいもてなしとともに、この俳諧の席は俳諧師として嬉しかったことでしょう。生で人々の句作の臨場感を味わえ、さらに自分の句に対する反応も感じられたわけですから。

芭蕉の『奥の細道』の旅には、広くこの俳諧の楽しさを知ってもらい自分もそれを楽しみたいという意図もあったのではないかとおもわれます。

結果的に芭蕉の歩いた道は整備され一般の人も歩けるようになり、句碑もたくさんの建立しされ俳句に対する関心も衰えず続いています。

黛さんと榎木さんは銀山温泉にも寄られています。江戸時代幕府直轄の銀山として栄えましたが、芭蕉が旅をした1689年(元禄2年)に閉山となっています。その後温泉だけは残ったのです。今は大正ロマン漂う温泉地です。

赤倉温泉の旅館では、芭蕉が尾花沢でふるまわれた「奈良茶飯」を食べさせてくれるところもあるようです。江戸で流行っていたものだそうで江戸を離れた芭蕉のために作ってくれたのでしょう。その辺も心あたたまるもてなしでした。

大豆と栗の入った茶飯、黒豆、ぜんまいと糸こんにゃくの煮つけ、奈良漬けと梅干し、汁

黛まどかさんも食されていました。そのほか芭蕉が伊賀上野で催した月見の宴で出した献立の「月見の膳」を出すところもあるようです。ただこの放送は2007年ですので今も出されているかどうかは確かでありません。

下記の解説版は「芭蕉翁生家」にあったものです。(2015年)「芭蕉翁記念館」には芭蕉が自ら書いたという献立表があり、生家の方には、膳のレプリカがありました。品数が多かったです。それを地元の食材で再現した膳だそうです。そういうことも伊賀上野から山形まで飛んできていたのですね。

えんぴつで書く『奥の細道』から(5)

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芭蕉は松島から平泉へ向かいますが途中で道に迷って石巻という港に着いたとしています。<つひに道踏みたがへて石の巻といふ港に出づ> 江戸時代の石巻港は東北でも有数の港で迷うということはないはずで、これは創作的表現で道に迷って着いたところがにぎやかな港であったとの驚きを加味したのだろうとのことです。

そして平泉。

⑤夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 / 五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂

趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』では義経終焉(しゅうえん)の地とされる高館にある義経堂(ぎけいどう)を訪ね、その後で中尊寺にむかいます。芭蕉と同じ道です。

義経堂は高館の山頂にあり途中古戦場跡と北上川がみえます。

義経は、藤原秀衡によって鞍馬寺からこの平泉に招かれます。それは秀衡がこの地で戦い抜いたとき助けてくれたのが陸奥守であった源義家だったのです。その子孫が義経です。兄頼朝が旗揚げしたとき秀衡は臣下の佐藤継信、忠信兄弟を義経に随行させました。そして平家を倒してのち、兄に追われる身となった義経をうけいれました。

義経が到着して8か月後秀衡は亡くなります。次の泰衡の代となり頼朝の圧力に負けて義経を邪魔ものとして奇襲するのです。そしてこの地で義経31歳で終えるわけです。しかし頼朝は奥州が欲しかったので奥州藤原は滅びてしまいます。

< 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るままで涙を落としはべりぬ。 夏草や兵どもが夢の跡  >

義経堂は芭蕉が来訪した6年前に建立され義経像もその時にまつられたものだそうです。何もかもなくなっている地にこの堂と像を拝観した芭蕉は涙ししばし立ち去れなかったのでしょう。

奥州藤原三代の仏教を中心とする文化圏は世界遺産として登録されましたので跡地に復元がなされたりして芭蕉の見た風景と今とは随分と違っているとおもいます。私も二回目訪れの時は歴史的奥州の姿をバスガイドさんやボランティアのガイドさんによって多くを知らされました。

芭蕉の訪れた頃は中尊寺一帯も1126年の火災で様変わりし変わらないで残っていたのが金色堂でした。金色堂は芭蕉さんの時には荒廃をおそれて木造の堂で覆われ、その中に美しい姿をたもってくれていました。< 千載の記念とはなれり。 五月雨を降り残してや光堂  > 雨が避けてくれて残ったような光輝く堂だったのです。

今はコンクリートの覆堂で旧覆堂ものこされています。須弥壇には初代藤原清衡、2代基衡、3代秀衡の遺体が納められています。4代泰衡は御首級(みしるし)が納められているようです。

この金色堂も1962年(昭和37年)から7年間解体修理されます。その様子を映像で観ることが出来ます。努力を惜しまない根気と素晴らしい技術の結集です。

この映像で高館から中尊寺まで雨の中歩かれた黛まどかさんと榎木孝明さんの道筋がわかりました。高館には行っていないので歩きたかったです。

よみがえる金色堂(フルHD)|配信映画|科学映像館 (kagakueizo.org)

平泉の文化はかつて京の都から匠たちが集結して作り上げられました。そこから残った金色堂は再び未来をめざして再現されたのです。この時の中尊寺貫主は今東光さんでした。

西行はこの地で桜を見て吉野の桜に並び称されると歌っています。 <きゝもせず 速稲山(たばしねやま)のさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>

芭蕉も当然ここで桜を見ることを望んでいたでしょうが桜に関しては何も書いていません。それはもっと先で思いがけない場所での桜との出会いがあるのでそれを強調するために見ていても記さなかったのかもしれません。

秀衡は子供たちに義経を大将にして奥州を守り通すようにと遺言を残します。その遺言を守ったのが三男の忠衡でした。彼は遺言通り義経を守りますが、23歳で力尽き亡くなっています。その忠衡が寄進した鉄の宝燈「文治灯籠」が塩釜神社の社殿の前にあります。当時のものではありません。芭蕉は忠衡の戦死を知っていたので、「文治灯籠」の前で言葉を尽くして彼を讃えています。

芭蕉の中では義経の周囲の人々のことも構図としてとらえられていたのでしょう。

追記:       

        一面満開の桜もいいですが

      こんな桜も愛おしい

えんぴつで書く『奥の細道』から『義経千本桜』

文楽『義経千本桜』の「川連法眼館の段」を観ると、通称「吉野山」(道行初音旅)が観たくなります。録画がありました。2009年大阪の国立文楽劇場開場25周年記念公演が『義経千本桜』の通しだったのです。その放送が2010年お正月三日間にわたってあったわけで録画していました。「道行初音旅」は人形だからと思っていたところがありましたが美しくて面白くて驚きました。豊竹咲大夫さんの解説もわかりやすくやっと霞が晴れたような心持です。前のほうがオーソドックスなので四段目はケレンで楽しませてくれるようになっていると。

奥の細道』の次の場所は平泉です。義経最期の地でもあるわけで、『義経千本桜』を通過しなければ平泉には飛べません。 

初段「堀川御所の段」で咲大夫さんのおかげで『千本桜義経』の構成がわかりました。義経は兄頼朝から裏切りの嫌疑をかけられその使者が川越太郎です。嫌疑の一つが、平知盛、維盛、教経の首が偽物である。二つ目が、後白河法皇から頂戴した初音の鼓で、鼓は打つものなので頼朝を打つという印。三つ目が、正妻の卿の君が平時忠の養女であること。卿の君の実の父親が川越太郎でした。彼女は自ら命を絶ち太郎は娘の首を取ります。一つは疑いが消えますが、出足から悲しい始まりです。

その後主人公が違ったりもしますが、知盛(二段目)、維盛(三段目)、教経(四段目、五段目)が関係しているのです。(この上演は四段目、狐が飛んで終わりでした。)平家は敗者です。義経も敗者。敗者の美学と咲大夫さんは言われます。

四段目に初音の鼓の秘密が明かされ、それが狐の親に対する思慕で、義経はこの狐に自分の名前と鼓を与えます。義経が自分は何もいらないのだ、兄と和解できればとおもっているかのようです。

人形の狐が出るのですが、人形同士だから効果抜群です。二段目「伏見稲荷の段」から狐忠信の登場がわかりやすくなっており、狐の登場ということからこの場所が選ばれたのでしょう。きちんと意味づけもぬかりありません。

別枠にしたほうがよいかもと思わせられるほど全体の納得度が高い鑑賞となりました。二段目で知盛が幽霊として登場。三段目「すし屋」では維盛登場ですが、主人公はすし屋のどうしょうもない息子いがみの権太です。その権太の驚くべき行動も梶原平三が全て把握していました。梶原平三は頼朝が維盛の父の重盛が池の禅尼の口添えで助けられたことから維盛の命を助け出家させます。しっかり過去を顧みる梶原なのです。頼朝へ義経の事を悪く伝えたのが梶原ということで悪者の梶原ですが、ちょっと印象が違ってきます。だからでしょうか、義経は三段目には登場しません。

そして武士ではなく市井の人を主人公にもってくる。本筋から離れて幅を広げて観客に身近にさせていきます。四段目のケレンなどどと合わせて、書き手の作劇術と咲大夫さんはいわれていました。書き手は三人です。そしてこの三人は『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』も書かれているのです。恐るべき三人です。竹本出雲、三好松洛、並木千柳。

2009年の文楽『義経千本桜』の公演の出演者については<文化デジタルライブラリー>で検索してください。

こうなれば教経の登場の場が観たいなと思っていましら、DVD「歌舞伎名作撰」の『義経千本桜』(川連法眼館の場・奥庭の場・蔵王堂花矢倉の場)が封も開けないでおりました。「四の切」は何回も舞台で観ていたので映像で観る気が起きなかったのでしょう。三代目猿之助さんの舞台映像久しぶりでしたが見慣れている感じですーっと入れました。静御前は玉三郎さんでした。(1992年歌舞伎座)

教経が登場するのは「奥庭の場」からです。「川連法眼館の場」で源九郎狐は横川覚範が僧兵と攻めてくると知らせ手助けし、貰った鼓を手に大喜びで宙を飛んでいきます。

覚範(段四郎)は実は教経で忠信の兄・継信の敵でした。源九郎狐の仲間が教経をはばみます。こちらは着ぐるみの可愛らしい狐が多数登場です。忠信は教経を打とうとします。それを止めるが義経(門之助)です。二段目の大物浦で知盛から預かった安徳帝を教経にたくすのです。

教経は、建礼門院の大原で安徳帝を出家させ自分も出家するといいます。静御前は大和の源九郎狐の里へ行くといい忠信はお供しますと。義経はみちのくへ旅立つとし、弁慶(彌十郎)がそれに従うと。吉野山からそれぞれが旅立つのです。

平泉へ義経さんについて行かなければなりませんが、義経さんが亡くなったあとですのでもう少し残ります。

シネマ歌舞伎『東海道中膝栗毛 歌舞伎座捕物帖』をアマゾンプライムビデオで観ました。歌舞伎座での「四の切」の舞台稽古で殺人事件が起こるのです。「四の切」の舞台裏がみれます。床下から弥次さんが飛び出したり、僧兵に代役の喜多さんが隣の人を見て真似をすればいいと言われて、隣の狐忠信の真似をするのがやはり笑えます。

さて、平泉にそろりそろりと向かいましょうか。

追記: 文楽『義経千本桜』の放送で「すし屋の段」の弥助寿しのモデルとなった釣瓶鮨屋(つるべずしや)の紹介がありました。そのお鮨屋さんが谷崎潤一郎さんの『吉野葛(よしのくず)』に出てくるというので読みました。主人公の作家は作品の取材で、友人は亡き母の実家を訪ねるという内容です。浄瑠璃『妹背山女庭訓(いもせやまおんなていきん)』の風景、初音の鼓、狐など谷崎さんの知識と独特の情感が満載で、さらに紀行文としても読めて、初めての道を分け入る気分をかきたてる作品でした。

友人の母の実家は紙漉きを仕事としていますが、『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』のテキストで、白石の和紙工房を紹介しています。かつては300軒ほどあったのが今は1軒だけで、奈良の二月堂お水取りの練行衆が着る紙子の和紙として納めているのです。大和と陸奥の様々な交流です。

追記2: 文楽『妹背山女庭訓』の「妹山背山の段」の録画を観ました。『吉野葛』の見えない架空の風景を感じながら聞いて観てでした。大夫、三味線が妹山、背山に分かれての二か所での出演。観終わってDVDケースにシールを張り幼稚園児のように満足。一つ一つ終わらせます。

追記3: テレビ『にっぽんの芸能』で「中村吉右衛門 こん身のひとり舞台“須磨浦”」を放送していましたがこの時期の新歌舞伎として様々な古典芸能を融合させ凝縮した作品でした。そぎ落としたり加えたりとこういう方法も伝わり方に力があることを確認しました。竹本の義経と対峙するのも息があっており、やはり納得できない逆縁のつらさが身に沁みます。橋懸りで見せる親としての姿。この後、武将<熊谷直実>を保つ孤独感に思い至りました。新たな挑戦でした。

追記4: 『  妹背山婦人庭訓 魂結び 』(大島真寿美著)をよい時期に読みました。面白くて作品の渦に巻き込まれました。

えんぴつで書く『奥の細道』から(3)

奥の細道』に関係なく個人的に行った旅から、鹿沼今市日光を通り白河の関へと向かいます。白河の関の手前で『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』から紹介したいところを案内します。

鹿沼は、『奥の細道』には出てきません。『曾良旅日記』にでてくるようです。『奥の細道』と『曾良旅日記』をくらべつつ進むのがいいといわれるかたもいますが、手に負えませんので一つで進みます。

鹿沼       木のまち鹿沼(1)   木のまち鹿沼(2)

今市の杉並木   鬼怒川温泉と日光杉並木

芭蕉のこの旅は歌枕の地を訪ねる、その場に実際に立つというのが目的でもありました。歌枕とは、古くから人々が訪れ和歌を詠み、その土地が和歌に詠いこまれるようになって有名になり名所、旧跡となったところです。芭蕉がこの旅で初めて訪ねた歌枕の地は今市宿に向かう途中にある室の八島です。ここで初めて曾良が登場します。

私たちは同行したのが曾良だっとということを知っていますから最初から曾良が頭にありました。ところが芭蕉は『奥の細道』での曾良の登場も文学的計算に入れていたようにおもわれます。室の八島にある大神神社の由来を曾良に語らせてのさりげない登場です。

日光に関しては記録していませんので、行かれた方も多いのでご自分の旅の中で想像してください。東照宮への参道が今市付近から日光の神橋までの30キロメートルにおよぶ杉並木なのです。日光の東照宮は今のように自由に拝観できませんでした。芭蕉も紹介状を持参していました。

裏見の滝を見、含満ゲ淵(かんまんがふち)から日光を後にします。当時、華厳の滝を眺められるような場所はなく、裏見の滝が歌枕となっていました。

日光で驚いたのは日光駅から小杉放菴記念日光美術館まで歩いた時、途中から霧がたちこめてあっという間に前後が見えなくなったことです。日光の自然は軽く考えてはいけないなと思わせられました。

黒羽では弟子や俳諧仲間も多く長く逗留しています。名所、旧跡も訪れていますが特に雲厳寺には思い入れがあったようです。深川で親交のあった臨川寺・仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)が修行し山ごもりしたお寺だったのです。

やっと『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の映像を参考にさせてもらいます。黛まどかさんは『奥の細道』は、何度も訪れているそうで、芭蕉さんの追っかけかもと言われています。榎木孝明さんは初めてで楽しみにされています。

お二人の一回目の行程です。(NHKの放送画面からです。)

遊行柳→ 境の明神→ 白河の関

一面田んぼの中に立つのが遊行柳歌枕です。黛さんも芭蕉は歌枕を訪れるのが重要な旅の目的の一つであったと。ここで芭蕉が敬愛する西行が詠んだのが「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」です。現在から芭蕉の『奥の細道』までが330年まえで、そこから西行の時代が500年まえ、私たちは800年前まで時間を経過させているんだと黛さんと榎木さんは感慨深げでした。『奥の細道』はかなたの時間空間への架け橋となってくれてもいるわけです。

関東と奥州の境です。このように国境の境をはさみ神社が並んでいてこの二社を境の明神と呼びます。

いよいよ白河の関です。芭蕉がたどり着いたときこの関は忘れ去られていてはっきりしなかったようです。白河神社があり芭蕉が訪れた100年後、白河藩の藩主は松平定信で今の場所を白河の関跡と定めました。その松平定信のお墓が『奥の細道』に出立した場所の近くにあるというのも奇遇です。

遠い過去に、郡山の知人にこの関に連れてきてもらいました。こんな立派な石柱もなく木々におおわれた凄くわびしい寒々とした場所でした。今想うと古関跡にふさわしかったのかもしれません。

③卯の花を かざしに関の晴れ着かな(曾良)

古人はここを通るとき、冠をかぶり直し、衣服を改めなおしたんだそうです。曾良はそんな改まった衣服もないのでせめて卯の花を飾りにして晴れ着としましょうとしています。奥州の地に対する古人の尊厳さが感じられます。

歌枕の場所に立って古人を偲ぶだけではなく、芭蕉は古人の歌に挑戦もしたのではないかと想像していたのですが、和歌や俳句の理解力が乏しく勝手に思っていただけです。

中西進さんの『詩心ー永遠なるものへ』の中で、遊行柳にむかいての芭蕉の句「田一枚植ゑて立ち去るやなぎかな」が「西行を相手とした勝負に、芭蕉は見ごとな一石を打ったのである」とされています。

こちらはそういうことなのかとその分析を新鮮なおもいで心に留める程度の力しかありませんが、和歌や短歌や俳句に親しんでいる方は『詩心ー永遠なるものへ』を直接読まれるともっと深く感じとられることでしょう。

能にも『遊行柳』がありました。広がりますがここで立ち去ることにします。

    

えんぴつで書く『奥の細道』から(1)

整理しているといろいろ出てきました。「えんぴつで書く 『奥の細道』」。100均の商品ですがなかなかのもので、現代語訳からひとくちコラムでは語彙の説明や名所の説明、歴史上の人物などの説明もしてくれています。これで税込み105円とはおそれいります。この商品はもう発売されていないようです。

さらにさらに、NHKでやっていた『趣味悠々 おくのほそ道を歩こう』の録画もでてきたのです。ただ2回目だけは録画を忘れたようで残念です。というわけで『奥の細道』の世界にもぐりこんでおります。もちろん鉛筆でなぞりました。

下記の行程を150日間での旅でした。

鉛筆書きする箇所はよく知られている俳句の出てくる段を選んでいます。(地図上の青丸)

①発端・深川  ②旅立ち・千住  ③福島県・白河の関  ④宮城県・松島  

⑤岩手県・平泉  ⑥山形県・立石寺  ⑦山形・最上川  ⑧秋田県・象潟

⑨新潟県・越後路  ⑩新潟県・市振  ⑪岐阜県・大垣

①草の戸も 住み替はる代ぞ雛(ひな)の家

②行く春や 鳥啼き魚の目は涙

③卯の花を かざしに関の晴れ着かな(曾良)

④松島や 鶴に身を借れほととぎす(曾良)

⑤夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡 / 五月雨(さみだれ)の 降り残してや光堂

⑥閑(しず)かさや 岩にしみ入る蝉の声

⑦五月雨を 集めて早し最上川

⑧象潟や 雨に西施(せし)がねぶの花 / 汐越や 鶴脛(つるはぎ)ぬれて海凉し

⑨文月や 六日も常の夜には似ず / 荒海や 佐渡に横たふ天の河

⑩一つ家に 遊女も寝たり萩と月

⑪蛤の ふたみに別れ行く秋ぞ

趣味悠々のほうの放送内容は鉛筆で書く場所といくつか違っています。(地図上黄色丸)案内の旅人は、俳人の黛まどかさんと俳優の榎木孝明さんで、榎木さんは水彩画の画家でもありますから、旅の場所でのスケッチも披露してくれました。黛さんはメモをとられて放送時には一句紹介してくれます。

①福島県・白河の関  ②宮城県・塩竈松島  ③岩手県・平泉  ④山形県・尾花沢

⑤山形県・立石寺  ⑥山形県・最上川出羽三山  ⑦山形県・鶴岡/秋田県・象潟

⑧新潟県・出雲崎親不知市振  ⑨福井県・敦賀

芭蕉は酒田から市振の関までの九日間は暑さと湿気で体調を崩し旅の記述をしなかったとしています。市振について、今日、親不知子不知(おやしらずこしらず)の難所を越えたと記しています。

二つの『奥の細道』に触れて、やはり全部の旅の過程を知りたくなります。まずは現代語訳からはいります。参考本が種々ありますが、作家・森村誠一さん監修の『芭蕉道への旅』が読みやすそうなので森村さんの現代語訳でよみました。旅をしているとどこへ行っても芭蕉の句碑で食傷気味になりますが、文と併せて読むと旅の醍醐味があります。

歴史上の事柄、かつての人々が歌枕としてあこがれた場所、西行、能因法師など実際に先人たちが歩いた場所での芭蕉の想いなどをもう少し知りたいなと『奥の細道』に分け入っています。

伊藤若冲(2)

若冲』(澤田瞳子著)。小説を読みつつ若冲さんの絵を眺め、旅の思い出などもフル回転しつつ刺激的な新たな旅をさせてもらった。チラッ、チラッとテレビドラマも浮かぶ。『若冲』も史実では書かれていないことを大胆に話の中心に持ってきていて、どうしてこの絵が描かれたのかというところに物語性があって若冲さんの絵の強烈さからくる発想であった。そのことによってより若冲さんの絵に視線がいく。

若冲』ではその絵に描かれている鳥、魚、動物の視線にも注目している。仲の好い鴛鴦(おしどり)が視線を合わせることがない。それも、雌のほうは水に上半身を沈めているのである。雄の方は陸で雌を無視したようにはるか先に視線がいっている。小説は若冲さんが妻をめとったことがあるという設定となっているのである。非常に大胆である。そして雄鳥の視線にも関係してくるのである。

次々と若冲さんの一つ一つの作画の動機が明らかにされていく。推理小説の動機は何かの探求とも類似していてそれが若冲さんの40歳から始まって、若冲さんが亡くなって四十九日の法要まで書かれているのである。そこまで若冲さんの絵は関係者の心の中で渦を巻き続けるのである。語り手は母の異なる妹である。ぐんぐん引っ張ってくれる。

若冲さんの家族は、法名しかわかっていないため異母妹なのかどうかはわからない。ただこの妹さんは後家となって子供一人と共に石峰寺で晩年の若冲さんと暮らしていたようである。若冲さんは、自分の生まれた錦高倉市場から離れた、深草の石峰寺に移ってそこで亡くなっている。

若冲さんは、相国寺の大典さんとの交流から黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山萬福寺の僧とも交流があり、萬福寺の住持から道号を与えられている。在家ということであろうか。そして石峰寺に五百羅漢の石仏を造像するのである。相国寺に生前墓を建てているが明和の大火で錦町内と相国寺との永代供養の契約を反故にしている。そのため、相国寺と石峰寺の両方にお墓がある。

京都を旅した時、石峰寺で若冲さんの五百羅漢に出会った。すぐそばで眺められたが肩透かしをうけたような感覚であった。あまりにも近くに無防備にそこにあり、石像は素朴な表情なのである。それは伏見人形の影響のようにおもわれる。萬福寺は満腹の様子の布袋像と僧たちが食事をする建物の前に掲げられていた大きな木魚が記憶に残っている。黄檗宗のお寺は中国的な雰囲気のお寺である。

若冲』には、円山応挙、池大雅そして与謝野蕪村、谷文晁(たにぶんちょう)も登場し、さらに応挙の息子・応瑞(おうずい)も登場する。テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』で、大典との淀川下りの時に大典さんが『上方萬番付(かみがたよろづばんづけ)』に載っている絵師の番づけを紹介する。実際には『平安人物志』と思うが応挙、若冲、大雅の順番はもっとあとに発表された番づけで、若冲さんが60歳の時のものである。4番に蕪村さんの名前がある。応挙、若冲、大雅、蕪村の順番は若冲さんが67歳の時も同じであった。

応挙さんが一番というのは、犬の絵を観ればわかる。応挙さんの描く犬は、観る人が可愛いと思う犬なのである。人が見て可愛いと思わせる犬を描いている。ところが、若冲さんの描く犬は、仲よくじゃれ合っているのだが視線が微妙にずれていて、何か考えているのと聴きたくなるのである。一匹一匹が自己主張しているようなのである。題名は「百犬図」で60匹ほどいるが、主人公がいないというより、一匹一匹全部が主人公なのである。

観る者にシリアスにも見え、見方によってはユーモアとも受け取れるのである。一つの観方で満足するような絵ではないのである。

小説『若冲』もテレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』もそんな絵から派生し、動機づけを模索したくなる力がある絵ということである。

小説『等伯』(安部龍太郎著)もあると知った。これまた惹きつけられる。

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』 16日(土)BSプレミアム 夜9時~10時30分「完全版」 放送あり

追記: テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』の放送を紹介した友人たちの評判がよかった。七之助さんを久しぶりでみた歌舞伎ファンは上手くなったと絶賛。絵を描く姿がきたえられた女形の美しさだと。

追記2: 若冲大好きなひとは。久々にドラマたのしんだ。脚色してあるのだろうが良い意味で面白かった。キャストもあっていた。時間内によく収まってもっと見たかったがあれでちょうどよいのかも。コロナでなければランチしながら若冲の事話したい。

追記3: ある人は。なかなか深い。芸術家ならではの心の純な処が(若冲と僧)いっそう前に進ませる物があり~同じ志の者が自然に集まり、より良い絵を作りだしていく。凄いなぁ~日本人にも、こんな絵を描く人がいたんだなぁ~と感心して見ていました。色彩が鮮やかで、どこが創作で、どこが史実かは、私にはわかりませんですが、そのまま心にはまりました。

追記4: 身体的表現者の方々の体調不良のお知らせを目にします。この時期ですので経験以上の精神的負担が大きい事でしょう。過剰なプロ意識は避けて充分に休養されることをお願いします。

伊藤若冲(1)

テレビドラマ『ライジング若冲 天才 かく覚醒せり』は、想像力を膨らませてくれるドラマであった。あのあでやかな若冲の絵に、若冲と大典顕常(だいてんけんじょう)との妖しき友愛がなんとも不思議な魅力を加えてくれました。面白い解釈でした。七之助さんは、昨年は二回も観劇を中止して生を観れなかったので、女方の柔らかさがほの見えて満足。ほあ~んとしたところが、才能を持ち合わせていたオタクの若冲という印象に新鮮味がありました。演出的にも永山瑛太さんの美しさもかなり計算されていたのでしょう。

二人を出会わせた絵を「蕪に双鶏図」とし、京都から一歩も出たことのない若冲の絵の修業がお寺が所持する絵の模写というのも納得である。池大雅が各地を旅していたのは知らなかったし、円山応挙とも上手くドッキングさせ最後に人気番付が一位・円山応挙、二位・伊藤若冲、三位・池大雅という落ちもなかなかでした。

若冲、大典、応挙、大雅の4人を結ぶ放浪の茶人・売茶翁(ばいさおう)の出現も短時間でドラマ化する役目を上手く担っている。

若冲は大典顕常とお釈迦様が中心にいる美しい世界を描くことを約束する。約束を果し、「釈迦三尊像」3幅、「動植綵絵(どうしょくさいえ)」30幅の計33幅を相国寺に寄進するが、その中の2幅はわが同志の大典顕常に捧げるという。それが「老松白鳳図(ろうしょうはくおうず)」と「芦雁図(ろがんず)」である。白は自分で黒は大典。落下してくる雁を見つめる白鳳。ドラマの作品としてこの二つの絵に注目し設定したのがお見事である。

相国寺の承天閣美術館へ行った時、若冲があるというのであの極彩色が観れるとおもったが地味な水墨画でした。その時は知識もなくがっかりしたのです。金閣寺の書院にかかれた壁画の一部があり、当時としても書院の水墨画はめずらしかったようで、もう少しじっくり鑑賞すればよかったと今になって後悔しています。この壁画で若冲は絵師と認められるのです。

明治の廃仏毀釈で相国寺は困窮し、「釈迦三尊像」は遺し、「動植綵絵」は皇室が買い取り相国寺は存続することができたわけで若冲が守ったことになる。それで納得できたことがあるのです。

学習院大学資料館で開催された『明治150年記念 華ひらく皇室文化―明治宮廷を彩る技と美』で明治宮殿の写真がありそこに若冲の絵が飾られていたのである。驚きました。どうしてここの若冲があるのであろうか。これで解決である。

この展覧会は興味深いもので、西洋化のなかでも日本の技芸を残そうと、帝室(皇室)技芸(美術)員制度をつくる。皇后のドレスにも日本刺繡で飾ったり、帝室技芸員には浅草の元からの職人さんたちが技芸員として腕をふるっていたりしたのである。

「ミュージアム・レター」には、現天皇が皇太子のとき学習院大学資料館の客員研究員をされていて、一研究員としての自然体の人柄を感じさせるほのぼのとする文章を寄せられていた。(「華ひらく皇室文化展」に寄せてーボンボ二エールの思い出ー)立場上こういう文章を書かれることはもうないのであろう。

さて若冲にもどるが、2019年の1月に「天才絵師 伊藤若冲 世紀の傑作はこうしてうまれた」というテレビ番組があり録画して観ていなかったのである。今回ドラマを観てから再生したのであるが、「動植綵絵」を詳しく分析してくれていた。

2016年に「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の33幅は日本で公開されているが、観ていない。さらに2018年にパリで公開され並ぶのがきらいなフランス人が並んだという人気ぶりであった。

その時、相国寺有馬頼底管長もパリに行かれて読経をあげられている。そして、若冲が相国寺に33幅を奉納したのは、弟が若冲に代わって家業を継いでくれたが疲労のため亡くなってしまったのでその菩提を弔うために寄進したと話されている。

番組は「動植綵絵」を5つのキーワードで解説していく。極彩色の色どり「彩」。神わざといわれる「細密」。緊張感の中に秘める「躍動」。「主役不在」。ぬぐいきれない「奇」。

「主役不在」というのは、釈迦三尊のまわりに存在するすべての尊い命ということにもつながるであろう。「老松白鳳図」はレースのような羽根の「細密」。そして「奇」にも入る。それは羽根のハートの文様で、トランプはすでに日本に入ってきていたので若冲はそれをみたのかもしれない。さらにフラシスコザビエルの人物画にハートが描かれている。愛をあらわしているのである。ただキリスト教と関係するなら隠さなければならないが、若冲は描いている。そこが「奇」である。

ドラマと重ねて現代の解釈からすると「愛」であろう。「芦雁図」は、上に向かって飛ぶ鳥が普通描かれるが、落下する鳥というのが若冲独特の眼かもしれない。老松と白鳳、落下する雁は死にむっかているのかも。その絵の前で若冲と大典顕常は死がふたりを分かつまで一緒に友でいましょうと約束する。

仏教徒ですから、死んでもこの二人はお釈迦さまの回りの動植となって何からも解放され若冲の絵の世界のあの世で永遠の日々を謳歌しているのかもしれない。それを望みつつ美しく細密に躍動的に心を込めて描いたのかも。若冲がその世界を描けることに大典顕常は嫉妬したが、きちんと二人の世界も描いてくれていてのさらなる宇宙で、自分の想いが通じていたと満足したことであろう。この二人のキーワードを加えると「秘」と「愛」であろうか。

若冲の絵にはまだまだたくさんの「秘」がありそうである。

江戸時代のひとは、アジサイはすぐ増えるので嫌ったそうであるが若冲は描いている。当時の人々の感性におかまいなしに自分の感性のおもむくままに描いている。だからこそ今も感嘆しさらに面白がられて楽しませてくれる。

若冲に関しては知らないことが多く、ドラマはまた違うドラマを呼び起こしてくれました。

中村七之助・永山瑛太 W主演!正月時代劇「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり」制作開始 | お知らせ | NHKドラマ

追記: 源孝志監督の映画『大停電の夜に』は、クリスマスイヴに停電がおこる。その事によってそれまで隠されていた事実があきらかになり、ねじれてしまっていた人間関係がスームズに上手く流れるようになる。交流の無かった人々がどこかで作用しあう。停電は結果的にサンタクロースのプレゼントとなる。穏やかな展開でありながら意外性あり。

追記2: 若冲さんの絵の本を手もとに置き、澤田瞳子さん著『若冲』に入る準備整う。どんな若冲さんであろうか。心持ち飛躍。図書館にネットで予約した本も届いたと連絡あり。接触少なくて助かります。

追記3: 図書館では返却された本と予約の本は消毒してくれていた。他の図書館で借り手が殺菌する機器を利用できるところがあったので設置の希望をだした。置いてある鉛筆を「消毒済」「使用済」に分けてくれていたが、マジックの黒で書かれていてウム!とおもったので赤でわかりやすくしてはとお願いしたら、「消毒済」「使用後」となって赤を上手く使ってパッとわかるようになっていた。使わない人もやってくれているのがわかる。よかった。