『類』(朝井まかて著)(2)

森類さんの著書『森家の人びと 鷗外の末子の眼から』にて思いもかけない方向に導いてくれる。第一部・エッセイと第二部・小説となっている。森類さんの抑制のきいた文章がいい。朝井まかてさんの『』から想像していたよりも冷静な視線で変に感傷的でないのが信用できる。

優しかった父・鷗外を思い出す場面も本屋の仕事の合間に煙草を一服吸うような感じである。鷗外を背負うわけでもなく、嘆くわけでもない。読者は父鷗外の愛をそっと抱えて鷗外の子の枠からいい意味で解放される類さんの文章の世界に添う。文章は淡々としている。

佐藤春夫さんとの気を使っているようないないような微妙な関係が『亜藤夫人』に書かれている。「来たいから来ただけで、用がないから黙っている。先生の方も来たから座らせてあるだけで黙って居られる。」佐藤春夫さんは、校正刷りにさらに手を加えらているがなかなか終わらない。そんな長い時間の中でふっと先生は安宅さんの奥さんの様子をたずねられる。

「安宅さんの奥さんと云うのは僕の妻の母で、先生が昭和25年の「群像」十月号に書かれた『観潮楼付近』の主人公亜藤夫人である。」安宅夫人はかつて佐藤春夫さんと恋人であった。そして、類さんが佐藤春夫さん宅を訪れるきっかけを作ってくれた人である。

類さんは、入ってきた奥さんと先生のやりとりに夫婦の愛情が籠っているのを感じる。この奥さんが谷崎潤一郎元夫人の千代さんである。

観潮楼付近』を読んだ。わたくし(佐藤春夫)と観潮楼の関係、亜藤夫人との若かりしころの出会いと別れが書かれている。わたくしは郷里から出てきて生田長江の門下生となる。そして、観潮楼のすぐ前の下宿屋に住んだことがあったのである。わたくしは、森鷗外と観潮楼にあこがれをもって外からながめるだけであった。

その新しく出来た下宿に対して、鷗外が小説『二人の友』の中でこの家を描いている。「眺望の好かった私の家は、其二階家が出来たため陰気な住いになった。」

生田長江さんのところに出入りしていたO女(尾竹紅吉)が生田長江門下生の秀才を妹の結婚相手にしたいと提案した。その秀才がわたくしであった。一年半ほど妹と付き合うが、恋人は亜藤画伯と結婚することになってしまう。わたくしは落第生であり詩人ともいえない状態だったので彼女を祝福したのである。

O女は青鞜廃刊後、同人誌を発刊することになる。同人誌名『蕃紅花(サフラン)』は聖書から選んで命名したのがわたくしであった。「その創刊号には雑誌名と同題で鷗外の一文が寄せ与えられている。」鷗外さんも力添えしていたのである。

森鷗外記念館のため観潮楼址の地鎮祭と記念事業の奉告式があり、そこで、わたくしは若い夫人から一礼され「母から、よろしく申し上げよと申しつかってまいりました。」といわれる。その若い夫人が森類さんの妻であり、母が亜藤夫人であることを知るのである。わたくしはお共に頼んで来てもらった青年詩人Fに誰かと尋ねられ「夫人の方はむかし僕に『ためいき』という詩を書かせた原動力になった人の娘さん」とこたえるのである。

どんな詩なのであろうかと興味がわいた。『観潮楼周辺』には『ためいき』の詩も載っていた。恋に破れて故郷にもどって作られた詩であった。

その後、わたくしの家に亜藤夫人、森類夫婦、森茉莉の4人が訪れるのである。

小説『』のラストは、類さんが茉莉さんの没後に書いた随筆『硝子の水槽の中の茉莉』がベスト・エッセイに選ばれたため家族がお祝いのため日在の家に集まってくれたところで終わっている。そのエッセイは類さんが茉莉さんのマンションを訪ねときの茉莉さんとのその独特の交流を描いたものである。茉莉さんの様子を「硝子の水槽の中の茉莉」と表現したのは茉莉さんとかつてのように交信できなくなった淋しさと茉莉さんの世界観をそっとしておく類さんの心である。

かつて茉莉さんのことをリアルに描いた類さんを通過しての表現者としての類さんである。

佐藤春夫さんの『観潮楼周辺』は観潮楼の建物を中心に、その中に住んだ者、その周辺をウロウロした者、そして周辺の風景が上手く交差しつつ描かれている。わたくしの「青春時代のわが聖地」であったと今回初めて知ったのである。

小説『』で、斎藤茂吉さんは本屋の名前の候補を二つ出している。『鴎外書店』と『千朶(せんだ)書房』で、「千朶」はどこから考えられたのかと疑問におもっていた。それは、鴎外さんが前妻の登志子さんとうまく行かず離れて住んだのが千朶山房であったと『観潮楼周辺』に書かれている。この家はその10年後夏目漱石さんが住み、『吾輩は猫である』を書かれたので「猫の家」と言われている。住所の千駄木とも重ねて「千朶」が浮かんだのかもしれない。

前妻の登志子さんとの子が於菟(おと)さんで、類さんより21歳年上である。類さんと於菟さんの関係は、祖先から続く森家の構造、異母兄弟、年の差などが複雑にからんでいる。

観潮楼周辺』のわたくしは、於菟さんはちょっと苦手のようである。亜藤夫人の娘婿でもあるゆえか類さんには好意的である。亜藤夫人たちが帰った後、わたくしの奥さんは詳しく客の説明を聴いて亜藤夫人はこんなところに嫁に来なくて良かったと思ったでしょうという。わたくしには複数の女性関係があり、今の夫人とは二回目の結婚である。奥さんの言葉に対してわたくしは「それとも自分が来ればこの人もそんなに度々結婚しないでも一度で納ったろうと思ったか、どちらかだね。」といって笑うのである。

お二人には揺るぎない関係が存在しているが、わたくしはハッピイエンド観の小詩をしたためて満足する辺りが作家のサガであろう。

類さんは、『亜藤夫人』の中で、義母が先生の家に何回行こうがどうでもいいことだが「一緒に並んで行くのが厭だった。岳父が心の底からこれを楽しめないとすれば、先生の奥様にとっても、心から楽しい筈がないのである。」と書いている。

類さんには彼特有の周囲に対する観察力がある。その観察力で自分が主導権を握るとか、強く自己主張するというのとは違う。自分の中で調節して決まれば自分の考えとして自分で納得するのである。そして世間の喧騒から身を引くのである。

佐藤春夫さんは喧騒に立ち向かう方である。

朝井まかてさんは、『』のラストで、類さんが自分なりの父と母のつながりを完成させ納得する類さんを描かれている。それは朝井まかてさんの類さんに対する上等のプレゼントのように思えた。

『類』(朝井まかて著)(1)

』はひとことで記すつもりであったが、森鴎外さんの三男・森類さんがが主人公なので登場する人々が凄いのである。そのたびに、こちらの旅の思い出と重なってきてその後を追うことにした。

千駄木の文京区立『森鷗外記念館』の地に二階が観潮楼である森鷗外邸での森家の生活が描かれているので、その地を訪ねたことがある者としては、先ず団子坂に面したその空間に人々が交差していたのかと想いがめぐる。ところが団子坂の方は裏で、薮下通り側が表門であった。それだけでも頭の中が回転する。

鷗外さんは北側には自分で花畑を作り楽しんでいたようである。

記念館は団子坂の方からいつも入っていたので、こちらが森邸も表と思っていた。記念館は薮下通りに抜けられるがチラッと覗いて団子坂側に戻っていた。今度、薮下通りも歩いてみたい。

鷗外さんの亡くなった後邸宅は、表門の東側は前妻の子であり長男の於菟(おと)さんが西側の裏門のほうは類さんが相続する。

次女の 杏奴(あんぬ)さんは、様々な習い事をしていて全て全力投球している。絵画、日本舞踊、フランス語、源氏物語、漢語。舞踊はかなり力を入れ、いままでの師匠を不満として劇評家の紹介で新しい師匠につく。その師匠が市川猿之助さんの母堂である。欧米に留学したとあるから二代目猿之助さんである。さらに、猿之助さんの妹が鼓の名人の夫人なので、太鼓と鼓も習うことになる。鷗外夫人も本物を身につけさせたいと力を入れ、ついに 杏奴さんは力尽き身体をこわしてしまう。そのため踊りのほうはやめてしまう。

類さんも杏奴さんと一緒に長原孝太郎さんから絵を習っていて長原さん亡き後は、藤島武二さんに師事していた。鷗外夫人は二人を絵の勉強のためフランスへ留学させる。その時力を貸してくれたのが与謝野鉄幹・晶子夫妻である。かつて鉄幹さんがパリ滞在中に晶子さんが飛んで行くがその時手を貸してくれたのが鷗外さんであった。

長女の茉莉は翻訳をしたものを、与謝野夫妻の新詩社の『冬拍(とうはく)』に連載してもらっている。与謝野夫妻や特に晶子さんは旅の途中で歌碑などよくであう。一番新しいのは散策中に出会った千駄ヶ谷の『新詩社の跡地』。

パリでお世話してくれたのが、画家の青島義雄さんである。このかたの絵は『茅ヶ崎美術館』で初めてお目にかかった。マチスに認められた方というので驚いたが、「在仏の日本人画家では藤田嗣治(ふじたつぐはる)と並び大看板と評されている。」と本にあり、あの画家だと再会できたように嬉しくなった。岡本太郎さんも出現し、そういう頃なのだと時代的流れがわかる。

杏奴さんはパリからもどると、パリでも顔見知りの藤島武二さんの門下生の小堀四郎さんと結婚する。小堀四郎さんは小堀遠州の子孫である。杏奴さんは父・鷗外のことを書き、単行本となる。その本の装丁を考えてくれたのが木下杢太郎さんである。森鷗外さんの死後、残された家族に優しく接してくれたひとりである

木下杢太郎さんは、静岡県伊東市に『木下杢太郎記念館』があり伊東駅からも近く訪れたことがある。生家が木下杢太郎記念館になっていて、商家で中が薄暗かったのを覚えている。杢太郎さんが描かれた花の絵の絵葉書を購入したが、植物図鑑のような地味さである。

類さんが結婚する。媒酌人は木下杢太郎夫婦である。お相手は画家・安宅安五郎さんの長女・美穂さんである。その母親のお姉さんは尾竹一江(尾竹紅吉)さんで『青鞜』の婦人運動にも参加したことがあり、陶芸家の富本憲吉さんと結婚しいる。『青鞜社発祥の跡地』は鷗外邸のすぐ近くである。

結婚式には斎藤茂吉さんが祝辞を述べたようで、類さんにとって斎藤茂吉さんも優しく接してくれたひとりである。斎藤茂吉さんというと歌作に没頭して子供たちから変なおじさんと思われていたということを読んで偏屈なイメージがあったが、この本での類さんに接する様子は穏やかで楽しげで精神科医としてはこのように接していたのかもと違う姿を想像した。

戦争が始まり、類さんは徴兵検査では丙種で、福島県の喜多方へ疎開する。東京の空襲で千駄木の家は焼けてしまう。鷗外夫人が生きている時に、於菟さんは東側の家を出て人に貸して火を出され、西側だけが無事で住んでいたのである。その火事で東にあった観潮楼も焼けてしまっていた。

終戦後は類さん一家は、鷗外夫人が買って類さんの名義にしてくれていた西生田にバラックを建てて住んだ。そこで類さんは疎開先でも書いていた文筆家を目指すようになる。美穂さんの母の福美さんは佐藤春夫さんと知り合いで三人で詩の習作を見てもらいにいく。佐藤春夫さんも類さんに優しく接してくれる人の一人である。三人が訪ねた佐藤春夫邸は今は和歌山県新宮市にある『佐藤春夫記念館』である。二階に日当たりの良い八角塔の小さな書斎があった。

千駄木の焼けた家の敷地に文京区が史跡を残す方針で、斎藤茂吉さんや佐藤春夫さんが発起人となってくれ「鷗外記念館」を建てようということになり、敷地は於菟さんと類さんが区に譲ることにした。ただ類さんはこの地を離れがたく40坪ほど所有し本屋を開くことにした。家族は子供4人で6人にふえていた。

働いてお金を得るという事の出来ない類さんは、遺産も戦争で紙屑となり、父の印税が少し入るだけであった。それまでも美穂夫人のやりくりで何とかしのいできたが、美穂さんの実家の思案の末での提案であった。

斎藤茂吉さんに店の名頼む。『鷗外書店』と『千朶(せんだ)書房』を考えてくれた。類さんは『千朶書房』を選んだ。案内状は佐藤春夫さんが書いてくれた。観潮楼あとは『鷗外記念公園』となり前途洋々にみえるが、そう簡単ではなかった。類さんは自転車で本の配達に励む。あの辺りは坂が多いから大変であったろう。その間美穂さんが店番をし、子供4人の面倒をみる。いやいや、類さんも子供みたいなところがある。類さんが主人公であるが、疎開中といい美穂さんの頑張りは大変なものである。

本屋ということで著者の朝井まかてさんは、その時々の評判になった小説などを上手く紹介してくれて時代の流れというものを読者に伝えてくれている。この手法がなんとも読者にとっては納得させる善きスパイスでもある。

佐藤春夫さんも優しいだけではなく、物を書く人間として励まし方に実がある。岩波と揉めていた類さんの原稿を雑誌「群像」に載せるように尽力してくれる。『鷗外の子供たち』。美穂さんは大喜びである。絵もダメ、勤め人もダメ、やっと光が射したのである。さらに初めての著書として光文社カッパ・ブックスとして『鷗外の子供たち あとの残されたものの記録』となった。

松本清張さんが芥川賞を受賞した『或る「小倉日記」伝』の発想の元となっている鷗外さんの「小倉日記」は類さんが見つけたのである。このことも驚きであった。もし類さんがもっと世に出た物書きならこのことも類さんの手柄となっていたかもしれないがそうはならなかった。

『鷗外記念公園』は『文京区立鷗外記念本郷図書館』に代わることになり、類さんは立ち退くことになり本屋も閉めることとなり杉並に引っ越すのである。この『文京区立鷗外記念図書館』にも一度行ったことがある。記憶のなかでは、がっかりした想いが残って、これが団子坂かとそちらのほうで満足した。

その後、美穂夫人が亡くなられ、類さんは、思いがけない行動となる。こちらの想像とは違っていてむしろ笑ってしまった。森家の別荘「鷗荘」のあった千葉の日在(ひあり)に類さんは家を建てる。最後はそこの地で終わっている。パッパ(鷗外)は、おまえは類としての生き方を貫いたよと微笑まれているようにおもえる。

日在の海岸は、電車からながめているとおもうが頭の中に映像が残念ながら浮かばない。

森家を背負って生きた人々の複雑な関係も描かれている。森家の人々の作品としては鷗外さんをのぞいて森茉莉さんのを一番読んでいる。他の人もおそらくそうなのでは。残念ながら類さんのは読んでいないのである。さらにこの本を読んで、鷗外さんの『半日』と『妄想』を読み返したい。読んだという印はついているがなさけないことにまったく記憶にのこっていないのである。『』から森家のことがこれからも少しずつ動きそうである。

あと、川崎の生田にある『岡本太郎美術館』もまだ行けていないのでそこも訪ねたい。もちろん千駄木の『森鷗外記念館』にも出かけます。類さんはパッパの記念館、目にすることができませんでした。

行くのはいつになるでしょうか。友人の娘さんが癌の手術をして抗がん剤の治療にはいるとのことです。病で不安なかたがコロナでさらに医療現場に不安になることがありませんように。

映画『ナスターシャ』・フランス映画『白痴』・黒澤映画『白痴』(気まぐれ編)

映画からいろいろな方向に派生していくものである。(3)で記した有島武郎さんの旧宅が保存されているので写真を紹介しておきます。

旧有島武郎邸 (sapporo-jouhoukan.jp)

映画の中での有島武郎さんで記憶に残るのは、『華の乱』(1988年・深作欣二監督)です。主人公が吉永小百合さんの与謝野晶子を通して大正時代を描いたもので、松田優作さんが有島武郎でした。

坂口安吾さんの小説にも『白痴』(1946年)があります。こちらは短編なので読んでみました。

毎日警戒警報がなり時には空襲警報もなった。伊沢は大学を卒業し新聞記者になり、そのあと文化映画の演出家となりまだ見習いであった。彼が一室借りている建物の路地の奥に資産家の家があり、夫婦と夫の母親が住んでいた。その女房はもの静かで日常的な家事などは何もできず、しゃべるのがやっとであった。その女房が姑のヒステリーから逃れてか伊沢の部屋にきた。

伊沢は女房と肉体関係になり、近所からその女性を隠して暮らすようになる。女性は肉体関係にしか興味がない。空襲がひどくなり4月15日、どうにも家にいては危ない夜間大空襲となり近隣の皆が逃げた一番最後に伊沢は女性と外に飛び出し逃げまどう。逃げまどう途中、伊沢は女性に二人一緒だから自分について来いと声をかける。その時女性はうなずいて初めて自分の意思をあらわした。

雑木林の中に二人だけとなる。女性は眠っている。女性はただの肉塊にすぎなかった。ここから記憶の世界に入りそこから男は女の尻の肉をむしりとって食べるのである。男は女に未練はなかったが捨てるだけの張り合いもなかった。伊沢はとにかく彼女を連れて停車場を目指して歩き出すことにしようと考えて小説はおわる。

伊沢はうなずいてくれた女性とのあの一瞬にあこがれたのかもしれないがそれはもうおこらないのである。尻の肉を食べたところで反応はないのである。リアルな空襲の中を逃げる場面から伊沢の頭の中の世界が突然出現するのでとまどってしまう。

坂口安吾さんがでてくると、歌舞伎の『野田版 桜の森の満開の下』が思い出される。

その時の感想がこちらです。→ 2017年8月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

そこで、坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』で、男は女を絞め殺したところまでを記しています。小説はそこが最後では無くて、彼は女の顔の上の花びらをとろうとするが女の顔は消えてしまい花びらだけしかありません。その花びらを掻き分けようとしたら彼の手はなく彼の身体も消えていたのです。これがわからなくて殺したところで終わらせたのである。(姑息でした。)

今回、『白痴』の尻をむしりとって食べるところで『桜の森の満開の下』の男はすでに鬼に食べられていたのだと確信しました。鬼ですからね、死んだかどうかわからないすばやさで食べることだってやるでしょう。坂口安吾さんの手法が少しわかったような。(このあいまいさ。)

歌舞伎の『野田版 桜の森の満開の下』がまた観たくなります。それぞれの役者さんの演技が走馬灯のように思い出されます。新作歌舞伎の面白さは古典では観れない役者さんが観れるという事であり、古典ではきっちり型にはまった役者さんが観れるという楽しさである。

驚いたことに坂口安吾さんの『白痴』が1999年(手塚眞監督)で映画になっていました。20周年記念ということで現在上映されていました。気まぐれではすまなくなりそうですので今回は挑戦をさけます。

黒澤映画『白痴』は、265分の長さがあったのだそうです。もしフイルムが残っていたら挑戦したかった。

追記: 『札幌芸術の森』に保存されているモダンな洋館の旧有島邸が黒澤映画『白痴』の大野家の外観です。室内での撮影があったのかどうかは今のところ確認できていません。

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(4)

北総線矢切駅から「野菊の墓文学碑」までは10分くらいである。矢切駅をはさんでの反対側には「式場病院」があるはずである。 『炎の人 式場隆三郎 -医学と芸術のはざまで-』 さて『野菊の墓』散策の方向に進むが、途中に「矢切神社」があり向かい側に「矢喰村庚申塚」がある。

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矢喰村庚申塚由来>の碑がある。温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地にひとが住んだのは約五千年前で、平和な生活を営んでいたが、国府が国府台にに置かれ千三百年ほど前から武士たちの政争の場となり、北条氏と里見氏の合戦では、矢切が主戦場となった。この戦さで村人は塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ、親から子、子から孫に言い伝えられ江戸時代中期に二度と戦乱のないよう安らぎと健康を願い、庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻みお祈りをしてきた。先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈り、この塚をつくったとある。(昭和61年10月吉日)

石像群の中央に位置する庚申塔は、青面金剛を主尊としており、中央上部には、阿弥陀三尊種子と日月、青面金剛像の足元には三猿が刻まれているとある。なるほど納得である。(造立年は1668年) そして、政夫と民子が並んで彫られている「やすらぎの像」もある。

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庚申塚を左手にして5分ほど進んで行くと左手に西蓮寺がある。向かいの右手に階段がありそこを登って行くと野菊苑と称する小さな公園がある。階段のそばに<永禄古戦場跡>と記された木柱がある。国府台合戦は二回あり、その二回目の始まった場所ということである。今回の散策で、矢切りは古戦場の歴史の場であったことが印象づけられた。上の苑からは矢切りの畑地が見下ろせる。橋があり歩道橋であり、それを渡ると西蓮寺の境内に出ることになりそこに「野菊の墓文学碑」がある。西蓮寺からはここには出られないようになっているので野菊苑からである。

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野菊の墓文学碑」は土屋文明さんの筆により『野菊の墓』の冒頭部分と、茄子を採りに行ったとき見た風景部分と、綿を採りに行った時に別々に行き政夫が民子を待つ場面が一つつなぎで書かれている。

「野菊について」という説明板もあり、「野菊」という名の花は無く、山野に咲く数種の菊の総称とある。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどで白か淡青紫色で、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうかと書かれていた。

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白という感じがします。詳しく図鑑的にこれをというのではなく、野に咲いていて目に留まったキクであれば皆好きだったのではないでしょうか。つんでいれば青系も入っていたかもしれません。映画では白を使うと思います。

ここから「野菊のこみち」を通って江戸川にぶつかる予定であったが、一本道がちがっていたようである。よくわからなかったので江戸川の土手を目指す。「かいかば通り」という解説碑があった。このあたりの細流はしじみ貝のとれる貝かい場であったことから「かいかば通り」といわれていたとあり五千年前の畑の作物、貝類などを採って平安に暮らしていた人々にまで想像が広がる。憎むべきは戦さである。坂川の矢切橋を渡る。「野菊のような人」の碑がある。政夫と民子が野菊を手にしている。そして江戸川の土手をのぼる。

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途中で道を教えてくれた人の言葉に従って、土手下のゴルフ場の間をつききって松戸側の「矢切の渡し」へ到着。舟がこちらに向かってきていて待つ時間も短く乗ることができた。こちらに渡った人がすぐ並んで戻られる人がほとんどである。舟は往復で川下と川上と方向を変え少し遠まわりをして渡ってくれるのである。エンジンつきなので滑らかに川面を進んでくれる。

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船頭さんの話しだと鮎が上がってくるのだそうで、網が仕掛けられていた。稚鮎を獲っていて出荷しているようだ。小さな亀が甲羅干しをしている。一作目の『男はつらいよ』で寅さんは、千葉(松戸)側から東京(葛飾)に渡っているという。「川甚」は、その頃はもっと川べりにあったそうで、映画を観なおしてみた。なるほどであった。さくらと博の結婚式で、印刷所の社長が手形のことで遅れて「川甚」の玄関に飛び込んでくる。その時、江戸川が見えていた。

舟は葛飾の矢切の渡しに到着。徒歩、電車、舟で江戸川を渡ることができた。『寅さん記念館』がリニューアルオープンしたようであるが、行く元気がなく、「川甚」「柴又帝釈天」のそばを通り、柴又の商店街に向かう。連休中だったので人々でにぎわっていた。

『男はつらいよ』にも、マドンナ役で出演されていた京マチ子さんが亡くなられた。角川シネマ有楽町での「京マチ子映画祭」の時、映画の終わりに「京マチ子。ありがとう!」と声をかけられた男性観客がおられた。 ドリス・デイさんも亡くなられた。 まだ観ていないお二人の映画などを、これからも楽しませていただきます。(合掌)

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(3)

伊藤佐千夫さんの小説『野菊の墓』は映画や舞台にもなっている純愛悲恋物語である。今回読み返してみた。政夫という主人公が、十数年前のことを思い出しているという形になっていて、それは小学を卒業した十五才の時のことである。思い出している政夫は35歳以上ということになる。

「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東に渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れがニ、三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤というのだと祖父から聞いている。」とあり、里見家ゆかりの家ということになる。

母は、戦国時代の遺物的古家を自慢に想っている人で、病弱のため、市川の親戚の子で、政夫とは従妹にあたる民子を手伝いのために呼ぶのである。政夫と民子は赤ん坊のころから、政夫の母が分け隔てなく姉弟のようにして可愛がられたのであった。

政夫は小学校を卒業し千葉の中学校にいくことになっていった。そんなおり二人は生活を共にすることになり、幼い頃からとても気が合っていて、二人で一緒にいて話しをするのが幸せであった。そして、恋心へと変化していくのである。民子は政夫より歳が二つ上で、二人が仲よくしていると周囲の者たちは結婚のことを想像し、二つ上の娘などを嫁にするのかと噂し合う。兄嫁も快く思わず、母もついに政夫の学業のためにも民子と離す決心をする。そして民子は他家に嫁ぎ、流産の産後が思わしくなく亡くなってしまうのである。

電車のないころであるから、江戸川の矢切の渡しがよく使われている。松戸へ母の薬を貰いにいくのも舟で、政夫の家は下矢切で松戸の中心の上矢切にも舟が行っていたようである。さらに矢切の渡し場から市川の渡し場(市川と小岩)までも舟がいっており、小岩か市川から汽車に乗ったのであろう。

政夫と民子が最後の別れとなったのも矢切の渡しであった。雨の中民子は、お手伝いのお増とともに政夫を見送るのである。政夫は千葉の中学校へ行くため、舟で市川にでて汽車に乗ることにした。

民子が市川の実家にもどり、政夫は千葉の中学校へ行く時、市川まで歩いて民子の家の近くを通るが民子が困るだろうと会わずに通り過ぎている。そして、民子のお墓参りの時、「未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現れた時分に戸村の家の門前まで来た。」とあり、民子の家まで8キロほどであったことがわかる。

二人は畑にナスを採りに行き、そこから見える風景とその中にいる二人を描写している。利根川はむろん中川もかすかに見え、秩父から足柄箱根の山々、そして富士山も見え、東京の上野の森というのもそれらしく見えている。「水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。」

離れた山畑に綿を採りにいったとき野菊を見つける。民子は言う。「私ほんとうに野菊が好き。」「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分で思う位。」政夫は、民子を野菊のような人だといい、民子は竜胆(りんどう)を見つけて、政夫さんは竜胆のような人だと言うのである。そして政夫は、野菊が好きだといい、民子は竜胆が好きだと言う。

採り残した綿なので一面が綿という風景ではないようであるが、「点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目ぶしい様に綺麗だ。」と美しい情景である。

この綿採りで帰りがおそくなり、二人が離されてしまうきっかけとなってしまう。

小説『野菊の墓』には、木の葉、木の実、草花などが政夫と民子の歩く道に登場する。紫苑、銀杏の葉、タウコギ、水蕎麦蓼、都草、野菊、あけび、野葡萄、もくさ、竜胆、春蘭、桐の葉、尾花、蕎麦の花。

政夫は、庭から小田巻草、千日草、天竺牡丹などめいめいに手にとる戸村の女達とともに民子の墓参りに行く。民子のお墓に行った政夫は、野菊が繁っていることに気が付く。「民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落ち着いて人々と共に墓場を辞した。」

読み返して、木下恵介監督の映画『野菊の墓』を観返した。情感のこもったモノクロの映像である。政夫の笠智衆さんが老齢になって、舟を特別に頼み、矢切りの民子の墓を尋ねる場面からはじまる。

小説からすると、色彩もほしくなった。後日、その後リメイクされた映画もみることにする。

伊藤佐千夫さんは、政治家を志すほど正義感の強い青年であったが、眼病を患い学業を断念、26歳で牛乳搾取業をはじめ、毎日18時間労働し、30歳にして生活にゆとりができ、茶の湯や和歌の手ほどきをうけるようになる。そして短歌と出会い、37歳で正岡子規さんの弟子になる。『野菊の墓』は、43歳のとき発表し、夏目漱石さんらの賞賛を受け小説家としても名を残すこととなるのである。

伊藤佐千夫さんが牧場を開いたのは総武線錦糸町駅前で、今では想像できないほどである。錦糸町駅前には牧場跡と旧居跡の石碑と史跡説明版があるらしい。

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(2)

北原白秋さんは、真間から小岩(当時・葛飾郡小岩村)に引っ越す。『白秋望景』(川本三郎著)を参考にさせてもらうと、真間は白秋から見ると仏に仕える人がお金の話しばかりで「俗」と感じてしまったらしい。そして「東京に近いせいか、映画の撮影隊がやってきて騒々しい。」白秋さんがもとめる田園ではなかった。

再び江戸川を渡って東京へもどることになる。家財道具の荷の上に鉄砲百合の鉢を乗せ、白秋は荷車の後ろを歩いた。「白秋は、ポケットに小鳥の巣を入れ、両手には、青銅に燭台とガラスの傘を持ち、市川の橋を渡ってゆく。」

こちらは、京成線国府台駅から出発して、市川橋を歩き江戸川を渡り小岩へ向かう。現在の江戸川区北小岩八丁目ということで、引っ越した先が、ここという確かな位置がわからないので、白秋さんの歌碑があるという「八幡神社」をめざすことにした。

「国府台」というのは、古代にはここに下総国府がおかれ一帯の政治、文化の中心だった。国府台の呼び名もそうした歴史からきている。

江戸川べりは、夏目漱石さんも散策している。「夏目漱石の『彼岸過迄』では、主人公の田川敬太郎が友人の須永市蔵と春の日曜日、このあたりに郊外散歩に出かけている。」二人は、両国から汽車で鴻の台の下まで行って降り、そこから江戸川の土手を歩いて晴れ晴れとした気分で柴又の帝釈天まで進み、「川甚」でウナギを食べているのである。

かつては「鴻の台」とも呼ばれていたらしくそのいわれは調べていない。「川甚」は、映画『男はつらいよ』でさくらと博が結婚式を挙げた料亭である。谷崎潤一郎さん、吉井勇さん、長田秀雄さんの三人が「紫烟草舎」を訪ね、白秋さんを誘って「川甚」へ行っている。文学者の間では柴又まで散策すれば「川甚」として知られていたようである。

「借り家は、江戸川べりの草を刈り集めて軍馬の飼い葉などを作る乾草商の離れであった。」 二間だが、真間にはなかった台所があって、二度目の妻・章子さんは喜んだようである。それはもっともなことである。

白秋さんは、土手に上がれば江戸川がゆうゆうと流れ、その川を船がすべり、青田には百姓が働き、広い野っ原には人家の煙が立ち上っていて、この地が大変気に入るのである。

「で、(大正)六年の一月から六月までは、『雀の卵』の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作ることに夢中にされた。冬枯のさびしさに雀の羽音ばかり聴いて、食ふものも着るものも殆ど無い貧しい中に、私は座り通しであった。私の机の周囲は歌の反古で山をなした。何度も何度も浄書し清書し換えた。(『雀の卵』大序)」(『白秋望景』より。)

「里見公園」の「紫烟草舎」の前に、三番目の妻・菊子さんとの長男・隆太郎さんの解説板がある。

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「< 華やかに さびしき秋や 千町田の ほなみがすゑを群 雀たつ  白秋 > 広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その稲波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つこの豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。(中略)大正5年晩秋、「紫烟草舎」畔「夕照」のもとに現成した妙景である。(中略)父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。」ここに書かれている歌の文字は白秋さんの自筆ということである。

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江戸川とその周辺の風景を眺めつつ市川橋を渡る。本来なら江戸川の土手を歩くのがよいのであるが、直線距離を目指し、途中で江戸川にぶつかり土手に上がってみる。川原が広くかなり下に川は流れていた。「里見公園」下の江戸川はすぐそばで怖いくらいの勢いであった。かつては川面がもっと近かったであろう。対岸に柳原水門が見える。この後ろあたりにかつての水門でレンガ造りの柳原水閘(すいこう)が残っているらしい。

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江戸川の土手から住宅街に入り「八幡神社」を目指すが、住宅街で学校が二つありその周囲をぐるっと回り、さらに途中でたずねた人が反対方向を教えてくれて、いつものことながら時間を要してしまった。白秋さんが北小岩八丁目に住んでいたということで「八幡神社」に歌碑を建てたられたようであるが、行った感触として今の人達には忘れ去られているようであった。< いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月  > 

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住んでいた「紫烟草舎」は江戸川を渡ってしまっているし無理もない事である。白秋さんは大正6年の6月には京橋区築地本願寺近くに引っ越し、気に入っていた小岩も一年であった。8月には本郷動坂に移っている。そして、大正7年の2月に小田原へ行くのである。

赤貧と思索の真間と小岩から小田原につながったので一安心である。あとは歌で真間と小岩時代を鑑賞するのみである。さてこのまま北に向かえば葛飾柴又にいけるのであるが、「八幡神社」から近い北総線新柴又駅で電車で江戸川を渡り矢切駅へ行く。次は『野菊の墓』コースである。 

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(1)

市川市真間にある『手児奈霊堂』は、万葉集にも歌われていて、手児奈という美しい娘が複数の男性から言い寄られ、身を恥て真間の入り江に入水したという伝説があり、その手児奈を祀っているのである。

都人はこの伝説を聞き及んで、歌に詠んだわけである。高橋虫麻呂さんは「勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(葛飾の真間の井を見ると立ちならして水を汲んだと言う手児奈が偲ばれる)。この手児奈の井戸は『手児奈霊堂』の向かいにある『亀井院』にあり、ここは北原白秋さんが一時住んでいたことがある。

手児奈霊堂』の先には『真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)』があり、ここにいたる大門通りは<万葉の道>として万葉の歌のパネルがあるらしい。20首ほどあるらしいが、かつての資料では、32首あって、真間ゆかりの歌は8首あった。この道は歩いていないのである。

もう一つ<文学の道>があり、桜の季節でもあったので、京成市川真間駅からこの道のほうを歩いた。市川に縁があったり、この地を作品に描いた文学者は大勢いて、その一部のゆかりのかたが木製の案内板で紹介されていた。

江戸時代の真間の文学は、万葉集のゆかりの土地としてだけではなく、紅葉の名所でもあったらしい。小林一茶さんもたびたび弘法寺を訪れ、上田秋成さんの『浅茅が宿」は手児奈伝説を踏まえているとし、滝沢馬琴さんは『南総里見八犬伝』は国府台の里見合戦に基づく伝奇小説で、弘法寺の伏姫桜はこの作品のヒロインに因んで名づけられたとある。

『浅茅が宿』と『真間山弘法寺』に関しては、 浅草散策と映画(2) で思いがけず出会っている。

伏姫桜>と名づけられた枝垂れ桜は実際に満開であった。『南総里見八犬伝』に関しては、ある研究家のかたの話しから、里見家の系図と広い分野の歴史を踏まえた下地があることと、江戸幕府を批判してもいるということを、学ばせてもらった。それから時間がたってしまい、歴史がまずややこしくて未整理の状態である。単なる伝奇小説ではくくれないという入口に立っている状態である。

もちろん、北原白秋さん、幸田露伴さん、幸田文さん、永井荷風さん、水木洋子さん、宗左近さん、井上ひさしさんらも紹介されている。途中に小さいが明治からの浮島弁財天があり技芸の神様として多くの信仰を集めていたそうで、この弁財天があるかどうかでこの<文学の道>も造られた道から伎芸天に呼ばれて出来た道の趣きとなった。

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真間川にぶつかり、「手児奈橋」を渡って『手児奈霊堂』へ。大門通りからは、「入江橋」を渡ることになり、その先に「継橋」があるようだ。「継橋」というのは入江の海岸の砂州と砂州を繋ぐ板橋で、真間には沢山あったようである。『手児奈霊堂』にもその入江の名残りといわれる池がある。『手児奈霊堂』の桜も場所柄をわきまえた咲き方で愛らしかった。

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亀井院』の説明板には、北原白秋さんがここで生活したのは大正5年5月中旬からひと月半とあり短かったのである。彼の生涯で最も生活の困窮した時代として、白秋さんの歌「米櫃(こめびつ)に米の幽(かす)かに音するは 白玉のごと果敢(はかな)かりけり」を紹介している。

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ここから『真間山弘法寺』の二王門めざして階段を登る。『弘法寺』は、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した「求法寺」がはじまりで、平安時代、弘法大師空海が七堂を構え『真間山弘法寺』としたとある。あの水戸光国さんもこられたそうな。

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境内では伏姫桜を描いているグループのかたたちがいた。皆さんかなりの腕前である。伏姫桜は、枝垂れる姿にどことなく儚さがただよう。境内の見晴らしの良い所から下の市街地をながめる。かつては入江だったわけである。

さて本堂の裏をまわって『里見公園』を目指すのであるが、裏のほうに元気な大きな桜が満開で裏技に出会ったようであった。

里見公園』まで足を伸ばしたのは、白秋さんが小岩で住んでいた「紫烟草舎」が、桜祭りで公開しているという情報からである。この家は江戸川の改修工事のためとりこわされ、解体されたままになっていたのを、建物の所有者の提供により、この地に復元するにいたったと説明板にはある。

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六畳と八畳の二間であるが、かぎ型に縁側があって、障子が開けはなされ明るくて周囲の外の様子がよくみえる。「紫烟草舎」については、小岩の八幡神社でつけ加えることにする。

里見公園』は、里見家と後北条氏との二回の合戦の場であるが、歴史的なことは省かせてもらう。ようするにわからないので。史跡としては「夜泣き石」があった。北条軍に負け戦死した里見弘次の末娘が父を弔うため安房からこの地にきて、戦場の悲惨さに石にもたれ泣き続け息絶えてしまった。それから毎夜この石から泣き声が聞こえるというのである。

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お墓のような碑が三つあった。<里見広次公廟><里見諸将霊墓><里見諸士群亡塚>で、里見軍は5千名が戦死したと伝わっている。この合戦の265年後に碑は建てられ、それから今は190年ほど経っている。

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江戸名所図会にも描かれた<羅漢の井>が今も水がどこからか流れてきていた。この井戸のそばの道を曲がると江戸川である。里見公園は高台にあって東京スカイツリーと東京タワーが見えるのである。案内板の写真によると、富士山も頭を出していた。

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ここから、小説『野菊の墓』の舞台にも行けるのであるが、『里見公園』で一旦散策は終了である。次回は、白秋さんが江戸川を渡って引っ越した「紫烟草舎」があったであろう近くの小岩の八幡神社へ行き散策を開始することにした。

京マチ子映画祭・浅草映画・『浅草の夜』『踊子』

今、京マチ子さんの映画祭は大阪(シネ・ヌーヴォ)で開催されているようである。OSK出身でもありその身体的表現は古風な日本女性の規格からはみ出していて魅力的である。踊りも和洋どちらも画面からあふれ出る<生>がある。男を翻弄する役もパターンがない。はじけるような<生>から能面のような表情へと変化したり飛んでいて、こんなに愉しませてくれる女優さんとは思わなかった。

黒蜥蜴』などは、フライヤーで「京マチ子のグラマラスな肢体も必見。」とある。ミュージカル調で鞭をもって京マチ子さんが踊る場面がありそれを強調しているのであろうが、もっと見どころがある。明智小五郎の裏をかき、着物姿の婦人から、背広姿の若い男性になってホテルから逃走するのである。そのときの動きが、OSKの男役のしどころで、軽やかでキュートで、映像でこんな素敵な歌劇団風の動きを観た事がない。これを観れただけで内容はともかく京マチ子さんの「黒蜥蜴」は満足であった。

映画『浅草の夜』(1954年)、『踊子』(1957年)ともに、京マチ子さんは、浅草の劇場でのレビューの踊子という場面が出てくるが、人物設定は全く違っている。『浅草の夜』では、若尾文子さんの姉の役で、『踊子』では、淡島千景さんの妹役である。自ずと立場が違うので役柄も違って来る。浅草の多くの風景が楽しめる。

映画『浅草の夜』は、原作・川口松太郎/脚本・監督・島耕二監督で、情の絡んだ娯楽映画になっている。踊子の節子(京マチ子)には、おでん屋で働く妹・波江(若尾文子)がいて、節子は妹の親代わりで頑張って生きてきた。ところが妹の恋人が画家・都築(根上淳)と知って恋人との付き合いを禁じる。節子の恋人・山浦(鶴田浩二)も節子のその態度が腑に落ちない。そのわけは・・・。

山浦は劇場の脚本家で、そこの古参の演出家が首になる。それに加担しているのが劇場のボス(志村喬)でその息子(高松英郎)は波江に惚れている。これだけの材料がそろえば内容的は何となくわかる。画家の大家に滝澤修さん、おでん屋のおかみに浦辺粂子さんと豪華キャストである。それだけに、今観れば内容的には薄いが、外国で日本映画が認められてきた時代、浅草モノの定番娯楽映画として島耕二監督は腐心している。山浦を好きでありながら自分の主張は変えない節子。そんな性格を知って姉妹のために一肌脱ぐ山浦。それぞれの役者の役どころを何んとかおさめようとしているのがわかる映画で、そういうところが面白い。

島耕二監督は、この映画の前『浅草物語』(1963年)を撮っている。観たいがいつ出会えるであろうか。

映画『踊子』は、原作・永井荷風/監督・清水宏/脚本・田中澄江である。京マチ子さん、『浅草の夜』と違って自由奔放である。というか、感情のおもむくままにこちらの方が自分にとって得であり好みであるといった生き方である。が、それにしがみつくことなく、深く考えることがない。高峰秀子さんの『カルメン純情す』は同じ踊子でも踊りは芸術だと思って嘲笑されながらも自分で考えて一生懸命であるが、『踊子』の千代美(京マチ子)は、全くそんな考えなどなく踊子として華があるがそんなことに執着しないのである。面白いキャラクターである。京マチ子さんならではの役ともいえる。

姉の花枝(淡島千景)さんが浅草の踊子で、一座の楽士で恋人の山野(船越英二)と同棲している。経済的に苦しいから狭いアパート住まいであるが、そこへ妹の千代美が転がり込むのである。踊子になった千代美の京マチ子さんは屈託なく画面いっぱいにその踊りを披露し、淡島さんの踊りが上品にみえるのが面白い。観ていてもこれは人気をとると解るが、楽しくてしょうがないと踊っていながらその踊りもさっさと捨てるあたりが、これまた千代美ならではの生き方なのである。

捉えどころがなく、子供までできてしまう。それが誰の子なのか。花枝は、自分はもう子供が産めないとあきらめ、千代美の子供を育てることにする。展開が千代美の行動によって動いて周囲は翻弄されるが、姉の花枝がしっかりしていて、子供がその渦に巻き込まれることはない。そこが、この映画の爽やかなところかもしれない。映画の京マチ子さんの洋の踊りとしてはこれが一番見事かもしれない。

この二つの映画だけでも、その役柄によって対称的な役を愉しませてくれる手腕をみせてくれる。台詞のトーンや間も変化に飛んでいて、聴かせどころも押さえられている。

映画『夜の素顔』などでは、意識的に男を誘い込み日舞の家元の地位を上り詰めていくが、さらに、子供のころから自分を食い物にしてきた母親の浪花千栄子さんとの争うシーンなどは、『有楽町で逢いましょう』のあのお二人がと思わせる場面で、役者さん同士なにが飛び出すかわからない期待感も持たせてくれる。

『美と破戒の女優 京マチ子』(北村匡平著)が手もとにあるが、まだ開かないでいる。もう少し時間がたって京マチ子さんの魅力の強烈さが薄れてから読ませてもらおうと思う。

追記1 : 永井荷風さんの小説『踊子』を読んだ。映画では、山野と花枝は、千代美の産んだ子・雪子を連れて浅草から山野の兄のいる田舎で保育園の手伝いをして静かな生活に入る。雪子は、保育園児と共に山野の弾くオルガンで楽しく踊っている。それを花枝と一緒にそっとみる千代美であった。

原作では、雪子は風邪から脳膜炎を患い亡くなってしまう。雪子の死が、山野と花枝を浅草の地を立ち去らせる動機としている。

小説では、山野は<わたし>として語っている。そして、浅草で十年間一日も休まずに舞台のごみをかぶりながらジャズをひいていられた<平凡な感傷>に触れている。

舞台ざらいの夜明けの浅草を一座の芸人達と話しながらの帰り道。「いつも初めてのように物珍しく感じて、花枝や千代美とわたしの間のみならず、一緒に歩いて行く人達の身の上までを小説的に想像したくなるのです。何んという馬鹿馬鹿しい空想でしょう。何んという卑俗な、平凡な感傷でしょう。

このわたしの<平凡な感傷>は映画では表しえない浅草への感傷でもあろう。

追記2 : 黒澤明監督の『野良犬』を観なおした。拳銃をとられた若き刑事がそれを必死で探すのであるが、<感傷>もテーマとなっていた。犯人と戦後すぐの日本の状況。犯人をかばう浅草の若い踊子と、自分と同じように復員してすぐリュックを盗まれる自分と同じ目に遭った犯人への若き刑事の感傷。それを自戒させるベテラン刑事。やはり説得力のある映像である。

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (6)

  • 作家・佐伯一麦さんは仙台在住で、東日本大震災にあわれている。そのあとなぜか月を眺め、月を友とする生活であったという。そして、敗戦の後、鎌倉で月を見ていた川端康成を思い出していた。活字では、『方丈記』と『源氏物語』の<須磨>が心に入ったそうである。映画『まあだだよ』での先生が東京大空襲で持って逃げるのが『方丈記』一冊である。震災のあと(半年後とおもうが)読書会があり、それは前もって決めていたのであるが川端康成の『雪国』である。震災を経験した読書会の人々は、主人公の島村に否定的であった。

 

  • 死、食べる、住まうとかの困難を経験した人々にとって、はっきりしない島村がなんともいらだたしかったようである。佐伯さんは、浮いた言葉を言わない島村にかえって矛盾した人間性をみたといわれ、筋のほかの関係のないところの風景描写の細部が上手いとおもったと。震災で佐伯さんは、底が無くなってしまったような感覚で、それが川端さんの底が無くなった魔界の世界のような『みづうみ』と重ねての話しとなった。『みづうみ』は三島由紀夫さんは否定的で、文芸評論家の中村光夫さんは高く評価したようである。不浄なものみにくいものの中に聖なるものがやどる。

 

  • 川端康成は徳田秋声を敬愛していて、川端は、『仮装人物』のただれが怖いと。『仮装人物』は踏み外しが激しいのだそうだ。『雪国』は温泉場で火山で『みづうみ』は爆発の後にできるもので、手書きのうちの思いつきの表意文字もみうけられるそうだ。みづうみ→水虫、天の虫であった『雪国』の駒子が我のある虫になる。蚕→蛾。美しいものがグロテスクになる。それを聞いて反対の矢印も←成り立つということにもなると思った。『みづうみ』の銀平は、みにくいとおもっている足の指をもっていることを意識しつつ、若い美しいものを求めて、その足で後をつけ追いかける。結論は書かれていないが、銀平は母のふるさとにある「みづうみ」に沈んで死ぬような気がする。そこに向かっていると思えて。そこにしか銀平の底はないのではないか。実際に底があるかどうかはわからない。

 

  • 『雪国』の読書会の最後に年輩の女性が、戦争中、親に怒られながら中里介山の『大菩薩峠』を読んでいて、その時間はその世界に没頭したと発言されたそうである。そういう時間空間をもてるのが文学の魅力であろう。反発も自由である。

 

  • 作家・池畑夏樹さんは、石牟礼道子さんについて話された。石牟礼さんといえば、『苦界浄土』で水俣病を世に知らしめるきっかけをつくられたかたでもあり、あまりにも崇高のイメージがあって近寄りがたいかたとのおもいがあったが、染色家の志村ふくみさんとの往復書簡などを読むと、公害の運動家的なイメージが、ただ自然と対話していたら自然も人も傷つけるのはいやであるとする想いが、言葉で表せない自然や人の叫びを文字に表してあげたら社会現象とつながっていたという印象が濃くなった。

 

  • 池畑さんは石牟礼さんの過去について話してくれた。おじいさんが、石工で道を造っていたのであるが、自分の造った道は崩れてはならないと、請け負うお金よりもお金をかけてしまうことになり、山を売り、そのうち家も差し押さえられるような人だったのだそうである。吉田道子さんが結婚されて苗字に石牟礼の「石」がついたのも縁であろうと。5歳の頃の様子には同年配の子供が出て来なくて、上手くコミュニケーションができなかったようである。次第に自我も出て来て代用教員となり短歌をつくるが自分を出し切れず、「サークル村」の文学運動に加わり、その時水俣病と出会うのである。

 

  • 『苦界浄土』は、患者さん達を書いているところは小説家で、医学的なところは官僚の人間ではない記述で、ノンフィクションではないからと大宅壮一賞をことわるのである。石牟礼道子さんは古代の人で、山に行ってたから、頭を下げて山の物を食べ海の物を食べる。チッソはプラスチックを作っていた。それに水銀を使った。それが有機物質としてながれ、プランクトンが食べ、魚が食べ人間が食べる。高度成長であったため、国も止めるわけにいかなかったのだと。

 

  • 歴史小説『春の城』は島原の乱を描き、そこでは3万人の人が殺された。キリスト教は異民族で、異民族であるから殺してあたりまえであった。地方にいるという文学者は、近代文学者ではめずらしい。石牟礼道子さんは、料理でも縫い物でもなんでもできて味にもうるさく、体が不自由になって人に作ってもらったものでも味のあわないものは食べなかったそうである。なんでも受け入れ耐える人ではなかったのである。何かほっとする。

 

  • 文芸評論家・安藤礼二さんは、折口信夫さんの『死者の書』についてであるが、『死者の書』は奈良の當麻寺の當麻曼荼羅の中将姫伝説とも関係している。そして當麻寺と二上山の大津皇子のお墓とを結ばせている。人形劇アニメ映画『死者の書』(川本喜多八監督)では大津皇子が暗い顔で現れた。ただわかりやすくまとまっていたと思うが時間がたってしまっているので記憶が薄い。折口信夫さんの原作の難解さはすんなりとは進んでくれない。

 

  • 貴族の娘の郎女(いらつめ)は、二上山に人の姿をみる。それは悲しそうで衣服をまとわず郎女に衣服を織らせるきっかけとなる。それが蓮の茎の糸で織った布である。當麻寺曼荼羅伝説では曼荼羅を織ったことになっている。折口さんは、郎女に絵をかかせたらそれが曼荼羅になったとしている。さらに、安藤礼二さんのお話は聞いている時はそうなのかと思うが、メモをみるとどうしてこうなるのかがわからない。聞き手は、『死者の書』を捉えているだろうとの前提で話されているのかもしれないが、『死者の書』は筋を追うだけではとらえきれない語り部、大津皇子と郎女の代を経ての関係などなどがでてくる。

 

  • 死者がよみがえり、それをよみがえらせたのが郎女で、郎女は死者の無念さとか想いということまではとらえていないと思う。ただあのくらい悲しい顔と衣をまとわぬ白い姿に被うものを作ってあげたいとの想いである。とまあそこまででギブアップである。それだけでは折口信夫さんも困ったものであると嘆かれるであろうが面目ないである。當麻寺を囲む風景は現代を離れた日本の原風景のようである。

 

  • 書き込みさせてもらった講師の方々の順番は、実際の講義登場の順番ではない。何となくそうなったのである。テーマにも意識しないで聴いて心動いたことに基づいた。今回出てきた小説はいままでより沢山読んだ。まだ、積ん読を平にしなければならないが、来年は前もって少しは読んでから聴講したいとおもったが、一年先のことである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (5)

  • 詩人・荒川洋治さんは、本にかかっているパラフィン紙をいいですねと言われた。今回の講義に出てきた作品を読まなくてはと文学全集をから探し出して積んで、図書館から探して積んでとやっているうちにそれだけで疲れてしまった。そして邪魔なのが、全集の茶色く焼けたパラフィン紙。ばりばりと破り捨てる。乾いた音と真新しい本がまぶしい。がさつで申し訳ない。荒川洋治さんは、黒島伝治の作品を紹介。小豆島で貧しいなかで育つ。プロレタリア作家で44歳でなくなり、短編60と長編1を書き残している。

 

  • 黒島伝治さんは1919年(大正8年)に召集され、1921年(大正10年)にシベリアへ派遣され1921年(大正11年)に病気のため日本にもどり、そのときのことを書いたのがシベリアものといわれる反戦小説である。大正デモクラシーのためか発禁にはならなかったのである。体験から考えると貧しいひとや、戦う意味がどこにあるのかわからないで死んで行く兵隊のことを書くのは自然のことであったとおもわれる。シベリア出兵というのがよくわからない。

 

  • 荒川洋治さんが紹介してくれた作品に『二銭銅貨』『』がある。『二銭銅貨』は、弟が兄の使っていたコマをみつけるのだが上手くまわらない。ヒモだけでも新しいのが欲しいとねだる。母は一尺ばかり短いヒモが二銭安くしてくれるというのでそれを買う。弟は他のより短いというのに気が付き、それを牛の番をしながら、柱にそのヒモをかけてのびるようにと両端をひぱったのである。ところがヒモの一方が手からはずれころんだところを牛につぶされて死んでしまうのである。『紋』は老夫婦が飼っている猫の名前で、よその鶏を食べたりと悪さをするのでしかたなく捨てにいくのであるが帰ってくるのである。そこで帰ってこられないように船主に頼んだ。船主が捨てて帰ろうとしたら紋は船に飛び乗ろうとしたのであるが船主の棒が当たってあっけなく死んでしまう。

 

  • シベリア出兵は日露戦争の後である。日露戦争は1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月までである。作家・木内昇さんは、『坂の上の雲』から司馬遼太郎さんが描いた近代を話された。明治維新などの主人公は欠点もあるが行動する人として力強く書き進めているが、明治30年以降からの作品が少ないとされる。日露戦争は、三人の人物からの三視点でみている。秋山兄弟は士族で明治になって仕事がなくなるが、名を上げたいと思っている。没落士族の多くがそうのぞんでいた。兄は陸軍、弟は海軍、正岡子規は市井のひとである。

 

  • 日本側とロシア側の近代化を司馬さんは冷静に見つめている。戦争をすることによって藩中心であった日本が国家という一つになったが、西洋に追いつけ追い越せとなって進んで行く。司馬さんは戦争体験があるので、のめり込んでいくことに懐疑的である。そこから第二次世界大戦に進み、日露戦争とは違う軍部、関東軍の暴走のカギがわからない、理由がわからないとしている。こちらはもっとわからないのでお手上げである。司馬さんは生前『坂の上の雲』の映像化を許さなかった。慎重であった。読むのがベストであろう。

 

  • 作家・林望さんは中島敦さん『山月記』の全文をプリントしてくれ、一部を朗読された。声がよく通り、文章が気持ちよく頭の中を通過していく。日本には二つの文脈があって、和文脈は源氏物語のように女性的で柔らかく、漢文脈は漢文の影響で男性的で、悲壮感、孤独感、高揚感があるという。漢文脈は声で味わうのがよいということであろう。中国の『人虎伝』をもとにしているのだそうだ。

 

  • 『山月記』は自分の才を信じている主人公・李徴は、境遇に満足できず発狂してしまい、いなくなってしまう。翌年、猿慘というものが勅命で出かけた先で藪に中から人の声がし、その声が李徴であった。そして姿は見ないで話をきいてくれという。姿が虎になって、そのうち心も虎になるであろうから今人である内に自分の想いを告げて置くという。李徴は切々訴え、帰りにはここを通るなと告げる。李徴と別れ後ろを振り返ると一匹の虎が茂みから躍り出た。「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入って、再び其の姿を見なかった。」内田百閒さんの『豹』を思い出した。

 

  • 森鴎外さんの『寒山拾得』もプリントにのせてくれた。これは子どもたちにせがまれて書いた児童文学なのだそうであるが、ここにも僧が虎になったような話がでてくる。これは中島敦さんが、6歳の時にでている。中島家は近世以来、代々の儒学の家柄で父は国漢学者であった。幼い頃から漢文の読みに慣れ親しんでいたであろう。林望さんは、高校の教科書にも載っているので、分析しないで『山月記』を先ず耳から味わってほしいということのようである。

 

  • 中島敦さんの年譜から22歳の時、「浅草の踊り子を組織して台湾興行を企てしようとしたという」の箇所を見つけてしまった。中島敦さんも浅草へ行っていたのか。今、駒場の近代文学館では「教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅱ ー中島敦「山月記」とその時代 」展(~8/25)をやっており、次は「浅草文芸・戻る場所」展(9/1~10/6)なのである。