奈良十一面観音巡り(1)

櫟野寺(らくやじ)の十一面観音菩薩にお会いしたら、他の十一面観音菩薩にお会いしたくなりました。タイミングよく、日帰りツアーで、奈良の『法華寺』と『海龍王寺』の秘仏十一面観音菩薩立像が御開帳で、さらに『興福寺』の北円堂が特別公開、奈良国立博物館の正倉院展も付いてと一日の行程としてはほど良い配分です。歩ける距離なので、『法華寺』からは歩いてまわるというのも気に入りました。

京都駅⇒奈良駅 ⇒ (路線バス) ⇒ 法華寺 → 海龍王寺 → 近鉄奈良駅近くで昼食 → 興福寺・北円堂 → 正倉院展 → 奈良駅⇒京都駅

自分で計画できる行程ですが、久しぶりに関西のツアーで、ツアーは楽であることを実感。奈良駅からボランテアのかたの説明付きです。お一人様が6人いて昼食の時近くに座らせてくれ、そもそも仏像好きの一人でも行きますの吾人たちなので自然に交流ができ、それぞれの見方で、顔を合わせると情報交換で楽しかったです。

正倉院展は、光明皇后(聖武天皇の后)が宝物を東大寺に献納されたので現代まで残って鑑賞することができるのですが、『法華寺』は光明皇后が創始された国分尼寺で、十一面観音菩薩は、光明皇后をモデルとされているといわれいます。お顔が人間味が強く長い右手は天衣(てんね)をつまんでいて、右足が遊び足と言われる前に一歩だされるような感じで親指が上にそらされいるのです。

『法華寺』も荒波があり、豊臣秀頼と淀君が再興され、本堂の階段の高段の擬宝珠(ぎぼし)に秀頼の名前が彫られていました。

白洲正子さんが『十一面観音巡礼』の「幻の寺」に、『法華寺』の門跡さんのことに触れていますが、この門跡さんが女優の久我美子さんの叔母さんにあたられる久我高照門跡尼でしょう。

話しがそれますが、樋口一葉さんの作品映画『にごりえ』のなかの「大つごもり」で、久我美子さんが好演でした。貧しい女中おみねがひたむきにまっすぐな生き方をしていながらどうにもならなくなり間違いを起こしますが、放蕩息子に救われ観ているほうも安堵させられました。はまり役でした。

平家物語で滝口入道との悲恋相手の横笛さんが尼となって祈った<横笛堂>もあり、これは意外な出会いでした。<国史跡 名勝庭園>は春に特別公開なので残念ながら見れませんでした。

海龍王寺』も、光明皇后が建立したといわれていますが、飛鳥時代からすでにお寺はあったとされていて、古くて自然のままにという感じのお寺で、土塀の古さがいいのです。この辺りは、光明皇后の父、藤原不比等の邸宅のあったところで、不比等の死後、光明皇后が譲りうけられたたのです。

奈良時代のもので残っているのは、五重小塔で、大きな塔を建てる敷地がなかったので、東と西の金堂に十分の一の小塔を納め、西金堂が今も残っているのです。五重小塔は均整も取れていて大変美しい姿で細部までしっかり作られています。

十一面観音菩薩は鎌倉時代のものですが、小ぶりで金泥が残っていて装身具や衣も模様などがわかるように残っています。

十一月の歌舞伎座での藤十郎さんの観音様の髪飾りにこの観音様の飾りを思い出していました。

遣唐使として無事帰って来た玄昉僧正(げんぼうそうじょう)が、暴風雨のとき海龍王経を唱えたとして聖武天皇から寺号を『海龍王寺』と定められます。今も水色のガラスの容器に納められた全国各地からの海水を供え、海龍王経を唱える法要が4月18日に行われ、平成24年(2012年)から東日本大震災の被災地の海水も供えられました。この小さなガラス瓶の中に静かにおさまっていて欲しいとただ願うばかりです。

興福寺の北円堂』も特別公開で、南円堂もあるのですが、公開日が違い、今回の参加者の中にも南円堂の公開の時にも来たと言われているかたがいました。

北円堂は藤原不比等が亡くなった菩提のために建立されたもので、1210年に復興された古い堂です。堂の中にある弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像、四天王立像は国宝で、弥勒如来坐像、無著・世親菩薩立像は鎌倉時代の運慶一門の作品です。

無著(むちゃく)・世親(せしん)は北インドの兄弟僧侶で、無著は老年をあらわし世親は壮年をあらわす二体の両像で、運慶は人種や時代を超えた理想的な仏教の求道者の姿を追求したのだそうですが、運慶が仏像だけではなく、人間としての仏教の求道者も制作していたのが興味深かったです。

正倉院展はレクチャーもあったのですが、2014年の66回目の時、良く知られている天平の美人図の<鳥毛立女屏風>や儀式用の赤い靴、楽器など印象的なものが多かったので、今回は少しがっかりしてしまいましたが、聖武天皇の一周忌のとき下げられた大幡(だいばん)は、きっと色鮮やかに幾つもひるがえっていたのだろうと想像できました。

奈良国立博物館から奈良駅に歩く人とバスの人別れ、歩き組でぶらぶらと歩き、京都駅で新幹線までの間一緒に食事をして、新幹線では別々の席で、ではという感じで帰路に着きましたが、爽やかな関係でいい旅でした。

そして、大和路<八十八面観音巡礼>というのがあることを知り、再び一人フリーで訪れることとなりました。

 

東京国立博物館『平安の秘仏』

平安の秘仏 櫟野寺(らくやじ)の大観音とみほとけたち

櫟野寺は忍者の甲賀市にあるんです。最澄さんが延暦寺の建立のとき、櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音さまを刻んだことが始まりとの言い伝えがあり、櫟の一木造りなんです。秘仏の御本尊の十一面観音菩薩坐像は、重要文化財のなかでは日本で一番大きな座像で圧倒されますが、切れ長の目が細くて、甲賀様式といわれています。

毘沙門天立像は、坂上田村麻呂が鈴鹿山の山賊を平定したとき報恩に、本尊をまもるために自分の分身としてまつったと伝わっています。御本尊の大きさに対して田村麻呂毘沙門天精一杯頑張られていました。

音声ガイドにみうらじゅんさんといとうせいこうさんのスペシャルトークが入ってまして、それがまた絶妙な味わいを加味してくれました。このお二人が櫟野寺を訪ねたDVDは見ていますので、話しを聞きつつ映像が浮かび上がってきました。

この地に油日神社がありまして、ツアーでいって気に入り、再度違うツアーで訪れたことがあります。油日神社は、楼門から左右につながっている廻廊(かいろう)が、何ともいいがたい空間を作ってくれていて気分がすーっと穏やかになるのです。JR草津線の油日駅から歩いて20分くらいということでしたので、いつかフリーで行きたいと思っているのです。

櫟野寺はそれよりももっと奥なのですが、歩けないことはありません。バスもあるようですが、秘仏なので公開日が限定されるので、今回、上野でお会いできてしあわせでした。宝物館修繕のため、初めて櫟野寺から出られたのです。まったく騒がしいことだと思われているかも。

甲賀は、伊賀に行ったので甲賀にも行かなければと行った日がみぞれで、<甲賀の里 忍者村>は甲賀駅から電話すると迎えにきてくれるということでしたのでたすかりました。甲賀は猿飛佐助や霧隠才蔵などフィクションの人物が、講談や小説で人気を博していますが、資料館では、梯子とか舟とか組み立て式のものなどがあり、智と技と工夫の世界で伊賀とは違う展示もあり、ここも楽しかったです。

この北東のほうに旧東海道があり、バスのない鈴鹿峠を越えて初めてバスの停留場があるところに田村神社があります。そこから京都三条まで三泊四日で行き着いたのです。京都で三泊して行きつ戻りつしながら歩いたのですが、荷物がないのが助かりました。一日使える二日目に田村神社からを入れ、京都から草津に来て草津線に乗り換えるときに、豪雨でそれまで草津線の電車が止っていて動き始めた時でした。雨の中歩くことを覚悟して貴生川駅からバスで田村神社まで行ったのですが、雨はやんでくれました。

田村神社に旅の無事をお願いして初めて気がつきました。田村神社は、坂上田村麻呂を主祭神とする社だったのです。緑が多く趣きある神社でした。江戸時代は、田村麻呂人気で、田村神社と櫟野寺参りがあったのだそうですが、どう歩いたのでしょうか。知りたいものです。

旧東海道は、無事雨がやみ、土山宿を過ぎると今度はいいだけ日に照り付けられ水はペットボトル二本は持参し、一本は凍らせて保冷バックにいれて背負い、必要に応じて自動販売機で補充しました。時には自動販売機もないところがありますから。

国道一号線にも時々出てバスの停留所も調べてあるので何とかなるであろうと計算していたのですが、お昼の食事どころがなくて困りました。国道があれば、だいたいは食事する場所はあったのですが、そんな雰囲気ではなく、どうにかコンビニ一軒と遭遇。そこへやっとたどりつき、オムライスの卵のふわふわに、これ!と温めてもらい、日蔭もないので外の炎天下で食べましたが、美味しかった!

なんとか、無事水口宿に到着でき、さらに草津線の三雲駅まで行けば次の開始の時間的ロスを少なくできるためそこまで頑張り、ほっとした思い出もあり、この辺りは記憶の濃いところです。

こういうところですから、山の中で静かに平安時代から信仰が続いているというのはわかる気がします。

鈴鹿山に籠るだけあってここの山賊たちは手を焼かせたのでしょう。

上野に櫟野寺の仏さまたちがいらしてくださり、田村巡りができ、甲賀の地域が近くなりました。

秘仏にお会いできなくても、油日駅から油日神社から櫟野寺まで歩きたい道です。

 

 

 

11月23日 法真寺 『一葉忌』(2)

図書館で『樋口一葉と歩く明治・東京』(監修/野口碩)を借りました。一葉さん関連の散策にはもってこいの本で、わかりやすいです。

その中に、「一葉忌」をされている法真寺の住職さんのことも紹介されていて、今の住職さんは海外で約11年勉強されていて奥さまがアメリカのかたなのだそうです。納得しました。本堂で腰ころも観音はどこかなと思って尋ねた若いお坊さんがどうも外国のかたのようで、修業にこられたかたかな、でも日本語が綺麗だったのでちょっと不思議だったのですが住職さんの息子さんだったのでしょう。そして、ステンドグラスと椅子。「仏教とキリスト教の死生観の違いを英語できちんと説明できる」住職さんと書かれていました。

『たけくらべ』にでてくる真如は、子供の頃、法真寺の境内で遊んだ小坊主さんがモデルではないかといわれています。

瀬戸内寂聴さんが講師でこられたとき、こういう法要の会を催すのは大変なことなのにきちんとされていてと感心されていたと郷土史家のかたが話されていました。

『こんにちわ一葉さん』(森まゆみ著)を読んでいて、小説を書き始めたころからの日記は小説を書くための絵であるならスケッチだったのではないかと思い始めています。日記は実際にあったことを記録するのですが、一葉さんは生活に追われ時間がありません。単発の時間を有効に使い、日記という短い時間で書けるものを使って、そこに情景や心理描写に創作をいれたり、写実的な観察の表現を練習していたのではないかなと思うのです。

日記の公開で、自分の書かれている部分にショックを受けた人もいたようです。今の上野にあった東京図書館に通って勉強したようですが、一葉さんの世界は狭いです。その狭さが一葉さんならではの作品となったのですが、日記という独自の勉強法で本郷丸山福山町で『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』などを一気に開花させたのではという推測です。

『ゆく雲』も、腰ころも観音さまがでてきて、どこにでもあるような当時の話に観音さまが見ていたという大きな慈愛をもたせています。そしてこの慈愛の眼が貧しき人々をえがく一葉さんの慈愛の眼となって作品となります。

ただ作品は作家のフィルターを通すわけで、一葉さんは決して観音さまではありません。一葉さんのフィルターは人生の辛苦をなめた一葉さん自身の嫌な部分が沢山あってのことです。

日記の公開は妹のくにさんが一葉さんの死後刊行を希望したのですが、『こんにちわ一葉さん』に興味深い記述がありました。

「 日記の中には出会った人びとへの辛辣な評価も含まれていたので、鴎外は公刊はしない方がよいだろうといい、露伴は公刊すべきだろうと文豪二人の意見が割れ、これが二人の疎遠の一つのもとを作ったともいわれています。 」

鴎外さんは、自分がドイツ留学中のドイツ女性との恋愛のことを小説にしていて、それは事実と違えて書いてもいて、一葉さんの日記というものに、日記ではない性格をも読み取っていたのではとも思えるのですが。この日記公開で、一番実生活を乱されたのは半井桃水さんでしょう。このことに関しては森まゆみさんが言及していますので、興味あるかたはお読みください。

平塚らいてうさんのことを調べていて、『断髪のモダンガール』(森まゆみ著)で、本郷菊富士ホテルの経営者夫人が森まゆみさんの親戚であったことをしりました。そして、『本郷菊富士ホテル』の著者・近藤冨枝さんが森まゆみさんの伯母さんだったのです。驚きでした。近藤冨枝さんは、文士たちの集まっていた、田端、馬込の『田端文士村』『馬込文学地図』も書かれていますが、今年の7月に亡くなられていました。(合掌) 一葉忌でも二回講演されています。

そして、一葉さんの作品を芸で伝えることのできた新派の二代目英太郎さんも11月11日に亡くなられました。(合掌) 明治、大正、昭和の初めの人物像を女形で表現できる方でしたので、市川春猿さんが歌舞伎から新派に代わられ、英さんに新派の女形を教えてもらえるであろうと心強く思っていたのですが、なんとも残念です。

9月の新橋演舞場での芝居『深川年増』が最後の舞台で、口上で、中嶋ゆか里さんが幹部になられ<英ゆかり>と改名されたと紹介されたので、<英>の名前が二人になるのだと思ったのですが急なことでした。最後の元気な舞台姿を観れたのが幸いでした。

今、時代を表現できる役者さんが少なくなって、現代の人と変わらない表現力の無さで、古い映画をみて味わうか、あとは、小説の世界に籠るしかなくなるのでしょう。

さて次の一葉散歩は、本郷丸山福山町から一葉さんが通われた東京図書館までとしましょうか。東京図書館は、今の上野の国際子ども図書館と東京芸大の間あたりのようです。一葉さんは西片と本郷に掛る空橋(からはし・現清水橋)を通り、東大を突き切って通われたようです。

『加賀鳶』から始まった伊勢屋質店は、跡見学園女子大が所有し、土・日と一葉忌に公開してくれています。一葉さんの頃の建物は明治20年に移築した土蔵部分だけで、あとは一葉さんの死後に建てられた建物です。この質屋さんに質草を入れたり出したりしたわけです。

一葉さん一家は、蝉表(せみおもて)という雪駄(せった)の藤で編んだものの内職もしていて、一葉さんは下手で、妹のくにさんは上手く、洗い張りや縫い物よりも駄賃は少し高かったようですが、生活するには到底足りなかったでしょう。

『加賀鳶』の書かれた明治19年にはここに伊勢屋質店はあったわけですが、その時代の建物は残っていません。そして<加賀鳶>に関しては、次の記述がありました。

将軍家の姫君を迎える特別な朱塗りの御門「 この御守殿門は万一焼失すると、将軍家に対する忠誠心を疑われるばかりか、縁組みそのものまで帳消しにされかねなかった。そこで前田家は加賀鳶とよばれた大名火消しを組織して、防火に努めた。 」(『樋口一葉と歩く 明治・東京』)

てやんで! 赤門の向かいにはお夏ちゃんこと樋口一葉というりっぱな文学者がいたんだよ! 赤門がなんだい! ちょっくら通してもらうよ~ん・・・ってんだ。

 

11月23日 法真寺 『一葉忌』(1)

本郷の樋口一葉さんが利用されたという質屋伊勢屋さんを検索していたら、11月23日文京区本郷の法真寺で<一葉忌>があるというので散策がてら行ってみることにしました。

本郷通りをはさんで東大赤門の向かいの路地奥に法真寺があり、<一葉忌>と書かれた幕が入り口にありました。赤門前は「加賀鳶」で、道玄と捕り手との立ち廻りの場でもありますが、本郷通りに面していて立ち廻りのできるような空間がありません。

ところが、かつてはこの赤門は15メートルほど奥にあったのだそうです。これは地元の郷土史家のかたから受けた説明です。黙阿弥さんは空間のある赤門前をみていたわけです。

お昼過ぎに法真寺に着き、法要や幸田弘子さんによる朗読は午前中に終わられたようです。地元のかたからおしるこをご馳走になりました。一葉さんも、恋心をいだいたとされる半井桃水(なからいとうすい)さん手作りのおしるこをご馳走になっています。

行く前に知ったのですが、法真寺の隣に一葉さんは4歳から9歳まで住んで居て、一番心穏やかに過ごせた時期で、法真寺の腰ころも観音のことが小説『ゆく雲』に書かれているということなので作品を読んでみました。

出だしに「酒折(さかおり)の宮、山梨の岡、塩山、・・・・」と書かれてあって、<酒折の宮>は、甲府善光寺御開帳のとき、JR中央線の酒折駅で降りて、この神社に寄ってから甲府善光寺に行きましたので親近感がわきました。

小説の内容は、一葉さんの両親の出身地と同じ「甲府から五里の大藤村の中萩原」出身の青年・桂次がそこの造り酒屋に養子となります。養子先の娘と許嫁の中なのですが、東京に出てきていて、養子先の親戚に下宿しています。そこの娘のぬいは、実母が亡くなって継母という境遇で、父にも継母にも遠慮して波風の立たないように暮らしており、ぬいに恋心を持つのですが、養子先から早く結婚して跡を継いでくれとの催促で、帰ればもう隣のお寺の観音さまも見納めと思うと名残惜しいきもちとなるのです。

その観音様の様子が「上杉の隣家は何宗かのお寺さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、こちらの二階より見おろすには雲はたなびく天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」と書かれています。

この観音さまを一葉さんも二階から眺めていたのです。一葉さんは、この住んでいた家を<桜木の宿>と呼びました。

小説のほうですが、桂次は婚約者がいやで、ぬいに自分の気持ちを打ち明けますがぬいはどうなるものでもないと感情をあらわしません。桂次はしぶしぶ田舎に帰りぬいに手紙をかきますが、そのうち時間がたつと年始と暑中見舞いの挨拶のみとなります。

「隣の寺の観音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれみ給へば」と観音さまはみているとして、ぬいは相変わらず父と母と自分の関係にこれ以上ほこびがはいらないようにと努力しているのでした。

残念ながら、桂次にはぬいを幸せにできる力がなかったのです。本堂の左手に観音さまは今も穏やかなお顔をして座っておられます。

一葉さんを忍ぶために、献花してお線香をあげる場所がありましたのでそこで先ず手をあわせました。

本堂の阿弥陀さまの前に一葉さんの写真が飾られ、和太鼓の演奏がありました。本堂の右側はステンドグラス風で光が入るようになっており、椅子が教会のような木の長椅子でした。<桜木の宿>の倉庫のなかで一葉さんは英雄豪傑伝や任侠義人の本をよんでいたそうですので、若い和太鼓奏者の打つ勇ましい太鼓の響きに喜ばれたのではないでしょうか。

そのあと文京一葉会の郷土史家のかたの説明つき一葉さんゆかりの散策に参加です。法真寺から始まって、菊坂住居跡から白山通りの一葉終焉の地まででしたが、途中公開していた旧伊勢屋質店で失礼させてもらいました。何回か来ていますが、写真や地図などを使っての詳しいお話でかつての街の様子も想像できて楽しかったです。

帰りに古本屋さんがあってチラッとのぞいたところ、『こんにちわ一葉さん』(森まゆに著)に遭遇。本当に「こんにちわ」と声をかけたくなるように一葉さんの日記と作品から一葉像を浮かび上がらせてくれ、『加賀鳶』から一葉忌につながるとは赤門の力はやはり凄いということでしょうか。

本郷菊坂散策 (1)

本郷菊坂散策 (2)

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

上記の散策が今回は一葉さん中心で一本の道となりました。東大赤門近くの本郷には勉学と世に出ることを求めて、あるいは世に出た人を頼って人々が集まってきていたわけです。

4歳から9歳の時に本郷6丁目東大赤門前法真寺隣の桜木の宿 → (この間7回ほど引っ越しています) → 18歳の時に菊坂に → (吉原の裏の下谷竜泉寺町に) → 22歳の時に本郷円山福山町に(ここで亡くなります)

 

上記地図の赤枠が「東大赤門」、ピンク枠が「桜木の宿」、青枠が「法真寺」。

東大赤門

腰ころも観音

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(4)

藤村さんの系図を簡単に紹介すれば、藤村さんは馬籠宿本陣の四男として生まれています。母(ぬい)は妻籠宿本陣の娘で馬籠本陣の長男(正樹)と結婚し、藤村さんの二番目の兄(広助)は三歳のとき、母の実家の妻籠本陣に養子にはいっています。もともと、妻籠本陣と馬籠本陣の当主は島崎家から出て続いていくのです。

藤村さんは、九歳の時、三番目の兄と一緒に勉学のため東京にでてきて泰明小学校に通います。本陣を継ぐものは一人でいいわけで、長男以外はそれぞれの生きる道を見つけなければなりません。

馬籠本陣の隣の大黒屋の娘・おゆうさん藤村さんの幼馴染で初恋の人といわれていますが、おゆうさんは、14歳の時、妻籠の脇本陣にお嫁入りしています。

妻籠宿の本陣は江戸時代の本陣を再現し、藤村さんのお母さんとお兄さん関係の島崎家の印象が強いです。脇本陣にはおゆうさんの使っていたものも展示され、それらの高価さから見ると藤村さんのその後の生活と比較し、おゆうさんも収まるところへ収まったのかなという感じを持ちます。

妻籠の脇本陣は屋号を「奥谷」といい、9月から3月まで夕方明かり窓を通して囲炉裏ばたに美しい縦じまの光の道を描きます。係りの方が、「残念です。陽が射していれば見れるのですがと」と教えてくれました。ここには歴史資料館もあって三館をゆっくりみさせてもらいました。

そのほか瑠璃山光徳寺には、幕末から明治にかけてここの住職さんが考案したという駕籠に車をつけた人力車が飾ってありました。面白い事を考える住職さんです。

馬籠宿は本陣跡は藤村記念館となり、第二文庫では、藤村さんの長男・楠雄さんの息子さん・緑二さんの作品展があり、穏やかで優しい水彩画が展示されていました。大黒屋さんも楠雄さんの四方木屋さんも残っています。馬籠脇本陣は史料館となっていてめずらしいのは、玄武石垣という亀の甲羅ににた六角形の石垣が積まれているものです。

永昌寺にある島崎家のお墓もいってみました。島崎藤村家は楠雄さん達もふくめ幾つかのお墓が一つの集まりとなって肩よせあい静かに眠られていました。

『夜明け前』では、藤村さんの祖父の時代からはじまり、藤村さんのお母さんが半蔵さんのところにお嫁に来て、お母さんの兄で妻籠本陣の当主・寿平次さんが訪ねてきたり、半蔵と寿平次とが一緒に三浦半島にいる先祖を訪ねて江戸にでてきたりします。その時半蔵は国学の平田門人としての許可をもらうのです。半蔵はそのことだけに集中し、寿平次との性格の比較としても際立つ旅です。

落合宿や中津川宿には、半蔵の学問の友や師がいて、師の宮川寛斎は、中津川の生糸商人に頼まれ開港した横浜へ生糸を売り込むためにつきそい、その後よそで隠遁生活に入りますが、半蔵は別れの機会があると思っていましたが寛斎は半蔵にあわずに去ってしまいます。

中津川宿は、信濃とは違う商人の宿でもあり、これからの『夜明け前』でもいろいろでてくるのかもしれません。

実際の今の中津川宿は、説明書きも新しく整備されていて、日本画家の前田青邨(まえだせいそん)さんの生まれ故郷でもありました。桂小五郎さんが隠れていた家などもあり、「中山道史資料館」には、桂小五郎、井上薫、岩倉具視、坂本龍馬など幕末から維新にかけて活躍した人たちの資料があるらしいです。行ったときは、<企画展 中津川の明治時代 ー情熱をそそいだ学校教育から地域の発展へー >をやっていました。ここは脇本陣のあったところで、建物の一部と土蔵一棟が公開されています。皇女和宮さまの降嫁の際に随行した江戸城大奥老女花園が尾張徳川家の御用商人である間家に宿泊し、さらに翌年に寄りその応対ぶりに感激し人形などを送りその品も飾られていました。

皇女和宮様の降嫁の行列はそれを受け入れる側も大変で、人はもちろんのこと立派なお嫁入り道具などもあるわけで死人もかなりでたようです。山道を考えるとそうでもあろうとおもえます。人足などはただ囲われた寝泊りの場所で、農民たちは農作の繁忙期に宿の手伝いにでなければならず、それに対する不満も次第に膨らんでいきます。

明治にはいると明治15年4月3日には自由党総裁・板垣退助が中津川で演説を行い、その3日後に岐阜で暴漢におそわれています。「板垣死すとも自由は死せず」

歴史資料館を見てますと、平田学などの国学の人々が自由民権運動にも参加して、さらに中津川の教育にたずさわっていったような感じもみうけられました。

中津川は江戸末期から地歌舞伎が盛んのようです。横浜港が開港したと聞くとすぐ生糸を売りにいき紡績がはじまり、水力発電がはじまるとその工事関係の人でにぎわったようでそういう人の集まりに合わせて芸能も楽しみの一つとして受け入れられたのでしょう。江戸の歌舞伎役者さんにもきてもらったようで、地歌舞伎が今も残っているというのは凄いことです。

旅としては中山道はしばらくないと思いますが、中津川の資料館では、この近辺の中山道の道をコピーして置いてくれてましたので、それを眺めつつ観光として出かけることもあるでしょう。

さらにここで『夜明け前』の文章と写真で構成した『夜明け前ものがたり』(白木益三著)を購入したので、それを開きつつ、『夜明け前』の続きにとりかかるとしましょう。

 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(3)

落合の石畳が思っていたより長かったので調べたところ840メートルでした。十国峠を歩きやすくするために石を敷きならべたもので当時のままの部分が三か所70.8メートルあります。なだらかな石畳の坂で芸術品のような趣です。

途中に今は閉められている山のうさぎ茶屋というのがあって、その前にかなりはげてしまった<中乗り新三>の旅烏姿の看板がありました。聞いた事のある名前ですが、どんな人なのかわからないので検索しましたら、芝居や映画にでてくる主人公で、映画では三波春夫さんが演じてました。江戸から木曽に材木を買い付けにきて、まあ渡世のいろいろなことがあるということらしいのです。

木曽の木は尾張藩にとっては宝の山で、村人は非常に厳しい規制のなかにあり、勝手に木を切らない様に、のこぎりを使わせなかったのです。斧だと音が響くのでこっそり切ろうとしてもすぐ判ってしまうからです。木一本首ひとつといわれているほど厳罰が待ち構えていました。

切った木を木曽川を使っての運搬方法も木曽川本流では大川狩(おおかわがり)といって、組み立てられた木を流す通路を一本一本流していくのです。模型があり木の流しそうめんのようでした。

明治となり山林が自分たちの手に戻ってくると信じていたのにそうはならず、『夜明け前』の半蔵は奔走するのですが、明治22年には皇室の財産に編入されてしまうのです。とまあ資料館的にはそうなりますが、『夜明け前』ではこれから読んでのことです。

馬籠では昼食をしたお店のかたが、一人なら熊よけの鈴をもっていったほうがよいということなので、観光案内所で借りました。これはお金を払って借り、次の宿場の観光案内所で返すとお金をもどしてくれます。

妻籠に向かいますが馬籠宿の家並みを抜けたところに展望台があり、恵那山が見え、半蔵とお民夫婦の恵那山を眺める会話と妻籠と馬籠の風景の違いがでてくる『夜明け前』の一文が紹介されています。馬籠峠の頂上といっても山の中で見晴しの良いのはここだけといえます。

山の中ですので道は判りやすく案内表示がしっかりしていますので、天気と体力だけそろえば大丈夫ですが、馬籠峠まではちょっときつい登りもありました。所々に熊よけの鐘があって、このときとばかり元気づけに鳴らして歩きました。途中に十返舎一九の狂歌碑もあります。「 渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめしここの名物 」 渋皮そのままの女も名物の栗のこわめしは食べました。

馬籠峠を越えると下りですので気分も樂でしたが、途中の休憩場所でお茶をすすめられましたが先が急がれておことわりしました。外国人のかたのほうが歩いてられる数は多いです。休憩所の人が、15分ぐらい歩くと女滝、男滝があるので涼しいから寄って見ていきなさいと教えてくれました。妻籠までは1時間といわれましたが、私は1時間半かかりました。15分たっても滝の案内がなく見逃したかなとおもった頃にありました。滝の水の力におおわれた涼しい時間でした。しかし歩みは予想どおりおそくなっていました。

はるか下のほうに家が見える箇所もあり、馬籠に入る途中の棚田の風景とは違い、その深さに木曽の山中をあらためて感じる風景にも出会います。前日、妻籠の宿場は観光しておいたので宿に入る見知った家並みを通るようにして無事鈴も返しましたが、久しく歩いていなかったので思いのほか疲れました。

妻籠も馬籠も宿場にすぐ入れない様に道を直角にまげている枡形(ますがた)が道が狭く坂なので面白いかたちで残っていました。大名なども泊るのでその身の安全や大名たちの格差もあるので、行列が鉢合わせしないための工夫でもあったようです。中津川宿などは平なためもあって枡形が直角に曲がっているのが一目でわかります。

東海道は、開発のためどんどん枡形も壊されてしまっています。疲れはしましたが、自然も中仙道を味わったという気分にさせられ満足、満足です。

 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(2)

藤村さんんの『嵐』の中に、馬籠の長男・楠雄さんの新しい家を訪れた時のことが書かれています。

中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待ってい木曽路に残った冬も三留野(みどの)((たりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓(たに)の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた

藤村さんたちは、甲府を通り下諏訪で一泊し、落合川駅かから木曽路に入っています。私は、中津川駅からバスで木曽路口へ行き、そこから歩きたかった落合の石畳を登って馬籠へ。雨の後で石がぬれておりすべり登りでよかったです。水力電気の工事での木曽川の様子も藤村さんは見ていたわけです。

途中で私はさんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。

藤村さんはこの森さん(原さん)には、お金は登記をしてから渡したほうがよいなど細かく手紙で書かれていて、原さんも若いながらしっかり楠雄さんの自立に手をかされています。

私のほうの旅には、藤村さんだけではなく、もう一人同道者がいました。それは、ノボさんこと正岡子規さんで、子規さんは念願だった木曽路を歩いた紀行文『かけはしの記』を書いています。念願とはいえ、健康を害し帰郷する途中で歩いているのです。このあたりが子規さんの無茶なところであり、この性格が皆に愛されると同時に血を吐いても鳴きつづける<ホトトギス>の一生となりました。

子規さんは、上野、軽井沢、善光寺、川中島、松本、三留野、妻籠、馬籠、余戸村、御嵩を越えて、舟にて犬山城の下を過ぎ舟を降り、木曽停留場に至っています。

この旅ついに膝栗毛の極意を以て終れり

信濃なる木曽の旅路を人問はばただ白雲のたつとこたへよ

妻籠と馬籠にかんしては

妻籠通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇川(きそかわ)に別れ行く。

馬籠峠のふもとで馬を頼もうとするがいなくてわらじを履きなおし、下りてくるひとに里数をききながらのぼりつめている。私は馬籠側から子規さんとは反対方向から登り妻籠へ向かったわけで、子規さんと同じようにあと何キロかと標識を眺めつつ馬籠峠目指して登ったのです。

子規さんは馬籠宿で一泊していますが、次の日雨なのに宿の娘に合羽を買って来るように頼み馬籠を下っています。病の身でありながらと紀行文を読みつつ気にかかりました。

馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。

桑の実の木曾路出づれば穂麦かな
上の句の碑が、藤村さんの書いた「是より北木曽路の碑」のそばにある正岡子規さんの句碑です。芭蕉さんの「送られて送りつはては木曽の秋」の句碑もあり、この芭蕉句碑を建てた頃のことが『夜明け前』に出てきます。島崎正樹(藤村の父)翁記念碑もありました。そしてここは美濃と信濃の国境なのです。
私の歩いた時は、山々の緑と麦穂の黄色に百日紅の濃い桃色の花が調和した木曽路の風景でした。<百日紅なにをかたらん麦穂かな>
こういうつまらぬことを書けるのは、今回の旅の友の本『笑う子規』のせいであります。
俳句とはおかしみの文芸として、子規記念博物館の館長もされた天野祐吉さんが、子規さんの俳句から笑える句を選び、それぞれの句に天野さんが短文を書き、南伸坊さんが絵を添えられているのです。子規庵で見つけたのですが、楽しい本で笑えます。
桃太郎は桃金太郎はなにからぞ (金太郎は飴から生まれたに決まっとるじゃろ)
えらい人になったそうなと夕涼み (「秋山さんとこのご兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」)
夕立ちや蛙の面に三粒程  (一粒じゃ寂しい。五粒じゃうるさい。三粒程がよろしいようで。)
そういえば、どこかの風邪くすりも三回と三錠でした。俳諧の心のあるひとがコマーシャルつくったのでしょうか。三を二回も使っているのでそれはないか。そこで自分の句?に短文を。(百日紅の高さと下をむく麦穂が話をするのはかなり困難であろう。ないしょばなしはむりである。)つまらぬと思った人は、『笑う子規』を購入して口直しをされたがよかろう。



 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(1)

『夜明け前』を読んでいると、やはり現地へいかなくてはと思い立ちました。JR南木曽駅で降りてバスで妻籠へ。南木曽から妻籠まで歩いて一時間ということなので歩くことも考えたのですが、東海道歩きでどうしても時間に追われるのを経験しているためそれをやめにし、今回は宿場をゆっくり見学することにしました。正解だったとおもいます。南木曽は<みなみきそ>ではなく<なぎそ>と読むのですが、<なぎそ>にすぐ反応できず、一呼吸おいて気がつきあわてて降りました。

南木曽はもう一つ発見があり、記憶に強い場所となりましたが、それはのちほど。

妻籠と馬籠間は歩きました。ここは歩いて置かなければ『夜明け前』の世界により密着できないですし、まだ四分の一しか読んでいないのですから、このあとのための楽しみとも関係してきます。『夜明け前』は面白いです。島崎藤村さんは、この作品があっての文豪とおもいます。

明治維新前の木曽路の山の中で限られた情報と規制の多い生活の中でこれから起こるであろう渦をまだ捉えられず、続いてきたしきたりを受け継いでいこうとする主人公・半蔵がゆっくりと自分の生き方をさぐりはじめています。

妻籠、馬籠、中津川は半蔵にとっての心の支えともなる地域であり人でもあります。

本陣の仕事、それを助ける宿のそれぞれの立場の人。宿には旦那衆という集まりもあって、そこでは、俳句であるとか、古美術に対する趣味であるとか、それを理解する仲間があったようです。本陣とか脇本陣となれば、お殿様が泊ったり休憩したりするので、床の間の掛け軸や置物などのためにも名のあるものを収集したりもしていたのでしょう。

ただ本陣は副業が許されず、脇本陣は許されていたようで酒造業を兼ねたりして、維新の時には脇本陣のほうが長く生き残れたところもあるようです。

先に馬籠で、藤村さんの家族のことで気にかかっていたことのあらましがわかったのでそのことから書き記します。

年譜に1923年(大正12年)8月藤村さんが52歳のとき、「長男楠雄を郷里で帰農させ、妻子の遺骨を埋葬するため帰郷した」とあり、楠雄さんが18歳のときです。一人で親戚にでもあずけたのであろうかと気になっていたのです。

馬籠宿に「清水屋資料館」があり、馬籠宿役人を努められた家で、建物は残っていて二階が資料館となっています。そこに立ち寄って二階を見せてもらったのですが、その時、「上には藤村さんの手紙などもあるのですが、お金の事が出て来て金貸しだったのですかとよくきかれます。そうではなく、藤村さんの息子さんの楠雄さんを預かっていたのです。」とご婦人が教えてくれました。「えっ、楠雄さんはここに預けられていたのですか。」私があまりびっくりして素っ頓狂な声をだしたからでしょうか、色々なお話しを聞かせてくださいました。楠雄さんは東京で明治学院に通っていたのに中退して馬籠にて帰農するのです。

そこまでにいたる、藤村さんと楠雄さんとの話し合いがどんなものであったのかはわかりません。清水屋さんの原家は、島崎家とは旦那衆としての付き合いもあり親しい関係で、すでに島崎家は馬篭をはなれだれも残っていませんでした。いわば他人に楠雄さんを一人農業にたずさわるため預けたわけで、相当信頼関係がなければできないと思います。

ご婦人は楠雄さんを預かった原一平さんの息子さんのお嫁さんで、一平さんは舅にあたるわけです。ご婦人からみても一平さんは穏やかで周りからも信頼されたかただったそうです。楠雄さんは、通りに面した部屋で寝泊りして農業に従事し、藤村さんがたずねてくると藤村さんはその部屋の二階の部屋に泊まられたそうです。

資料の手紙には、細かくお金のことがでてきます。楠雄さんはその後家を持ち、田畑ももちます。そのため藤村さんはお金をだされたようで、そのやりとりの様子が手紙からうかがうことができるのです。そこまで原さんにまかせるということは、藤村さんが原一平さんを信頼して楠雄さんを預けられたのだということですし、原さんもその信頼にこたえて楠雄さんを受け入れられたわけです。

1926年(大正15、昭和元年)には、楠雄さんの新築の家に藤村さんも訪れています。楠雄さんが馬籠の人となり、藤村さんが『夜明け前』を書くことによって、馬籠から去った本陣の島崎家はその過去の足跡を残すかたちとなったわけです。

原一平さんのことは、藤村さんの作品『嵐』に「森さん」としてでてくるようです。ご婦人のおかげで、楠雄さんが親戚のいない馬籠で帰農するという新しい出発が危惧していた暗さとは違っていたらしいことがわかりお話しを聞けてよかったです。ご婦人のお嫁にこられた時の様子も聴かせてもらえて楽しいひと時でした。

南木曽の発見ですが、馬籠から妻籠に入るところに、「関西電力妻籠発電所」のたてものがあり、関西電力といえば、電力王の福沢桃介さんですので、桃介さんとこの旅であうかも、貞奴さんも出て来たりしてと思っていたら出現しました。

木曽の豊富な水を見逃すような桃介さんではありません。しっかり水力発電をやっておりました。その仕事の関係で南木曽に別荘をたてており今そこが記念館として公開されています。もちろん貞奴さんも訪れています。そして木曽川に発電所建設資材運搬用の橋をかけ「桃介橋」となずけられ今は生活道路として使われている橋があるのです。

日本最大級の木製吊り橋で、南木曽駅から5分のところにあり、急いで少しだけ渡ってきました。残念ながら福沢桃介記念館による時間はありませんでした。橋の竣工式の写真には、貞奴さんも写っていました。

長谷川時雨さんの「近代美人伝」の「マダヌ貞奴」を読みました。時雨さんとしては、さらなる芸の修練をした役者貞奴さんを観たかったようです。それほで、役者貞奴は時雨さんの眼にかなった役者さんだったようです。時雨さんから観ると和物よりも洋物のほうが魅力的だったようですが、残念ながら写真と想像ではわかりません。おそらく和の型のないところから匂いたつ妖しさなのでしょう。

『夜明け前』は読み終わるのに時間がかかりそうです。

 

 

茅ヶ崎散策(2)

鎌倉で思い出しました。夏目漱石さんが円覚寺で参禅しましたが、そのときのことは『門』に書かれていて、『門』にでてくる釈宜道が釈宗活さんのことで、主人公の宗助は宜道さんあての紹介状をもって寺を訪れ、宜道さんによって老師とお会いします。らいてうさんはこの宗活さんのもとで「見性(けんしょう)」といわれる悟りの一つに到達しています。不思議なつながりです。森田草平さんとのことでは、らいてうさんは漱石さんを快くおもっていなかったようです。  東慶寺の水月観音菩薩

さて二回目の茅ヶ崎散策には、「開高健記念館」をいれ、そこから海岸にでて適当なところで高砂緑地に向かい、市立美術館へもより駅にむかうコースを考えました。

開高健記念館」は開館日が週3日ほどでバスを使うことにしましたが、開高健記念館前には停まらないバスに乗車したので、一番近いバス停を降りる時に運転手さんが道を教えてくれ助かりました。

 

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開高健さんならではの言葉の石碑やモニュメントがあります。「入ってきて人生と叫び出ていって死と叫ぶ」「朝露の一滴にも天と地が映っている」「明日世界が滅びるとしても今日あなたはリンゴの木を植える」

 

 

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可笑しかったのは家のサンルームから外にでて玄関のほうへ降りてゆく階段があるのですが、その階段の石が、火口から飛んで来てそのままの石というようなごつごつした石で、足元が危なっかしくあえて危険につくってあるようで、これは下駄で呑気に降りれない石段だと思わず開高健さんの怪しげな笑い顔を思い浮かべました。「遠い道をゆっくりとけれどやすまずに歩いていく人がある」

 

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書斎から見える庭には越前スイセンがあります。ベトナム戦争の取材を終えた冬、越前岬の深い雪のなかで、灯の様に咲く越前スイセンに強い感銘を受けたのがこの花との出会いのようです。

 

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柳原良平さんのイラストと開高健さんのキャッチコピーのトリスウイスキーの広告も多数展示されていますが狭いのがちょっと残念でした。映像の笑っていながら眼が笑っていないところが、開高さんの見て来た深淵を覗きみるようでしたが、つりのときが一番幸せな表情です。

 

 

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お隣が「茅ヶ崎ゆかりの人物館」になっていて、茅ケ崎ゆかりの土井隆雄さん、山本昌さん、加山雄三さん、桑田佳祐さんなどの関連するものが展示されていました。新しくて明るくて、休憩室に茅ヶ崎関連のコミュニティ雑誌もあり閲覧させてもらいました。

面白いのを見つけました。小津安二郎監督の甥御さんが撮影を見に行った時の文です。甥御さんが見ているときお風呂を沸かしていて、気に入った湯気がでず何回も同じことをやっていてあきてしまったというのです。これには笑ってしまいました。小津監督が俳優さんだけではなく湯気ともじっと格闘していたのです。

森田芳光監督も茅ヶ崎出身でした。函館を舞台にした映画を4本も撮られているので、海の近くに親近感があるのかもしれませんが、湘南の海とは違うなあとおもわれたかもしれません。でも湘南の森田監督の映画はまだみていません。あるのでしょうか。漱石さんの『それから』を期待せずにみたところ、松田優作さんが思いがけずはまっていて驚いたことがあります。

気持ちのよい時間のあと、係りのかたと少し話しをしましたら、小津監督の定宿がまだ営業しているということで、このまま海に出て海岸線を歩き、サザンビーチのモニュメントのあるあたりから駅に向かう途中であることを教えてもらいました。小津さんのことは調べていなかったので朗報でした。

海にでたところその砂山の感じに、映画『長屋紳士録』の飯田蝶子さんと少年がおにぎりを食べる場面を思い出し、きっとここの海岸線で撮ったのだろうと確信しました。この砂浜の山の感じなのです。ここと決めました。八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」 の浜でもあります。  映画『長屋紳士録』と『日本の悲劇』

サザンビーチのCのモニュメントを背に国道にでて、途中昼食をとり、小津監督の定宿「茅ヶ崎館」に向かいます。この宿は、南湖院の国木田独歩さんを見舞った田山花袋さんなども滞在し、なんといっても小津監督の『東京物語』などの映画作品のうまれた場所です。宿は民家の住宅街にこじんまりとはまりこんで暖簾が静かにゆれていました。ここから浜へも散策にもいかれたのでしょう。

 

 

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最後は再び、高砂緑地から市立美術館へ。今回は開館していることを調べてありました。

青山義雄展 「この男は色彩を持っている ーマティスが認めた日本人画家ー没後20年」

初めて目にする画家でした。残念ながらこの人だけの色というのがわかりませんでした。歩き疲れた者にとってはじーっと見つめるというよりも、ふわっとながめる感じの絵でした。

茅ヶ崎関係の本が展示されていて、長谷川時雨さんの『近代美人伝(上)』がありました。貞奴さんのところだけでも読んでくださいとありました。ほかの本もながめ読まずにきましたが、今思えば読んでくればよかったとおもっています。いずれ手にしましょう。いずれが多すぎますが。

 

 

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森まゆみさんの『断髪のモダンガール』に<読書案内>があり、数えますと88あります。(上)(下)とか全集もありますから何冊になることでしょう。

菱沼海岸からサザンビーチを歩いたわけですが、東方面の鵠沼(くげぬま)海岸あたりも歩いてみたいと思っています。

茅ヶ崎は芸能の街で、壮士演歌手の添田唖然坊さんが住んで居たり、友田恭助さんと土方与志さんが子供芝居「南湖座」をはじめたりもしています。イサムノグチさんも小学校時代ここで過ごしていました。なかなか盛りだくさんの散策となりました。

 

茅ヶ崎散策(1)

JR茅ヶ崎駅から海側に10分位歩くと茅ヶ崎市美術館があると知り、鎌倉の帰りに寄ったことがあります。

残念ながら美術館は何かの都合で展示室は閉館でしたが受付の人はいまして、川上貞奴さんの写真絵葉書に目がとまりました。どうして貞奴さんの絵葉書があるのか係りのひとに尋ねますと、隣に川上音二郎さんと貞奴さんの住んで居た邸宅(萬松園)があったということです。

写真絵葉書は <舞台の貞奴「八犬伝墨田高樓」帝国劇場> とあり、頭に烏帽子の横向きの舞台衣装すがたです。静かな気迫と気品があり、きちんと和物の舞台姿を写真で初めて目にしました。

 

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貞奴さん、女好きの伊藤博文さんの寵愛からするりと抜け出し、壮士芝居の川上音二郎さんと結婚、海外での巡業芝居で「マダム貞奴」として名を馳せたかたです。その二人の邸宅跡が今は高砂緑地となっていて、その後そこは実業家の原安三郎さんが購入し松籟荘(しょうらいそう)となり、茅ヶ崎市美術館の入口脇には、松籟荘の玄関前庭と塀の一部が残されています。

 

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森まゆみさんが『断髪のモダンガール』のなかで貞奴さんのことも書かれていますが、名古屋の町づくりNPOに招かれた時旧貞奴邸があって驚かれています。私もこの地域は歩いたことがあり、ステンドガラスの美しい旧邸は「文化のみち二葉館」の名称で市民に広く利用されていました。

文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸 (futabakan.jp)

ただ入ってこの建物が貞奴さんの旧邸で、川上音二郎さんの死後、福沢諭吉さんの娘婿である福沢桃介さんと同居していたことを知り驚きました。貞奴さんは学生時代の桃介さんに会っていて別れざるおえない状況だったのですが、再び出会い生活を共にするのですから、時間の経過の面白さです。

貞奴さんは七歳のとき、人形町の浜田屋へ養女に入りますが、その浜田屋の位置が歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわのなさけうきなのよこぐし)』の<源氏店>の場と重なるのです。川上音二郎さんは、尊敬する九代目團十郎さんの別荘・孤松庵が茅ヶ崎にあるため茅ヶ崎に住んだともいわれています。茅ヶ崎の駅のそばには演劇学校予定地も購入していましたが、死によって中止となってしまいました。

茅ヶ崎市美術館のそばに、平塚らいてうさんの記念碑と八木重吉さんの記念碑があります。その時はらいてうさんよりも、八木重吉さんの碑が心に沁みました。

「蟲が鳴いている いまないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いている しぜんと涙をさそわれる」

 

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碑の説明には教師をしていたが結核となり茅ヶ崎の南湖院に入院し、その後自宅で療養し29歳で亡くなり、療養中のノートに「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」とに記されていたとありました。

この南湖院がらいてうさんと奥村博史さんが出会った場所なのです。南湖院は当時東洋一のサナトリウムでした。らいてうさんの身近な人がここに入院していてここで『青鞜』の編集会議をすることもありました。そこへ雑誌社の人と列車の中で偶然知り合った奥村博史さんが訪れたのが初めての出会いです。お互いに一目惚れだったようです。世間では、奥村さんが6歳年下なので、<若い燕>などとも言いましたがそんなことにひるむような方達ではありません。

その後共同生活に入り、奥村さんは結核にかかりこの南湖院での闘病生活がはじまります。らいてうさんは看病に通うこととなり、幸い快方に向かうのです。そういう意味で茅ヶ崎はらいてうさんにとっては新たな出発地点でもあったわけです。

映画『『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』でもこの記念碑の除幕式の様子が映されています。 「元始 女性は太陽であった 真生の人であった」 やっとらいてうさんと茅ヶ崎が実態としてつながって浮かび上がってきました。

 

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この南湖院は今、第一病舎だけが残っていて、今年の4月から建物は未公開ですが「南湖院記念 太陽の郷庭園」として公開されています。開設者が 高田畊安(たかたこうあん)さんで、奥さんが勝海舟さんの孫娘・輝さんです。

南湖院には、国木田独歩さんも入院し、ここで亡くなっています。

茅ヶ崎散策とは離れますが、少し拾い読みの明治女学校で学んだ人々とつながりました。明治女学校出身の女性で『青鞜』と少し係ったかたに作家の野上彌生子さんがいます。相馬黒光さんは、国木田独歩さんの最初の奥さんで有島武郎さんの『或る女』のモデルとされる佐々城信子さんの従妹にあたり『国木田独歩と信子』を書かれています。羽仁もと子さんは自由学園を創立します。

興味深いのは、相馬黒光さんは、明治女学校の生徒と教師の年の近さもある恋愛に懐疑的で、羽仁もと子さんは、学費は免除され『女学雑誌』の仮名つけを手伝いそれを寄宿舎料にあてるという苦学生でこちらも恋どころではなかったようです。若松賎子さんの『小公女』訳文や島崎藤村さんの原稿にも目を通されています。その経験から日本で初めての女性ジャーナリストとなり教育事業へとすすむのです。

その自由学園で学ばれたのが羽田澄子監督なのです。羽田監督の中に生きているのが、羽仁もと子先生の「感じた人は行う責任がある」という言葉で、言葉通りに生きておられます。

最初の散策は、高砂緑地と美術館だけでした。その後の時間の経過で今は訪れたときよりもかなり膨らみました。二回目は八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」の浜まで行かなければと計画したのです。

 

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