前進座『牛若丸』と映画『歌舞伎十八番「鳴神」 美女と怪龍』

前進座創立八十五周年記念公演の一つで、源義経が牛若丸と名のっていたころの創作歌舞伎『牛若丸』の公演を観てきました。

藤川矢之輔さんが口上のあと、「歌舞伎の楽しさ」ということで、音楽、立役、女方、立ち回り、だんまりなどの解説がありました。国立劇場での歌舞伎鑑賞教室などで「歌舞伎のみかた」という同じような解説がありますが、この分野まだまだ工夫の余地ありだと思わせてくれました。

驚いたのは舞踊のところで、『操り三番叟』をたっぷり踊られたことです。矢之輔さんが操る後見で、三番叟はどなたが踊られたのかわからないのですが、しっかりと踊られていました。

口上のときに『牛若丸』は、九州の子ども劇場からはじまり巡業してこられたとの話しがありました。浅草公会堂は27日一日一回だけの公演でした。

牛若丸』は三幕で、常盤御前(早瀬栄之丞)が乳飲み子の牛若丸を抱いて逃げる雪の場、京都五条の橋に美しい少年が現れ刀を奪い、それを聞いた弁慶(渡会元之)が退治しようとして反対にやられてしまい、それが牛若丸(本村祐樹)で弁慶が家来となるという月の場、鞍馬で剣術の稽古をする牛若丸が大天狗僧正坊(矢之輔)に兵法書の一巻を与えられ、陸奥の国へと花道をさる花の場の三幕になっていて、「雪月花」として変化をあたえる構成です。

本村祐樹さんは、玉浦有之祐さんに名前をかえられたようですが、チラシではもとのお名前のままでした。玉浦有之祐さん、発声もよく牛若丸の幼さを残した雰囲気があり、それでいて敏捷な動きで形もよく華やかさがあり、役がよく合っていました。歌舞伎の弁慶としては元之さんには、もう少し大きさが欲しいところです。矢之輔さんはさすが舞台を締めてくれます。

わかりやすく、美しい舞台で、牛若丸と弁慶の立ち廻り、牛若丸とカラス天狗の立ち廻りなど、楽しい舞台で、子供たちが喜びそうです。

映画『大人は判ってくれな』(フランソワ・トリュフォー監督)で、子供たちが人形芝居「赤ずきんちゃん」のお婆さんの化けた狼と赤ずきんちゃんの場面を観ている子供たちの様子が映しだされますが、子供たちがお話しのなかに入り込んでいる表情が素晴らしいのです。その表情が浮かんできました。

出演・中嶋宏太郎、上滝啓太郎、忠村臣弥、嵐市太郎、和田優樹

五月には国立劇場で山田洋次監督の脚本で『裏長屋騒動記 落語「らくだ」「井戸の茶碗」より』の公演があります。

山田洋次監督が、歌舞伎学会で「演劇史の証言」として話してくださった時、新たな視点 <江戸・文七元結・寅さん> 歌舞伎をまたやりたいというお話があったのですが、落語をもとにした脚本で前進座とのコラボが実現するわけです。どんな世話物となるのか前進座としての新しい世話物のができあがるかどうか楽しみです。

前進座と映画会社提携の映画や座員複数の出演映画が幾つかありますが、歌舞伎『鳴神』をもとにしたのが『歌舞伎十八番「鳴神」 美女と怪龍』(1955年)です。前進座25周年記念映画でもあり、鳴神を演じるのが河原崎長十郎(四代目)さんです。

監督・吉村公三郎/脚本・新藤兼人/撮影・宮島義勇/音楽・伊福部昭

音楽があの『ゴジラ』の伊福部昭さんで、古典との融合と斬新さを模索したであろうことが感じられます。スタッフをみるとその意気込みが伝わります。

かんばつが続き、早雲王子は気ままで、頼りない関白のもと仕える文屋豊秀、小野春風は困りはてています。かんばつは鳴神が朝廷に裏切られ、竜神を滝に押し込めてしまったからです。阿部晴明も、呼ばれますが、読み解けば鳴神の三千力の強力をおさえることができるという唐文を読み解くことができません。

そこへ呼ばれたのがくものたえま姫で、自分が読み解くというのです。そして文屋豊秀との結婚を約束させます。くものたえま姫は、みよしとうてなを連れて、鳴神のもとへ行きます。実写ですから、この道が岩肌の見える大変な道中です。途中でくものたえま姫は唐文を投げ捨てます。最初から読む力などなく、くものたえま姫は自分が鳴神に対峙してそこで思案してこの大役を果たす心づもりなのです。

鳴神上人に仕える黒雲坊と白雲坊はを、みよしとうてなの踊りとお酒で酔いつぶれさせ、鳴神上人には、自らの手で酔わせ、滝にかかるしめ縄を切り滝つぼから竜神を解き放ち雨を降らせます。最初に舞台場面があり、実写となり、鳴神の怒りで舞台場面にもどるという手法を使い長十郎さんの歌舞伎のしどころをも観せるという手法を使っています。

中村翫右衛門(三代目)さんと長十郎さんが、それぞれの芸風のぶつかり合いで観客を歓喜させたようですが、映画『人情紙風船』(山中貞雄監督)の主人公とは違うおおらかな明るさもあって、さもありなんと想像できました。くものたえま姫の乙羽信子さんがこれまた現代人の若い娘のようなあっけらかんとした人物像で、鳴神上人を自分の思い通りにしていき、歌舞伎とは違う人それぞれの可笑しさが漂う映画となっています。戦争が終わった解放感もあるのかなと思わせられました。

出演・鳴神上人(河原崎長十郎)、くものたえま姫(乙羽信子)、文屋豊秀(東千代之介)、みよし(日高澄子)、うてな(浦里はるみ)、早雲王子(河原崎国太郎)、関白基経(嵐芳三郎)、小野春風(片岡栄二郎)、黒雲坊(市川祥之介)、白雲坊(殿山泰司)、(瀬川菊之丞、田代百合子、河原崎しづ江)

 

映画『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』

池袋の「新文芸坐」で、三船敏郎、勝新太郎、中村錦之助の映画の特集をやっています。驚きましたことに、このビッグな俳優さんたちは、1997年の同じ年に亡くなられたのですね。そして没後20年ということです。

今回のなかで一番見たかったのが、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(1952年・東宝)です。3月の国立劇場での歌舞伎『伊賀越道中双六』と関係してもいて、実際に<鍵屋の辻>に行ってもいたのでそこが映像でどう映るのか楽しみでした。                伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

東京国立近代美術館フイルムセンター収蔵作品で、フイルムセンターで上映の際、見逃してしまったのですが、今回借りられたようで感謝です。

監督が森一生さんで、脚本が黒澤明さんです。最初、荒木又右衛門の三船敏郎さんが、額のハチマキに投剣を数本差し、勇ましく闘っているのですが、ナレーターが入り、講談では36人斬ったというが実際に斬ったのは二人で、二人斬るということがどんなに大変なことであるかというようなことを言われ、ここでは講談ではなく史実に基ずいた話しを描くということなのです。講談調の娯楽時代劇映画と思っていたのが大逆転に大歓迎でした。

さらに、<鍵屋の辻>が、映画を撮影した時の風景が映され、説明が入り、仇討の時代に合わせてのセット組み立ての風景となり、私が見た2015年から1952年さらに仇討のあった嘉永11年(1634年)へと、<鍵屋の辻>がどんどんタイムスリップしていってくれ、お城の石垣がそばにあり、橋がありと嬉しくなりました。実際にその場に立ってみても、想像では補えない風景でした。映画用のセットだとしても一応当時の様子として全面的に受け入れます。

渡邊数馬(片山明彦)の弟が河合又五郎(千秋実)に殺されたとして、数馬、荒木又右衛門(三船敏郎)、川合武右衛門(小川虎之助)、森孫右衛門六助(加東大介)が仇をとるのです。

河合又五郎のほうには、叔父・河合甚左衛門(志村喬)がいて、荒木又右衛門とは朋友の仲なのですが、話しが前後して二人の別れの場面もでてきます。寛永11年11月7日からさかのぼって5年前から仇討ちの日まで、行きつもどりつの話しのすすめかたもこの映画のみどころのポイントでもあります。

鍵屋で仇を待つ間、それぞれが今までの5年間を思い出すのです。六助は一行の到着を知らせるため橋のたもとで待ちます。川の流れが映り彼もまた思い出しています。老齢の父から父の名前の孫右衛門をもらった日のことを。

又五郎側には槍の名人・櫻井半兵衛(徳大寺伸)がいます。その半兵衛の顔を見知るため、道中の茶屋で教えてもらいここを通ると言われ確かめます。数年後ここの茶屋に再び寄り、亭主から半兵衛の行先を聞き付けます。江戸に二回行き、行先がわからず、また江戸に向かうしかないのかというような時です。いかに仇の相手の居所をつきとめるのが大変かがよくわかります。

相手は隠れ逃げているわけで、又五郎は旗本の家中にいます。この仇討は旗本と外様をかけての果し合いでもあったのです。仇討の討つものと討たれるものの制度的な虚しさも伝わってきます。それを感じさせながらも、行きつもどりつして、今に至っているという臨場感や登場人物の心の内を上手く出していきます。

六助は一行の姿をみて動転しながらもゆっくり鍵屋に報せにもどります。しかし、橋の向こうで一行は止るのです。数えていませんが、史実では相手は11人です。問題は、川合甚左衛門と槍の名人・櫻井半兵衛です。

甚左衛門は又五郎が斬り、半兵衛に槍を持たせないように槍持ちを六助と武右衛門が阻止して、数馬は又五郎を討つという手はずです。ところが、ここにきて一行が待ち伏せに気がついたのか止ったのです。カメラは又五郎側に移ります。甚左衛門が、寒さのため着るものを重ねたのです。「こんなに着込むと、いざという時に動きがとれないであろう。」と甚左衛門はいいます。待ち伏せに気がついていません。

身を守るため、鎖帷子(くさりかたびら)を着ていますが、これが寒いといっそう体を冷やすのです。なるほどとおもいました。そして、又五郎も頭にかぶっていた鉄かぶとを取ってしまうのです。先導の馬上の人物が先に偵察をして大丈夫と手をふります。

ここから仇討が始まるのです。ここまで又右衛門の三船敏郎さんが力強く冷静に判断して3人を引っ張ていきます。このあたりが三船さんらしい役どころです。三船さんは予定どおり朋友の志村さんを斬り、加藤さんと小川さんは、槍を徳大寺さんに持たせることはありませんでしたが、小川さんは斬られてなくなってしまい、徳大寺さんは三船さんに斬られます。

一対一の片山さんと千秋さん。これが、どちらも剣に強いとはいえず勝負に時間がかかります。それだけ人を斬るという行為は簡単なことではないのです。簡単であってはこまる行為です。しかし見ていると片山さんにイライラしてきます。何をやっているのと。仇討ちを見ている人々もそうだったのでしょう。こういう心理って怖いですね。

黒澤さんはこのへんの心理も判っていたとおもいます。映画のチラシに「リアルな立ち廻りを狙った作劇は、黒澤が自身の時代劇を探っていたのではないかと森は推察する。」とあります。時間差の押し戻し、仇討ちの緊迫感、心理情況など森一生監督の腕も素晴らしいとおもいます。変化球がきちんと捕手のグローブ、観客に納まった映画でした。

『四谷怪談』関連映画 (3)

加藤泰監督の『怪談 お岩の亡霊』(1961年・昭和36年)は伊右衛門が、若山富三郎さんなのですが、浪人ということもあって髭ものびています。お梅と結婚するときも、鼻の下に髭があり、あの声ですのでどうも極道の伊右衛門さんという感じです。

監督・脚本・加藤泰/撮影・古谷伸/出演・民谷伊右衛門(若山富三郎)、お岩(藤代佳子)、佐藤与茂七(沢村訥升・九代目澤村宗十郎)、小平(伏見扇太郎)、伊勢屋喜兵衛(沢村宗之助)、お袖(桜町弘子)、お梅(三原有美子)、直助(近衛十四郎)

筋としては、正統派ですが、伊藤家は伊勢屋という商家で、伊右衛門の隣に引っ越してきます。伊右衛門と直助は、舅と与茂七の仇を討つとしますが、生きている与茂七は他家の武士で主人について江戸から離れています。

小平は、伊勢屋からお岩が受け取った血の道の薬を、病気の母親のために盗み、伊右衛門に殺されてしまいます。

<お岩の亡霊>とあるだけに、お岩さんの亡霊の登場が多いです。お寺で百万遍を唱えるところは、歌舞伎でも色々工夫して亡霊があらわれます。豊田四郎監督の『四谷怪談』でも、伊右衛門の幻覚にお岩と幸せそうな二人が出てきますが、こちらは、伊右衛門とお岩が踊る場面がでてきます。

与茂七が江戸にもどり、お岩が伊右衛門に殺されたことを告げる直助は、与茂七とお袖の仇討ちの助太刀をします。雪の場面で、与茂七は武士ですから、お袖と二人、白の着物で武士の仇討の衣装です。助太刀をした直助は、伊右衛門に殺されてしまいますが、「直助、ついていないね。」と言って死ぬあたりが近衛十四郎さんの直助らしいところです。

お袖と与茂七に討たれる伊右衛門は「首が飛んでもうごいてみせらあ。」の台詞ありです。

加藤泰監督は、忍術映画も撮られていたのですね。萩原遼監督との共作ですが、『伝奇大忍術映画 忍術児雷也』『伝奇大忍術映画 逆襲大蛇丸』(1955年昭和30年)がありました。

四代目中村雀右衛門さんが大谷友右衛門時代で、児雷也・尾形周馬役でガマに変身し、おろち丸の田崎潤さんが大蛇に変身、周馬側の綱手姫の利根はる恵さんがナメクジに変身するという忍術映画です。映画俳優としては友右衛門さんは繊細すぎるかもしれません。苦労されましたが、歌舞伎界にもどって正解だったとおもいます。この作品には、若山富三郎さんも出られていて、若山さんと加藤監督とは長いお付き合いなのです。

今の映像からすると技術的に劣って見えますが、全て手づくりできっとそれらしく見えるためにはどうすればよいかと一生懸命だったのだろうとおもえてきます。

『四谷怪談 お岩の亡霊』の森一生監督なども、『赤胴鈴之助 三つ目の鳥人』を撮られていて、撮影はなんと宮川一夫さんです。子供用とはあなどれない工夫をされています。

古い映画を見ていると驚かされることが沢山でてきます。映画人の職人としての心意気が伝わってきます。限られた中でどう自分たちの技術を使って面白いものにしていくかという意気込みです。

ただ聞いてみたいこともあります。どうして若山富三郎さんの伊右衛門は、髭をのこしたのかなあと。何か意味があったのでしょうか。

加藤泰監督の評判の長谷川伸原作の『瞼の母』は、『怪談 お岩の亡霊』の次の年、1962年(昭和37年)の作品です。評判どおり萬屋錦之助さんの華を生かして秀逸です。加藤泰監督の女優陣の衣装と着物の着せ方が美しいのです。

母親の小暮実千代さんが粋で綺麗で、錦之助さんの忠太郎が、自分の母親がこんないい女でどきどきして、それでいて自慢したいような嬉しさが湧き出ているのがわかります。それだけに、母親の拒絶から自分の中でおこったこの嬉しさに腹立たしくなったもう一人の忠太郎がみえてきます。

通過して通過して、手に入れていくのでしょう。

 

『四谷怪談』関連映画 (2)

『四谷怪談』関連映画 (1)  昨年の6月からかなり時間があいてしまいましたが、十七代目中村勘三郎さんの直助権兵衛とお会いできたのです。

1965年(昭和40年)豊田四郎監督の『四谷怪談』です。伊右衛門が仲代達矢さんで、勘三郎(十七代目)さんの直助との生き方の違いをテーマの中に入れていて嬉しい共演でした。

勘三郎さんの映画は『赤い陣羽織』『笛吹川』でも見ていますが、この『四谷怪談』は世話物の動きの真骨頂といえるとおもいます。死に方が歌舞伎役者を捨て映画俳優としての直助らしい手を抜かずの演技で、見れて良かったと少し興奮しました。『四谷怪談』映画関連の中でこの映画は相当ひいき目で見てしまっているかもしれません。

監督・豊田四郎/脚本・八住利雄/原作・鶴屋南北/撮影・村田博/音楽・武満徹/出演・民谷伊右衛門(仲代達矢)、お岩(岡田茉莉子)、宅悦(三島雅夫)、伊藤喜兵衛(小沢栄太郎)、四谷左門(永田靖)、佐藤与茂七(平幹二朗)、小仏小平(矢野宣)、おそで(池内淳子)、お梅(大空真弓)、おまき(淡路恵子)、直助権兵衛(十七代目中村勘三郎)

伊右衛門が刀を売る場面から始まり、刀が武士の魂ですが、伊右衛門の場合刀でこの世に仕返しをするとして刀を売るのをやめます。舅の四谷左門とて苦しい暮らし向きから娘のおそでは身を売る商売をしていて、姉のお岩も妹と同じく身を売ろうとします。ことのおこりは、仕える主君が気が触れたためお家断絶、家臣は放り出されたわけで、このあたりは忠臣蔵の裏からの見方というような視線が感じられます。

伊右衛門はお家断絶の際、お家の御用金を着服し、その事実を知っている四谷左門を切り捨てます。伊右衛門は浪人になったのは自分のせいではないのだ。主君のせいである。見ていろ何時かは世の中を見返してやるという野心のみが彼を支えていくのです。

直助は同じお家の中間でした。身分の違うおそでが、同じような身となり、おそでの体のみが直助ののぞみです。ところが、おそでの許嫁の与茂七に邪魔され思いがかなえられず与茂七を殺してしまいます。直助は自分のおもいをおそでに賭けていてそれを貫こうとしており、そこが伊右衛門の生き方との違いです。怪談ものですが、すべて伊右衛門の野心から事がおこり、そこに欲得のある人間が伊右衛門にからんでいきお岩の悲劇となりますが、お岩は死んでも伊右衛門の生き方に物申すという女性で、怨めしやというより、あくまで伊右衛門の生き方に対峙します。

直助は、自分のおもいを遂げるためには与茂七は邪魔です。与茂七を殺して顔の皮をはがした死体を四谷左門宅に運び、左門の死体とともにお岩とおそでには両者の仇をとることを告げ、おそでは直助と仮の夫婦となり、伊右衛門とお岩はもとのさやにおさまります。

伊右衛門の野心がくすぶりつづけるなか、10万石の御大家の重役である伊藤喜兵衛の娘のお梅が伊右衛門に惚れ、伊右衛門と一緒になるため自分から顔のくずれる薬をお岩に呑ませることをすすめるのです。このお梅は人任せにはしないのです。お梅に仕えるおまきもくせがありそうで、そうした欲を人物描写の中に映し出して撮っています。

直助はおそでに拒まれると悪態をつきつつもおそでのいうとおりにします。直助のおそでに対する純情さが不思議なところですが、惚れた女をものにする楽しみが直助の全てで、恋敵の与茂七もいないことです、自分になびくとの自信もあるのでしょう。

伊右衛門が仕官の道がひらいてきてお岩にたいする酷い仕打ちも意に解さず、直助の状況をたかが女ひとりのためにとばかにしますが、直助は俺には俺の生き方だよとばかりに、本当に女に惚れたことがあるのかとばかりに伊右衛門にふんといった感じであしらいます。ここらあたりになると、伊右衛門と直助の身分差はなく、ひとりの男と男の生きかたの違いとうつります。生き方といっても、悪にまみれた生き方ですが。

伊右衛門はお岩に自らの手で薬をお岩に渡し、自分の仕官の邪魔として自らの手で殺してしまいます。さらに小平も殺し、戸板にふたりを打ち付けて流します。お岩を殺したのが伊右衛門であると宅悦から聞き出したおそでは直助に、仇をとってくれと頼みます。承諾した直助に体を許した夜、与茂七があらわれ、死んだと思っていた与茂七にすがるおそでを見て、直助はおそでを殺します。直助は与茂七に殺されますが「喜んで死んでやる。この気持ちは伊右衛門にはわからねえだろう」とつぶやいて死にます。

伊右衛門はお岩と小平の亡霊に憑りつかれ、お梅と喜兵衛を殺してしまいます。お梅の乳母のおまきが、喜兵衛が残した伊右衛門の主君に対する推挙状を見つけ、伊右衛門に渡し夫婦同然となり、お寺で百万遍を唱えてもらい伊右衛門を幻覚から救おうとしますが、何匹ものねずみが出て来て、推挙状を喰いちぎる幻覚を見ておまきをも殺します。寺の外にはお岩の亡霊が立っていて「そんなことでは幸せにはなれません。」と告げて消えていきます。

伊右衛門は生きるために甲斐あるを見るまでは負けはしないと「負けやしない。首が飛んでも動いてみせるわ。」と言いつつ、自分の折れて飛んだ刀に我が身が倒れて死んでしまいます。最後は、売らなかった自分の刀で死ぬこととなり、人を斬った刀は自分の方をむいていたわけです。

仲代さんよく踏み留まりました。あぶないあぶない。勘三郎さんにもっていかれるところでした。上手いんです。長年鍛えて来た修練の極みです。台詞のリズム感。後を追う足取り。ウナギを捕るときのしぐさ。身に備わった動きに狂いがありません。豊田監督は勘三郎さんの直助としての身のこなしを見逃しませんでした。

それに対する仲代さんも武士の腰づかいで動き、刀を帯に差す時、シュルッという帯と刀の摺れる音をさせたり、刀さばきで刀と伊右衛門の関係をはっきりさせます。

役者さんそれぞれが、自分の欲のほどを表し、お岩とおそではひたすら仇討ということに身の潔白を頼みとします。

カラーで美しい場面もありますが、セット、美術の細部までを映像に写しだします。伊右衛門の家の屋根には引き窓がありました。庭に鶏がいて動かないので置物かなと思いましたら突然動いたりして、鶏も役者の台詞に合わせて演技させられていました。話しの流れはスムーズで飽きさせず、怪談映画でありながらそこに頼らず、かといってしっかり怪談映画であり、顔が崩れても、欲があっても女優陣は美しく、見どころ満載でした。

 

2017年2月23日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

シネマ歌舞伎『阿古屋』

歌舞伎『阿古屋』に関してはこちらにて。 歌舞伎座 十月歌舞伎 『阿古屋』

シネマ歌舞伎『阿古屋』のほうは、稽古風景のドキュメンタリー映像も含まれていて、今回はこれが楽しみでもありました。玉三郎さんの後輩に対する一言に興味があります。

太鼓奏者の林英哲さんの構成を玉三郎さんが担当されたときのことです。演奏場所が取り壊し前の倉庫で何をしても良いということで、林さんは、床に水を張って大太鼓がツ―ッと舟のように出てくるようにしたいと玉三郎さんに話したところ「お金はあるの?」ときかれたそうで、中途半端なことはしないほうが良いといったのだそうです。ひとりで太鼓を打つということをみせるだけで十分。その言葉に押され林さんは、25分間大太鼓のソロ演奏を初めてされたのです。

太鼓を打つ姿と音で勝負する。姑息な手段は使わない。厳しい。しかしお客さんを満足させられたら、それは、奏者にとってこれほど確かな手応えはありません。林さんは、完成度と充実度の高いライブであったと語られています。

シネマ歌舞伎の中で、玉三郎さんは語ります。玉三郎(五代目)を襲名した時、養父である守田勘弥(十四代目)さんに「二十歳までに、女形の全てを身につけるように」と言われ、その時から、阿古屋の役へつながっていたと。

玉三郎を襲名されたのが14歳ですから、20歳までの5、6年間の修業がどんなものであったか。それは今の玉三郎さんを観ればわかることなのでしょう。

『阿古屋』での取り調べる側の岩永左衛門は人形振りで演じますが、亀三郎さんが初役で挑まれていますが、練習で玉三郎さんは何んと言われたおもわれますか。「人のかたちを少しずらすと人形らしくみえるのよ。」亀三郎さんの表情が何とも言えません。その言葉を聞いた途端、でました!と思いました。聞いているこちらのほうが、えっ!ということは、人のかたちというものを身体がとらえていなければ、どう動かせばよいかわからないということではないですか。

いわれていることは、基本なのですが、修業の差がありすぎるんです。おもわず亀三郎さんの気持ちに寄り添ってしまいました。う~ん!

しかし、動けて笑いをもらえるほうが良いかもしれません。秩父庄司重忠の菊之助さんは良いかたちで、黙って動かない時間がながいのです。榛沢六郎の坂東功一さんなどもずーっとですからね。舞台は4人です。映像にすれば映らなくても舞台であれば見えていますから。菊之助さんなどは、形よく聴き入りますが、聴き入ってはいけないのでしょうね。詮索する側なんですから。役柄としても実際にも、玉三郎さんの今日の琴は調子が違うなあとか思う事もあるのでしょうか。聞いてみたいところです。

阿古屋の伊逹兵庫の鬘は重そうで、打掛は脱いで胴抜き姿ですが、帯は俎帯(まないたおび)で、それで、琴、三味線、胡弓を弾くのですから大変とおもいますが、そんな様子など映像でアップされても全然感じません。そのため、こちらも大変ということを忘れさせてもらって堪能させてもらったわけです。

DVDから時間が経過しているのですから、何かが変化していると思うのですが、スクリーンの大きな映像に圧倒されてもいて、その変化がわかりませんでした。どちらも完璧に思えてしまうのです。見つけられなかったというのも少し心残りです。

 

映画『ざ・鬼太鼓座』(2)

映画『ざ・鬼太鼓座』から、加藤泰監督の「緋牡丹博徒シリーズ」三本を見なおしました。

緋牡丹博徒 花札勝負』(1969年)『緋牡丹博徒 お竜参上』(1970年)『緋牡丹博徒 お命戴きます』(1971年)

『緋牡丹博徒 お命戴きます』を最初に見たのですが、下からのローアングル、長廻し、場面転換の速さなど、この映画の延長線上でもあったのかと捉えていなかった映像上の方法の特色がどんどん見えてきました。

『ざ・鬼太鼓座』を見なかったら気がつかなかったでしょう。『ざ・鬼太鼓座』は筋があるわけではなく、言葉は最小限に押さえていますから、映像に集中します。そうするとその映しかたの長短や、次に飛ぶ場面、映される物、人の表情、体のどの部分などが、自分の眼に飛び込んできます。その時のリズム感、見つめる長さなどによって受ける側の好奇心、映される人々の動きやそれに伴う心のありかたを知ろうとする思いなどの振幅がゆれます。

人の片方の眼が大きくアップで映し出されたり、ぱっと椿が映ったり、満ち潮の中で踊る人の後方の波しぶきと静かに足下の砂に海水が近づいてくるようすなど、加藤泰監督の美意識が注入されています。

それが、筋のあるものになると、そちらに気をとられますが、今回は矢野竜子(藤純子)と結城(鶴田浩二)の出会いでの位置関係、アップなどの変化が、これだと思わせてくれました。結城の焼香にお寺の階段を上がってくるお竜さんの現れ方などは、流れの中で、新鮮さを吹き込んでくれます。

ラストの立ち回りで、お竜さんが玉かんざしを投げる場面で玉かんざしがはずされ片側の髪がさらっとながれますが、あそこは富司さんの提案で監督が取り入れてくれたのだそうです。立ち回りで髪がほどけるのは『お竜参上』でもありますが、ほどけかたが違い、『お命戴きます』のほうが髪が長く柔らかさをもって動きます。

『ざ・鬼太鼓座』で、万華鏡のように花札が舞う映像があります。剣舞の衣装の腰の後ろの部分に二枚の花札の柄を用いていて、この万華鏡の花札で、加藤泰監督はこの万華鏡の花札映像を入れたくて衣装にも使ったのだなと思っていましたら、万華鏡の花札はすでに『お竜参上』で使っていました。『ざ・鬼太鼓座』のほうが、すっきりとした美しさで広がります。

アフレコを嫌い同時録音を目指し、「音に匂いがするんだ」と監督が言われていたと富司さんは語られています。そういう意味あいからも、鬼太鼓座との演奏の音との勝負も監督にとっては遣り甲斐のある作品だったことでしょう。

雑誌「和楽」で『坂東玉三郎 すべては舞台の美のために』という特集雑誌を出しているのですが、そこで、玉三郎さんと太鼓奏者の林英哲さんが対談をされています。

林英哲さんは、映画『ざ・鬼太鼓座』のころは座員で、もちろん映画に出られています。監督は撮影所の土を掘ってカメラを据え、ローアングルで大太鼓を打つ林さんの姿を足の先から上に向かって映しています。

対談の中で、林さんにどうして鬼太鼓座に参加したのかを玉三郎さんが聞かれています。林さんは美術をやりたくて浪人中で、鬼太鼓座主宰のサマースクールのようなものに横尾忠則さんが講師のひとりだったので参加して、むりやり入らされたという感じだそうで、鬼太鼓座の創始者は田耕(でんたがやす)さんです。

鬼太鼓座を後押しされていたのが、横尾さん、和田誠さん、宇野亜喜良さん、永六輔さんなど有名な方々がたくさんおられたようで、林さんはドラムをやっていたのでなんとか叩けたそうで、ほとんどが素人です。映画のなかでも、メンバーの母親に近い年代の女性が、上にいければいいが食べていけるかどうかわからないのだから自分の子どもなら賛成しないと語られていました。

林さんはその後独立され、ひとりの大太鼓奏者としての道を切り開いていくわけです。

映画『ざ・鬼太鼓座』から、加藤泰映画監督とその作品をあらためてさぐることが出来、鬼太鼓座の成立、鼓童の結成、ソロ太鼓奏者の誕生などをとらえることができました。そして今、それらの動きは芸能集団から芸術集団へと変化しつづけているのです。

 

 

映画『ざ・鬼太鼓座』(1)

ざ・鬼太鼓座』 <映画監督加藤泰 生誕100年 幻の遺作 遂に封印が解かれた!>のチラシの文を見た時は、加藤泰監督がドキュメンタリー映画を撮られていた、それも鬼太鼓(おんでこ)を、と驚きと好奇心で観なくてはと心がはやりました。

1月21日公開 渋谷・ユーロスペース。そう長くはやっていないであろうと気にかかり、やっと観れました。朝10時からの一回上映で金曜日までは上映しているようです。カラーのデジタルマスターになっています。チラシの少ない映像部分を見ても、加藤泰監督ならドキュメンタリーからはみ出した映像なのではないだろうかと想像していましたが、やはりそうでした。

加藤泰監督の映像美学に鬼太鼓座の一人一人がはめ込まれ、そこから一人一人が飛び出すといったような感じです。

映画を観つつ、佐渡の四季ってこんなにはっきりと美しい四季なのであろうか。私が行ったときは、バスの中から見た、美空ひばりさんの歌「佐渡情話」の ~佐渡の荒磯岩かげに ~咲くは鹿の子の百合の花~ の風景と宿から見えた海に沈む大きな赤い夕陽が印象づけられていて、もう少し色調の素朴な感じに思えていました。

見終わってチラシをよく読んでみますと、『ざ・鬼太鼓座』の脚本・助監督の中倉重郎さんの文があり、撮影は1979年2月から1981年2月までの2年間で撮られ、最初の年は佐渡には雪の無い冬だったので、雪を求めて新潟の小出市へ、春は桜を求めて御殿場へ、秋は会津の裏磐梯、宮崎の都城と回っていました。納得です。

やはり加藤泰監督は、監督の美意識の中に組み込んでいたのです。それを知ったからといってそれがドキュメンタリーとしておかしいとは思いません。鬼太鼓座の人々の走る姿、太鼓と闘う姿は、それだけの自然に対峙して負けないだけの意気込みがあります。

映画館のロビーに映画の企画書が張られていて、<四季>を軸にしたのは「四季の変化は自然の変化にとどまらず、心の変化でもあるだろう」とあります。秋の風景の中には、座員の剣舞の姿があったり、冬には津軽三味線を弾く姿があったりと、民族芸能としての位置を季節とともに探し求めぶつかっているようで、それと向き合う心の変化でもあるとも思えます。

そういう意味あいからも、美しい四季の自然の映像を享受できる立場に座員の人々はいるのです。衣裳の色の組み合わせも綺麗です。

加藤泰監督の生誕100年は昨年でした。その時、どこかの映画館で「東映キネマ旬報」という小冊子を手にしまして、そこで女優・富司純子さんが監督について語られています。「加藤さんはいつも、女性を愛おしく描いてくださいました。」

この映画でも、男性陣には語らせませんが、女性達だけには本音はどうかなという女性陣の会話を入れています。男性と同じように走る彼女たちにだけ、語る機会を与えられているのです。監督の女性に対する愛しさととれました。ひばりさんの歌の恋の部分は彼女たちにとっては、どうやら鬼太鼓座への恋となって走り続けるようです。

映画の中で、「櫓のお七」の人形振りの踊りがでてくるのですが、企画書によりますと、この演目が鬼太鼓座の単独公演のときはいつも冒頭に設定されていたようで、全くの映像用として作り挿入しています。

面白いのが、「昨冬、歌舞伎座で玉三郎がお七を演じ、その人形振りが評判をとったのは耳新しい。」と記されていることです。玉三郎さんの評判が人形振りだけを入れるきっかけになったと取れます。

その後、「鬼太鼓座」は新たに佐渡を離れて活動され、佐渡に残った人々が「鼓童」となります。そして「鼓童」と玉三郎さんが関係するとは、加藤泰監督が知ったら驚かれることでしょう。

映画に行かれましたら、是非この企画書お読みください。加藤泰監督やスタッフのこの映画に対する思いがわかります。

「生まれて初めて思う通りのことをやれた映画」と監督が語ったという映画ですが、長い間一般公開されませんでした。この機会に、劇場で観れたのは嬉しいかぎりです。この映画にも加藤泰監督ならではの真骨頂が出ていました。

ユーロスペースさんの承諾を得ていますので、長くなりますが、企画書の 【 7、映画<鬼太鼓座>の目指すもの 】を書きしるします。

「この映画には、セリフは殆どない。登場する鬼太鼓座の若者たちは、決して、自らをかたらない。若者たちは、ただ黙々と太鼓を打ち、三味線を弾き、笛を吹き、踊り、そして走るのみである。かれらの扱う楽器は、伝統的な邦楽器だけであり、その集大成である。その意味で、この映画はまさしく、日本の音だけによる音楽映画である。そしてまた、若者たちの寡黙に音と格闘し、走る、その一途な姿の哀しさが、私たちに彼らの青春のひたむきさを伝えてくれる。その意味で、この映画はまさしく、青春映画なのである。」

電子音楽が入るのですが、それがまた違和感なく邦楽と合い、映像を高めています。セットの中での演奏も、自然との対比でこれまた面白い場面となって奏者の肉体の力と迫力を伝えてくれます。

加藤泰監督と鬼太鼓座の若者とが、作品を作るうえでの音と映像のぶつかり合いが伝わって来て、清々しい心地よさでした。

 

映画『ざ・鬼太鼓座』(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

すみだ北斎美術館

葛飾北斎さんの生まれて住んだ地の『すみだ北斎美術館』ができ開館しました。旅行会社のツアーにも入っていたので、日が立ってから行こうと思っていましたら、開館記念展がこれまたギリギリで行けました。

「北斎の帰還 ー幻の絵巻と名品コレクションー」の『隅田川両岸景色図』が目玉品で、100年ぶりに日本へ帰還した作品なのです。北斎さんと交流があった烏亭焉馬(うていえんば)さんが注文されたとのこ。

烏亭焉馬(うていえんば)さんというのは、落語中興の祖であり戯作者で、北斎と同じ本所相生町でくらし、五代目團十郎さんの大ファンでもあったようです。

隅田川両岸景色図』は絵巻になっていまして、<両国橋>から始まって、手前の岸に<柳橋><首尾の松、御米蔵><駒形堂>と続き対岸と結ぶ<大川橋>(吾妻橋)<浅草寺>、対岸に<三囲稲荷><長明寺>、手前に<待乳山聖天>、対岸に<木母寺(もくぼじ)>、そして<日本堤><吉原大門>となり、この絵巻は両国橋から吉原までの隅田川の両岸を描いているわけです。そして、吉原の室内の絵となり、真ん中に盃を持っている男性が北斎であるという説もあります。最後に焉馬(えんば)さんの狂文が書かれています。

吉原に進む客を乗せた駕籠の提灯の小さな灯が赤で描かれています。残念ながら混んでいてゆっくり見れませんでしたが、優しいタッチで絵の雰囲気はわかりました。展示前の壁にレプリカも展示されていてそちらでも楽しむことができました。

『仮名手本 後日の文章』『忠孝潮来府志』のように忠臣蔵の後日澤を焉馬(えんば)さんが書かれていてさし絵は北斎さんという半紙本もあり、庶民にとっての忠臣蔵の強さが感じられます。北斎さんは、吉良家の家老・小林平八郎の一人娘が鏡師・中島伊勢に嫁入りしその実子、あるいは養子との説もあります。

『当時現在 広益諸家人名録』には、名前と住所が書かれているのですが、<葛飾北斎 居所不定>とあるのが、北斎さんの引っ越しの回数の多さを思わせます。

興味ひかれるものは沢山ありましたが、『詩歌写真鏡 木賊刈』は、木賊(とくさ)を刈ってそれを束ねたものを肩に担ぎ橋を渡っている男が描かれているのです。国立劇場の伝統芸能情報館で公演記録映像の鑑賞会がありまして「人間国宝による舞踏鑑賞会」の中に、京舞井上流の井上八千代(四代)さんの「長唄 木賊刈(とくさかり)」があり、「木賊刈」には引きつけられました。木賊(とくさ)というのは、観賞用として、または砥石のように茎でものを研ぐことができるのだそうです。

長唄には、木賊から<磨かれ出ずる秋の月><心を磨く種にもと いざや木賊を刈ろうよ>などと、木賊のかけた詞がでてきます。もちろん井上八千代(四代)さんの舞は磨きぬかれたものでした。

井上流と言えば新派の『京舞』で知られていますが、ちょっと旅の途中での思い出があります。奈良に旅している時、新聞に祇園甲部歌舞練場で井上流の会があって、四代目のお孫さんの井上安寿子さんが、名取になってはじめての出演という記事が載っていました。電話で問い合わせると切符はあるということで、急きょ旅の日程を変更して京都へ。こういう時ひとり旅は拘束されずに勝手ができます。ずらりと舞妓さんや芸妓さんが並ばれていてお客さんをお出迎えで、古い建物に不思議な雰囲気でした。

安寿子さんが踊られる前になると、井上流の幹部さんというのでしょうか、先輩格の方々が立ち身で端で見られていて、終わると、表情をゆるめられ、中にはお互いにうなずかれる光景を目にしました。芸をみせる場所祇園を支える井上流ですから、継承者とされる方の踊りがどうであるか芸を支える方々としては、期待感があったのでしょう。祇園という場の艶やかさを越える芸の真摯さの怖さを感じさせられました。

公演記録鑑賞会には、京舞の手打ちの映像もありました。独特の華やかさと調子が見る者を魅了します。(そのほかの人間国宝の舞踊/二代目花柳壽楽・一中節「都若衆万歳」、吉村雄輝・地唄「桶取」、藤間藤子・常磐津「山姥」)

北斎さんの『元禄歌仙貝合 あこや貝』では、歌舞伎の『阿古屋』をかけて、中央に琴が大きく描かれています。シネマ歌舞伎の『阿古屋』の宣伝をされたようで、大丈夫です見に行きますからと、特別展を後にしました。このほか、常設展があるのですが、長くなりますから機会があれば。

この美術館美しい建物ですが、一つ問題があります。一階から三階までエレベーターしかないのです。階段が無いため、混雑するとエレベーターに乗るため並ばなくてはならず、時間が無い時は考え物です。急ぎますのでとは言えないのです。下り専用階段だけでも作ってほしかったですね。

さて、北斎さんの絵巻は個人の手から海外に流失して100年めに帰って来たのですが、国立西洋美術館の実業家・松方幸次郎さんが取集した<松方コレクション>は、戦争によってフランスの国有となったものが、日本に無償返還され、そのために国立西洋美術館が建てられたのです。

映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』は、<オーストリアのモナ・リザ>とまで言われていたクリムトの有名な絵『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』が、ナチスに奪われ、このモデルである女性の姪であるマリア・アルトマンが裁判を起こして返され、海を渡りアメリカの美術館に納められたという実話をもとにしたものです。

クリムトの絵にそんな数奇な事実があったことも知らず、マリア・アルトマン役が名女優のヘレン・ミレンで、心の傷と葛藤しつつも凛として闘う姿を見せてくれます。絵も描かれた時代から時間を通過して、様々な歴史的環境の中をくぐり抜けてきているのです。

さてさて隅田川にもどり、木母寺となれば梅若丸となりましょうか。となれば、次はどこへ行くのかお判りのかたもおられると思います。では、そこでお目にかかりましょう。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(1)

新しい年の2017年となりましたが、気持ち的にはこれといった変化はありません。元旦は初日の出が眩しいほどよく見れたお天気で、自然界は少し渦巻いているようなので、「機嫌のよい年としてくださいな」と手を合わせました。

書くことは、これまた昨年の足跡なのです。なぜなら、2016年1月の『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』から始まって日伊国交樹立150周年記念の年ということもあって、<ルネサンス>が目白押しでした。

こちらの意志とは関係なく<ルネサンス>の加速化が始まりまして、3月の函館の旅の五稜郭では、もとをただせば、ミケランジェロが考えた星形要塞の延長であることを知りました。最後は映画『インフェルノ』の公開があり、映画『ダ・ヴィンチ・コード』を見直し、これは小説『ダ・ヴィンチ・コード』を読まねば落ち着かないということで、2017年の読書本は年始から『ダ・ヴィンチ・コード』となりました。

簡単にルネサンス関連から観た経過を整理します。

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ ー 天才の挑戦』(江戸東京博物館)
  • ボッティチェリ展』(東京都美術館)
  • メディチ家の至宝 - ルネサンスのジュエリーと名画』(東京都庭園美術館)
  • 映画『フィレンツェ,メディチ家の至宝  ウフィツィ美術館
  • ミケランジェロ展 - ルネサンス建築の至宝』(パナソニック 汐留ミュージアム)
  • アカデミア美術館所蔵  ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』(国立新美術館)
  • DVD BBCアートシリーズ『ダ・ヴィンチ1 ~万物を知ろうとした男~
  • DVD BBCアートシリーズ『ダ・ヴィンチ2 ~危険な関係~
  • 映画『インフェルノ
  • 映画『ダ・ヴィンチ・コード
  • 映画『天使と悪魔
  • DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ツアー
  • DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ザ・トウルース
  • 小説『ダ・ヴィンチ・コード

最終的にはダ・ヴィンチさんが色濃くなったようです。

ダ・ヴィンチさんという人は天才で、それがルネサンス時代と重なり、同時にライバルとしてミケランジェロがいたり、あるいは、同時代の画家としてボッティチェリなどがいて、そのルネサンスの擁護者がメディチ家であったといういうことなどが見えてきました。

小説『ダ・ヴィンチ・コード』ですが、最初に「事実」という書き始めで、<シオン修道会>の会員として、サー・アイザック・ニュートン、ボッティチェルリ、ヴィクトル・ユーゴー、そしてレオナルドド・ダ・ヴィンチらの名が含まれていると書かれていて、さらに「この小説における芸術作品、建造物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」とあります。

DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ザ・トウルース』は、その事実とされることへの反論の内容です。『ダ・ヴィンチ・コード』に関しては映画だけでは、流れが速くよくわからない部分があり、これは原作を読まなければとの結論になり本をよむことになったわけです。

『ダ・ヴィンチ・コード』のダ・ヴィンチさんは、宗教的な解釈の違いから異教者としての道標なっているようです。宗教に関しては深みには入る力もありませんので、キリスト教の解釈としてそういうこともあるのかという程度で、小説としての展開材料として読みました。

天才ゆえに、自分の才能を認めさせようとの積極的な行動もあり、色々な隠し味も作れる才のあるかたであったと思います。

映画『ダ・ヴィンチ・コード』のラストのラングドン教授が、ルーブル美術館の上から逆三角形を眺め降ろすのは、ここから始まってここで終わるということなのでしょうか。小説には無い場面ですので、その捉え方にとまどっていますが、<聖杯>に自分は包まれているともとれます。

 

ドキュメント映画『エトワール』

ドキュメント映画『エトワール』(2000年)は、パリ・オペラ座バレエ団に初めて撮影を許可された映画だと思います。その後『パリ・オペラ座のすべて』(2009年)が公開されましたが、こちらは映画館で観ていて、練習風景や、バレエ団の組織としての運営や企画、団員との話し合い、団員の年金のことなど、知られざる様子がわかりました。そして、振付師や演出家の要求を次々クリアしていく過程もすばらしかったのです。

『エトワール』は、オペラ座バレエ団の5階級のトップがエトワールで、エトワールを中心に、その他の階級の団員の様子やコメントなど、団員の練習と本番が中心に撮られています。

パリ・オペラ座バレエ学校に世界中から試験を受けに来て、受かったものは一年間訓練をうけ団員への試験を受け、晴れて団員となります。とにかく競争に勝った者が残れる場所なのです。

バレエの踊れる年齢には限度があり、バレエ団の定年は40歳で、年金が貰えるようになっているようです。定年で退団する人も、この世界しか知らなくて他の世界のことは何もわからないが、まだやり直せる年齢よ、思っていたほど淋しくないわというかたもいました。

エトワールから指導する側になった人は、辞めて練習から解放され好きに生活していたら、半年くらいで筋肉が緩んであちこちが痛くなって関節炎もひどくなって、急に肉体を解放してはダメよともいわれています。年齢からくる骨の痛みは周りの筋肉を鍛えてカバーするのと同じように、毎日練習するのは、素晴らしい跳躍やステップ、柔軟性を表現してくれるその筋力を落とさないためでもあるのでしょう。

とにかくどの階級の団員も、単調な日常で、練習と舞台だけといってもよいような感じで、出演者に選ばれなければ誰かが故障したときの代役となるのですが、踊れることが生きているあかしとばかりにしっかりノートして自主練習し、踊ることしか自分のなかにはないといった人達です。それはそうだと思います。小さい頃から、このために遊びたいのも我慢して練習に励んできたのですから。踊ることが大好きな人達なのです。

パリ・オペラ座バレエ団は古典も新作も公演するので、イリ・キリアンさんやモリス・ベジャールさんも振り付けに来ていまして、こうして、ああしてというのをすぐ表現できる身体なのには驚きます。そして見ていてその完成度が楽しいのです。

実際の舞台では、衣装から見える素肌からは汗がにじみ出ていて、舞台から引っ込むと倒れてしまう団員もいます。トウ―シューズを履く前に足の豆にテーピングをして化膿止めに抗生物質を飲んだりと一回の短い出でも、踊ることが全てなのです。

何分か何秒のために長い練習時間があるのです。

エトワールも、エトワールになったからと言って上達するわけではなく同じ状態でエトワールになるので、その責任の重圧のほうが大きい場合もあり、今までの競争なり練習はそのための技術と精神力の両方のバランスを取って来た時間でもあるといい、バランスのとりかたが難しいと語ります。

同じメンバーでいる長い年月は、人によっては周りはライバルであり仲間であり、お互い深くは入り込まないし、孤独でもあり、時にはお互いがわかっているので信頼できる部分もあり特殊な狭い世界をかたち作っているとのこと。

そうした言葉を消してしまうほど、踊っているエトワールは、やはりエトワールの輝きに満ちていて映像であっても観る者を魅了し感動させます。

調べてみたら『エトワール』の後の『パリ・オペラ座のすべて』にも出てくる団員のかたも沢山いました。

二コラル・ル・リッシュ、マリ=アニエス・ジロー、オーレリ・デュポン、アニエス・ハテステュ、クレールマリ・オスタ、マニュエル・ルグリ、ウィルリード・モリスなど。

『パリ・オペラ座のすべて』は記憶部分が少なくなっており、『エトワール』から9年ほど経っているのでその変化を知りたく、もう一回みたいのですが、この時期ですからあきらめます。

『エトワール』は今年最後の映画の一本とします。凄く力を貰える映画でした。

来年の2017年には新しいドキュメント映画『パリ・オペラ座 夢を継ぐ者たち』が公開予定です。