映画『リヴァプール、最後の恋』からグロリア・グレアム出演映画(4)

映画『悪人と美女』(ヴィンセント・ミネリ監督)はハリウッドの内幕を描いた作品である。凄腕のプロデューサー・ジョナサンが傲慢さゆえに今は上手くいっていないが復帰を試みようとかつて一緒に仕事をした仲間3人に電話がある。この3人は彼との過去に苦い体験があり、彼の電話には出ない。制作責任者のハリーに呼ばれ3人は集まり、一人づつ過去のジョナサンの仕打ちを話し始める。

ただ基本的に3人がジョナサンと会った時は世の中に今ほどの名声は得ていなかった。フレッドは、映画監督を目指していたが、映画業界での何でも屋であった。女優・ジョージアは、名優を父に持ちその呪縛から抜け出せず脇役女優であった。ジェームズは大学教授で最初の小説が売れ次はハリウッドかと世間にささやかれていた。

今彼らは、アカデミー賞も受賞した有名な映画監督であり、大スター女優であり、ピューリツァ賞も受賞したシナリオライターとなっていた。3人はジョナサンに飲まされた苦汁を一人づつその出会いと別れを話し始める。

ここで、ジョナサンのカーク・ダグラスの登場である。野心家で癖のあるプロデューサーは、はまり役である。大女優のジョージアのラナ・ターナーは出始めの華やかさはさすがであるが、酒浸りの女優からスターとなりジョナサンを愛するようになる過程はそれほど光らなかった。彼女にとっては当たり前すぎる役柄かもしれない。

グロリア・グレアムは、ジェームズの妻役であり関係してくるので、ジェームズとジョナサンの関係だけ少し紹介する。ジョナサンは、ジェームズをハリウッドに呼ぶ。ジェームズは妻のローズマリーがハリウッドに行きたがったからである。少しにぎやかだがジェームズにとっては可愛い妻であった。

ローズマリーはハリウッドに大満足で、妻のためジェームスはシナリオの仕事がなかなかはかどらない。ジョナサンは一考を案じ、ジェームスを別の場所に滞在させローズマリーにはプレーボーイの俳優・ガウチョをエスコート役に頼む。ところがローズマリーとガウチョは飛行機事故で亡くなってしまう。ジョナサンが仕組んでいたとはジェームズは知らなかった。彼は失意の中、映画撮影にも参加し完成となる。そこで、妻とガウチョの関係にジョナサンが手を貸していたことがわかりジェームズは去るのである。

ローズマリー役でグロリア・ゲレアムは助演女優賞を受賞する。典型的な淑やかで可愛らしい南部出身者の妻役に対してであった。重荷を背負った役が多い中で彼女にとってはめずらしい役であり、しっかり演じ分けられたということであろう。典型的な南部女性の定義がわからなかったので、これがなあと思ったが、数回ほど観て、そういうことなのだとやっとわかった気になった。一つの国であっても地域によっての違いなどは簡単には理解できないものである。

3人はジョナサンからの国際電話に協力は出来ないと答え部屋を出るが、そっと別の電話を取り、ジョナサンとハリーの電話でのやり取りを聴くのである。おそらくジョナサンはその事を知っていて話しているであろう。それがジョナサンである。

ハリウッドの内幕ものとして近頃観たもので面白かったのはドキュメンタリーでは『くたばれ!ハリウッド』(2002年)と映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年・クエンティン・タランティーノ監督)である。

ドキュメンタリー『くたばれ!ハリウッド』は、カリスマ的プロデューサー・ロバート・エヴァンスのジェットコースターのような映画人生である。俳優から映画制作に野心を抱き、パナマウントの制作部門のトップに。『可笑しな二人』『ロミオとジュリエット』『ローズマリーの赤ちゃん』『さよならコロンバス』『ある愛の詩』『暗殺の森』『ゴッドファーザー』等の制作を。これだけの映画名をあげれば凄腕であることが想像できるであろう。そこから急下し、また上がるという人生である。

映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が、レオナルド・デカプリオとブラッド・ピットの共演でクエンティン・タランティーノ監督となれば期待と裏切られるかの気持ちが振幅する。最初に激しい暴力シーンがあるのでの注意勧告がある。このシーンはラストなので、嫌な人はラストはカットしたほうが良い。今は自信がなく自己嫌悪のテレビのスター俳優(レオナルド・デカプリオ)が映画に方向転換をするが敵役ばかりである。その俳優を励ましそばにいるのが仕事の来ないスタントマン(ブラッド・ピット)である。久しぶりに格好いいブラッド・ピットで、ダメなレオナルド・デカプリオも楽しい。

女優のシャロン・テートが殺害された事件が匂わされていて、隣にロマン・ポランスキー、シャロン・テート夫妻が引っ越してくる。『リヴァプール・最後の恋』でグロリア・グレアムも自分の出演映画を観ていたが、シャロン・テートも劇場に自分の出演映画を思わせぶりに目立つように観に行くのが可笑しい。駄目俳優を気にいっている一人として、アル・パチーノも出演している。スティーブ・マックイーン役も出て来て目が離せない。

ブラッド・ピットの扮するスタントマンのモデルは、ハル・ニーダムといわれている。ハル・ニーダムが監督した映画に『グレート・スタントマン』(1978年)がある。これまた、ハリウッド映画のスタントマンの内幕を描いた映画と言える。リアルなスタントマンの仕事ぶりが観れてどの分野もプロは素晴らしい。

1950年につばぜり合いをしたのがブロードウェイの内幕を描いた『イヴの総て』(ジェフ・L・マンキーウイッツ監督)とハリウッドの内幕を描いた『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー監督)である。『サンセット大通り』はフイルムノワールでもある。悪女役で魅了したラナ・ターナーの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』もフイルムノワールである。

映画『リヴァプール、最後の恋』からグロリア・グレアム出演映画(3)

フィルムノワールについての定義は検索していただいてこういうものかなあと想像していただきたい。こちらも確かな定義の説明は無理である。明るいの反対の暗くて幸せよりも不幸せな方向に話は進んで行く。観ている方も不安に駆られてしまうが、どこかで人の隠れた本質をもさぐりあてるという傾向もある。犯罪や暴力があり、私立探偵、警察、ギャングなどが関連し、ハードボイルド的要因もある。

代表作としてハンフリー・ボガートの出世作である『マルタの鷹』は第一に掲げられる。私立探偵が客の要請を受け、同僚の私立探偵が殺されて謎の事件究明に乗り出す。ラストに主人公の本心が明らかになると言う展開である。モノクロが多く、その事によって照明が工夫され、暗さやどんな人物かが強調されることになる。

グロリア・グレアムがハンフリー・ボガートと共演した映画『孤独な場所で』もフイルムノワール物とされている。脚本家のディクソン(ハンフリー・ボガート)は脚本を頼まれ、原作の本を借りて読んだレストランのクローク係の女の子を連れて帰り、原作のあらすじを話させる。その娘が、ディクソンの部屋を出た帰りに殺されるのである。

ディクソンのアリバイの証明をしてくれたのがディクソンの部屋から二階の入口が見える隣の部屋に住む女性・ローレル(グロリア・グレアム)であった。ディクソンとローレルは急接近し、特にディクソンは待っていた理想の女性が現れたと仕事の方も順調である。

ただディクソンは激しやすく、すぐ手が出てしまい何度か警察の世話にもなっている。担当刑事は軍隊時代のディクソンの部下でディクソンのことを理解しているが警部は信用せず疑っている。

ディクソンは脚本家だけに想像力もたくましく言葉に対しても敏感であり、その事が彼流の捉え方で瞬時に怒りを爆発させてしまい、爆発すると止まらないところがあった。女性を連れ帰ったのも、原作に忠実な脚本を求める映画界への反発で、自分で原作を読む気がなかったからである。

ローレルは女優なので言葉に対する敏感さと、映画業界に対する彼の位置も、それは彼の才能ゆえと理解していた。だが一緒にいるうちにその性格に不安を抱き、彼が犯人なのではないかと恐怖しはじめる。

ローレルの不安は観ている方にも伝わってくる。彼が犯人でないとしても一緒になることには躊躇してしまう。ディクソンはすぐ結婚するという。そのお祝いの席でまたディクソンは暴力沙汰を起こす。それも長い付き合いのマネジャーに対してである。興味深いのは、ローレルが不安でマニキュアを直すゆとりがなくお祝いの席で、マニキュアがはがれていると指摘される。ディクソンがそれに対し、彼女は最近おかしいんだよと言う。彼女の心の変化がマニキュアにもあらわれているということである。

映画『リヴァプール・最後の恋』で、グロリアが病身で飛行機でアメリカに帰るためやっとタクシーに乗せてもらった時、ピーターに尋ねる。「私美しい。」「美しいよ。」最後まで女優であった。ただ赤いマニュキュアは無残にはがれていた。カラーなので目についた。

犯人が捕まるがすでに遅しで、ディクソンとローレルは別れることとなる。刑事の奥さんが夫の刑事に「あなたが天才ではなく普通の人でよかった。」という台詞も最後までみるとなかなかである。この奥さんは普通の人として不用意な言葉を発して二人を悪い方へと向かわせる。普通の人が観ればディクソンの性格では彼との関係と自分をコントロールする女性はなかなか現れないであろうとの感想が成り立つ。ローレルが現れた時。マネージャーが喜んだのもうなずける。グロリア・グレアムさん、そんな女性像をボギーの相手役として健闘しているが多少弱いかなという感じも受ける。

ラストのディクソンのボギーがドアのところで振り返る一瞬と去る後ろ姿がなんともたまらない。強いボギーではない弱い孤独なボギーである。

映画『地上最大のショー』(1952年・セシル・B・デミル監督)はガラッと変わってカラーである。このDVDは持っていてかつて観はじめたらカラーの映像が悪く即止めてしまったのであるが今回は頑張った。サーカス団を舞台とする内容で豪華で変化に富み見続けられた。ハリウッド黄金期らしいお金のかけかたである。

やはり同じように観ずらかった1948年のイギリスのバレエ映画『赤い靴』が2009年にデジタルリマスター化してくれた。バレエの場面が安心してじっくり観れたのは幸いであった。

サーカス団ののブラッド団長(チャールトン・ヘストン)は、公演短縮の話しもありサーカスのことで頭がいっぱいである。サーカスの規模をみると当然と思える。沢山の団員を抱えているわけだし、猛獣を含む動物も多く抱えているのであるから。

スターが必要と考え、プレーボーイの空中ブランコ乗りのセバスチャン(コーネル・ワイド)を団員に加える。団長の恋人であるホリー(ベティ・ハットン)は空中ブランコ乗りの花形で自分が中央の座と思ったのにセバスチャンに取られてしまう。ホリーは、自分の実力で取り返すと危険な技に挑戦し、セバスチャンに挑発し、受けて立つセバスチャンもネットなしで演技し落下となり重傷をおう。

ホリーは、セバスチャンに言い寄られていた。ブラッド団長の仕事第一の生き方からセバスチャンに心が動く。そんなホリーに、ブラッド団長を好きなエンジェル(グロリア・グレアム)は、自分は恋多き女だがあなたは純真でブラッド団長はあなたを想っているのが解ると意見する。しかし、ホリーはセバスチャンが怪我のためブランコ乗りができなくなったことに責任を感じセバスチャンには自分が必要とそばにいることにする。

エンジェルは、象を使っての演技をみせていて象つかいののクラウスに付きまとわれていた。エンジェルが団長を好きなのを知って、嫉妬からクラウスは象の足の下のエンジェルを踏みつぶさせようとする。怒った団長はクラウスをクビにする。怨みに想うクラウスはサーカス列車から収益金を盗むことにする。

発煙筒で急止した列車は後続の列車にぶつかり転覆してしまう。ブラッド団長は重体で医者も動けなかった。ホリーは、道化師のバトンズが医者の腕をもっていることを知っていた。普段もお化粧を落とさず素顔をみせずわけありであったが、動かないと思っていたセバスチャンの腕が動くことを見つけたのもバトンズであった。彼はブラッド団長の命を助ける。

ホリーは、団長に代わって動ける者を指揮し、青空サーカスを試みることとし次の町でパレードをくり広げ客を集めることに成功するのである。団長とホリーはお互いの愛を確認し、なんとも、エンジェルとセバスチャンは結婚することになる。なぞの道化師バトンズ(ジェームス・スチュアート)は妻を愛するあまり安楽死させてしまって追われていたのであるが法的罪の償いをすることにする。

映画の内容は分かりやすいので、サーカス場面を楽しみつつ観ることができる。俳優がサーカスの技を見せているというよりも団員がそもまま見せているように撮影されていてエンターテイメントを楽しむ感覚である。飽きさせないサーカス団の内容である。観客も映し出され子供よりも大人の方が楽しんでいてリアクションが強い。

サーカスのテントなどを設置する場面などもリアルで、ここでサーカスがはじまるのだという風を運んでくれる。サーカス専用列車なども、事故によってかえってよくわかりその移動の大変さが伝わってくる。

グロリアのエンジェルは、ホリーの純真な生真面目さで花形を維持する意志の強さとは違う、少し軽さがあり、協力性、柔軟性もあり、自分の意思も通す団員像としての生き方を表現していた。

映画『リヴァプール、最後の恋』からグロリア・グレアム出演映画(2)

グロリア・グレアム出演映画で観たのは次の8作品である。

素晴らし哉、人生!』(1946年)役名・ヴァイオレット

十字砲火』(1947年)役名・ジニー

孤独な場所で』(1950年)役名・ローレル・グレイ

地上最大のショー』(1952年)役名・エンジェル

悪人と美女』(1952年)役名・ローズマリー

復讐は俺に任せろ』(1953年)役名・デビ―・マーシュ

仕組まれた罠』(1954年)役名・ヴィッキー・バックリー

オクラホマ!』(1955年)役名・アニー

ハリウッドの黄金時代』(川本三郎著)に次のような記述がある。「監督のキング・ヴィダーが語っているように、第二次大戦後ハリウッドも新しいタイプの女優が登場していた。従来のスタジオの意のままになる大人しい人形のような女優ではなく、社会意識もコモセンスもある自己主張する女優である。ローレン・バコールやグロリア・グレアム、リザベス・スコットという女優である。彼女たちは、自分で演技のコンセプトを持っていたし、衣裳に関しても自分で選べるセンスも持っていた。」

グロリア・グレアムが助演女優賞を受賞した映画『悪人と美女』にラナ・ターナーも女優役として出演している。同著書で「エヴァ・ガードナー、ラナ・ターナー、マリリン・モンローと1950年を代表するグラマー女優がいずれも貧困家庭の出身であることは興味深い事実だ。セーターも買ってもらえなかった子供時代から宝石と毛皮に囲まれたスター時代へ、彼女たちは極端から極端への振幅の大きい人生を生きた。その点でも、常識はずれだった。」としている。それぞれの立ち位置の違いが面白い。

素晴らし哉、人生!』の内容は次を参考にされたい。

 映画『ステキな金縛り』から『スミス都へ行く』『素晴らしき哉、人生!』(2)

続きとなるが、翼のない天使はもしジョージアがこの世に生まれていなかったら今の世界はどうなっていたかを見せるのである。その世界に驚きジョージアは自分でも役に立っているのだと自殺を思いとどまるのである。

ヴァイオレット(グロリア・グレアム)は、自分を男性に注目させるように行動するタイプの女性である。しかし、上手くいかなくなって心機一転ニューヨークへ出ることにする。その時ジョージアがお金を手渡してくれるのである。感謝するヴァイオレット。もしジョージアがいなかったらヴァイオレットは身を持ち崩して悲惨な状況にいた。

十字砲火』(エドワード・ドミトリック監督)は、犯罪事件をあつかった映画なのであるが、なかなか奥が深いのである。第二次世界大戦が終わり、兵士たちが復員して除隊を待っている。4年間の戦場から解放されてその状況に対応できない兵士もいる。自分の想いとは違う状況にいら立ちを感じている者もいる。あるいは、隊の上下関係から怖れを抱いている者もいる。夫を待つ妻。自立したくて酒場で働く女性など殺人事件によって映し出されてくる。ただ、3回ほど観てなるほどとわかってきたのである。

サミーが自室で殺された。バーで4人の兵士と会っている。サミーの部屋には、ミッチ、モンティ、フロイドの3人の兵士がいた。その一人の財布が落ちておりミッチに疑いがかかる。一緒にいたモンティ軍曹(ロバート・ライアン)は彼には人殺しは出来ないと主張。ミッチの友人のキーリー軍曹(ロバート・ミッチャム)はミッチではないと彼の無実のために動く。捜査の指揮をとるの警察署長(ロバート・ヤング)。

事件の夜、ミッチはサミーの部屋を一人先に出て街中をうろつく。ある酒場でジニー(グロリア・グレアム)と出会う。彼女は生活のためにここで働いていた。ミッチに妻に似ているから一緒に踊りたいと言われ食事に誘われる。ジニーは何となく魅かれて自分の部屋でスパゲティーをご馳走するからと部屋の鍵を渡す。夜中、ミッチの妻と署長からミッチのアリバイを聴かれるがそんな人知らないと答える。ジニーの複雑な心境の役どころである。ジニーとジニーが別れたい夫からの証言はミッチのアリバイにはつながらなかった。

署長は犯人の殺人の動機が見つからず、犯人の心の中を考える。ユダヤ人に対する偏見である。サミーはユダヤ人であった。犯人はわかった。しかし、証拠がない。そこで、バーに一緒の居たフロイドの友人のハロイに協力を求める。フロイドも殺されていた。

ハロイは同じ隊であったモンティ軍曹にテネシー生まれの田舎者としてあつかわれ彼を恐れて関わりたくないと主張する。ここから署長の話がはじまる。自分の祖父の話しである。祖父はアイルランドからの移民であった。祖父は土地も買い自分はアメリカ人と思っているカトリック教徒であった。しかし、ある日、バーからの帰り道襲われて亡くなってしまう。嫌いなだけだったのだ。それが憎しみとなり爆発する。モンティも同じである。

ここが凄いのだが、モンティはテネシーに行ったこともないのに田舎だといい、田舎者はのろまだと思っている。嫌いが憎しみになり爆発するとどうなるか。どこにでも偏見が発生し暴力と結びつくことを暗示するのである。ハロイの協力によりモンティの犯行は明らかになり逃亡する所を署長に撃ち殺されてしまう。

撃ち殺してのラストはちょっと考えてしまった。ここまで言う署長なら生かして逮捕すべきなのではと。映画であるから最後はケリをつけるということにしたのかもしれない。ミッチの心の内なども語られ心理劇も展開されるがそれだけではなく、どこにでも一方に暴力性が潜んでいることを強調したのかもしれない。

グロリア・グレアムさんからこんな映画にぶつかるとは。ハリウッド黄金時代には、一方にフイルムノワールの最盛期でもあり、アメリカ映画にとってなかなか面白い時代でもあったということを教えてもらいました。

映画『『リヴァプール、最後の恋』からグロリア・グレアム出演映画(1)

映画『リヴァプール、最後の恋』(2017年・ポール・マクギンガン監督)で、50年代ハリウッド女優のグロリア・グレアムを知る。『ガラスの動物園』のポスターがありグロリア・グレアムと名前がある。どうやらこの舞台開演前であるらしい。鏡の前にお化粧道具やお気に入りの物が並べられる。大きめのロケットペンダント。1950年「孤独な場所で」ボギーよりと彫られたコンパクト。(おそらくコンパクトと思うのであるが、定かではない。)十字砲火・グロリア・グレアムと記した写真も飾られている。

後に知ったのであるが『孤独な場所で』と『十字砲火』はグロリアが出演していた映画であった。開演前のグロリア・グレアムは、1981年の彼女(57歳)である。開演直前グロリアは倒れてしまう。そして連絡された先が舞台俳優の駈け出しであり元恋人のピーター・ターナーのところであった。ピーターは、1979年グロリアと出会い二人は恋に落ちる。ところがその後二人はアメリカで別れその後、音信不通であった。そのグロリアがイギリスのランカスターに来ていたのである。

ピーターと会ったグロリアは、病院はいやだからピーターの母に看病してもらいたいと希望する。ピーターはその希望をかなえ、家族も受け入れるのである。グロリア(アネット・ベニング)とピーター(ジェイミー・ベル)のかつての恋人としての時間と、現在の時間とがそこから映画では交差して描かれ彼女のハリウッド時代のこともわかってくる。

二人が出会ったのはグロリアが舞台のために借りた部屋と隣同士となり、グロリアが『サタデー・ナイト・フィバー』のダンスの相手をしてくれと頼んだことから急接近する。

グロリアとピーターが一緒に観る映画が『エイリアン』でグロリアは大笑いし、ピーターは怖がる。映画撮影の裏側を知っているグロリアには可笑しいのであろう。それともう一本はグロリアが酒場で色っぽく歌う場面の映画で『ネイキッド・アリバイ』とタイトルが出る。楽屋の鏡台に置かれたペンダントは、この映画の中で歌った曲をオルゴールに入れペンダントとしてピーターがグロリアにプレゼンとしたものであった。

グロリアは、ハンフリー・ボガード夫妻の隣に住んでいたことがあって、演技のアドバイスもしてくれたと話す。ボギーのアドバイスは「影に潜んでカメラを引き寄せろ」である。ピーターが「ローレン・バコールに似ている。」というと「ボギーもそう言ってた。イヤだったけど。」と答えるグロリア。

ピーターの両親はグロリアの全盛時代ファンで、父親がピーターに話す。「彼女の映画は全部みていた。セクシー女優で色っぽい唇。吸い寄せられ目が離せなかった。」

アメリカに呼ばれピーターはグロリアの母と姉も加わり4人で食事をする。グロリアの母もかつては舞台女優であった。その時何歳かと聞かれる。ピーターが28歳と答えると、グロリアの四番目の夫も同じ年だったと告げられる。そしてその夫は二番目の夫の連れ子で義理の息子であった。二番目の夫は後にジェームズ・ディーンの『理由なき反抗』の監督・ニコラス・レイである。『孤独な場所で』の監督もニコラス・レイで、この映画を撮っている時、監督とグロリアは結婚していた。

ピーターはそうした過去も全て受け入れるが、グロリアの態度が急に冷たくなる。この時グロリアは乳がんの再発が発見され、心のゆとりがなくなっていた。ピーターはグロリア倒れて呼ばれ再会し、そのことを知る。そしてグロリアの病気は治らないと察知し、彼はグロリアのためにサプライズを実行する。

グロリアには、目標があった。RSC(ロイヤル・シェークスピア・カンパニー)で『ロミオとジュリエット』のジュリエットを演じたいと。ピーターは、病身の彼女をリヴァプール劇場の無観客の舞台でジュリエットのセリフを語らせるのである。彼はこの時舞台俳優としてグロリアの一番の理解者であった。

グロリアは、息子が迎えに来てアメリカへ帰っていく。部屋の床に『十字砲火』の時のグロリアの写真が落ちていた。

ラストにグロリア・グレアムがオスカーを手にする実写が映される。受賞したのは映画『悪人と美女』での助演女優賞である。グロリア・グレアムは舞台に上がりオスカーを受け取り「ありがとう。」と一言告げると退場してしまう。あっけないほどの一瞬である。会場に笑いが起こる。この時のグロリアの心の内はちょっと想像できない。想像を拒否しているようにも受け取れる。

その時助演女優賞にノミネートされた他の女優さんは次のとおりである。

雨に唄えば』のジーン・ヘイゲン。『赤い風車』のコレット・マルシャン。『愛しきシバよ帰れ』のテリー・ムーア。『わが心に歌えば』のセルマ・リッター。こういう映画が上映されていた時代である。

さてここから、グロリア・グレアムの出演映画の鑑賞となった。

映画『サタデー・ナイト・フィーバー』は、ダンス映画にハマった時観直したが、ブルックリン橋をはさんで、労働者の街のブルックリンと洗練された都会的な街という比較もあったのだと知った。グロリアとピーターはひたすら楽しんで踊っている。

茅ヶ崎からの歩かない旅

テレビの『英雄たちの選択』(名優誕生!九代目市川團十郎新時代に挑む)から、かつて歩いた茅ヶ崎を思い出してその旅を読み直した。

茅ヶ崎散策(1)  茅ヶ崎散策(2)

http://www.chigasaki-kankou.org/pamphlet/images/walking_map2019_a.pdf (茅ヶ崎の散策地図)

随分時間が経ってしまったものである。その時もイサム・ノグチさんの名前が出ているが、どういうわけかそれ以上にイサム・ノグチさんに興味が深まらなかった。今回はとても惹かれてしまった。イサム・ノグチさんのお母さんを主人公した映画『レオニー』(2010年・松井久子監督)も知っていたが今回は観るのがたのしみであった。

何が原因なのか。やはり新型コロナの影響なのであろうか。人種差別の問題と関係するのかもしれない。イサム・ノグチさんは、日本人の父とアイルランド系アメリカ人の母との子としてアメリカで誕生(1904年)する。その時、父の野口米次郎さん(詩人)は日本へ帰ってしまっていた。イサム・ノグチさんは芸術家となるが、その仕事は二つの祖国で揺れ動きながら、最終的には国を越えて自分の目指すものを表現する広さを獲得した。それは、お母さんのレオニーさんの生き方も大いに影響していたであろう。

ドキュメンタリー『イサム・ノグチ  紙と石』では、イサム・ノグチさんの作品がそれを取り巻く空間やそこに位置する人を包んでもっともっと広がっていくのが伝わってくる。そこに国境はない。イサム・ノグチさんは、父と母の国のどちらからも疎外されている孤独感を味わっている。そのことがかえって広がりを作ったようにおもえる。

ドキュメンタリー『イサム・ノグチ 紙と石』と映画『レオニー』からまとめてみる。

イサム・ノグチは、3歳の時母と日本へ来る。父が親子を日本へ呼んだのである。ところが米次郎は日本人の妻を持ち、レオニーは妻としては認められなかった。レオニーは米次郎から自立するため茅ヶ崎に移り住んだ。そうなのである。茅ヶ崎はレオニーさんが選んだ町なのである。

レオニーは茅ヶ崎で英語教師などをし、妹のアイリスを出産する。誰の子であるかは最後まで口を閉ざした。家も建てるのである。(映画ではアメリカの友人からお金を借りている)その時、10歳のイサムに設計を手伝わせる。

イサム13歳の時、母の意向でアメリカでの教育を受けるため単身旅立つ。入った学校は間もなく閉校となるが、助けてくれる人がいてコロンビア大学の医学部に進みことができた。母とアイリスもやっとアメリカのイサムのもとに来る。イサムは夜は美術学校の彫刻科に通い、その3か月後には初の個展を開いている。そのとき、イサム・ノグチと名乗る。幼少の頃は、野口勇とし、それからイサム・ギルモアと名乗ったようである。その後26歳の時、父からノグチの名前を名乗ることを禁じられたりもしていて、イサムと父の関係はずーっとギクシャクしたものであった。

父は父でアメリカで疎外感を味わい、レオニーと恋愛関係があっても日本女性の古さを求める男性でもあった。彼にとって、レオニーという女性は手こずる相手であった。アメリカであってもこれだけの自己を保持する強さをもった人はまれであったろう。レオニーは60歳で肺炎で亡くなっている。

第二次世界大戦でイサムは、ニューヨークに住んでいたため対象とはならなかったのであるが、アリゾナ州の日系人の収容所に志願して入所する。そこで、芸術的なことで日本とアメリカのつながりを持ちたいとするが思うようにいかず収容所から出ることとなる。

ニューヨークに戻ったイサムは、工事現場から薄い石の壁材を集めそれを磨いて組み立て、石の彫刻をはじめ、世間の注目を集めるようになる。これが石とイサム・ノグチとの作品としての出会いといえる。

戦後は、インテリアの作成にもたずさわり、彫刻などもただ眺められるものではなく、その空間に眺める人をも包みこむ広さを求めていく。そこは自分の作品が生み出す空間であった。

岐阜提灯から竹と紙が創る新しい人を包む灯りを作り出す。「紙の提灯は壊れてもまた新しい物に替えられる。私はこの概念を日本に教わった。過ぎ行くものをいつくしむ心。いずれ人生は終わり桜の花は散る。そこに残るのは芸術と命なのだ。」

イサムが創る庭園や公園、そしてそこにある彫刻はひとの命を現わしているのだろう。「庭園は彫刻のあるべき姿を表現したものだと思う。美術館に並んでいるものだけが彫刻ではない。実際に生きる人々が生活の中で経験するものだ。その空間を共有し体感するのだ。」

1986年、高松の牟礼で「黒い太陽」の制作に入る。「石と向かい合う私は決して一人ではない。彫刻の歴史、現代までの彫刻の歴史と一緒に作業しているのだ。自然、風や星、私達が生まれそして帰っていくところ。」一緒に仕事をされた和泉正敏さんはイサム・ノグチさんがこういわれていたという。「石を割り過ぎて失敗したと思っても、一年か二年するとそれが良い味わいになってくる。人間の体と同じように手とかに傷してもそれが回復する。色など美しいところもでてくるものだ。」そして「もうこの石の中に入ってもいいだろう。」と言われて少したってから亡くなられたそうである。

牟礼のアトリエと住まいは今はイサム・ノグチ庭園美術館となっている。

映画『レオニー』のエンドロールには札幌のモエレ沼公園で遊ぶ子供たちが映される。札幌の大通公園には、「ブラック・スライド・マントラ」と名付けられた黒御影石の滑り台があるという。札幌の大通公園近くに住む友人に尋ねたら、この滑り台は東京のお孫ちゃんのお気に入りだそうである。イサム・ノグチさんの想いはつながっていたのである。

映画『レオニー』は、主人公のレオニー・ギルモアを演じたのが、映画『マイ・ブックショップ』のエミリー・モーティマーだったので、観始めた時から彼女ならと落ち着いてみていられた。気丈さが過剰に誇張されずに描かれていて満足であった。野口米次郎の中村獅童さんも根底にある古い日本男子をコントロールして苦悩を抑え気味にし、レオニーとのぶつかり合いを上手く出していて、レオニーの人格を浮き彫りにした。

実際にレオニーがこれほど日本語を覚えなかったとは思えないが、下手な日本語で演技するより伝わり方が直接的であり、レオニーに対する非難も一つ一つ捉えていたら話しがそれてしまいがちなところを上手く筋道を通してくれていた。そして小泉八雲の奥さんの竹下景子さんがこれまた通訳としての良い位置にあった。レオニーさんは女として母として硬い石をコツコツと削ったり、時には割り過ぎたりしながら生きられた方である。

イサム・ノグチさんも晩年は硬い石に惹かれて玄武岩や花崗岩など削るのに時間がかかり彫刻に困難なものを選んだそうである。この母にしてこの子ありであるが、レオニーさんはイサム・ノグチの母でもあるが、レオニー・ギルモア個人として想像できないほどの意思を通した方である。

東京都美術館で『イサム・ノグチ 発見の道』2020年10月3日(土)~12月28日(月)が開催予定である。

その時には興味ひかないものが、ある日発見することもある。ドキュメンタリー『わが心の歌舞伎座』(2010年)もそれである。勘三郎さんが舞台で、いつまでやってんだろうね「さよなら歌舞伎座公演」と冗談を言われていたが、正直本当と思ったくらいである。2009年1月から2010年4月まで行われていたのである。そのため『わが心の歌舞伎座』も申し訳ないが観ようとは思わなかった。

ところがである。今回観ると惹きつけられて集中して観てしまった。役者さん達の芸に対する考え方とその芸の技の一致にまず魅了される。そして舞台裏の技の世界がこれまた知られざる積み重ねの世界なのである。もしかすると、歌舞伎舞台のできない今だからこそ、魅入ってしまったのかもしれない。好い時に観ました。

イサム・ノグチさんの言葉を勝手にあてはめてみた。「舞台と向かい合う私は決して一人ではない。先人の歴史、現代までの舞台の歴史と一緒に作業しているのだ。舞台装置、音楽や語り、私達が生まれそして帰っていくところ。」

映画『ステキな金縛り』からドラマ『ステキな隠し撮り~ 完全無欠のコンシェルジュ~』(3)

さて映画『ステキな金縛り』には、出演の時間に関係なく個性的な出演者が多いので、こちらの頭の中の整理を兼ねて紹介しておきます。

・すこぶる好奇心の強い裁判長(小林隆)

・六兵衛の子孫で歴史家として六兵衛の名誉回復のため慰霊碑建設に尽力する木戸(浅野忠信)

・殺された鈴子の姉の風子の夫でなぜか外国人的ジェスチャーの日野(山本耕史)

・エミの恋人の工藤と役者仲間でやる気だけはあるが売れていない村田(佐藤浩市)

・法廷画家で六兵衛が見えていている日村(山本亘)

・奥多摩からエミと六兵衛を乗せる落ち武者頭のタクシー運転手(生瀬勝久)

・ファミレスの店員(深田恭子)・ファミレスで六兵衛を見て驚く男(梶原善)・道路で六兵衛を見て悲鳴を上げる女(篠原涼子)・エミのボスを看取る医者(唐沢寿明)・テレビの中での心霊研究家(近藤芳正)・エミと並んでエンディングにとんでもない人が出ている(大泉洋)(その他・相沢一之、西原亜希、榎木兵衛 等多数)

映画『ステキな金縛り』の公開を記念して製作されたのがスペシャルドラマ『ステキな隠し撮り~完全無欠のコンシェルジュ~』(脚本・演出・三谷幸喜)である。『ステキな金縛り』の出演者を起用して、あるホテルの新人コンシェルジュ・西條ミエ(深津絵里)が、8人のスイトルームのお客様からの要望に応えるのである。上司のコンシェルジュ・菅原(小林隆)からコンシェルジュの言ってはいけない言葉「駄目です。無理です。出来ません。」をやんわりとつきつけられる。

一番目の客は、芸術家(浅野忠信)で、色々探っていたらダンスの振付師で新しいアイデアが浮かばなくて苦しんでいた。ミエは盆踊りから発想して新しいダンスを披露する。どんな盆踊りだったのか、そちらが気になる。「ONCE IN A BLUE MOON」 

二番目の客は、映画監督(三谷幸喜)であらかじめDVDを見せられその感想を聴かれる。どうやら『ステキな金縛り』のようである。条件は自信の持てる言葉が欲しい。ミエは泣けたところは三か所。監督は七か所。しいて言えば七か所は多すぎであろう。最後にミエはバシッと決めの言葉を言う。13台の隠しカメラがフル回転。

三番目の客は、写真家(山本耕史)で、ミエにモデルになってほしいという。ミエは出来るだけ協力するとやる気あり。テーマはワーキングガール。部屋の中はドンドン暑くなっていくどんどん脱いでゆく。誰が。

四番目の客は、料理の出来ない料理研究家(竹内結子)明日のテレビの生出演のためにニョッキの実演練習である。この実習を見せられるのかと、しいて言えば退屈であった。しかし、このドラマの撮影は長廻しなのである。ハプニングあり。怪我されなくてよかった。

五番目の客は老人(浅野和之)である。愛人と一度だけこのホテルに泊まり至福の時間を過ごした。その愛人も亡くなり自分の命ももう長くはない。一時間でいいから愛人の代わりになってソファーに並んで座って欲しい。老人の話術に単純にダマされてしまって笑ってしまった。

六番目の客は、コール・ガール(戸田恵子)で一緒にいた国会議員(木下隆行)が亡くなってしまった。その死体の下に議員からプレゼントされた200万円のピアスがあるので探して欲しいと。大きな死体を動かして探しているうちに秘書(相島一之)が来て手切れ金を置いてゆき遺体を運び出す。役に立つ盆踊り。

七番目客は、シルク・ド・それゆけのスター(草彅剛)は、新しい技を考えなければならないので見ていてくれと。箱にライオンと入るのだそうであるが、なかなかスター一人が箱に収まらない。スターのオーラに箱が小さすぎるのかなんてことはない。技がないのでは。

八番目は会社員(西田敏行)で、会社のお金を横領していた。人生で最初で最後の贅沢にスイートルームに泊まる。一度でいいから誰かの役に立ち、ありがとうと言われたい。ミエは答えられるであろうか。

その他、怪我で包帯だらけの客(小日向文世)、歌手KAN、超ショートの小佐野(中井貴一)と外務省役人(阿部寛)、映画『ステキな金縛り』の宣伝をする阿部つくつく(市村正親)、最後はミエのコンシェルジュとしてのダメさぶりを見つめていた盗影犯人(生瀬勝久)

個性的な客(俳優)に深津絵里さんはよくコンシェルジュとしても俳優としても答えられていた。8人との長が回しであるからお疲れであったろう。ショートの客の要望も細かかったり想定外だったりで、よく言いますよと楽しかった。

三谷幸喜さんは歌舞伎の台本も書かれていて演出も。『月光露針路 日本風雲児たち』(つきあかりめざすふるさと)で原作はみなもと太郎さんの長編マンガ『風雲児たち』からである。映画『おろしや国酔夢譚』を観ていたので内容は分かっていたが、ロシアの宮廷をどう描くのかが興味あった。さすが歌舞伎役者さんと舞台装置である。

女帝カテリーナが猿之助さんで公爵ポチョムキンが白鸚さんである。猿之助さんは高杉早苗さんを思い出してしまった。ミュージカルでもベテランである白鸚さんは、さすが外国の高官のそのものであった。お二人で豪華絢爛な宮廷を描いてしまわれた。それに圧倒されながらも負けない光太夫の幸四郎さん。彼の願いは乗組員と途中で亡くなった者たちの魂を日本に連れ帰ることであった。(シネマ歌舞伎として10月上映予定。)

追記: NHKBSプレミアム『英雄たちの選択』(名優誕生!九代目市川團十郎新時代に挑む」の放送は大変よくまとめられていてわかりやすかった。活歴や川上音二郎との関係など。再放送は24日(水)午前8時~。川上音二郎との関係では茅ヶ崎の「ちがさきナビ」の「地図でめぐる茅ヶ崎と芸術」の地図が参考になると思います。http://www.chigasaki-kankou.org/faq/http://www.chigasaki-kankou.org/pamphlet/

映画『ステキな金縛り』から『スミス都へ行く』『素晴らしき哉、人生!』(2)

映画『ステキな金縛り』がないがしろにされそうであるが、こちらの勝手な勢いで『素晴らしき哉、人生!』に進むことにする。主人公のジョージ(ジェームズ・スチュアート)の父は、貯蓄貸付組合を運営している。この会社は貧しいものが少しずつお金を貯蓄してそこから融資をうけ自分の家を持つというしくみで運営は苦しく、ジョージは自分で働いてやっと大学に進むことが可能になった。

ジョージを好きなメアリー(ドナ・リード)とダンスパーティーで得意でないダンスに興じる。背が高く足の長いジェームズ・スチュアートのダンスはちょっとした見どころである。「ステキな金縛り」のエミのボス、速水弁護士(阿部寛)が法廷でタップを披露するがこのあたりがつながっているのかも。

ジョージの夢は父の急死で延期となる。彼は、貯蓄貸付組合の後を引き継ぐのである。ためた学資は弟の大学の学資にあてることにする。貯蓄貸付組合を手に入れたい人物がいた。多くの貸し家を所有して営利をむさぼっているヘンリーである。家を持たれると自分の利益は減るのである。

ジョージはメアリーと結婚し新婚旅行へという時、金融不安。新婚旅行の費用を預金者にまわし危機を乗り越える。二人の間には4人の子供が誕生していて、楽しいクリスマスイブ。叔父が会社の売り上げを銀行に預けに行きお金を紛失してしまう。間違ってヘンリーに渡してしまいそのことに気が付いていない。もちろんヘンリーは会社を乗っ取る絶好の機会と知らんふり。

絶望のジョージ。そこへ、翼のない天使・クレランスがあらわれる。ジョージを助ければ翼を貰えるのである。クレランスはどうやって自殺しか頭にないジョージを再起へと導くのであろうか。

さて『ステキな金縛り』ではどうやって被告の無実を証明するのか。ところで、幽霊を証人として連れて来るしかないですねと言ったのは小佐野検事(中井貴一)なのである。もちろん冗談で。ところがエミの行動は弁護士として崖っぷちである。やるしかない。六兵衛も自分の立場と被告の立場の名誉回復は一致するとタッグ成立。

幽霊であるから難問続出である。ひとつ使えるのは六兵衛さん息を吹きかけることができるのである。ボス愛用のフエラムネから音を出せるので、ハーモニカ登場。ハイはひと吹き、イイエはふた吹きでOK。しかし、小佐野検事は納得しない。この検事、エミの亡き父・宝生弁護士の事は認めているがエミには懐疑的。あたりまえである。

ところが、あちらの世界の公安係・段田が六兵衛さんにあちらの国への強制送還書を提出し連れ去ろうとしたとき助けてくれる。そしてエミにいうのである。「我々は敵ではない。真実を求めると言う意味では味方同士だ。我らの敵は真実を隠そうとする者たちです。」パチパチパチ!

佐野検事は勝利にもこだわる人で、六兵衛さんの証人としての資格を歴史的見地から論破してしまうのである。段田公安係は六兵衛を連れて行こうとするがエミは『スミス都へ行く』のDVDを観る間待ってもらう。

話しは急展開。あのエミの力になってくれたボスが倒れる。臨終の間際ボスにエミはあちらに行ったら段田さんにメモを渡してほしいと頼む。メモには『素晴らしき哉、人生!』を見せると。もちろん姿を現す段田公安係。エミが頼んだのは、被告の死んだ奥さんを連れてきてほしいと。

法廷に現れた鈴子(竹内結子)。それを見て驚く姉の風子(竹内結子)。え!幽霊見えるの。見える人と見えない人がいるのである。その事を究明したエミはなかなかの腕前である。殺人事件はあらぬ展開をみせエミは勝利する。

六兵衛さん、エミの父親を連れてきてくれる。でもでもエミにはもう六兵衛さんもあれほど会いたかった父も見えないのである。見える条件の一つを失ってしまったのである。しかしハーモニカで父は「アルプス一万尺」を吹いてくれる。父は「ヤンキードゥードゥルなんだけど」とつぶやく。え?この歌は、アメリカ合衆国では民謡で独立戦争の時の愛国歌なんだそうである。『スミス都へ行く』にも出てきて「アルプス一万尺だ」と思っていた。そうであったかと知らされる。『ステキな金縛り』を観なかったら気にもとめなかったことである。

スミス都へ行く』と『素晴らし哉、人生!』も是非ご覧あれ。天使の腕前も。グロリア・グレアムはヴァイオレットというメアリーとは違うタイプの女性役で登場しました。

映画『ステキな金縛り』から『スミス都へ行く』『素晴らしき哉、人生!』(1)

映画『ステキな金縛り』(2011年・三谷幸喜監督・脚本)は、予告映像を観ておふざけ過ぎじゃないかなと感じて観ていなかった。この際観て置こうと鑑賞したら可笑しくてラストはウルウルときた。相も変わらず面白い事を考えるものである。

法廷劇あり、サスペンスあり、家族愛あり、幽霊とのガッチリタッグありのエンターテイメント映画である。そして、映画『スミス都へ行く』(1939年、フランク・キャプラ監督)、『素晴らしき哉、人生!』(1946年・フランク・キャプラ監督)のお土産付きである。もちろん映画の中でも陰で活躍してくれているのである。

主人公・宝生エミ(深津絵里)の部屋に、写真とその横にDVDのパッケージ『スミス都へ行く』が飾られている。この写真の主は亡くなったエミの父(草彅剛)であるらしい。エミは売れない役者の恋人(木下隆行)と同棲している。そして彼女は、優秀とは言えない弁護士らしい。

そのエミが殺人犯の弁護をすることになる。妻殺しの被告人・矢部(KAN)は、自分はその時間は奥多摩の宿に泊まっていて落ち武者の金縛りにあっていたと主張する。エミはその宿を訪ねる。宿の主人夫婦(浅野和之、戸田恵子)は何度も警察に聴かれへきえきしている。

エミは被告が泊った同じ部屋に泊めてもらうことになる。さて金縛りはあるのか。落ち武者があらわれる。名前は更科六兵衛(西田敏行)。六兵衛は北条氏の家臣で裏切者の汚名をきせられ打ち首にあっていて無念のあまりさまよっていたのである。エミは、六兵衛に証人として法廷に立ってもらうことにする。奇想天外である。ありえないことを実行するのがエミの弁護士としての使命感である。成り行き任せのとこもあるが、その勢いは止められない。

エミの父が好きであった映画『スミス都へ行く』の内容をすこし。アメリカのある州出身の上院議員が亡くなり、その後任を決めなくてはならない。知事、もう一人の上院議員・ペイン、この地を牛耳っている新聞社経営のテイラーは自分たちが操れる人物を探す。ボーイスカウトのリーダーである田舎者のスミスが選ばれる

スミスの父は、正義感が強く悪の凶弾に倒れていた。その時親友だったのがペインで、スミスはペインを尊敬しており、ペインに推薦され上院議員になれたことをとまどいながらも喜びでいっぱいだった。彼はワシントンで議事堂を眼にして感動し、リンカーン記念堂ではリンカーンが自分を待ってくれていたと思い込むほどの愛国者であった。

スミスは何か仕事をしなくてはと、地元の子供たちのためにキャンプ場の建設許可の法案を提出する。ところが、ペインは同じ場所にダム建設の法案を出していた。これには不正がからんでおり、これを追求しないような政治にうとい議員としてスミスを選んだのである。スミスはペインやテイラーの罠にはまり落胆し故郷へ帰ろうとするが、秘書の助けもあって自分の法案を通すために闘うのである。

意見のある議員は立って意見を述べる間は、質問以外誰もそれをさえぎることはできないという決まりがあり、スミスは立ち続ける。地元の報道は、テイラーに牛耳られていて正しい報道はされない。ボーイスカウトの少年たちは正しい報道を自分たちの手で配達するが、テイラーはそれさえも妨害する。議会ではスミスはついに失神して倒れてしまう。

ペインは自分の行ないに嫌気がさし真実を語る。ついにスミスの勝利。議長がなかなか粋な人で合間合間でスミスの正義感に同調し楽しんでいるのが憎い。子供たちの活躍も目をひく。そうかそうかこういう映画で感動したのかと記憶を呼び戻す。

エミの父以外にもこの映画を好きな人が、いや幽霊がいた。あちらの世界からきた管理局公安の段田(小日向文世)である。六兵衛をそろそろあちらの世界に戻さなくてはならないという。エミは、『スミス都へ行く』のDVDを見てもう少し待ってくれという。段田は承知する。段田はキャプラ監督なら『素晴らしき哉、人生!』のほうが好きだという。次に会ったときエミはそのDVDを用意するからと段田に頼みごとをする。

もう笑えてしまった。DVDの『素晴らしき哉、人生!』のDVDは観ようとしてそばに置いていたのである。ジェームス・スチュアートを観るためではなく、グロリア・グレアムが出ているとの情報からである。アネット・ベニングもアカデミー賞とってもいいのだがと彼女の映画を観続けていて『リヴァプール、最後の恋』にぶつかる。かつてアカデミー助演女優賞もとったことがあるグロリア・グレアムがモデルの映画であった。それまでグロリア・グレアムを知らなかったのである。

グロリア・グレアムの映画を探して『素晴らしき哉、人生!』に行き当たり、観ようとしつつ、ひと月ばかり放置していたのである。観なさいとの催促である。参考までに記すなら『リヴァプール、最後の恋』にでてくるグロリア・グレアムの若き役者の卵の恋人役のジェイミー・ベルは『リトルダンサー』の主役だった少年で、『ロケットマン』では、エルトン・ジョンの作詞のパートーナー役をやっている。その成長には驚きである。話しが飛び過ぎた。

段田推薦の『素晴らしき哉、人生!』は次の機会に。段田が嫌いなのは、陰陽師系である。安倍晴明の友人の子孫である安倍つくつく(市村正親)は吹き飛ばされてしまう。

浅草映画『清水の暴れん坊』

映画『清水の暴れん坊』(1959年・松尾昭典監督)は主人公が浅草六区の映画街を闊歩する。それも数秒でどこの映画館の前なのだというのが判別しづらいのである。

石原裕次郎さん主演の『紅の翼』に赤木圭一郎さんはエキストラ的役で出ているらしく、『清水の暴れん坊』はお二人の初共演作品となる。

放送局の清水局から東京の本局に転勤になった石松俊雄(石原裕次郎)は、東京駅ホームに立つ。当時は、今のようにホームの足元に乗車位置の表示がなく、柱に8入口とか表示があり乗車するときそこに並んだのであろう。ホームで待つのは先輩プロデューサーの児島美紀(北原三枝)である。石松は当分山登りができないであろうと穂高に登ってその登山姿で降りたつのである。

あきれる美紀。石松は寮を寮へ行く途中お腹がすきソバ屋に入る。ソバ屋は待ち人来るとばかりに、石松のリュックに白い粉の袋を入れる。石松が帰った後、同じ格好の男があらわれる。品物を受け取りに来た戸川健司(赤木圭一郎)である。赤木さんの登場は、裕次郎さんのイメージから一変させる印象付けは効果的である。健司は品物が間違って渡してしまったのを知る。

石松のリュックから見つかった不審物が麻薬であると判明する。ラジオのプロデューサーである石松は、麻薬の実態をリポートして放送で流したいと企画を出す。石松はかつて、クスリによる悲劇に立ち会っていた。新劇の役者が仕事が上手く行かずクスリに手を出し奥さんを殺害してしまう。その時、姉と弟は逃げるのであるが鉄道自殺をしようとしているのを危機一髪で石松が助けたことがあったのである。

クスリを持ち去られた健司は、クスリを取り返すべく仲間と石松を追いかける。健司の顔をみて石松は「健坊!」と声をあげる。「兄貴!」。健司は命を助けた弟のほうであった。

健次の姉・令子(芦川いづみ)も田舎から出て来て、健次をいさめるがそう簡単には悪事から足をあらうことは出来なかった。石松はそれとは関係なく、麻薬取締官(内藤武敏)の力も借りて、自分なりの情報をあつめに動き出す。それらしき恰好をして「にいちゃん、ヤクあらへんか?」とさぐりをいれる。

そして、学生服を着てワル大学生気取りで浅草の六区の映画館街を大股に歩く姿が。石松の右手の映画館が映るが、名前がはっきりしない。電気館と千代田館かなと思うのであるが。そうなると映っていない左手は浅草日活劇場ということか。その辺りが確信がもてないのである。映るのは数秒である。

小沢昭一さんと川本三郎さんの対談で、小沢さんが話されている。浅草でお客が入れば間違いなく全国制覇できるというきまりがあって、封切の日には各社首脳部が浅草に集まり、石原裕次郎さんや小林旭さんの映画の封切には日活の常務さんが浅草日活の入口に立ち客の入りを点検していたと。

映画のほうは、麻薬組織とのおきまりのアクションがあり、健次は石松の仕事のために利用されたとして石松のことも信用できなくなっていた。そして拳銃を交番から盗み追いかけられる身となる。その健司を説得する石松。若者の何を信じていいのか解らなくなった状況を、まだ俳優として経験の浅い赤木圭一郎さんが上手く役にはまり、ゆとりをもって語りかけ説得する石原裕次郎さんは兄貴として役者の先輩としての貫禄が映る。そういう意味で面白い共演作品といえる。

六区は江戸時代は伝法院の敷地である。国際通りを挟んで国際劇場(現・浅草ビューホテル)側は古地図(1853年・嘉永6年)によると大きなお寺が並び、国際通りを挟んだ向かい側は小さなお寺が並んで、後方に浅草寺がひかえている。そして伝法院があり、その南西部分に蛇骨長屋というのがある。その長屋のあったところに蛇骨湯という温泉の銭湯がある。江戸時代から続く銭湯であるが5月31日で閉店となってしまった。何んとも残念である。蛇骨(じゃこつ)の名前が何かの形で残って欲しいものである。

追記: http://saint-girl.hateblo.jp/entry/2014/11/01/184035  こちらのかたが、古地図の蛇骨長屋を載せてくれています。蛇骨湯の紹介も。

映画『ぶっつけ本番』『SCOOP!』

撮影監督 高村倉太郎』(高村倉太郎著)によると、高村倉太郎さんは、中学生で写真にのめり込み、東京写真学校に進む。学校に松竹大船撮影所から募集があった。

昭和10年(1935年)映画法ができ、映画を上映する際、文化映画とニュース映画を併映することになる。国策の始まりである。松竹にも文化映画部ができて、昭和14年(1939年)に高村さんは、大船撮影所文化映画部所属となる。劇映画と文化映画の撮影助手として撮影にたずさわる。

ニュース映画会社は日本ニュース映画会社統合され、国策強化へと進むのである。高村さんも昭和16年(1941年)末そちらに呼ばれそちらに移るが昭和17年2月に入隊がきまる。昭和21年(1946年)復員して松竹大船撮影所に復職する。

高村さんは、ニュース映画には携わらなかったが、その経過がわかった。ニュース映画にたずさわり、戦争に行き復員して再びニュース映画に闘志を燃やす主人公にした映画が『ぶっつけ本番』(1958年・監督・佐伯幸三)である。主人公役はフランキー堺さん(松木徹夫)で、21年に復員する。このニュース・カメラマンには松井久弥さんというモデルがあるらしい。

松木はやっと再びカメラ撮影ができるようになり、事件が起きれば飛び出していく。ただ生活は貧しく、それを支えるのが妻・久美子(淡路恵子)である。次から次へと事件が起こり松木はスクープを撮るため、色々な手段を用いる。仲間の背中に乗っかて映すなどは朝飯前である。

この映画は録画してあったもので、こんな面白い映画があったのかと再度見る予定にしていたら急に録画器機を取り替えることとなり一度しか観れなくて細かいところは曖昧である。松木がかかわった歴史的な事件を列挙できないのが残念である。

殺人事件で捕まった犯人が現場検証に姿を現わすというので、その犯人の姿を撮るため、松木は警察の目をかいくぐって近づき犯人を撮ることができるのである。その場面が、後に観た映画『SCOOP!』にも同じような場面が出てきたのである。そのことは後にする。

映画ニュースは映画の上映の前に上映され、テレビの出現で、その伝達のスピード感に遅れがでてくる。後輩の原(仲代達矢)も松木に申し訳ないという気持ちを持ちつつテレビのほうに移ってしまう。それでも、松木は好い映像を撮りたいと頑張るのである。復員してきた父親とその家族の再会を駅のホームで撮ろうとする。ところが同じホーム上ではその感動的な場面が上手く入らない。松木はホーム下の線路に下りてカメラをかまえる。そこへ貨物車が入ってきて松木は亡くなってしまう。

亡き松木を讃える賞の授賞式があり、妻の久美子が亡き夫の代わりに出席する。松木は地味な仕事で、それを心から讃えてくれたのはかつての仲間の原たちであった。

「ドラマよりドキュメンタリーや文化映画のほうが、臨機応変に対応しなければいけないからですか。」の質問に対し、高村倉太郎さんは、次のように答えられている。「要するに劇映画の場合はある程度状況をつくれるわけですよね。文化映画っていうのは、相手によってはこっちが考えていないような悪条件のときもあるわけです。、、、「これじゃ写りません」では済まない。絶対ちゃんと写していかなきゃいけないから、その方法をいろいろ考えるわけです。」

ニュース映画となれば、ぶっつけ本番度はさらに増したことであろう。

映画『SCOOP!』(2016年・大根仁監督)は、フリーの中年パパラッチが主人公である。こちらは決定的瞬間を連続写真でとらえる。芸能人や有名人の個人的生活の一部を待ち伏せや隠し撮りなどをして雑誌社に売るのである。映画『盗映1/250秒』(1986年・原田眞人監督)のリメイクで、こちらは観ていない。

中年パパラッチ(都城静)が福山雅治さんでその下で指導される雑誌「scoop!」新人担当記者(行川野火)が二階堂ふみさん、何かと情報をくれるチャラ源がリリー・フランキーさんである。

静(しずか)はかつては優秀なカメラマンだったようであるが、今はあくどく私生活をあばくスクープ写真を追い駈けている。それが雑誌「scoop!」の売り上げを助けている。そんな時、女性連続殺人犯の現場検証があり今の犯人の顔写真を撮ることになる。『ぶっつけ本番』でも悪戦苦闘していたので、静がどう作戦を立てて見せてくれるのか楽しみであった。作戦は成功するが、結果的には野火に犯人の顔を撮らせるのである。

チャラ源はクスリをやっていてチャラチャラとしているようで腕っぷしは強い。静と野火(のび)をハングレから救ったりもするが、ついにクスリによって制御能力がなくなり静に電話してくる。格好いい写真を撮ってくれと。

静は野火を乗せて車を走らせる。チャラ源はすでに人を殺し、自分の娘を連れ、クスリで人格が無くなっている。静は何んとかチャラ源の気をそらし娘を安全な場所に行かせる。このあたりのチャラ源と静のやり取りは上手く静があしらうだろうと期待してしまうが思いがけない結果となる。

野火は最後の一瞬をカメラにおさめる。その写真は、静がカメラマンになるきっかけとなったロバート・キャパの写真「崩れ落ちる兵士」を思わせる。静の上司でもあり、静の元パートナーでもある定子(吉田羊)が、最後に愛された人がこの事件の記事を書くべきだと野火に記事を書かせる。

定子や、かつて一緒に仕事をした馬場(滝藤賢一)が、違う立場で静のカメラマンとしての生き方を受けとめることによってこちらも納得できるのである。静とチャラ源の関係。そして野火との愛も軸としてあるが、どうもそこが弱い。静は、カメラは素人である野火を通して自分には撮れない新鮮な写真を託したのであろうが、そこも弱かった。野火のどうしようどうしようという動揺から恐怖感にいってそこから静の自分に発信しているプロへのプロセスを受け取る過程の描き方にもう少し強弱が欲しかった。

おそらく野火が記事を書いて「写真・都城静」と書き残すところにそれが現れているのかもしれないが、リリー・フランキーさんの演技を押さえる効果までにいたらなかった。

殺人事件の犯人の現場検証のスクープねらいの成功で、映画『ぶっつけ本番』と映画『SCOOP!』がつながり、『撮影監督 高村倉太郎』で、ニュース映画の成立と劇映画ではない映像カメラマンと写真カメラマンのぶっつけ本番度を感じた次第である。

追記: コロナ専門家会議の議事録を作成しないのだそうである。価値あるものではないということなのであろうか。これから先の検証に凄く役立つものだと思いますけど。未知との闘いのあかし、残して下さいよ。

追記2: 霞が関のかなりの人々は億の0の数に対して軽いのではないかと邪推してしまう。1億は100000000である。(間違ってないでしょうね。緊張します。)税金は誰のものでしょう。← 感染症拡大により大きな影響を受けた事業者に持続化給付金(パチパチパチ!)の委託過程に疑問(?)