国立劇場 『伊賀越道中双六』(1)

二回目の観劇である。台詞回しの上手さ、ツケの音、下座音楽、竹本のシンプルな音楽性との相性で堪能させてもらった。吉右衛門さんが、「あぜくらの集い」で、唐木政右衛門(吉右衛門)の剣術の師にあたる山田幸兵衛(歌六)が良い所を全部持って行ってしまうような人物なので、そうならないように頑張らなければなりませんと話されていた。

「岡崎」の<山田幸兵衛住家の場>は今回の芝居の凝縮度の高い場面で、敵を討つ側の義兄弟が本人たちの知らないところで、敵同士となってしまうという流れと、かつての剣術の師が敵側を味方するという立場であることから、政右衛門夫婦のさらなる悲劇となる。そして、それらを全て見抜くのが師の幸兵衛であり、この場の最期の師弟のやり取りは、これで本懐を遂げれるという明るさへと変わるのである。仇討という大義名分に隠れた人間悲劇の矛盾をはらみながらも、してやったりと気分をスカッとさせるのは、そこに至るまでの役者の台詞の上手さである。

上杉家の家老・和田行家(橘三郎)には、娘・お谷(芝雀)と息子・志津馬(菊之助)がいるが、お谷は門弟の浪人唐木政右衛門と不義密通のため勘当。息子も傾城のために家宝の刀「正宗」を質入れし勘当している。志津馬をそそのかして「正宗」を手に入れようとしているのが、沢井股五郎(錦之助)で「正宗」を手に入れるため行家を殺してしまう。

大和郡山城に仕官した政右衛門は、弟の志津馬の敵討ちの助太刀をするために御前試合で桜田林左衛門(桂三)にわざと負け、城主(又五郎)から暇を申し渡される。城主・誉田大内記(こんだだいないき)は政右衛門の心を読み取っていて、政右衛門に剣の相手をさせ神影流の奥義を披露させ、満足して志津馬ともども敵討ちに送り出す。林左衛門は股五郎の叔父で、出放したと知った二人はその後を追う。

行家の後妻(京妙)を含め、動きも台詞もしっかりしていて人物構成も良く成り行きがよく解る。政右衛門が大内記に神影流の奥義を見せる場も綺麗に決まる。

藤川の関で、志津馬は政右衛門と待ち合わせるが、その茶店の娘・お袖(米吉)が志津馬に一目惚れする。志津馬は、関を通る通行切手が無いためこのお袖の恋心を利用する。

「あぜくらの集い」でも吉右衛門さんは、志津馬の菊之助君は悪い色男ですと言われて皆さんを笑わせていたが、已むに已まれぬこの行為が悲劇の原点とも言えるのである。

ここに奴・助平(又五郎)が密書を持って現れ、その密書と助平の切手を手に、志津馬とお袖は、岡崎のお袖の実家へと向かう。股五郎と林左衛門も関所を通り、その後を追って来た政右衛門は切符が無いため抜け道を行くのである。さらに切符の無い助平も抜け道を行くが、茶店でのお袖とのやり取り、関所破りで捕縛されるくだりなど、道化役で又五郎さんが息抜きをしてくれる。米吉さんはひたすら志津馬の菊之助さんにポア~ンであるが、可愛さを出そうとする動きを出そうと一生懸命なのが解るのが、二重の可笑しさをさそう。お袖にも「岡崎」では、悲劇が訪れるので、そのあたりの変化を米吉さんなりに考えているのであろう。

「岡崎」では、敵討ち側に予想もしなかった展開が待ち受けているのである。うそにうそを重ねていかなければならない状況が。

 

熊野古道の話題増殖

<熊野古道>の話題が増殖している。歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(2) で、く熊野古道>に触れたが、他の仲間からある本を紹介される。『RDG レッドデータガール』(荻原規子著)である。RDB<レッドデータブック>というのがあるらしく、何かというと、絶滅のおそれのある野生生物の情報をとりまとめた本ということである。<レッドデータガール>は、それにかけて、特殊な能力のある少女を周囲が守っていくというファンタジー小説らしい。

その主人公の少女・泉水子(いずみこ)の育てられた場所が、玉倉神社で、熊野から吉野への大嶺奥駈道(おおみねおくがけみち)と呼ばれる修験者の道に沿っているのである。おそらくこの玉倉神社は、玉置山にある玉置神社がモデルと想像するのであるが。この小説は全6巻あるらしいが、主人公はこの後、東京の高校に進学するということで、熊野の様子の出てくる1巻のみを借りることにしたのである。途中であるが、泉水子を助けるであろう中学三年生男子の深行(みゆき)が登場し、中一の時、羽黒山で蜂入りをはたしたとある。羽黒修験の行を済ましたらしい。今年の夏 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡 を訪れていて、羽黒山で蜂子皇子の尊像を拝観しているので、次第にはまってきている。

本の内容を聞いていると、陰陽師も出てきて、戸隠も関係し、歌舞伎関係の人も登場するらしい。一応は、1巻だけとしているが、読後状況によっては次も借りることになるかもしれない。彼女も春には熊野に行く計画なので、ではということで、『熊野古道殺人事件』(内田康夫著)を貸すことにする。

私はファンタジーやSF物は読んでいないので、何からそちらに入ったのかを聞いたところ、子供用に書かれていた『古事記』で、あれはまさしくファンタジーであるという。となれば、スーパー歌舞伎の『ヤマトタケル』のDVDを貸してみようと思う。

『陰陽師』は、歌舞伎でも上演されている。歌舞伎座 『九月花形歌舞伎』 (2) 彼女が夢枕獏さんの『陰陽師』を読んで気にいっていたところは、安倍清明(あべのせいめい)と源博雅(みなもとのひろまさ)との絶妙な関係だという。それは、解かる。安倍清明の染五郎さんと源博雅の勘九郎さんの受け答え、やり取り、台詞のキャッチボールが何とも言えない二人の繋がりを描いてくれたのである。原作が読みたくなる。安倍清明が博雅を「おまえはいい男だ」というのであるが、この<男>が<漢>と記されていて<おとこ>と読むのだそうである。漫画などではよくでてくるらしいが、私はまだ目にしていない。

それから『ターザン』の話しが出て、原作者のエドガー・ライス・バローズに飛ぶ。自分とは違う世界観に浸っていて、話しも微に入り感心してしまう。面白さの壺は、それぞれの感じ方の壺である。入り込んでいるが、かなりのこだわりもあり客観的でもあるので、突っ込んでも面白い回答が帰って来る。さらに、固定化されている部分があるので、私はそうは思わないと言っても一向に構わないのが楽である。ただ原作にあたっていない分こちらは不利である。

熊野は道が沢山あり、電車とバスを使っての旅は頭を使う。行った友人の話を聞き地図をみて、歩く距離と時間を検討し、そこへバスの時間を組み込んでとやっていると、松本清張の推理小説的頭の体操となる。準備体操段階で疲れてしまう。

つづき→     美・畏怖・祈りの熊野古道 (那智山) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場 未完の『伊賀越道中双六』と媚薬

仇討となれば国立劇場の『伊賀越道中』とこなければならないのであるが、未完である。なぜかといえば、前の方の席で観たため、役者さんの動きはよくわかるのであるが、物語性が飛んでしまっている。もう少し離れて全体を見なければダメである。というわけで、後日、再度観る事にしているので、その時はしっかりと捉えたいと思っている。

<岡崎>の場面は、40数年振りの上演ということである。かなり、暗い場面であるが、吉右衛門さん、歌六さん、芝雀さん、東蔵さんのぶつかり合いがやはり良い。錦之助さんの悪役、又五郎さんの道化役が板についている。

若い役者は良い席で観た方が良いと言われた人がいるが、確かに、演じる方の手の先から足の先までどう動かしているかを観るには近くのほうが勉強になると思った。こちらは、役者になるわけでもないので、その動きが物語性よりも先行してちょっと仕切り直しである。先に物語性を受けて、役者さんの動きを再確認するほうが良かったようである。

昨日は歌舞伎学会の研究発表やトーク、朗読、シンポジウムがあった。

都合で聞けなかったのであるが、研究発表に「<新派復興>を考える ー 瀬戸英一「二筋道」と新派の昭和初年代」(発表者・赤井紀美)というのがあった。『空よりの声ー私の川口松太郎』(若城希伊子著)に、「二筋道」が大成功で花柳章太郎さんは人気絶頂であったとある。そして、瀬戸英一さんが亡くなった時、花柳さんは、通夜の席で泣き、「しっかりしてくれよ。瀬戸が死んじゃたんだよ。俺ももう四十だ。ぐずぐずしてはいられない。お前だって同じだぞ。瀬戸の跡を継ぐようなものを書いてくれ」と川口松太郎さんの両手を掴んで云ったとあり、筆者はその祈りに似た願いを、『明治一代女』としている。

その本で瀬戸栄一さんも『二筋道』も、初めて知ったが、その関連の発表である。凄いタイミングである。資料だけは頂いたので、ゆっくり読ませて貰うことにする。

トークは前進座の嵐圭史さんで、木下順二作の「子午線の祀り」の群読の知盛の部分を25分ほどにまとめられ、その朗読もして下さった。ご自分の経歴を通しての前進座の歴史劇『怒る富士』『五重塔』『天平の甍』らに至るまでを話された。そして、朗読の<息>についても話され、巧妙な緩急で朗読された。

シンポジウムが、「戦後歌舞伎と前進座」のテーマで、小池章太郎さん、原道生さん、渡辺保さん、<司会>犬丸治さんで、前進座の歌舞伎が面白かった時代のことを話される。前進座の歌舞伎が、松竹歌舞伎とは違う面白さを放っていた時期があったことは知っているが、観ていないのであるから想像がつかなかったが、その未知の世界の話しが面白い。小池さんは、前進座に居られたことがあり、翫右衛門さんと長十郎さんの芸に対する具体的なかかわり方を話される。原さんも、渡辺さんも、前進座の舞台は数多く観られているので、やはり面白かったと話される。渡辺さんは、同一作品に対する前進座歌舞伎と松竹歌舞伎の面白さの勝敗も紹介され、具体的に話されるので、何となく想像がつき納得させられる。

皆さん冷静に客観的に観る眼を持たれていて、歌舞伎学会というと硬く感じるが、どうして、その時には、冷徹と思われる眼が怖くて面白いのである。ベタベタ褒めてばかりいる人をみると、何か利害関係を感じてしまいうんざりするが、理に適った指摘は、もっと観なければと観る意欲をもらうのである。

そして、芝居の水面下での芸のぶつかり合いは、観客にとって、媚薬である。そんな舞台に遭遇したいがために、足が劇場に向かうのである。

 

 

 

歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(2)

『雷神不動北山櫻』の大詰めは、早雲王子の陰謀が明らかとなり、王子を捕らえようと捕り手との大立廻りとなる。この立廻り、大勢が息を合わせて豪華絢爛に見せてくれる。最期は、不動明王(海老蔵)が王子を戒め、左右に童子を従え宙に鎮座するのである。

今、熊野が頭の一部に存在するので、王子とか童子となると、そちらに引っ張られてしまう。童子いえば、東京国立博物館での「国宝になってもいいかな」とでも言いだしそうな『善財童子立像』を思い出してしまう。安倍文殊院で逢ったときは、あの独特の姿が可愛らしいと思ったが、まさか国宝で、東京で再びお逢いできるとは思わなかった。

そして今、某新聞の夕刊で、内田康夫さんが『孤道』を連載されている。その始まりが、熊野古道の中辺路(なかへち)にある「牛馬童子像の首が切られた」という事件からなのである。友人が二回目の熊野古道に行き、牛馬童子像のある道を歩くと聞いたばかりでタイミングが凄い。こちらも可愛らしい像だったようで、後日話しが聞けるであろう。内田康夫さんには『熊野古道殺人事件』もあり、さっそく読み、友人にも古本屋で見つけて熊野に行く前渡す。

足摺岬から竜串海岸 四国旅(4) で、初めて<補陀落渡海>を知ったが、そのことが『熊野古道殺人事件』では関係してくる。読み始めて、戦中の特攻隊や人間魚雷を思い描いたが、作者もそのことに触れている。道成寺もでてくる。佐藤春夫の詩『少年の日』もでてくる。『佐藤春夫記念館』は、新宮に行ったら是非訪れたいと思っていた場所である。内田さんと、浅見さんは時間の関係で訪れていない。

熊野古道には、「王子」というのが沢山でてくる。熊野三山の御子神(みこがみ)を祀る祠なのだそうである。かつては熊野九十九王子と称されていたらしいが、江戸時代にすでに多くが廃絶となったらしい。

歌舞伎『雷神不動北山櫻』と直接関係ないが、まだ訪れていない想像の世界の熊野と空気が重なるのである。

そしてもう一つ感じたのは、役者さんのことである。現猿翁さんの育てられた役者さん達が、今の歌舞伎界に不可欠の存在となっていることである。歌舞伎役者の血の方、歌舞伎と関係なく飛び込んだ方、その役者さんが育っていなかったら、これだけ、あちらこちらでの歌舞伎上演はあり得なかったと思う。

猿翁さんが舞台から引かれてから、猿之助一門は、玉三郎さんなどにも厳しく指導されていた。様々な風を受けての猿之助一門の成長である。門之助さん(関白基経)、市川右近さん(小野春道)は、位にあった雰囲気をだせる役者さんとなった。笑三郎さん(腰元・巻絹)は出が少なくても、芝居を締めて面白くしてくれる。猿翁さんの功績は大きいと思う。

その他では、右之助さん(秦民部)、市蔵さん(八剣玄蕃)が善悪の脇を固めている。亀三郎さん(白雲坊主)、亀寿さん(黒雲坊主)のコンビも、脇で務めて来た成果がでてきている。尾上右近(秦秀太郎)さんも、11月の成果を無駄にしていない。久方ぶりの道行さん(八剣数馬)も健在。最後は市蔵さんとの童子コンビ。

愛之助さん(文屋豊秀)は、海老蔵さんが濃いから遠慮せずもっと前面に出ても良いのでは。獅童さん(早雲の家来・石原万平)は、歌舞伎的台詞の工夫がほしい。児太郎さん(錦の前)と松也さん(小野春風)は、姫君、若殿のふくよかさが欲しい。

寒さも厳しくなり、筋肉も硬くなるであろうから、これからの時期の役者さんたちは、怪我のないように努められて欲しい。

 

歌舞伎座12月 『雷神不動北山櫻』(1)

通し狂言『雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』は、観る側からすると、単発で観ている『毛抜』と『鳴神』が一つの流れの中の物語であったということの面白さである。ところが、何回も単発で観ているため、『毛抜』と『鳴神』は練に練られてきた演目である。それだけでも成り立ってきた演目である。そのため今回の『毛抜』には納得出来なかった。大きさがないのである。『毛抜』『鳴神』と二つ山を越し、三つ目の山の『不動』の頂上で終わるのである。『毛抜』の山が低すぎる。

陰陽師・安倍清行は早雲王子が皇位を継ぐと世の中が乱れると告げたことにより、女子として生まれてくる子を、鳴神上人は男の子として誕生させる。その子が陽成天皇となる。早雲王子は、鳴神上人を都から追放してしまう。鳴神上人は約束の褒美をもらえず追放され、龍神を封じ込め雨を降らせず干ばつにしてしまう。

陽成天皇に仕える側が、関白基経、小野春道、文屋豊秀であり、小野春道の娘・錦の前と文屋豊秀とは、縁談がまとまっている。ところが、錦の前は病気を理由に輿入れしないため豊秀は家来の粂寺弾正(くめでらだんじょう)に様子を見に小野家に差し向ける。この粂寺弾正の活躍が『毛抜』である。この粂寺弾正は鷹揚で自分流に考え行動する人物で、それでいながら原因はしっかり究明し、弁舌にも長けている。そして大きくなければ時代的面白味がなくなる。現代のただ知恵の回る人物と同じになってしまう。海老蔵さんの粂寺弾正は、時代物的大きさに欠けていた。なぜか。笑いのほうに傾いたのである。

陰陽師・安倍清行が、正体の分からぬ謎めいたことを発しては消えていく摩訶不思議な人物にしている。早雲王子も悪としてつくりもいい。鳴神上人も、雲の絶間姫の玉三郎さんに引っ張られ破戒僧となり、裏切られての怒りの流れもいい。だからこそ、粂寺弾正は時代的大きさを見せてほしかったのである。これに不道明王が加わり、<早雲王子><阿部清行><粂寺弾正><鳴神上人><不動明王>の五役を海老蔵さんが演じるのである。

鳴神上人のところに雲の絶間姫を差し向けるように文屋豊秀に告げるのが阿部清行で、雲の絶間姫は豊秀の恋人で、鳴神上人に聞かせるため夫との馴れ初めを話すが、それは豊秀との事とすると、鳴神上人も踏んだり蹴ったりである。

皇位継承、お家騒動、陰陽師と上人との駆け引き、男女の愛の駆け引きと、この芝居もかなり入り組んでいて面白い。

 

歌舞伎座12月『義賢最期』『幻武蔵』『二人椀久』

『義賢最期』は、今年の新春に愛之助さんは演じられていて、今年の末、これで締めるということになる。 浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)

今回の愛之助さんには、悲壮感が強く表れた。小松の枝で手水鉢の角を割り、下部折平が源氏方の多田蔵人(亀三郎)と見抜いて平氏打倒を打ち明けたときからの決意が、兄の髑髏を踏むことが出来ず、紫の病鉢巻をぱっと投げ捨てる。思った。まだまだ、格好良く伝える工夫はあるのだと。そして、ここで討死にするぞとの意気が湧きたち、その流れの頂点としての<仏倒し>となった。源氏の御印である白旗の行方を見る側も追っていた。平家側の矢走兵内(猿弥)の手にあるのを多田蔵人の妻小万(梅枝)に手渡し<仏倒し>となる。ついに力尽きて倒れたという感じで、生身の愛之助さんのことを心配する余裕を与えない最期であった。義賢の生から死への最期である。亀三郎さんは声が張り過ぎかなという箇所もあったが、良く通る声で声量豊富なので、この声を自由自在に使い、幅広い役に挑めるのがこれからの強みになりそうである。

『幻武蔵』。森山治男さんの新作で玉三郎さんの演出である。森山治男さんは、中将姫伝説をもとに『蓮絲恋慕曼荼(はちすのいとこいのまんだら)』を書かれた方で、期待していたのであるが、武蔵や千姫、淀君が伝説ではなく歴史上の人物として現前としているので、物語としての幻想性を薄めてしまった。 揺るぎなき剣豪宮本武蔵(獅童)は姫路城の天守閣に妖怪が現れるとして、妖怪退治を頼まれる。千姫(児太郎)を脅かす淀君の霊(玉三郎)、坂崎出羽守の霊(道行)、秀頼の霊(弘太郎)が現れそれらから武蔵は千姫を救い出す。しかし、それだけでは無さそうである。天守に祀っている小刑部明神(松也)が姿を現し、宮本武蔵という一人の人間の持っている多面性を、多数の武蔵を登場させ、武蔵の闘ってきた姿を通して語り追求しはじめる。この辺りの台詞は、幸いなことに少し前に映画『宮本武蔵』を見ていたので、その場面が浮かんでくる。しかし、宮本武蔵に興味ない方は苦手な部分となるかもしれない。武蔵はその言葉に耳を傾けつつ、過去の自分と向き合いそこから、脱却するのであるが、その振り下ろされた一刀が、武蔵自身と小刑部明神・実は小刑部姫をも救うこととなる。 小刑部明神が、武蔵が試合に遅れて来たとか、子供まで殺したとか、試合にまつわることを指摘していく。しかし、無勢に多勢の試合であるから戦略は必要であったと考えられる。そういう意味では、武蔵の世界を理詰めに幻想的に捉えるのは無理であるように思えた。歌舞音曲で武蔵をたぶらかせたほうが面白かったように思うのだが。笛の音とか。通俗的過ぎるであろうか。

森山さんは、三年前に亡くなられておられるようである。残念である。新しい作品を生み出され想像の世界を広げて下さったことに感謝いたします。そう言えば、姫路城の天守閣最上階に何かを祀ってあったようであるが、あれが、小刑部明神だったのであろうか。姫路城の伝説など考えもしなかった。

『二人椀久』は、椀久の海老蔵さんが松山を失って心ここに非ずと淋しさに耐えつつの花道での姿がいい。でもあれだけ想い焦がれたのだから、二人が逢った時くらいはもう少し華やかでもいいと思うのだが、流れの緩急もあまり変えず静かに二人の時間を慈しむ。夢の中なのだから幻想的にということなのであろうが、『幻武蔵』でも思ったが、玉三郎さんの<幻想>には、まだまだ到達しえない若い方達である。 『二人椀久』、『鳴神』でも、玉三郎さんの大きさをやはり見せつけられたように思う。『鳴神』は<幻想>ではなく、手練手管である。それは芸の手練手管でもある。千手観音の手のようである。

明治座 11月 『四天王楓江戸粧』

『四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)』は、四世鶴屋南北作で、これを観てすぐは、すっきりとしていたのであるが、時間がたってみると、あのすっきり感はどこへ。そして、現猿翁さんの国立劇場で復活上演された録画を観直したら益々混乱状態。これから構築しなおすことにする。原因は、記憶力の低下ではなく、もともとの記憶力の弱さである。

観ていた時は、なるほどそういうことになるわけかと芝居に付いていったのである。猿弥さんと弘太郎さんは、今回は罰ゲーム体制かな。竹三郎さん昼夜大活躍。和泉式部が出てくるんだ。尾上右近さん、次に観るのが怖いほどの出来。猿之助さん、右近さんの力を引きだした。右近さんもよくそれに答えた。市川右近さんの荒事はいい。團子さんもきちんと立ち回りを演じている。名剣の名が子狐丸だからその狐の精がでてくるんだ。小鍛冶を連想する。作り物の蜘蛛の動きもいい。亀三郎さんにしては珍しいもて役。明治座は舞台の奥行が狭いと思うが、上手い舞台設定とし、相当、考慮されたであろう。筋を追いつつそんな事が頭の中を駆け巡っていた。

<四天王>というのは、源頼光の家来の、渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、ト部季武(うらべすえたけ)の4人である。その他、藤原保昌という優秀な家来もいる。碓井貞光→碓井定光、藤原保昌→平井保昌となっている。

善人が、源頼光側で、悪人は亡き平純友側である。純友の妻・辰夜叉はすでに亡くなっているが、その弟の左大臣高明(亀三郎)が辰夜叉(猿之助)を蘇生させてしまう。そこへ来合わせた渡辺綱(市川右近)に対し、辰夜叉は大蜘蛛となって追い払い、辰夜叉に戻り空を飛んで行く。

一條戻橋では、辰夜叉によって御所から追い出された貴族が男夜鷹(猿弥、弘太郎)となり、さぼてん婆(竹三郎)が取り仕切っている。評判の男夜鷹が、平井保昌の弟・保輔(猿之助)で、母(秀太郎)が現れ屋敷に連れ戻す。ここは笑いを取る場面で、猿之助さんと竹三郎さんが、台詞にはない冗談を交えたりする。

平井保昌の館では、辰夜叉の命で、頼光に紛失の宝剣を詮索をするように、それに従わないなら切腹して首を差し出すように言って来る。夫の赴任先に呼ばれていた保昌の妻・和泉式部(笑三郎)は、梅の枝を携えて帰って来る。保輔は、刀を見ると恐れのため体が硬直する奇病を持っている。その為、兄は梅の枝の切り口を持たせ、頼光に似ている弟に身替りとして、その枝で死んでくれるよう暗示したのである。保輔の奇病は母が気性の荒い保輔のためにそのままにしておいたので、それを解いてやり、保輔は刀で切腹する。

和泉式部は、辰夜叉に頼光の首を差し出す。頼光の許嫁・花園姫(笑野)に首実検を命じる。そこへ、保輔を想う式部の妹・橋立(笑也)が現れ、その様子から頼光の首は偽物と解ってしまう。辰夜叉は、式部達の首を討つよう命じる。そこへ「暫く」といって、碓井定光(市川右近)が花道から現れる。ここに『暫』の簡潔な形を入れる。そして、辰夜叉が土蜘の精と合体していることが判明。ト部の妹(春猿)、ト部の弟(團子)、主君頼光(門之助)、公時(弘太郎)、定光らが 土蜘(猿之助)を退治するのである。

これで終わりではない。ここから、もう一つの話が入る。そのあたりが再演は無理と言われた要因のように思える。かつての再演の時は、昼夜での通し狂言である。今回は夜の部だけでの再演である。いかに簡潔にしようとしたかがわかる。読むほうは全部読む気にならないと思う。しかし、観ている時は、こんな感じではない。休憩も挟んでトントントーンと進む。

次は、<地蔵堂の場>なのであるが、相模国と武蔵国の境にある地蔵堂とある。旧東海道の戸塚から保土ヶ谷へ下りの形で歩いた途中に、<武相国境之木>と書かれた木の標が立っていた。そして、権太坂の頂点には、地元の信仰があつい境木地蔵尊があることになっているのだが、この<権太坂>の道を、ずれて歩いてしまったらしいのである。ここだけを歩き直すことにしていたが、雨となり中止となる。おそらく、芝居の<地蔵堂>とは<境木地蔵>のことと思うのだが。

この場では、小鍛冶宗近が打ち上げたという名剣小狐丸が登場する。この刀の精・小女郎狐(猿之助)、ト部季武(猿弥)、逃れて来た高明、平将門の遺児・良門(猿之助)、良門の妹・七綾姫(尾上右近)などが登場し、ここからは、将門関係の者と純友関係の者、頼光関係の者が、からみ合う。七綾姫の持っていた将門の繋馬の赤旗は高明に渡り、小狐丸は良門の手に渡る。

品川宿近くの紅葉ヶ茶屋では、季武が町人に成りすましている。そこの居候の高明も彦左(亀三郎)と名乗っている。彦左は、お七(尾上右近)を名乗る七綾姫とおのぶ(猿之助)を名乗る小女郎狐の二人に想われている。季武の仲裁で彦左を挟んで二人は酒を酌み交わす。ここで、それぞれの素性がばれる。兄良門と再会した七綾姫は小女郎狐に小狐丸を渡し、小女郎狐は喜んで空を飛んで帰って行く。

ここから、良門と七綾姫の立ち回りがある。猿之助さんと尾上右近さんで、尾上右近さんの軽快な立ち回りをたっぷり見れるとは思っていなかった。花道に二本の梯子が立てられる。一本は舞台近くで猿之助さんが上り、もう一本は二階席に届かせていて尾上右近さんが上る。劇場の特質を生かした工夫であり、お客様へのサービスである。照明も色々考えたことであろう。猿之助さんの、今立つ劇場に何が出来るかを考える回線の一部を見たようであった。

全てが明らかとなり、季武は良門を逃がすと告げ、高明は七綾姫と妻に迎えると告げ後日の再会をと大団円となる。

平将門には、七人の影武者がいたとの伝説から、良門や七綾姫の影を七つにしたりと、奇想天外ではあるが、様々な言い伝えが織り込まれており、源頼朝の四天王を使い、登場人物を重複させることによって、芝居の厚みを出そうとしている。そこに、猿之助さんが四役勤めるのである。今回はその芝居の厚みと今まで見れなかった役の役者さんの厚みを楽しませて貰ったように思う。

 

 

 

明治座 11月 『夏姿女團七』

『夏姿女團七(なつすがたおんなだんしち)』は、大阪での『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』の書き換えで、場所も江戸、団七を女に替え、義平次も義母とし、殺しの場が<浜町河岸>である。

女団七を、<團七縞のお梶>と名称していて、あの茶系の弁慶縞の衣装であるが、<團七縞>としているのも、格好よく、粋と義侠心を感じさせる。團七縞の色、柿色というのだそうで、浜町と柿色、明治座と秋の設定も憎いことである。『夏祭浪花鑑』での團七の女房がお梶、一寸徳兵衛の女房がお辰で、『夏姿女團七』では、二人は、一人の女として登場し、両国橋の髪結床で出会う。止めに入るのが、釣船の三婦である。団七縞のお梶の猿之助さんと一寸のお辰の春猿さん、伊達なやりとりを見せてくれる。猿弥さんの釣船の三婦が止めに入るが、斬り合いとなり、お辰の梶右衛門(欣也)から手渡された刀がお梶の探していた宝刀と分る。お梶とお辰が仕組んだ刀探しであったことが判明する。二人は仲間であった。この場面は二幕目である。

一幕目で、場所は柳橋。磯之丞と琴浦が登場し、お局様に変装したお梶の継母とらが、琴浦を姫君として迎えに来るが、お梶の出現でそれが、おとらの狂言で梶右衛門に頼まれてのことであった。磯之丞の門之助さんはこういう役は仁で、芸者の琴浦の尾上右近さんがいい芸者姿となった。そして、女団七だけにお梶の出も考えられていて、猿之助さんもそれに答える。芸者・団七縞のお梶として登場。伝法さの雰囲気もある。狂言がばれる竹三郎さんのおとらの変化が妙味で、お梶とおとらの浜町河岸の場面が楽しみになる。書き換えとして、原作との比較だけでなく、芝居として、どう楽しませるかの工夫がある。

磯之丞の刀も見つかるが、その磯之丞をおとらはおびき出して連れ去ってしまう。そのおとらに磯之丞の行先をたずねるお梶。それが、浜町河岸である。女同士の殺しの場面である。ここが、歌舞伎の女形の強みである。きちんと形となっていく。これが生身の女だと、<女>が前に出てきて様式美にならないと思う。本水を使い、雨が降り、その雨の直線はまるで、浮世絵である。劇場によって、舞台装置も変わるので、その限られた中での工夫もあったであろうが、上手くクリアしていた。書き換えの面白さを満喫させ、予想以上に楽しませてもらった。

作・三世桜田治助/補綴・演出・石川耕氏士

歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (1)    歌舞伎座 7月歌舞伎 『夏祭浪花鑑』 (2)

<浜町河岸>は、川口松太郎原作の『明治一代女』にもでてくる。そして、歌謡曲『明治一代女』の歌詞にも 「 浮いた浮いたと 浜町河岸に 」 と出てくる。両国橋から明治座方面に隅田川に添っている道を浜町河岸通りという。柳橋は、隅田川から神田川に入る最初の橋である。

大阪から江戸へ、男から女へ書き換えるだけに、場面設定もいい。『夏姿女団七』気に入った。

『明治一代女』を唄われた喜代三さんが、私の好きな映画、山中貞雄監督の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』に矢場の女将として出られている。少年を挟んでの大河内傅次郎さんとのコンビが良い。

 

明治座 11月 『高時』

11月の明治座は、10月の新橋演舞場に続く、<市川猿之助奮闘連続公演>である。

『高時』は、河竹黙阿弥さんの<活歴>と云われるもので、これが厄介なのである。<活歴>というのは、明治時代に入り西洋の文化も入ってきて、当然歌舞伎界にも波紋が起こり、九代目團十郎が河竹黙阿弥等と新しい歌舞伎として始めた史実にもとずいた歌舞伎作品をいうことらしい。ただこれが、当時の團十郎さんや黙阿弥さんの意図する作品として継承されたかどうかは疑問の残すところで、解釈的にはその流れを研究されている専門家のかたの研究を探索するしかない。ただ黙阿弥さんが幕末から明治にかけて、時代の流れに生身を通して書かれた<活歴>ものの作品の中で、置き去りにされたものも沢山あるようだ。

芝居のほうの『高時』は、明治17年「北條九代名家功(ほうじょうくだいめいかのいさおし)」(黙阿弥69歳)として九代目團十郎によって上演され好評を博し、その後『高時』の場面のみが上演されているのである。

北條高時は、「太平記」では北條時政から九代目で、次のように書かれている。

「高時の行状ははなはだ軽薄で他人を嘲りを意に止めず、政治の仕方も道にはずれて民の苦難をかえりみず、日夜もっぱら遊興にふけって、地下の祖先の偉業を傷つけ、朝に晩に珍奇な品々をもてあそんで、荒廃の期を目前にむかえようととしていた。」

遊興の中に、闘犬と田楽舞を好むことも含まれるらしく、その事と天狗にたぶらかされたとの逸話を盛り込んだ場面の芝居となっている。駕籠に乗った闘犬に母が噛まれ、その息子が犬を殺してしまう。高時はその男を殺すよう命じるが、家来がいさめる。聞かぬ高時に入道は、きょうは祖先の命日であるからと言われ、いやいや承諾する。そのやりとりで高時の横暴さがあぶりだされる。酔った高時の前に烏天狗が現れ、高時を田楽舞いに参加させ、高時も興にのり踊り始める。しかし、次第に踊りの中でいいだけ烏天狗に翻弄され踊り倒れ、高時の行く末を暗示することとなる。

主人公の高時が、横向きで登場するが、これは、歌舞伎では異例のことだそうである。この芝居が上演された時、批判が続出したようで。『頼朝の死』で頼家が横向きで登場するが、明治では、まだ考えられない形だったのである。ただ頼家と高時では、人物設定が違うので、その効果も違う。

横暴な高時としては、市川右近さんの高時は少し弱すぎる。ただ、烏天狗と市川右近さんの高時の踊りの場面は楽しく、次第に翻弄される身体の動きも軽快で、空中を飛ぶ仕掛けも、高時が違う世界にいる面白さがあり、澤瀉屋の世界である。解かりやすい澤瀉屋の『高時』である。

戯作作家は、上演回数の多い作品で作家としてのイメージを定着されてしまう。それは、上演されなければ作品の意味がないからである。しかし、それだけで決められてしまう評価に対して、納得のいかない部分もあるのが戯作者としての宿命なのかもしれないなどと、いつにない感覚を黙阿弥さんに持ってしまった。

しかし、この感覚に引っ張られていくと、底なし沼にはまりそうな深さも感じるので、とぼとぼ引き返すこととする。

 

歌舞伎座 11月 『御存鈴ケ森』『熊谷陣屋』『井伊大老』

『御存鈴ケ森(ごぞんじすずかもり)』は、侠客の幡随院長兵衛と白井権八の出会いである。<御存(ごぞんじ)>と付くのが、皆知っていたという事である。鳥取藩で父が侮辱されたとして、相手を殺し江戸に逃げてくる。前髪の美しいお尋ね者と、江戸で男の中の男として人気の幡随院長兵衛とを、会わせて並べようとの趣向である。それも、権八が後に処刑される鈴ケ森で会わせるのである。権八の菊之助さんは若く美しく、たむろして賞金目当てのならず者たちを相手に優雅に切り倒していく。

その様子を駕籠の中で見ていた幡随院長兵衛の松緑さんが声をかけるのである。「お若けえの お待ちなせえやし。」声も良いし、駕籠からの出方もよいが、どうしても貫禄を要求してしまう。血気はやる若者を、まあ、まあ、まあ、となだめつつそこに留まらせる大きさである。特に短い場面では、そこが難しい。どうしても、同世代に見てしまう。ところが、同世代でも、年齢がいくと、芸で若さと貫禄を作りあげてしまうのである。今月の松緑さんは、何か粛々と役の心根を探られているように映る。

『熊谷陣屋』で今までと違う印象を持った。熊谷の幸四郎さんが出家して、花道にきて、「ああ十六年はひと昔。夢だ。夢だ。」と嘆くとき、何気なく舞台を観た。煌びやかな衣装を着て並ぶそれぞれの立場の人が熊谷を見つめている。その時、十六年を小次郎と重ねて子を想う親心だけではなく、そうか、今いる熊谷の位置からすると、舞台側は夢なのだ。その世界から自分は今こそ抜け出したのだ。という想いが伝わって来た。そして、戦闘の音に身構え、そんな自分に苦笑する熊谷。

熊谷が本当に抜け出すには時間を要したであろうが、舞台と花道は違う世界になったという二つの世界がはっきりと分かれて見えた。そうしなければ、生きていけない熊谷の苦しさ、そうした状況の人々の代弁者としていの幸四郎さんの熊谷がそこにいた。今まで演じていた舞台の人々が美しくも哀しい亡霊のように思えた。不思議な感覚であった。相模(魁春)、藤の方(高麗蔵)、弥陀六(左團次)、義経(菊五郎)

『井伊大老』は、井伊直弼(吉右衛門)の心情を側室のお静(芝雀)に語ることによって、直弼の人間性を浮き彫りにする作品で、北條秀司作である。北條さんの作品は、歴史的人物の公の姿とは違う心情を表現して見せるのが上手い。そして、吉右衛門さんと芝雀さんも、今となっては望んでも戻らぬ慎ましかった埋木舎での生活を懐かしみ、息の合った情愛を伝える。正室の昌子の方(菊之助)には言えないことでもお静には本心の苦しみを吐露できる直弼。直弼を討とうとして失敗した水無部六臣(錦之助)に、攘夷派は帝を自分たちの思想に利用しているだけなのだと諭す直弼。これから将来ある若者たちの助命を長野主膳(又五郎)にうったえる直弼。直弼の死を予感する仙英禅師(歌六)。その渦中にあって、国賊となることの無念さをお静に語る。お静は「それでよいでは。」と答える。直弼は、その言葉に捨石となる決心をし、桜田門外で討たれ最後に「大義をあやまるな。」との言葉を絞り出す。吉右衛門さんは公私の直弼を表裏をきちんと出された。

今月は、家来が若手で、顔の作りもよく、動きも綺麗で舞台に張りがあり緊張感が増し、見ていて気持ちがしっかりした。

廣太郎さん、種之助さん、廣松さん、隼人さん、萬太郎さん、巳之助さん、宗之助さん