前進座『明治おばけ暦』 (改暦2)

もう一つ明治に入ってから改暦があった。それは、2012年の前進座創立八十周年記念公演『明治おばけ暦』で知る。今回改めて振り返った。

明治5年11月、暦問屋角屋では来年明治6年の暦を小売に渡しひと段落ついた後で号外が出る。明治6年から太陽暦を採用する改暦の号外である。明治6年には6月の後に閏6月があり、1年が13ヵ月ある年であった。太陰暦では2年か3年に一度、閏月を設け1年を13ヵ月にして調整しなければならなかった。太陽暦にすれば4年に一度、1日を増やせばすむのである。ところが改暦となると明治5年の12月は2日で終わり、3日目は明治6年1月1日なのである。暦問屋角屋は大変である。小売から前の暦は返品となり急遽摺りなおした新しい暦は人気がなく売れない。ついに角屋の主人は大赤字のため自殺に追い込まれる。芝居が好きで芝居にうつつを抜かしていた息子の栄太郎と戯作者・河竹新七は、改暦をすすめた大隈重信を懲らしめる芝居を考える。

この芝居の作者は、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の山本むつみさんである。河竹黙阿弥となる前の新七が出てきたり、他にも歴史的なことや、当時の庶民の生活や心情がでてきたり、かなり盛りだくさんである。そうなのか、そうなのかと思って観ているうちは良いのだが、見終わってみると改暦の混乱さのような状態であった。架空の話も加わりお気楽のようでいて中々奥が深いのであるが観るほうの理解度がそこまで手が届かなかった。

ここで、政府の改暦の事情に触れる。それまで役人の報酬が年俸制だったのが、明治4年から月給制になった。明治政府の財政は大赤字である。次の年が13ヵ月である。ここで改暦すると、12月は2日間であるから役人の月給12月分を払わないとし、さらに来年は12ヵ月で1ヵ月分払わなくてもよい。ここで2ヵ月分の給料が浮くのである。相当明治政府として助かったことになる。諸外国との関係からも、太陽暦にしたほうが統一され都合が良かったのである。ただ国民には極秘で明治5年11月9日に突然発表されたのであるから、暦問屋さんと同じような大変な事になった人々も多々あったであろう。この時、太陽暦や改暦について分かりやすい本をだしたのが福沢諭吉で、その著書『改暦弁』は大ベストセラーになったようである。

前進座『明治おばけ暦』 作・山本むつみ/演出・鈴木龍男/出演・嵐芳三郎、河原崎國太郎、嵐圭史、中村梅之助

 

こまつ座公演 『イーハトーボの劇列車』

宮沢賢治は、凄く宗教的ストイックな感じがして苦手であった。若い頃、作品に触れたが童話も詩も「雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ・・・」のストイックさがインプットされていて、周り道をするような、簡単に考えてはいけないような、素に触れられないような感じである。井上ひさしさんは、誘い方が上手く、笑わせながらも、幾つかある本質の少なくとも一つは表してくれるので、この公演を観劇できて幸いであった。アレルギーが弱まったようである。

ただ、観劇の前に映画『宮沢賢治 その愛』をDVDで見ておいた。賢治さんは短期間に色々なことを実行され挫折し、また始めているので、その苦悩も生き方もその一つ一つを追っていくと、こちらも混乱をきたすのである。映画は見ておいて良かった。映画自体も面白かった。

『宮沢賢治 その愛』 監督・神山征二郎/脚本・新藤兼人/賢治・三上博史、父・仲代達也、母・八千草薫、妹トシ・酒井美紀、弟清六・田中実

賢治と父との葛藤。宮沢家は古着屋・質屋である。その家業が貧しい農民からさらに搾取しているとして賢治には納得できない。さらに、浄土真宗の父と法華経信仰の賢治は対立する。詩や童話を書きつつも、実行あるのみと、農業にも従事する。さらに、農業の生産性の肥料の研究、それだけではなく農業労働をするものにとって芸術も必要であると、音楽を聞かせたり、演劇もとりいれたいと、自分の理想を実行していく。しかし、その資金は父親から出してもらうのである。その負い目と宗教的観点から菜食主義で、米に塩の生活である。のちに宮沢家は家業を金物業に変えている。実際には弟の清六が質・古着商をやめ、建築金物・電気機械の販売を始めている。一番の理解者は妹のトシである。賢治より2歳下で日本女子大に進み、兄の言わんとしていることが解るのである。ところが、トシは25歳で肺結核のため亡くなってしまう。妹トシの死は、賢治の作品や生き方に大きな影響を与えている。そして、賢治は39歳で生を閉じる。母に「そんなことをしていたら死んでしまいます。死んだら何にもならないでしょう」と言われ、最後に父には「賢治、おまえはたいしたもんだ」と言われ、家族の情愛を受けての賢治自身の<その愛>でもある。

これだけの流れが解れば、井上さんの本の芝居はまず台詞を楽しむことである。『イーハトーボの劇列車』は賢治を中心とした一つの宇宙である。現実には、賢治は仲間に入ろうとするのであるが賢治の理想は受け入れられずはじかれることも度々である。劇中では、他の人が賢治に自分の生き方や考えをぶつけることによって、賢治がそれに答えていき、賢治の考え方を理解する形となる。悲しい結果にはなるが賢治が理解出来る生き方の人、考え方が自分と違う人もいる。井上さんは明らかに生き方も考え方も違う登場人物に対し、笑いをもって<なんかちがうな、それでいいの>と疑問をなげかける。その人の筋が通っていればいるほで、どこかでほころびてくる可笑しさ。

賢治と父の宗教論争は、それをやるんですかと恐れ入ってしまった。でもそこはそこ、論争にハエが加わる。父は邪魔ものとしてハエを叩き潰そうとする。それは、賢治の宗教観をも、論破することと一致している。賢治は父の質問に答えつつ、いかにそのハエを逃がしてやるか、様子をうかがっている。答えることが目的ではなく、ハエを逃がすことのほうが重要なのである。この設定も賢治の生き方を違う意味で照射させている。このあたりが、井上さんの二重に面白いところである。賢治は父の誘導にはまってしまい、再び花巻に帰ることになる。この花巻から上野までの何回かの列車の旅は、賢治にとって、人との触れ合いの場であり、死にゆくものたちの一瞬の光を受ける場でもある。

賢治は自分を<デクノボー>であると告げる。そして、自分に頑強な肉体があったら、立派で強い日蓮上人を求めたであろうが、頑強な肉体ではないからデクノボーの日蓮上人でいいのだと言い切る。あくまでも弱い立場の方に自分を置いているのである。そして皆と一緒に「イーハトーボの劇列車」に乗るのである。この<ボ>はデクノボーの<ボ>のような気がしてきた。

歌は比較的少ない。その分、台詞が面白い。風の音がすると「風の又三郎」などがふうっーと浮かぶ。それと岩手弁が文字ではなく音となって伝わるのが心地よい。宮沢賢治の作品も音読があう作品である。宮沢賢治は周囲の思惑を考えに入れない強引さもあったようで、ストイックでありながら、やられっぱなしではなく、また進み、人として偏屈なところもあり安心した。

井上芳雄さんの賢治は、野畑の中を這いずりまわる賢治ではなく、どこか、遠くをみつめつつ人と争わず自分の理想を置き土産としておいていくような、疲れた少年や人々を共に連れ立ってふうっーと消えてゆくような賢治であった。

作・井上ひさし/演出・鵜山仁/演奏・荻野清子/出演・井上芳雄、辻萬長、木野花、大和田美帆、石橋徹郎、松永玲子、小椋毅、土屋良太、田村勝彦、鹿野真央、大久保祥太郎、みのすけ

 

 

『太鼓たたいて笛ふいて』(the座 第48号)

太鼓たたいて笛ふいて』のパンフレットは、こまつ座の出している2002年7月の「the座 第48号」である。このお芝居は何回か上演されているので、その度に違う資料なども載せているようである。「the座 第48号」には、演劇評論家の大笹吉雄さんが連載で「女優二代 鈴木光枝と佐々木愛 第13回」も載せている。

劇団文化座の代表として係ってきた鈴木光枝さんと佐々木愛さん親子の歩みを書き記しているらしい。この第13回は火野葦平さんの『ちぎられた縄』を文化座の創立15周年記念公演で上演した事から書き始められている。『太鼓たたいて笛ふいて』の舞台を見たとき、この大笹さんの連載は素通りしていた。NHKスペシャル『従軍作家達の戦争』で火野葦平さんのことを知らなければ、永井荷風展に行かなければ見返すこともなかったであろう。

『ちぎられた縄』は火野葦平さんの二作目の戯曲で、沖縄がまだ米軍の占領下にあった頃で、火野さんの弟さんが沖縄線で戦死しているため強い関心があり、沖縄の文化を取り入れた戯曲を書いたようである。この芝居は大変評判を呼び、文化座の旗揚げにカンパした花柳章太郎さんも補助席でみたという。鈴木光枝さんは新派の井上正夫さんに弟子入りしている。

『ちぎられた縄』は本土の作家が初めて沖縄のことを取り上げた戯曲で意欲作であったが、大笹さんは、作者の“二度と戦争があってはならない”のテーマが明確に打ち出されていないのと、人物の描き方に突っ込み足りぬところがあって惜しいとされている。しかし、この芝居の好評判で文化座は経済的に助かったらしい。

今は沖縄に「国立劇場おきなわ」もあり、東京の「国立劇場」でも琉球舞踏は見ることが出来るが、芝居の中に琉球舞踏がでてきたのは火野さんの戯曲が初めてなのかもしれなし、沖縄文化というものを考えさせる作品でもあったのであろう。

時代の中で自分の小説のテーマを庶民の生活の中に模索しつつ突き進んでいた火野さんは、死者たちはまだまだ語りたいことがあるのだと伝えに来たような気がする。

井上ひさし 『太鼓たたいて笛ふいて』

太鼓たたいて笛ふいて』は林芙美子さんの評伝劇である。井上さんの評伝劇は、資料を調べるだけ調べて、そこから井上さんの思いを込めて人物像を造形していく。

林芙美子さんに関しては、母と養父の行商について歩く貧しい少女時代。本に夢中となり、職を転々として詩や小説の創作に打ち込む時代。長谷川時雨主宰「女人芸術」に発表した『放浪記』がベストセラーとなり流行作家となった時代。日中戦争が始まり戦争従軍記者として活躍する時代。戦後一転して戦争が引き起こす女性の悲劇を描いた林芙美子さん。その林さんを生活する庶民と文学者の境界を造る事無く走り続けた小説家として肯定し、そこから見えてくる、物書きとしての矛盾をも映し出す井上戯曲。歌を挿入することによって、攻撃性を弱めたり、雰囲気を明るくしたり、理論性で疲れる脳を休めてくれ、新たな問題点、思考すべき事がないのかなどを提示してくれる。

この芝居の中の林芙美子と一緒に林芙美子を探している。戦争従軍記者として戦地におもむいた作家は日中戦争前からいた。あの正岡子規さんも新聞記者として従軍しその報告を書いている。林さんは、東京日日新聞(毎日新聞)の従軍記者として、南京に一番乗りし、女性で一番乗りということもあって脚光を浴びる。そして、火野葦平さんの芥川賞受賞が内閣情報部の目に止まり、作家達による「ペン部隊」がつくられ、林さんはその一員として漢口に行き、またまた一番乗りとなり、一段と名を売るのである。日本へ帰ってからも、現地の様子を知りたい残されている家族は、林さんの講演会に殺到する。内閣情報部は見せたいものと、見せたくないものはコントロールしているので、その中で動いた林さんの見たものは、戦場の全貌では無かったであろう事は想像できる。内閣情報部の狙った通り、作家の戦場と銃後をつなぐ一体感は上手くいくのである。戦後そのことに気付いた林さんは、戦争で傷ついた女性たちを題材として小説を書くのである。

『太鼓たたいて笛ふいて』には、驚くべき人が登場する。それは、島崎藤村さんの『新生』で書かれた藤村さんの姪御さんの島崎こま子さんである。芝居は芙美子さんの家で、そこに芙美子さんのお母さん、レコード会社の人、昔の行商隊の人などに交じって島崎こま子さんも登場するのである。これには芝居を観ていて驚ろいた。帰りに慌ててパンフレットを購入する。それによると、こま子さんは藤村さんと別れ結婚もするが、幼い娘を抱え、貧しさと過労から倒れ養育院に収容され、林さんはこま子さんを訪ねる。そして、そのことを「婦人公論」に手記として発表していたのである。

「女の新生 島崎藤村氏の姪荊棘の道を行くこま子さんを訪ひて」  <「新生」と云う作品は岸本と云う男の主人公の新生であり、そうしてまた藤村氏自身の新生でもあって、作中の不幸な女性節子さんの新生ではあり得なかったのだと思います。>

芝居では、こま子さんが突然林さんを訪ねてくる。彼女は貧しい子供たちの託児園の仕事をしていて、「新生」の中では言えなかった事を語る。

小説の中ではない現実のこま子さんと芝居の中のこま子さんを知りそして観ると、小説のこま子さんは藤村さんに作られたこま子さんであるという視点に立つ。

『新生』  「節子の残して置いて行った秋海棠の根が塀の側に埋めてあった。『遠き門出の記念として君が御手にまゐらす。朝夕培(つちかい)ひしこの草に憩ふ思いを汲ませたまふや。』」(岸本はこの節子の言葉が気になり、引っ越しで慌ただしく植えたのが気になる。その根は土の中かから転がって出ていた。二人の子供と一緒に植え直す。)「こういふ子供を相手に、岸本はその根を深く埋め直して、やがてやって来る霜にもいたまないようにした。節子はもう岸本の内部にいるばかりでなく、庭の土の中にも居た。」

この前に節子の手紙もあり、そこからの流れは、節子も<新生>を成し得たように読者は思わせられる。林さんは、そこのところを突いているのである。井上さんは藤村さんに異議ありとした林さんの一本気なとこと、それが、<太鼓たたいて笛をふく>ことにもなる全ての林さんを芝居にしている。林さんを見ると同時に自分を肯定しなくては生きていけない人間の強さと弱さの表裏一体を見るのである。

それは大文豪にも言える事である。しかし、『新生』は書く必要があったのであろうか。物書きの<業>であろうか。

6月新派『新釈 金色夜叉』

作・宮本研/補綴・演出・成瀬芳一

<金色夜叉>とは字を眺めていると<金色に輝く夜叉><金色に惑わされる夜叉><金色そのものの夜叉>などと浮かんでくる。

6月新派の『新釈 金色夜叉』は、間貫一、鴫沢宮、赤樫満枝、3人の夜叉である。自分の生き方に疑問を感じたとき、それぞれが夜叉に操られるのである。一番貧乏クジを引くのは宮を妻とした富山唯継である。富山は金持ちの御曹司ゆえにお金目的ではない妻を求めている。その相手として宮は美しく、自分をお金の対象として見ていないと熱烈なる求婚をする。(富山を気障な人間として登場させるが、そこが判らない。それは貫一の目から見た富山であって台詞を聞いていると、富山自身は自分を見る世間の目をはっきり意識している。)

宮は富山の言葉に酔いしれてしまい、自分が今まで想像したことのない世界があるかのように思ってしまう。貧しい士族出の家庭に育った宮が明治という時代のまやかしの西洋化に翻弄されたともいえる。貫一に「なぜ」と聞かれると「飛びたいのよ」と答える。どこに飛びたいのか宮自身分からない。先に何か光を感じてしまい、その光に抗しきれ無くなったのである。貫一はそんな訳の分からない理由で納得などできない。お金に目が眩んだとしか思えない。貫一は両親がなく親戚の鴫沢家に引き取られ宮とは兄妹のように育っている。貫一は宮を娶るつもりだし、宮もそう思っていたのであるが、宮は違う世界の光を感じてしまうのである。

貫一は宮の目を眩ましたお金の世界に自分を追い込んでいき、高利貸し屋に勤めその才覚を伸ばしてゆく。宮は感じていた世界が現実に見てみると自分を受け入れるような世界ではなく、そこからの救いを貫一に求め次第に気がふれてしまう。

もう一人、貧しさゆえに高利貸しの妻となっている赤樫満枝が貫一に惹かれ、自分の果たせなかった恋の相手とする。貫一の中に宮の存在があることを知っている満枝は「美しい人は自分の美しさを値踏みにかけるものなのよ」と言ってのける。<美しさ>と<金>は一緒なのか。宮が感じた<光>は宮の<美しさ>の照り返しであったのか。

貫一の夢の中で宮は満枝を刺し殺す。貫一は宮に「あなたには、あなたより一生懸命生きている満枝を殺す資格はない」と叱責する。それを聞いた宮は自害する。

満枝は死んだ夫の骨を持って、夫の故郷に旅立つ時、貫一は、今は心を病んで病院にいる宮を見舞い、「宮を自分の所に引き取ります」と告げる。それぞれが<金色夜叉>に翻弄されるわけである。<金色夜叉>は一番無垢の宮に狙いを定めたのである。

「わたしここから飛びたいんです」

波乃久里子さん(宮)はここが一番難問だったのではないだろうか。風間杜夫さん(貫一)もずっと恨みっぱなしの貫一の理論を通されたが頑なさに留まった。水谷八重子さん(満枝)がしどころがあり作り易かったのか生き生きしていた。英太郎さんの雰囲気が、アングラ劇団の役者さんのような演技で面白かった。高利貸しにひどい目にあったのか気のふれた老女役で、履いてるズック靴から砂を出す様子は、かつてのテントの中のある女優さんを思い出していた。砂。熱海の海岸の砂を指しているのか。

<金色>はお金なのか。それだけでは無いような気がするのであるが、解らない。この解らなさが、別の宮本研さんを探すことになるのであるから解らないのも悪くはない。

 

 

『美しきものの伝説』のその後

1918年(大正7年)島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、翌年1919年(大正8年)松井須磨子が抱月の後を追う。

1923年(大正12年)大杉栄と伊藤野枝は憲兵に虐殺される。その年、それぞれの美しき人々は何を目指していたか。

荒畑寒村、堺利彦、神近市子は政治闘争を続け、平塚らいちょうは文筆活動へと進む。小山内薫は1924年「築地小劇場」を設立。久保栄はここで演劇を学び小山内の死後は自分の演劇論にのっとた戯曲を書く。沢田正二郎はすでに「新国劇」を設立していたが振るわず、松竹社長白井松次郎が座付け作者に行友李風を起用し『月形半平太』『国定忠治』の剣劇が当たりこの頃は人気を博していた。中山晋平は野口雨情との「船頭小唄」が当たりこの年は映画化されている。辻潤は自分の思うままに放浪生活をしている。

劇中の中でも台詞の中だけで辻潤と伊藤野枝の長男<まこと>が登場する。この<まこと>との不思議な出会いがかつてあった。本屋で文庫本「山からの言葉」を手にした。呑気に景色など眺めていられないような急斜面の少し窪んだところに登山家が、一人は腰をおろし、一人は立ってパイプを咥えている。頂上ではない。ここまで登れたら上出来だとでも思っているのか、映画のセットとは見えないやはりそこは山の斜面の途中なのである。見ていると肩の力の抜けるような絵である。中ををめくると山の雑誌「岳人」の表紙絵が出てくる。力強いもの。笑ってしまうもの。ほのぼのさせるものと見ていて楽しいのである。文章も適度の長さでなかなか良い。購入し楽しんで読み終わり、年譜を見て驚いた。<辻まこと>。それは彼であった。しかしそれを読み終えた<辻まこと>は私がかつて心配した彼ではない彼であった。嬉しかった。本の表紙に辻まこと「山からの言葉」とはっきり記されているが、あの辻まこととは全く思わなかった。「山からの言葉」(辻まこと著)。

劇中で<まこと>のことが二回ほど出てくる。野枝が二人のうち長男は辻に次男は自分が育てると。その後、野枝は外で待つ<まこと>に会うが、「おばさんと呼ばれた」と涙を流す。この場面を見て、宮本研さんもやはりどこかで<まこと>にこだわられたのかと感慨深かった。伝説の外で自分の歩みを見つけていた人は少なくはない。

 

 

『美しきものの伝説』(宮本研の伝説)

6月に新派の『新釈 金色夜叉』を観たのであるが、尾崎紅葉の原作で宮本研の脚本である。どう捉えて良いのか考えがまとまらない。そうこうしている内に、かつてNHKの衛星放送で放送していた<昭和演劇大全集>の『美しきものの伝説』の録画があった。この脚本は伝説の部類に入るもので、見たいと思いつつ難解そうでそのままにしていたのであるが見るタイミングのようである。

面白かった。痛快でもある。大正時代を背負って走り抜けた美しきものたちへの賛歌でもあり、批評眼でもあり、交信でもある。この<昭和演劇大全集>は最初に演劇評論家(だけでわない)の渡辺保さんと俳優(だけではない)の高泉淳子さんが、これから放送する演劇について、役者について、本について、演出家についてなど突っ込みを入れつつ話されるのであるが、それに係るとこちらの書くことがなくなるのでこの部分は幕とする。

今回見た舞台映像は平成6年(1994年)俳優座での新劇人の合同の「座、新劇」公演で、作・宮本研/演出・石澤秀二である。

登場人物のニックネームがこれまた見事である。荒畑寒村(暖村)・伊藤野枝(野枝)・大杉栄(クロポトキン)・小山内薫(アルパシカ)・神近市子(サロメ)・久保栄(学生)・堺利彦(四分六)・沢田正二郎(早稲田)・島村抱月(先生)・辻潤(幽然坊)・中山晋平(音楽学校)・平塚らいちょう(モナリザ)・松井須磨子はそのままのようである。松井須磨子にニックネームが無いのは彼女の遺書に自分が観客からただ好奇の目で舐めずり回されていただけであるという言葉があり、ニックネームを持つだけのゆとりのなさを表しているように思える。

政治的にそれぞれの考えと実行があり〔堺・寒村・大杉・辻・野枝・神近・らいちょう〕、文学的にそれぞれの考えと実行があり〔辻・野枝・神近・らいちょう〕、演劇的にそれぞれの考えと実行があり〔抱月・小山内・沢村・久保・須磨子〕その中から歌も生まれる〔中山〕

男女関係では〔辻と野枝〕・〔大杉と神近〕・〔大杉と野枝〕・〔抱月と須磨子〕実際には舞台に登場しないが〔らいちょうと奥村博史(ダヴィンチ)〕。

これらの人間関係を上手に場面、場面に登場させ、論じ合わせ、語らせ、吐露させ、主張させ各自の考え方、生き方を浮き彫りにしていく。政治も演劇もお金とどう折り合いをつけていくのかという問題も浮かんでくる。お金などいらない。主張していくだけである。しかし、その主張を広めるための資金がなくては。大衆を信頼できるか。観客を信頼できるか。できる。信じている。暗い時代の突入を前にして体ごとでぶつかった<美しきものの伝説>である。そして伝説的に名前だけがぶらさっがていた<宮本研の伝説>の幕開けでもあった。

 

 

井上ひさしの『うかうか三十、ちょろちょろ四十』

『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は井上ひさしさんが24歳の時の、上演されなかった幻のデビュー作である。井上さんの原点とも云える脚本である。その上演をやっている。

6月2日まで新宿・紀伊国屋サザンシアターにて。(こまつ座第九十九回公演)

チラシの紹介によると 「昭和33年、井上ひさしは24歳。このとき、上智大学に籍を置きながらも、浅草のストリップ劇場フランス座で文芸部員兼進行係として働き、NHKのラジオドラマを書き、作家として戯曲を何本も書き続け、この年の文部省芸術祭脚本奨励賞を受賞しました。それが『うかうか三十、ちょろちょろ四十』です。」

フランス座のことは、井上さんの講演で面白、可笑しく聞かせて貰った事がある。そこできちんと戯曲を書き続けていたのであるから努力の人でもある。

高峰秀子さんが「わたしの渡世日記」の中で、黒澤明監督が助監督の時、映画「馬」の撮影地の宿屋の窓も無い裸電球のフトン部屋で、毎晩脚本を書いていたと書かれている。人に感動を与える人は皆どこかでコツコツと修練を積んでいるのである。

『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は、井上さんの初期の作品の原点を感じさせる。東北弁を使っている。井上さんは地方の言語を慈しんでいた。歌。これも井上作品に欠かせないが、この作品では一曲だけである。

弥生のあられ/ 皐月のつゆは/ 働き者の味方ども/ しゃれた女房と/ 馬鹿とのさまは/ 根気がさっぱど/ つづかない・・・・

ある東北の村の娘に殿様が恋をする。ところがその娘には許婚が居り、殿様は振られてしまう。その帰り殿様とお付の侍医は雨にうたれ、殿様は記憶が無くなってしまう。10年後殿様は結婚した娘の住まいの前を通り、亭主が病気なのを知り気ままにいい加減な病気快癒の話をする。殿様は病人があればあなたは病気などではないと病人に信じ込ませて廻っている。

さらに十年後同じ家には娘が一人で住んでいる。殿様が訊ねると、父は急に自分は元気だと働き始めそれが祟って死んでしまい、その後母も父を追うように亡くなったという。

殿様は自分のしたことが記憶に無い。何もしなかったほうが善かったのか。思いつきの政治のもたらす一時的な効果とその後の絶望を表しているようでもある。藤井隆さんが皆に認めらたいと思う殿様の軽はずみさと寂しさを可笑しみを含ませつつ演じている。

井上さんの場合常に希望がどこかに潜んでいるが、この芝居では残された娘が働き者で明るく健康的であることである。

この上演作品を観ると、井上さんがこの作品にその後の作品が幾重にも厚みを付けていく様が想像できる。少しづつ確実に膨らみを持たせつつ沢山の戯曲を産み出していったのである。

 

 

無名塾 秘演 『授業』 

仲代達矢役者生活60年記念。

昨年の暮れに80歳になられたそうだから19歳で俳優座養成所に入所した時出発地点とされている。そして80歳にして不条理劇『授業』に挑戦される。カーテンコールで、「今まで辻褄の合う劇をやてきましたが今回は辻褄の合わない劇です」と。

1時間10分程の公演だが膨大な台詞の量である。後半は生徒と関係の無い授業へと突入するので一人芝居になってゆく。場所は仲代劇堂での公演で50席程であるから老教授・仲代達矢の授業を観客も女生徒と一緒に受けることになる。

謎めいたメイドが、いやいや時々謎めいた事を老教授に告げにやってくる。女生徒は楽しげに授業を受ける始める。足し算はできる。ここまでの授業は楽しい。女生徒も目を輝かせたりし老教授も上手に褒めたりする。引き算に入るとこれがつまずくのである。観終わってから思うに、女生徒が引き算を理解しない事が女生徒にとって辻褄のあっていることなのである。例えとして「君の耳は二つある。その一つを私が食べたら残りは幾つ」女生徒は「二つ」と答える。「どうして」。女生徒は両方の耳を手で触り「だって二つあるでしょ」と答える。女生徒にとっては、数の論理より自分の肉体の欠ける事など受け入れられない。学問というものを拒否しつつある。

老教授にとって彼女に対する授業はあくまで学問でなければならない。老教授は道具を使い説明し始める。それでも埒があかないので言語学へ進む。メイドが言語学は止めたほうがよいと伝えに来る。老教授は大丈夫だと主張し、メイドは警告しましたからねと伝え部屋を出る。

時には老教授の授業に満足げだった女生徒は授業に付いて行けず「歯が痛い」と訴える。身体的痛みでしか老教授に訴えることが出来なくなっている。老教授はその訴えを退けその女生徒の存在すら認めなくなっていく。この辺りの難しい言語にまつわる台詞の多さ、だんだんと自分の中にいる出来のよい女生徒と授業をしているようである。そして手に持った見えない道具・ナイフが道具としての役割を果たしてしまう。

メイドは老教授を子どものように扱い、老教授もメイドに全てを任せる。メイドは老教授をコントロールしているようにも見える。このるつぼから老教授を救おうともしない。その方がメイドと老教授の関係は上手く保たれていくわけである。

と、観て今回はそう辻褄を合わせたような合わないような。そう思って再度観るとすれば見事に裏切られるか違う見方も出来るのか。何かによって引き裂かれるものと、保つものがある。その組み合わせは実のところ不条理劇よりも現実の方がもっと意外性に満ちているのでは。そう、不条理劇を観ていると安心している観客のほうがもっと不条理かも。貴方にはどの役が当たるかわかりませんよ。

仲代さんの60年間の演技のしぐさ・間・台詞の抑揚・体の動きを堪能出来る。不条理ゆえにこう運ばなくてはいけないという制約もないことになる。観るほうも不条理劇だから解からないだろうから役者さんの台詞の音と流れとを楽しみましょうでもいいわけでその豊富な技術を身に付けた役者さんであるからその場を楽しむ劇として成り立たない不条理も楽しむことが出来る。

さらに「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」(春日太一著)を帰りに購入し仲代さんを通しての映画人たちの姿を楽しむことも出来てしまうというおまけも頂いた。

一番最初に読んだ項目。<大河ドラマ『新・平家物語』>。出るきっかけは、近所の人にお母さんが、<お宅の息子さん最近出てこないわね。もう落ちぶれたんだね。>といわれ、テレビに出て欲しいと頼まれ、親孝行のつもりがきっかけだそうだ。そんな感じで、あれっと思う間に大物監督さん、大物俳優さんの話がどんどん進む。60年をこうもさらり語れる格好良さ。今までもこれからも敵はやはり台詞なんでしょうか。それを何とかなだめたり組み伏せたりの戦いはまだもうしばらく続けて下さり観客を楽しませてくれる事でしょう。

 

本の出会いの力

本との出会いが疑問点を解明してくれた。

小村雪岱さんの「日本橋檜物町」の本に出会い、花柳章太郎さんが舞台「日本橋」の為に現日本橋西河岸地蔵寺教会にお詣りした事を知り、ぶらりぶらり『日本橋』 (1月5日)にその事を書いた。

<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った。>と花柳さんは書かれていた。

日本橋西河岸地蔵寺の案内文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

[どちらもとしておくことにする。]の、案内板の元となる花柳さんの文章を見つけた。見つけたというより出合ったのである。その本は「わたしのたんす」(花柳章太郎著)。

「日本橋お千世の衣裳」の中に次の一文がある。

<私は「日本橋」が上演されると聞き、何とかしてお千世の役が自分につくように、西河岸の延命地蔵へ願をかけました。二月の末の大雪の降る日、ちょうど満願で、夜の十時ごろでしたか、ほのかに燈明の灯る堂の前にぬかずいて、一心に祈っていた二十歳のそのときのことを忘れません。><お千世「花柳」と呼ばれた時は、天にものぼる嬉しさでした。> 花柳さんは役をもらう前も後もお詣りしたのである。案内板はこの文も参考にしたのであろうか。

この本は舞台衣裳の事が書かれている。お千世の衣裳については次のようにある。

<そのころの大部屋の役者に、衣裳の新調など決して許しませんでした。その前例を破って新しく作ってくれましたのも師匠(喜多村緑郎)のおかげでした。しかし半襟、前掛、帯揚までは新しくしてもらえませんので、鹿の子の半襟、帯揚げを買いましたら自分の一芝居の給金を全部はたいてしまいました。>あとはゆっくり楽しんで読むこととする。

古本屋で江戸初期の画家岩佐又兵衛の 名が背表紙にあり、その本を天井下から取ってもらったが思い描いていたものと違い返して、つらつら見ていたら「わたしのたんす」に出合ったのである。もし、岩佐又兵衛の本が意に叶っていたら「わたしのたんす」には出会わなかったであろう。<岩佐又兵衛>の方は錯綜している。【傾城反魂香】の浮世又平のモデルとも云われている人である。