『新春浅草歌舞伎』の口上

今年の歌舞伎観劇は浅草で始まった。第一部と第二部を続けて観る。浅草歌舞伎の楽しみである第一部の口上(年始の挨拶)は片岡孝太郎さん。第一部の口上は日によって役者さんが変わる。孝太郎さんは素顔の羽織袴である。何かとチャーミングな現・市川左團次さんの楽しい話題から入られた。そして、左團次さんから是非舞台でやって欲しいことがあると頼まれたのでこれからそれをやります。やった後で拍手を頂かないと引っ込みがつきませんのでと前置きをされ披露した。ネタばれになるとこれから観る予定のかたは楽しさが半減するのでここまでとする。その後、歌舞伎役者になりたい場合の道筋なども説明。お話好きの方なのかもしれない。

第二部の口上は全て市川海老蔵さんである。初春、市川家の<にらみ>を受け取ることが出来るのである。したがって鬘をつけて裃での出で立ちである。今回は演目にもある『勧進帳』の話である。初代團十郎の時すでに『勧進帳』のもととなる演目があり、四代目のとき『御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』が大当たりし、七代目の時、能の『安宅』から現在の『勧進帳』が出来たと。

ここからは少し補足も加えるが、その後七代目松本幸四郎にも引き継がれる。七代目松本幸四郎は子供たちを他所の家で修行させる方針を取り、長男を市川家に養子とし後の十一代目市川團十郎(現・海老蔵さんの祖父)、次男は初代中村吉右衛門に預け後の八代目松本幸四郎(現・染五郎さんの祖父)、三男は六代目尾上菊五郎に預け後の二代目尾上松緑(現・松緑さんの祖父)となり『勧進帳』を演じる役者の裾野が広がる。幸四郎さん、吉衛門さん、に繋がり、猿翁さん、仁左衛門さん、三津五郎さんら先輩たちも演じられている。

何と言っても初代から現・團十郎さん、海老蔵さんへと繋がっている時間の経過は永い。そうした中で海老蔵さんは十五年前初めて演じ(正確には十四年前かもしれなが気持ちを語るときそれは些細なことである)、今回初心に返り務めますと、『勧進帳』との今までの葛藤を言葉にならない思いを含ませ、今後の意気込みを伝え、集中されて<にらみ>に入った。

今回の口上は、孝太郎さんの<もし歌舞伎役者になりたかったら仲間にならないかい>と呼びかけ、海老蔵さんの<歌舞伎役者って何やってんだろうと思うかもしれないが、背負う時間の重みに何とか立ち向かおうと現在の時間と闘ってもいるんだよ>と発し、若さから一歩進んだ位置に到達した一つの地点を感じた。演目の感想は次になってしまう。

 

 

永い空白の旅(小海線)

30年以上も友人として付き合っていながら近頃始めて知った事がある。高校時代、彼女はJR小海線で通学していたという事実である。長野の生まれとは知っていた。ここ数年親の見舞いと介護で帰っていたことも知っている。佐久平まで新幹線で、車で迎えに来てもらうと聞いていたのでその周辺の小さな円で想像していた。何かの話から小海線の「奥村土牛記念美術館」がよかったと話した。小海線の何処にあるのか聞かれ、駅名が出てこなくて確か<無人駅>と答えたら駅名を言い始めた。高校時代、小海線で通学していたと。

4、5年前に小諸から小淵沢までの小海線にあこがれ、それも奥村土牛の美術館もあると知りやっと実現したのである。彼女は海外旅行の方が好きだから自分の故郷の小海線など話題にもしなかったのかもしれない。高校時代ローカルの小海線でのどかに通学していた彼女をちょっと想像できない。甲斐小泉に「平山郁夫シルクロード美術館」があることを教える。そちらの方が彼女好みである。

「奥村土牛記念美術館」は八千穂駅のすぐそばにある。八千穂はあの辺では大きい駅だから<無人駅>ではないそうだ。勝手に思い込んでいたみたいである。そのほうがイメージにあっているのだ。小諸も小淵沢も歩いてみると歴史的にも面白い町である。小海線の駅から降り立つ町にもよい所があるのであろうが、列車の本数が少ないので列車の旅を楽しむにはあちらこちらと降りられないのである。

そんな話から他の仲間が若い頃、飯山線の桑名川駅から千曲川を渡し舟に乗ってスキー場に行った事があるという。それはまた素敵ではないか。どんな舟なのか聞くとおしんの世界だそうだ。写真があるとのことで後日見せてくれた。桑名川駅前での写真と舟に乗り込む写真である。幸せなことに舟は同じであるが雰囲気はおしんとはかけ離れていた。若人が上野から夜行列車を乗り継ぎいよいよ目的地に向かうぞという明るさに溢れている。話す彼女も忘れていた空白の時間を取りもどしたようである。

そのローカル線と駅が残っていてくれるので、いつの日か違う色合いの旅も可能である。

 

小さな旅

「東京の中の江戸名所図会」(杉本苑子著)の日本橋の図会は日本橋を渡る人の混雑と日本橋川を行き来する船の多さに驚く。<この橋からは海上を昇る日も富士山も、江戸城の甍や森までよく見えた。>面白いのは幕府の買出し係り御納屋(おなや)役人が朝市、夕市の戦場をすばやく動き回り、一番よい魚貝に目をつけ<「御用ッ」とさけび、手に持つ手拘(てかぎ)を品物に引っかける。これをやられると、もはやおしまいだ。>5両、10両のものも3文か5文で買いとられる。しかし、明治以降、築地に移ってからの税負担より楽だったという話もある。

映画「麒麟の翼」はどのように日本橋を映すのかと興味があったので最初の部分だけ少し見たが、夜の高速道路と日本橋を上手く撮っていた。

佃島と家康との関係もどこかで読んでいるなと思ったが杉本さんのこの本で読んでいたのである。

「戦国時代の天正年間、まだ徳川家康が浜松の城主だったころ、上洛のついでに摂津の住吉神社に詣でたさい、神崎川の渡船をうけ持ったのが、近くに住む佃村の漁民たちであった。その縁から、伏見に在城する家康に魚貝を献上したり、大阪夏冬の陣にも軍事の密使役などつとめて功を立てたため、江戸開府後、三十四人の漁夫が召されて江戸へ下向し、鉄砲州の東の干拓地百間四方を下賜されて住みつくことになった。これが、佃島のはじまりだという。佃の名は、つまり故郷の村名からつけたのである。」

土地の名前は大事にして欲しいものである。変える役目に当たった人は一度歴史を紐解き、かつて此処にはこういうものがあったとだけでも残せないか考えて欲しい。そこからでも小さな旅は続き始まるのであるから。

 

<日本橋> →  2013年1月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ぶらりぶらり『日本橋』

地下鉄駅を出ると凄い人だかり。何があるのか。箱根駅伝の通る時間だった。それにしても歩道に何層もの人垣である。日本橋の麒麟も心なしか大人しく見える。走者が通ったようだが人の頭が歓声とともに左から右に動いただけ。今度はチラッと見えた。速い。待ちもしないでその時間に居合わせるとは縁起の良い年と成るかも。応援しつつ地下鉄の通路を潜り三越側へ渡る。遠くなるが走者の全身が見える。無駄な脂肪の無い身体なので驚く程細い。誰彼関係なく拍手して応援してしまう。消耗していそうな走者には声をかけたくなる。沿道に人も少ないなと思ったら<一石橋>だった。

栄螺(さざえ)や蛤(はまぐり)を放してやる風情は何処にもない。日本橋の方を見るともう一本橋がある。そこまで戻ると<西河岸橋>とある。日本橋から一石橋までの八重洲側を西河岸、三越側を裏河岸と呼ばれていた。この辺りの日本橋川の両岸は蔵が並んでいたのであろう。

一石橋八重洲側のビルの間に日本橋西河岸地蔵寺教会がある。中には入れないが外からガラス越しに左手に《お千世》の額がぼんやり見える。花柳さんの文によると<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った>とあるが、この<ガンガンと音を立てる鰐口>これはその通りで御堂の小ぶりに対して音の大きさに驚いた。このお寺の絵馬が雪岱さんの描かれた<お千世>の顔であった。

案内の文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

雪岱さんは此のことに対し鏡花先生と結びつけ次のように書いている。<実際日本橋檜物町数奇屋町西河岸あたりは先生に実にお馴染みの深い土地でありました。><先生御信心の西河岸の地蔵様には先年花柳章太郎氏の奉納されました「初蝶の舞ひ舞ひ拝す御堂かな」の句を御書きになりました額が掲げられてをりまして、>とあり、その額の絵を自分が描いたとは一言も書かれてないのである。前面に自分が出ると云う事がなく、それは舞台装置などの仕事に対する姿勢とつながっている。しかししっかり物事の内を知っている。龍泉寺町や入谷に対し<木遣りをやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢のよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。>木遣りを寂しく思わせる空気。雪岱さんは、「日本橋」が書かれた時代に日本橋檜物町に住んでいる。歌吉心中のあった家である。周りの人は気味悪がるが彼は、気にかけない。そういうことも起こりうる町と感じているのであろう。そのあたりが、受け入れて浄化する鏡花世界とぴったり合ったのかもしれない。

ただ現実の町にはその姿は全くない。ゴジラに踏み潰してもっらって、ドラえもんのポッケトからかつての町を取り出し再現してもらいたいがそうもいかないので、ただ雪を降らせたり、駒げたの音を作ったりしてぶらぶらするだけである。そこからも一本八重洲側の通りには竹久夢二が開いた<港屋>の碑がある。そこから一石橋にまたもどり、<一石橋迷子しらせ石碑>の前を通り常盤橋、新常盤橋と歩き神田駅から電車に乗った。日本橋川、神田川を船でめぐり、その後、川をなぞって歩くのもありかなと考える。仲間に提案して考えてもらおう。

「小村雪岱」( 星川清司著)の本もあるらしい。はっきりした舞台装置と映画の美術が知りたいものである。

 

<日本橋> →  2013年1月7日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

続・続 『日本橋』

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」の小説「日本橋」から、市川崑監督の映画『日本橋』の一場面を思い出した。

清葉(山本富士子)が、お孝(淡島千景)の病を知り見舞いのため稲葉家への路地を歩いていく。この家かしらと二階を見上げると二階の窓から舞扇が空に飛び上がるのを見る。二階では寝ているお孝が<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を着て何回となく舞扇を空に飛ばしては堕ちてくるのを受け取っている。それがふわっと窓から飛んで清葉の腕の中に落ちる。清葉はそれを抱きかかえる。お孝は二階の欄干から姿を現し清葉を見下ろすが清葉の事はわからず視線をそらす。

この舞扇を天井に向かって投げ上げ受け取るシーンは実際に淡島さんがされてたそうで、舞扇が上がると舞扇だけをカメラが捉えるのだから他の人が飛ばしてそこを撮れなくもないが一生懸命自分で投げては受け取っていたとインタビューで語られている。この時代の役者さんは皆努力の塊である。

花柳さんに描いて贈った小村雪岱三さんの《お千世》はこの<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を愛しげに抱きかかえている。この絵は今、日本橋西河岸地蔵寺教会にある。

お千世の役をもっらた花柳さんは稽古が終わった雪の日<重い高下駄を引ずって、西河岸の延命地蔵や一石橋や、歌吉心中のあった路次口を探し、すつかり鏡花作中の人物気取りで歩きまはつたものです。><再び、延命地蔵尊に詣つた私は「何とかして此のお千世の役の成功を希ひ、早く一人前の役者になれます様に・・・」願をかけたのです。>(大正4年本郷座初演)

昭和13年明治座での『日本橋』の再演。花柳さんは再びお千世役。<祈願の叶う嬉しさ>に花柳さんは約束していた雪岱さんの絵を奉納する事を思い立つ。雪岱さんは快く引き受けられ《お千世》の額は無事納められた。その後泉鏡花さんが此の額に 《初蝶のまひまひ拝す御堂かな》 の句を添えられ、花柳さんも 《桃割に結ひて貰ひし春日かな》 一句添えられた。

やはりたとえ様変わりしていてもふらふらその辺りを歩きたくなるものである。

 

<日本橋> →  2013年1月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

続 『日本橋』

昭和62年新橋演舞場の舞台『日本橋』の録画を見直した。今回の『日本橋』は玉三郎さんの鏡花の世界の『日本橋』で、昭和62年の『日本橋』は新派の『日本橋』で新派が受け継いできた芸の継承である。後半に入ってどうも繋がりが悪く感じていたのは、見返してみて納得できた。

この録画は平成4年のNHK・BSの新春スペシャル番組で玉三郎さんの芸を長時間に及んで放送したもので時間的関係から舞台が割愛されているためであった。其の事を踏まえても今回の『日本橋』の面白さは、新派の形を残しつつも、新たな世界を見せてくれた事である。

あらためて見直して仁左衛門さんの葛木は新派の芸に花を添えていた。伝吾との対決の場では迫力があり、最後に熊(伝吾)に投げつける台詞は鏡花の自然文学への切捨てをも含ませてきこえた。若い松田悟志さんを葛木に起用し、そこは玉三郎さん上手く鏡花の世界に取り込んだ。松田さんは玉三郎さんに言われたそうである。<頼むからダメだしを私にださせないで。恋人役にダメ出しなんてしたくないから>と。玉三郎さんらしい言い方である。

平成4年の録画の中で、篠山紀信さんと一緒の時、玉三郎さんは<篠山さんは話題づくりが上手いから>といわれた。話の内容から同じ解釈はできないが、昨年、篠山さんは写真展をされた時、木枯らしの吹く頃電車のホームから大きな山口百恵さんの海の浅瀬に水着の肢体を伸ばした写真が目に飛び込んできた。篠山紀信さんの写真展の案内板であった。こちらの肌の感触の寒さとその写真は物凄い温度さがあり、篠山さんはどうしてあの写真を選んだのだろう。私には宣伝効果が浮かび、そんな必要ないのにとちょっとムッとして見にいかなかった。素人と芸術家の感じ方の違いであろうが。

横道にそれたが、『日本橋』のお千世役の新人の齋藤菜月さんは雰囲気が役にぴったりである。お千世の着物が大正時代を善く現していて、柔らかくストンと下がりそれでいて体の動きを可愛らしく見せ、あれは齋藤さんの体の動きだけではなく布地の力もあったと思う。小村雪岱さんに言わせると装置とか衣装が自己主張してはいけないのだがやはりその力は大きいと思う。一石橋で清葉が裾から見せる麻の葉模様の白に近い空色と朱色の長襦袢、それをお孝はお千世に仕立てて稲葉家の二階で渡すのであるが、その長襦袢の事を鏡花は小説のほうで次のように表現している。(今回お孝がお千世に渡すこの場はなかった)

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」

お千世は花柳章太郎さんの出世作となった役である。このお千世役を見て小村雪岱さんは『日本橋』のお千世の絵を花柳さんのために描くことを約束するのである。(「日本橋檜物町」の中の花柳章太郎の文<二つの形美>)

 

<日本橋> →   2013年1月4日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

予定外のテレビ番組

年末年始にかけてのテレビ番組、気がついたものは録画をセットしたのであるが、30日から予定外のテレビ番組を偶然にも途中から見る事となった。

30日。TBS「たけしが釣瓶に今年中に話しておきたい5~6個のこと~其の四」去年偶然にみて可笑しくて最後にたけしさんがチラッと落語の<野ざらし>をやってくれたのが抜群で、早一年たち忘れていたのが今年も見れた。来年、たけしさんは落語<お見立て>をやると宣言した。志ん朝さんの<お見立て>は聴くべきだとも。釣瓶さんは師匠・松鶴の話に変えた<かんしゃく>をやるそうで、カレンダーに印をしておかなければ。

31日はNHKBSプレミアムで高倉健さん特集。映画があるのは知っていたが、「プロフェショナル男の流儀」の密着取材があるのは知らなかった。健さんは撮らせないと思っていたので慌ててバタバタしつつもしっかり見た。健さんが任侠映画の自分を好きでないのが判ったように思えた。九州の炭鉱で生まれ育っていたのだ。人が命を失うような喧嘩を見ているのだ。それは義理とか人情とかとは別の次元なのであろう。だからこそ虚構の映画の世界ができるのであるが、健さんは簡単に折り合いをつけるタイプではないようである。それと、そういう男の世界からドーランを塗る世界に入ったことに屈折した思いがあるようだ。一番いやなのは自分の言ったこと、行動したことが凄い事として捉えられる事で、面映いようなのだ。スターになるとどうしても伝説は作られる。律儀な方で<高倉健>を演じられてしまうのかもしれない。そしてそういう自分がまたイヤだったりするのかも。などと余計な迷惑千万な事を感じてしまう。1日にテレビ朝日で特別篇の「徹子の部屋」を途中から見ていたら以前でた時の健さんが出られ、大学を卒業し実家に帰り、東京にいる女性のために家を飛び出したと言われてた。健さんが言うと絵になってしまう。それがまたいやなのでしょうが。今現在、これからも映画をやりたいといわれたので、観客は健さんの律儀さとは別のところで役者<高倉健>を楽しませてもらう。

「徹子の部屋」に嵐寛寿郎さんも出られ、7年丁稚奉公したと言われてた。仕事は朝5時から夜12時まで。そこの主人が亡くなったので辞め、お祖父さんが文楽の人形使いだったのでその関係から歌舞伎の世界に入り、同じ頃、長谷川一夫さん、市川右太衛門さんと三人がいつも腰元の<申し上げます>をやっていたと。映画に移ってすぐ「鞍馬天狗」でスターに。

最後は長谷川一夫さんで、どうして着物をゆとりを持たせて着るのか手を袖から抜いて襟元からだし色々な動作を説明してくれ、いかに体がそれを覚えてしまっているかを目の前で繰り広げてくれた。軍隊では、弟子として炊事・洗濯・掃除すべてやっていたので皆の好奇の目が好意にかわったと。三人の上官の名前をどうしても覚えられない人がいて節をつけて覚えるように教えたら、縄を50メートル作れと命令され困った時その人が上手で「これは長谷川のだよ」といって編んでくれてありがたかったと涙ぐまれた。

その前にBS・TBSで小三治さんの「死神」を聴くことができた。

日本橋から品川までのプチお徒歩(かち)の時、<芝浜>の場所が判ったので、志ん朝さん・談志さん・小三治さんの三師匠の<芝浜>を今年の聴き初めにと思ったが、小三治さんの「死神」からはじまった。三が日中には、「お見立て」「芝浜」を聴かなければ。「芝浜」はこのお三方のしか持っていないのである。

それにしても、予定外のテレビ番組に遭遇し時間を取られてしまった。録画だとついつい見るのが後に引きの伸ばしとなるので良かったのかもしれない。

 

 

 

 

腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)

沢山の遣り残しを抱えての年越し、そして、新年になりそうである。大河ドラマ『平清盛』は終わったけれど、自分の中での『平家物語』は続いているし、その他の事もまだまだ続きそうである。

泉鏡花の『日本橋』も、舞台や本の中身だけではなく本の装幀が水面下で続いていてここにきて顔をだしたのである。ある時、素敵なポストカードにめぐり合った。真ん中に日本橋・鏡花小史と書かれ、川を挟み両脇の河岸には倉が並び川には荷を運ぶ船が数多く行きかい、そこに赤・黄・薄墨色の蝶が多数飛び交っているのである。モダンな絵でこれが鏡花の『日本橋』の本の装幀とは思えなかった。気に入って購入し忘れていた。秋に「大正・昭和のグラフィックデザイン ~ 小村雪岱展」の広告を目にし<「大正・昭和のグラフィックデザイン>に引かれ見にいって驚いた。ポストカードの絵はやはり鏡花の『日本橋』の本の装丁で、この小村雪岱さんは『日本橋』が始めての装幀であり、ここから鏡花の多くの本の装幀をしているのである。

さらに、挿絵、舞台装置、映画のセットなども手がけていた。年末近くに図書館で「日本橋檜物町」(小村雪岱著)が見つかり小躍りしてしまった。大正・昭和初期を匂わす文章力はすばらしい。遺した文章は多くはなく、この本は雪岱の死後、有志の計らいで出来た貴重な一冊とある。よく本にしてくれたと思う。

鏡花のことも書かれており<東海道膝栗毛は御自分でもいろ扱ひとまで言って居られ、枕元に2・3冊、旅行中も数冊入れていた>とあり意外であった。

幼くて父を亡くし小村さんは大変苦労されているが人物も草木を見る目も澄んでいる。川越で生まれ4歳で上京、5歳で父を失いそれまで住んでいた下谷根岸から祖父母と共に川越の叔父の家へ引き取られる。浅草の花川戸から荷物と共に船で途中一泊して川越へ越す。その時反対に田舎から東京に渡る船にぼんやり水面をみつめる女性について<今にも降り出しさうな曇空の下の滔々と濁った大川の水の上で、思ひがけなくも見かけた其の姿を、限りなく美しくも亦淋しく思った事でした。>川越に落ち着いてから<其処は旧城下の廓内で、菜種や桐の花が咲く夢の様な土地でしたが、船の中の女は時々思ひ出されて、その運命が儚く想像されるのでした。>と書かれている。

すでに母も失くし15歳で上京し、日本橋檜物町の安並氏の家に入り、このかたの厚意によって画道の修行に励めたようである。

歌舞伎の舞台も多く手がけ、戸板康二さんは、『一本刀土俵入』の取手宿我孫子屋の場について<菊五郎(六代目)の駒形茂兵衛の入神の技とともに、この場面がわすれられなかったと見え、長谷川(伸)氏は自宅の玄関に、その模型舞台を、置いていた。>とある。

舞台装置と映画のセットとの相違点、衣装、小道具などについても短い文の中に、説明文ではなく一つのエッセイとして書かれ、文を味わいつつ仕事ぶりを堪能できるという幸運に巡りあえた。その幸運を記しているうちに新しい年も迎え良き年となりそうである。