歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 昼の部 

『天満宮菜種御供(てんまんぐうなたねのごくう)ー時平の七笑ー』 時平は菅原道真を罪に陥れ筑紫に流罪させた悪玉である。この時平の七つの笑いが見せ場の芝居である。悪玉を主人公としている。

『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』 頼朝に義経の讒言をし義経びいきにとっては嫌な人であるが、この芝居はあくまでも善人梶原景時である。

『松浦の太鼓』 吉良屋敷の隣に住む松浦鎮信(まつうらしずのぶ)が赤穂浪士の仇討を待っている。仇討を待っている人々の代表的存在としてお殿様でありながら可笑しみを加え、でかしたと我を忘れて讃える。この三芝居、見方によっては、裏側を見せる面白さがある。

時平(我當)は道真(歌六)が唐の皇帝と密約し天下国家を転覆させようとの疑いありとされ、内裏で問ただされる。その時、時平は心をこめて道真をかばうのであるが、天蘭敬という唐人が事実であると証言し、道真は流罪となり花道から去るのである。一人になった時平は笑いだす。その笑い方で悪人に豹変する様を見せるのである。我當さんの穏やかさと台詞廻しが変幻自在で、道真が騙されたように観客も騙され意表をつかれる。ここが上手く表現されないとつまらぬ芝居になってしまうのであるが、そこが上手くいき、七つの笑いが堪能できた。歌六さんの道真も品と憂いがあった。進之助さんの台詞も心地よかった。公家の台詞は柔かさも必要とし難しいと感じた。

梶原(幸四郎)はこの時はまだ平家方で、頼朝を助けた石橋山の合戦の後である。六郎太夫(東蔵)と娘(高麗蔵)が大庭(橋之助)に刀を売るため訪れ、その刀の目利きを大庭は梶原に頼む。梶原はいい刀だから買うことを勧める。この時梶原は刀の銘から六郎太夫が源氏方であることを見抜く。幸四郎さんは静かに六郎親子のやりとりに耳を傾けつつ刀にしか興味がないようにしている。試し切りに横たえた二人の人間の胴を切ることとなるが、罪人が一人しかいず六郎太夫は刀を売りたいがため、自分がその一人になると申し出る。そして梶原は罪人だけを切り六郎太夫を助ける。それを見た大庭と弟(錦之助)は刀を買うのをやめ立ち去る。ここで初めて梶原は本心を明かす。そして、手水鉢を真っ二つに切り、刀が名刀であることを証明する。最後まで善人梶原で、刀を売ることのみを考え思いがけない行動に出る六郎太夫を東蔵さんが好演し、好機を冷静に待つ幸四郎さんと対照的で味わいが出た。景時は冷静な判断力を持つ人物だったという見方も多く、その冷静さと重なるような幸四郎さんであった。錦之助さんが弟の短気さを声の調子と合わせて出していた。

松浦侯(吉右衛門)はゆったりと構え俳句をたしなむ風流人で、物に動じない人物かと思いきや、俳人の其角(歌六)が世話した大高源吾(梅玉)の妹お縫い(米吉)がお茶をだそうとすると、急に不機嫌になる。それまで、松浦侯もご機嫌をとっていた近習たちも困ってしまう。米吉さんはしっかりお縫いを務めた。近習たちも若手が入り張り切って松浦侯をよいしょしていたのが可笑しかった。それに加えて吉右衛門さんが自分の意に添わない事がありその苛立ちとじれったさを解り易く演じられた。その原因は赤穂浪士が仇討をしないことで、浪士の大高源吾の妹にまで八つ当たりをしているのである。その大高源吾と其角は前日会っており、その場面が浮世絵を思わせた。浮世絵の中に、江戸の人が動いているようであった。この場面が美しく感じたのは初めてで、「年の瀬や水の流れと人の身は」(其角)「明日またるゝその宝船」(源吾)も余韻を残した。太鼓の音と源吾の「明日またるゝその宝船」で謎が解け「討ち入りじゃ、討ち入りじゃ」と喜びはしゃぐ愛嬌は江戸の人々の気持ちを代表しているようであった。最初の威厳との落差が楽しませてくれる。

『鴛鴦恋睦(おしのふすまこいのむつごと) おしどり』 常磐津の舞踊は難しい。解説を読んでも詞をたどっても、そういうことなのかと頭の中で空回りしている。時間を要しそうである。