三浦半島と浦賀 (3)

燈明堂というのは和式の灯台である。1648年(慶安元年)、幕府の命で作り1872年(明治5年)まで役目を果たしていた。現在のものは平成元年に復元されたもので、土台の石垣は当時のものである。燈明堂の中には、灯台守が寝泊りできるスペースもあるようで、中の仕組みを見れないのが残念である。この燈明堂の運営にも干鰯問屋がお金を出している。この燈明崎の背後が平根山台場で外国船に備えていた。天保8年(1837年)日本人漂流民を送り届け来航した米商船モスリン号を最初に砲撃している。この燈明崎は浦賀奉行所の処刑場でもあり首切塚もあった。海はあくまでも美しく凧揚げをしたり、磯遊びする家族、魚つりの人などのんびりと時間を過ごしている。

為朝神社を見つけるため気を付けて歩く。為朝は『保元物語』で語られ、『椿説弓張月』(滝沢馬琴著)の主人公であり、歌舞伎では三島由紀夫の『椿説弓張月』がある。歌舞伎は観ているがほとんど覚えていないのである。歴史物のデフォルメした歌舞伎には中々慣れる事ができなかったからでもあろう。為朝神社は源為朝を祀っている。この為朝神社に関しては、旧浦賀文化センター(新しい名前より古い名前が好きなのであえて旧として使わせてもらっている)に置いてあった<浦賀文化34号>に載っている郷土史家・山本詔一さんの「為朝神社」を参考にさせてもらうと、木像が1800年に浦賀に上がり、その木像に病気、怪我の人が祈ると効き目があった。その木像が為朝像であることがわかり、人々は為朝について調べ始め、『伝由記』としてまとめ、社殿を建築することとなる。三浦群の人々は裕福な人も、貧しい人も賛同し出来上がったのが為朝神社である。

この為朝神社で面白い事を知る。神社に奉納される「虎踊」である。近松門左衛門作の歌舞伎や文楽の『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)をも取り入れている。和藤内(わとうない)の登場に始まり太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞い。最後に和藤内が虎を神符で成敗しみえをきるとある。虎は親子二体。親虎には青年、子虎には少年二人づつ入る。和藤内は男の子。唐子は女の子。太唐人は成人男子。「浦賀と野比の虎踊」とあり、野比にもあるようである。どういう経緯でこの民芸が出来上がったのであろうか。興味深いところである。神社を出るとやはり町歩きの男性であろう。為朝神社はここですかと聞かれる。調べてきていないと分からないかもしれない。

次の愛宕山公園は登りである。中島三郎助招魂碑、咸臨丸出港の碑、与謝野夫妻文学碑などがある。晶子のほうは、「春寒し造船所こそかなしけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く」で、寛のほうは読めなかった。寛はこのあと亡くなりこの地での歌が最後とあった。ここから浦賀周辺の眺めと別れ、渡し場にもどる。城ケ島で教えてもらったように、対岸の船を呼ぶボタンがある。今回は家族が一組同船である。乗船時間は5分弱である。この船は1725年(享保10年)から市民の足として続いている。三崎港と城ケ島の渡船は城ケ島大橋が出来て一度途絶え復活している。

最後の目的地、東叶神社である。由緒は西叶神社(三浦半島の浦賀 (2))と同じである。同じ神社が東西にあるのが面白い。それを渡船で繋いでいる。こちらは、勝海舟が咸臨丸で出港する前に水ごりをしたという井戸が残っている。奥の院では座禅をし断食をして航海の無事を祈ったようであるが、途中まで登ったがきついので引き返した。予定を終了し近くのバス停からバスに乗る予定であったが、10分くらい待ち時間があり駅まで2停留場なので歩いた。長川の河口をせき止めた形(地下を流れているらしい)で、来た時と反対側の浦賀ドックを左手に駅に向かう形となる。駅前に逆三角形で浦賀ドックはある形となる。

想像していたよりも、江戸をさかのぼって鎌倉、平安末期までタイムスリップさせてくれるものが残っている町であった。そして宿題も沢山おみやげに頂いたような気がする。