三浦半島の浦賀 (2)

プチ旅といえども何が飛び出すかわからない。浦賀は鎌倉時代からの港で、江戸時代は干鰯(ほしか)問屋でにぎわったところらしい。先ずは造船所が見えてくる。浦賀ドッグは戦時中は駆逐艦の建造をしている。平成15年に閉鎖となった。浦賀に造船所ができたのは、明治24年中島三郎助の23回忌に愛宕山に中島三郎助の招魂碑が建てられた、除幕式の日にそこに立ち会った人々が決定している。その中に榎本武揚もいる。

そもそも、中島三郎助とは何者なのか。浦賀ドックを左手に眺めつつ、浦賀文化センターを目指す。浦賀のことが解るであろう。浦駕通りから少し奥まった高台にあった。名前が浦賀コミュニティーセンター分館にかわっていた。人の気配はしないが、二階が展示室のようである。映像がながれている。横須賀市と会津若松市は友好都市であるらしい。<会津若松と横須賀の古くて深い関係>と題された映像である。鎌倉時代、三浦の佐原義連が頼朝から会津若松をもらいうけている。江戸に入って江戸湾と三浦半島の警備にあたっていた会津藩は1820年任をとかれ浦賀奉行所がもうけられる。それまで一家をあげて警備のため浦賀にきていた会津藩士はここで骨をうずめた人々もあり、そのお墓も残っている。そして明治維新で敗れたときも新天地をもとめて横須賀にきた人々は多いのである。

中島三郎助は浦賀奉行所の与力で、ぺリーが来航したとき、その艦隊に乗り込み米国使者と対応したのがこの人である。展示室はこの人のことが三分の一占めていて、町には「1月26日 中島三郎助まつり」のポスターもあった。日本最初の様式軍艦「鳳凰丸」の製造の中心人物で、勝海舟が渡米するときに乗った「咸臨丸」の修理もしている。最後は榎本武揚と函館に行き、息子二人とともに戦死している。旧浦賀文化センターでは会津若松との関係、中島三郎助のことを知ることができた。

次に西叶神社である。この神社の創建は文覚上人である。平家物語にも出たきたあの人である。出家する前の名前が遠藤盛遠(えんどうもりとう)である。(映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』) 頼朝に挙兵を促した人であるから関東の何処かでお会いするとは思っていた。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は上総国鹿野山にこもりはるか京都の岩清水八幡宮に源氏再興を願い叶ったのでこの地に石清水の応神天皇を祀ったのだそうである。文覚上人についてはまた書く機会もあるであろう。この本殿は総檜造りで、安房の彫刻師、後藤利兵衛の作である。干鰯問屋群の力を感じる。町名の案内版などにもそのなごりがある。

そのまま港に近い道に出ると渡し船がある。この船は対岸の東叶神社に行けるのである。その前に燈明崎の燈明堂を目指す。途中、陸軍桟橋がある。浦賀は終戦後の引き揚げ指定港でもあり、約56万人の引き揚げ者がこの地を日本の第一歩として踏んでいる。感染症のため日本を目の前にして踏むことが出来なかった人も沢山いるのである。鎌倉の浄智寺にも、ある戦友会の碑があり次の様に記していた。「世界平和待ち侘びし 平和の光さし出でて 千代に守らん四方のひとびと」 寒さは厳しいがそのまま海を眺めつつめ歩き、愛宕山公園と為朝神社を通り過ごしてしまった。道が一本山側のようだ。帰りに寄ることとする。

 

三浦半島の浦賀 (1)

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿で、台の茶屋跡も残っており仲間達は皆感動したのであるが、そこでこんな会話が。「こちらが横浜の海、黒船に江戸の人は驚いたのよねえ。」「黒船が最初に姿を表したのは?」「浦賀でしょう!」この時インプットされてしまった。そうだ浦賀に行かなくては。おりょうさんを吉田家に世話したのは勝海舟である。徳富蘆花が愛子夫人と新婚生活を始めるのが、赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家である。(世田谷文学館と蘆花恒春園)勝海舟という人は色々なところに出没する。

旅行案内本にも浦賀の散策が載っている。ぺリーの黒船は1854年浦賀沖に現れ、久里浜で親書を渡し、次の年1854年横浜で日米和親条約(神奈川条約)を結び、1856年ハリスが下田に着任し日米和親条約付録(下田条約)を結ぶのである。神奈川条約締結で下田と函館の開港を決める。ぺリーはなるべく江戸に近づこうとし、江戸幕府は江戸に近づけさせないようにと苦慮している様がうかがえる。

ぺリーの黒船の上陸したのを記念して、久里浜海岸にぺリー公園とぺリー記念館がある。まずそこに久里浜駅からバスで行く。公園には伊藤博文筆の大きなぺリー上陸記念碑がある。戦争中は倒されていた。黒船は 沖縄に寄ってから浦賀に来航しその6日後に久里浜に上陸している。外国船はその前から通商を求めてきていた。欧米諸国はアジアをに工業原料を求め、それを自国で生産して、その商品を売り込みたがっていた。

帆船ではない車輪のついた黒い蒸気船に江戸の人々は驚いてしまった。それに開国派、攘夷派、尊王派、幕府派の組み合わせが迷走入り乱れ徳川幕府も内と外からの波に翻弄されていく。相模湾、東京湾に挟まれ太平洋に突出している三浦半島も風光明美でありながら陸では様々な事を見てきたのである。再びバスで久里浜にもどり、浦賀に向かう。途中、京急大津駅から10分のところにおりょうさんの眠る信楽寺があるが帰りに寄ろうと思ったが寄れなかった。

司馬遼太郎さんが『街道をゆく 三浦半島記』で次のように書かれている。「山門が、すでに高い。その山門へ上る石段の下にー つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背にー いわば路傍にはみだしてー 墓が一基ある。路傍の墓である。」「りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。りょうの明治後の戸籍名である“西村ツル“は、無視されているのが、おもしろい。」