旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

信号のあるところで渡ろうと信号の前に立つと見えました。浅間神社の石塔が。道路と並行の形で上っていく。古い神社なので樹齢600年の椎の木があるという。しかし、この椎の木、根本に近い幹はもう少しで小さな子供が座れるくらい空洞で、これからどう伸びればよいのやらの状態である。案内板も曲がって上の方は折れている。頑張れ頑張れと撫ぜてあげる。他にも太い椎の木がある。境内に上がると、道路は上着を脱ぐ暑さである。東海道を歩くのも今月末くらいであろうか。境内の緑の中は涼やかで気持ちが良い。

リーダーは焦っている。箱根越えをなんとか早めにしたいと。ただ彼女、夏は陽が長いからと登山に忙しいのでその前と思っていたらしい。小田原から箱根が16.5キロ。箱根から三島が14.7キロ。箱根は二泊の電車つきフリーの安いのを見つけて、これはどうかと案を出したが、これのどの日にするか。皆が3日間、日にちを合わせるのが難しい。でも2日ではきついと頭を悩ませていたようである。こちらはバスの通っていない道の距離と高低が問題である。脱落の場合を検討しておかなければ。今日の戸塚から藤沢が7.8キロである。

藤沢まで半分は来たであろうからと昼食とする。﨑陽軒のレストランがありここにしようかと立ち止まったが、ここに入ったらゆっくりしてしまいそうと隣のとんかつ屋さんへ。予定は終わってはじめて実行結果となるので、途中の油断は禁物である。帰りの電車は通勤時間帯を避けるので、早めに終了としなければならない。美味しくて、適当な値段で、頼んだものが迅速に出てきて、気持ちよく食事ができること。合格点であった。疲れが出ないうちに食事も終わり歩きも快調。

左側舗道に、<道祖神・馬頭観音>があるはずであったが、来る途中ところどころに道祖神があり、<馬頭観音>と思いこんでいたのでどうやら道祖神の中に<馬頭観音>があったようである。観音様の頭の上までゆっくり眺めなかった。<諏訪神社>。

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ここの椎の木が元気で立派であった。囲いがあり幹に触ることができなかった。さてここから先で国道1号線と分れるのであるが、それがどこなのか。途中で地元の人に尋ねる。どうやらこのまま進めばよいらしい。私よりも、他の仲間の尋ねた人のほうが詳しい説明であった。「これから下る道場坂は地元では遊行寺坂と言っている。右手に一里塚跡の案内板があり、左手にもう一つ別の諏訪神社があり、その向かいに遊行寺があり、そのお寺はひろいので、小栗判官・照手姫の墓は、遊行寺の中にあるかもしれない。ゆっくりお寺を散策するといいですよ。」との説明。言われた通りであった。尋ねかたも上手だったのであろう。

舗道には色々の種類の花々が開花して歩く者の目を楽しませてくれる。八重桜も風に揺れている。仲間に教えてもらった<べにばなときわまんさく>の木も桜に負けてはいない。白の花もあり、緑の葉と同化して白に近い薄みどりなのも品がある。楽しんで歩いているがなかなか一里塚跡がない。右手前方に木々が密集している。あそこが遊行寺であろう。とすると一理塚跡は見落としたか。「あった!」突然現れた。

安心して<遊行寺>へ向かう。道路左側にもう一つの<諏訪神社>の旗が見えるが、<遊行寺>を先とする。右手に関所のような門がある。藤澤山無量光院清浄光寺が正式な名前であるらしい。この藤澤山の号からこの地域が藤沢になったという。一遍上人の開いた時宗の総本山である。境内の一本の八重桜が満開である。咲く花に優劣をつけるのは申し訳ないが、八重桜は可愛いいのであるが色が強かったり、ボテボテッとしていたりする。ところが、この八重桜は色も淡い淡いピンクで一つ一つ花も小ぶりで、柔らかく優雅に寄り添って咲き、それが全体に木をおおっているのである。三人とも「お見事!」と感嘆する。今年はこの一本に出会えて満足である。

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仲間の一人はすでに藤沢から平塚まで歩いていて、この<遊行寺>から始めたらしい。大イチョウの木を見て思い出したようである。樹齢660年、30m以上あったらしいが台風で一部分折れてしまったらしい。<小栗判官・照手姫の墓>は本では点で示されているので<遊行寺>の中とは思わなかったのであろう。探さなかったらしい。小栗判官墓所入口と彫られた石柱があった。

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行く途中幾つか武家関係の墓や説明がある。お墓の中にも枝垂れ桜がある。枝垂れ桜は、桜の中でも儚い寂しさがある。墓所の上に小栗堂があり、その正面側面に<小栗判官公墓所へ>の表札と板戸の門があり片側が開いている。

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そこを入り狭いお堂の脇を入っていくと、お堂の裏側に庭のようなあつらいになっているところに、小栗判官、照手姫、荒馬の鬼鹿毛のお墓がある。お墓の後ろにはツツジが咲いており、説教伝説としての一つの空間を作り上げている。

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歌舞伎にも「當世流小栗判官」「スーパー歌舞伎『オグリ』」として上演されている。

「貴種流離譚(きしゅりゅりたん)といわれるもので、高貴な生まれの男女、小栗判官と照手姫が、諸国を流浪し、すれ違い、大変な辛苦の末に熊野権現の霊験により、ようやく結ばれるという大ロマンです。」「第三幕では、照手姫が足腰のたたなくなった小栗判官を車(木の箱に木車のついたもので手綱で引っ張るようなもの)にのせて熊野の湯に向かい、そこで出会った遊行上人の奇特で元の体に戻り、念願の敵を討ちます。」(「猿之助の歌舞伎講座」三代目猿之助著)

照手姫建立厄除け地蔵尊もあり、照手姫は小栗判官の死後ここで尼となり、判官と家来の菩提を弔ったとされている。

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境内にもどり散策する。放生池そばにも桜があり、池の面は散った花びらが細い花筏を作っている。驚いたことに金色の鯉が二回水面からジャンプしたのである。仲間たちと、あれは、花びらを虫だと思ったのではないかと想像する。きっと今頃は、俺としたことが二回もジャンプしてしまって、一回で気が付きそうなものをエネルギーを使ってしまったと後悔しているよ、などと勝手に鯉の吹き出しを作る。その庭の外門が古そうで、門の前の立派な蘇鉄に朱色を少し薄くした実がなっていた。その回りにフェルト布のような薄茶のギザギザしたものが実を囲っていた。

境内に上るもう一つの石段は急であるが両脇に桜が咲き上から見ていても美しい。しかしこの階段を下りると浅間神社まで多少遠くなるので、その元気はない。ゆっくり散策できたのも、あそこで昼食にしたのが良かったと話す。<浅間神社>は上までどうしようかと迷ったが、上ることにする。高いので木々がなければ見晴しもよかったであろうが、森の鎮守の神様にそれを言うのは失礼である。

そこからJRの藤沢駅に向かう。藤沢駅から遊行寺まで20分くらいあるので駅から旧東海道まではたどり着くのは半信半疑だったようである。駅から旧東海道までをもう少し詳しく調べておくほうが良いかもしれない。

旧東海道 戸塚から藤沢 (1)

いつになったら京にたどり着くのか、弥二さん・喜多さんよりも覚束ない東海道の旅である。この前に、三島から沼津を歩いているのであるが、違う事を書いているうちに時間がたってしまい記憶の新しいほうからにする。この戸塚から藤沢は、歌舞伎の演目にも縁のあるところがあるのである。さらに、岸田劉生さんが住んで代表的作品を残したのもこの藤沢の鵠沼時代なのである。鵠沼には行かなかったが、坂の多さから<坂道>を題材として取り上げた劉生さんの心の風景が少し見えたような思いがした。

東海道歩きで一番問題なのが、駅から旧東海道を見つけることである。大きな駅であればあるほど駅構内から方向を定めても出口が多く、外に出ると駅の回りはショッピング街やビルであったりする。今回は三人。先ず<清源院>を探す。崖上に木々の緑が集まっている。先ずは当たりである。清源院長林寺は徳川家康の愛妾、お万の方ゆかりの寺である。葵の紋である。朱色のツツジが眩しい。芭蕉句碑 <世の人の見つけぬ花や軒の栗>。何があったのか 心中句碑 <井にうかぶ番(つがい)の果てや秋の蝶>。境内を下り、さてと方向を定めるとなんとなく旧東海道と思いたい道に小店あり。ふらふらと行きかけるが、違う違う、今回は国道1号線なのである。

この清源院から保土ヶ谷方面にもどった吉田大橋の辺りからかまくら道があるらしい。<東慶寺>を目指す人は、ここから東海道からかまくら道に歩みを進めたのであろうか。ただもっと先でも、かまくら道が東海道を横切っていたので、戸塚宿を目安として鎌倉に向かう道が数本あったのかもしれない。

歩道のマンホールの絵がマラソン走者である。箱根駅伝の通過道である。上り坂である。沢辺本陣跡の案内板あり、そばのお宅の表札が澤邊さんとあるので、本陣関係のかたであろうか。道路反対側に<戸塚地区センター>があるはずで資料を調達しようと予定していたが、標識が見えないのでパスして進む。<八坂神社>。<お札まき>の案内掲示板あり。

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<江戸時代中期、江戸や大坂でさかんだった踊りで、今ではこの戸塚宿にだけ残っている。7月14日の夏祭りに男十数人が女装して音頭取りの歌に唱和して踊り、踊り終わると音頭取りが五色の神札をまき、人々はそれを拾い、家々の戸口や神棚に張る。歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」とあり、祇園祭と同様な御霊信仰にもとづく厄霊除(やくりょうよ)けの行事である。>

仲間の一人が「ドラマの<仁>もコロリにかかって点滴をしたんだよね。」 残念ながらこのテレビドラマは見たり見なかったりでその場面はみていないが、江戸の人々にとってはコロリは<厄霊>で封じ込めるか、除くかで身を守ることを考えたのであろう。

次が<冨塚八幡宮>でこの地区の<戸塚>の名のもととされている。かつてこの辺りを冨塚郷といい、冨塚一族の人々が住んで居たらしい。<富塚八幡宮>は源頼義・義家が奥州へ向う途中、社殿を造営したといわれ、富塚、戸塚名の方々の守護神となっている。

ここで八百万の神の話になり、仲間の一人が、「日本人は祟りを恐れて人を神様にして、その祟りを封じこめたから神様が多い。」という。なるほど、この世に変な形で出現せずに、見守っていて下さいという鎮魂の意味が強いのであろうが、かつては、私は何々の生まれ変わりだと名乗る武将達もいた。武勇や戦勝を祈るのは神様にとって迷惑なことかもしれない。神様たちも時には、あっちむいてプイをされておられるかもしれない。判らんなら、勝手に殺し合いなさい。ただ八百万の神といえども、神々の世界に次々送りこまないでいただきたなどといわれておられるかどうか。

『千と千尋の神隠し』の話になり、「ジブリは戦記物のほうが映画としては面白い。」と私。つかさず「戦記ものは全て<駿さん>になってしまうのよね。原作と違うのが不満。」と反論される。なるほど、原作を読んでいる人には不満なのか。「映画にすると盛り上がりを作ってしまって方向性が違ってくる。」それはそうであろう。アニメ映画となれば、盛り上がりをつくるか、ほのぼのさせるか、近頃は懐かしがらせるというのもあるからして。原作を読んでいないので退散。

<上方見附跡>が左側歩道にあるので反対側に渡る。見附は宿場の始めと終わりにある。戸塚宿の終わりで上方方面からの参勤交代の一行が戸塚宿に向かって来るのを見つける場所である。<上方見附跡>の案内板も無事みつかる。ここから坂が急になり大坂である。

目指すは<お軽勘平道行の碑>である。散りかけた桜をみたり、背の高いタンポポに、やはりタンポポはあのギザギザの葉に程よい背丈で咲くのが本当のタンポポなどと互いに講釈をしつつ歩く。ありました。<お軽勘平戸塚山中道行の碑>。

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なかなか立派である。歌舞伎の道行に関しては、『仮名手本忠臣蔵』(歌舞伎座12月) (2) の拙い文で参考にされたい。(本当は次の東海道は、保土ヶ谷から戸塚なのであるが、諸事情によりまだなのである。)高い位置に道があり眼下を見下ろせるすき間も少しある。<お軽勘平>が見たであろう富士は、夜中人目を忍んで歩いたので、薄墨富士というのだそうである。薄墨富士、なかなか良い。今日は遠くは霞んでいて霞富士も何もみえない。道の分岐路には松並木の名残の松があるが、ずーと先で当時の松は松くい虫のために枯れてしまったと説明があった。道でさえ今は車の多い道に変ってしまうのである。今、生き残っていること自体が素晴らしいことである。そして<原宿一里塚跡>があり、今度は右側歩道にある<浅間神社>である。

旧東海道 戸塚から藤沢 (2)

銀座再発見

スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のパンフレットを探していたら、「東京文学探訪~明治を見る、歩く(下)」(井上謙著)が見つかる。NHKラジオのカルチャーアワーのテキストである。2001年であるから、その頃時間があれば訪ね歩こうと思って購入したらしい。ラジオは聞いていない。これが地図つきで参考になる。銀座の朝日ビル前の石川啄木歌碑の写真がある。

本郷菊坂散策 (2) で啄木さんが上野広小路から切通坂を上って貸間の住まいに帰った、その勤め先が銀座の東京朝日新聞社なのである。年譜によるとその以前に生活困窮から、金田一京助さんに助けられ「蓋平館別荘」 (現太栄館で玄関前に<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>の歌碑がある) に移り住み、さらに同郷の当時の東京朝日新聞編集長斎藤真一さんの厚意で校正係りとして入社し、切通坂上の「喜之床」二階に引っ越し家族を呼びよせるのである。

当時、銀座四丁目付近は新聞社がひしめき合っていた。東京朝日新聞は銀座四丁目交差点から並木通りに入りみゆき通りを横切り新橋方面にある。現在は朝日ビルとなり、そのビルを眺めるかたちで、啄木碑がある。例の美男子のレリーフつきである。<京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな>。銀座は京橋区であったらしい。この位置とするなら、電車本通線で銀座四丁目から京橋→日本橋→宝町三丁目→須田町まで行き、そこで上野線に乗り換え、須田町→万世橋→上野広小路へと移動し、そこから湯島天神を通り切通坂を登って帰路についたのではなかろうか。

この頃、啄木さんは自虐的な生活でローマ字日記を書いている。24歳。肺結核のため27歳(数え年)で亡くなるが、その頃交流していた土岐善麿さんが自分の生家である浅草にある等光寺で葬儀を行っている。土岐さんは、啄木さんの第二歌集の出版契約に奔走し、啄木さんの死後出版された歌集『悲しき玩具』は土岐さんの命名である。(第一歌集『一握の砂』)土岐さんの第一歌集はローマ字である。

第二の発見は、画家の岸田劉生さんが銀座生まれであったということである。世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子ー知られざる精神の系譜』を開催していて、そこで知ったのである。岸田吟香というかたが、「吟香が和英辞典をヘボン博士に協力して完成した礼として水薬の目薬の製法を伝授され、日本ではじめての目薬として売り出したのが精錡水だった。」(『父 岸田劉生』岸田麗子著) この目薬を銀座で売っていたのである。薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を銀座に構え、事業家、出版人、思想家、文筆家として活躍した人である。劉生さんは、東京日日新聞に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題して銀座の生家の思い出を書かれている。それによると、<明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、服部時計店のところで生れ、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代まで育った>としている。鉄道馬車だったのである。麗子さんが訪れた時は、<銀座の本家は、表通りの立派な本家ではなく、表通りの一つ後ろの通りで、越後屋の裏あたり>としている。劉生さんの作品である<麗子像>や<坂道>などは、神奈川県藤沢の鵠沼(くげぬま)時代のもので、銀座などは思いもよらないことであった。ヘボン博士はローマ字を考案した人で、それを啄木さんや土岐さんが使ったのである。

もう一つは発見と言えるかどうかであるが、銀座の山野楽器で歌舞伎関係のDVDを購入したところ、特典として歌舞伎座のポストカードがついてきた。それが、第一期(1889年開場)、第二期(1911年~1921年)、第三期(1924年~1945年)、第四期(1951年~2010年)、第五期(2013年開場)の五枚の歌舞伎座の写真であった。これは嬉しかった。第一期と第二期は白黒で第三期は少しセピア色、第四期は真っ青な空で光の陰影がはっきりしていて、第五期は夜のライトアップされた姿で後ろのビルを闇にそれとなく隠している。歌舞伎座は三月、四月を鳳凰祭として公演している。今年は松竹が歌舞伎経営を始めた大正三年(1914年)から100年を迎えるので、ポストカードはその記念なのかもしれない。今回全ての席から花道七三を観えるようにしたことは画期的である。関西の劇場で二階席から花道が観えなくて信じられない経験をしたことがある。

森鴎外さんが、二つの歌舞伎座を知っていたのであるが、それが、第一期と第二期であることがわかった。鴎外記念館でそのことを書かれていて何時の歌舞伎座か失念していたので大したことではないが、気になっていた。これですっきりした気分になれた。

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

 

朝倉摂さんからスーパー歌舞伎へ

朝倉摂さんの訃報から、その舞台装置をあらためてみたいと考えたらスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のDVDがあるのに気が付く。さらに、梅原猛さんと市川亀治郎(現猿之助)さんの対談『神仏のまねき』をまだ読んでいないで書棚の中である。DVDを観て、本を読んで、大変面白かったのであるが、疲れも出てしまった。

DVDは1995年(平成7年)4月の新橋演舞場での公演である。私が『ヤマトタケル』の舞台を観たのもこの年が初めてである。この作品の初演は1986年(昭和61年)2・3月の新橋演舞場である。その時の配役は猿之助(現猿翁)さん、延若さん、児太郎(現福助)さん、宗十郎さん、門之助(七代目)さん等が参加されていた。舞台装置は朝倉摂さんで、音楽に文楽の鶴澤清治さんの名もある。『神仏のまねき』には、初演に至るエピソードやスーパー歌舞伎を目指した猿翁さんの思いや、哲学者である梅原猛さんが劇作家となった経過などが猿之助(亀治郎)さんとの対談を通して明らかになる。そして、今から10年前いやもっと前から現猿之助さんが新しいスーパー歌舞伎を目指していたことがうかがえる。

1995年の10年後の2005年には市川右近さんと段治郎(現月乃助)さんがヤマトタケルとタケヒコの交替ダブルキャストで公演されている。この時は右近さんのヤマトタケルで、2008年には月乃助さんのヤマトタケルで観ているが、猿翁さんのヤマトタケルとは違う意味で楽しめた。それは何かと言うと、猿翁さんの時は、当時の猿之助さんとしての猿翁さんの生き方イコールヤマトタケルが密着していて、「 天翔ける心 それが この私だ 」の科白を聞いてるこちらが気恥ずかしくなってしまったのである。わかっている事を面と向かって言われどうしたらよいのやら。今回、DVDを観ててもその感覚は同じであった。しかし、右近さんと段治郎さんのときは、芝居の中のヤマトタケルの科白として素直に容認できた。若い世代に受け継がれる事によって、芝居と演者の間に観客にとって必要な想像の空間が生まれたのである。

『神仏のまねき』のなかで、縄文人と弥生人にふれ「縄文人というのはたいへん精神的に高い人間で素晴らしい文化を持っていた。しかも人間的に非常に立派だった。しかし、弥生人が入ってきて、生産力の違い、それから武器の違いのために滅んでいった」と梅原さんは考えられる。ヤマトタケルは弥生人である。最初に猿之助(猿翁)さんが脚本を読んだとき、これではヤマトタケルが悪い事をしているようだとして、自分にも好い科白をといってできたのが「 天翔ける心」の科白ということである。

2005年のパンフレットには、鶴澤清治さんのお名前がないので、音楽も1995年と変化しているのであろう。そのあたりどのように変ったのか記憶に残っていない。1995年の太棹の音は琵琶にも聞こえ哀切と猛々しさが交差する。

残念ながら、現猿之助さんの『ヤマトタケル』は観ていないのである。『神仏のまねき』を読んでいると残念さが増すが、いずれ出会える事もあろう。

朝倉摂さんの舞台装置も思い出した。あかね雲や富士山は忘れていた。2005年のパンフレットには、1986年スーパー歌舞伎の原点として舞台写真が載っていて、舞台装置もしっかりみることができた。舞台転換などの時に観る者の気持ちを変えてくれ、その後は芝居に集中させるものであると朝倉さんは考えたであろうし、舞台装置が残るようでは役者さんの演技の意味がない。

『神仏のまねき』のなかで猿之助(亀治郎)さんが梅原猛さに尋ねられている。<今の若い世代が孤独に耐えうるために、西洋でいう一神教の神のような、そういうものに代わるのは例えばなんだと思われますか><怨霊が一番いいんだけどな><怨霊を鎮魂するという行為に向かえばいかがでしょう><そう、鎮魂です> あまり簡略化してはいけないのであるが、スーパー歌舞伎Ⅱの『空ヲ刻ム者』の若き仏師・十和の求めていた答えとも受け止められる。

観る対象者がいることからすると仏師も演技者も類似するところがあるかもしれない。

舞台美術から飛躍したが、朝倉摂さんはきちんと歴史を捉える事を大切に思っていた方だから、舞台を通じて通過した時代を眺めることを若い人達にも推奨するであろう。

朝倉摂さんの舞台美術でもう一冊パンフレットがあった。『6週間のダンスレッスン』である。2008-2009とあるので地方公演もされたのであろう。草笛光子さんと今村ねずみさんの二人芝居である。室内の白い籐椅子がクッションの色、草笛さんの衣装の色を引き立てる。パンフレットの表紙があまりにも素敵なお二人で思わず買ってしまった。もちろん舞台のお二人も魅力的でした。

 

 

朝倉彫塑館にて朝倉摂さんを偲ぶ

神楽坂散策 (2) で、朝倉文夫さんの住まわれていた<朝倉彫塑館>へ行こうと言っていたのであるが、ちょうど桜の時期と重なった。皇居の坂下門から乾門の通り抜けができると云う事で、ではそちらを先にして、最後は浅草寺の伝通院の庭も公開しているから最後はそうしようと予定したが、あまりにも皇居は待ち時間が長いようなのでそちらを止めて朝一を谷中とする。この友人達は予定通りが通用しないので、予定は立てるが未定である。

日暮里で待ち合わせ、少し早いので夕焼けだんだんの階段から谷中銀座へ。その前に経王寺で幕末の上野戦争のとき彰義隊を匿い砲撃をうけた弾のあとを山門の扉で確認し教えることができた。お店はまだ準備中であったがお酒屋さんの店頭にコップ酒を売っていて、すでにビールを飲んでいる若いカップルもいる。日本酒の好きな友人はさっそくゲットして、散策しつつの飲酒である。それも大目にみてくれる谷中銀座である。安い高いと値踏みしつつ、よみせ通りにぶつかったので引き返し<朝倉彫塑館>へ。そこで友人が「朝倉摂さんが亡くなったのよね。」「えっー!」である。「91歳。高校時代から好きで彼女に憧れてその頃舞台裏の手伝いしていたのよ。」初耳である。私はいつからであろうか。何かのコメントか対談かで、この人は素敵な人であると思ったような気がする。そして舞台美術にかける情熱が男女関係なく人として伝わってきたのである。さばさばされていて、大袈裟なことは言われない。そこも気に入り、どこかで仕事をされておられるであろうと思うだけで心強くなれる方であった。大きな劇場の舞台も小さな劇団の舞台も同じように面白がられて仕事をされていた。

彫塑館の中でスタッフの方に亡くなられた事を尋ねると、とても気さくな飾らない方で、父上のお墓に来られた時はこの彫塑館にも寄られて長居はせず、こちらに気を使わせない方であったそうである。テレビの紹介番組でも、年齢に関係のない色使いのカジュアルな洋服で肩に力が入らず前を見つめる方であった。素敵な生き方の女性先輩がまた一人旅立たれてしまった。笑顔を残されて。

それぞれ発見することが違うので面白い。一階の和室で池に面して座ると、その池が窓の下を通って流れているように見えると友人がいう。そういう風に作られていると。座ってみると本当に池は軒下で終わっているのに、軒下をも水が流れているように思える。そうみえる窓の高さなのである。人の目の錯覚は面白いものである。ここにも縁側の廊下の一部に畳敷きがある。これを<入側>という。これは、世田谷の瀬田四丁目の旧小坂邸でボランティアの方から教えてもらったのである。静嘉堂文庫美術館へ行ったとき、小さな門がありここから美術館に行けるのであろうかと樹木の中を上って行くと一軒の家があり入れるらしい。声をかけるとボランティアの方が出てきて家の中を案内してくれたのである。この高台は国分寺崖線沿いで、かつて多摩川を眺め多摩川で遊ぶ別荘地であったらしい。その文化財も立派であるが、飾られているお花に季節感があって古い家に合っている。桃の節句に合わせて活けて有り、無料で生け花を教える試みもしているそうである。こういう日本家の光の中で花を活けるのは心が落ち着くことであろう。といいつつ、なんとか言うのよと、<入側>が思い出せず後でメールで友人達に知らせたのである。

良く晴れた屋上庭園に白い清楚でありながら可愛らしい花の咲く木があった。何であろうか。解らないので帰りにスタッフの方に聞くと<梨の花>であった。朝倉摂さんを偲ぶに相応しい花のように思えた。<梨の花>

路地で見かけたお蕎麦屋さんでたっぷり時間をとり、地図も見ず千駄木方面へ気の向くまま歩き、三崎坂にさしかかると空模様が怪しい。雨の時は国立博物館に逃げ込む事にしていたら、バス停があり人が待っている。そのバスが上野公園にいくというので乗り込む。国立博物館は春の庭園公開時期なので、傘をさしつつのお花見である。常設展の小袖と打掛の色、刺繍などにみとれ、休憩場所で取り留めない話に花を咲かせる。思い起こすにこの友人達とはよく雨に合う。それも一時的な雨である。町歩きよりも口歩きなのでお日様が気をもまれて水撒きされるのであろうか。

 

 

東慶寺の水月観音菩薩

桜もおしまいなのに、梅の時期の話である。東慶寺から城ケ島へ (1) で、東慶寺の<水月観音菩薩半跏像>正式名は国立歴史博物館のほうが正しいのかもしれないが、遊戯は観音様としては軽すぎるということであろうか。岩にもたれかかり、水面に映る月を眺められているのである。個人的には観音様も全ての慈悲を放出され、ふっと水に映る月に心をうつしほっとされているようで心温まり好きなのである。今回は松岡宝蔵での公開であった。水月観音菩薩の背後に背を合わせて、同じようにくつろがれている<観音菩薩半跏像>があった。この二つの形は、中国では観音は補陀落(ふだらく)に住むといわれ、それと仙人が結びついていると考えられているそうで、<人>の風が吹いているのであろうか。鎌倉周辺にしか見られない形で、京都では菩薩として相応しくないとして受け入れられなかったのではとある。なるほどそいうこともあるかもしれない。仏様のお姿も、同じ仏様であっても、同じ人間が拝見しても、その心持によってその時々で変るものであり、そこがまた違う感覚を呼び覚まされるから拝見しに行くのである。

<聖観音菩薩立像>(木像)の土紋の装飾も記憶からは初めてである。衣の部分に<粘土を型に入れて作った花形をはりつけ、表面に彩色したもので<鎌倉地方独特>とある。鎌倉には鎌倉独特の仏の捉え方があったのであろう。

縁切り寺として、その資料も展示されている。さらに第二十世住持天秀尼は、豊臣秀頼の側室の子で、秀頼には別の側室にもう一人国松という男の子がいた。大阪城落城により二人の子は捕らえられ、国松は殺されてしまうが女の子は秀頼の息女として家康の許しのもと、天秀尼として東慶寺に入寺している。この天秀尼の遺品なども展示されている。今回は『天秀尼』・永井路子著(東慶寺文庫)を購入できた。

夏目漱石の和辻哲郎へ、マツタケをもらったお礼の書簡もあった。東慶寺に<漱石参禅百年記念碑>がある。長い文が刻まれているので、眺めるだけで詳しくは読まなかったのであるが、「資料紹介 漱石と縁切寺東慶寺」(高木侃著)の「続」と二冊(小冊子)あったので買わせてもらった。それによると、漱石さんは明治27年に円覚寺塔頭帰源院にて、釈宗演管長と宗活のもとで参禅し、大正元年に東慶寺を訪れ宗演師と再会されている。

円覚寺での参禅については、小説『門』に書かれている 。「宗助は一封の紹介状を懐にして山門をはいった。」で始まり「 「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも樂だけれども。惜しいことで」 宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、また十日前に潜った山門を出た。甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後ろに聳えた。」で終わっている。碑のほうは、宗演老師の書簡と漱石さんの二十年振りに老師に会ったときの「初秋の一日」の文章の一部が刻まれていた。

宗演師も漱石さんも知らない事であるが、漱石さんの父親が名主をしていたところ住居していた女性が東慶寺に駆け込んでいたのである。小冊子にはそのことを詳しく書かれてある。

漱石さんは大正5年50歳で亡くなられている。漱石さんの希望で、葬儀の導師は宗演師であった。

少しかたい話になってしまったが、東慶寺のお花は梅とその根元に可愛らしく可憐に咲く黄色の福寿草であった。梅と福寿草。なかなか相性の合う組み合わせであった。

 

 

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

2012年締めの観劇 『日本橋』で、観劇の感想を書いたが、映画『日本橋』(舞台公演を映画としてのこしたもの)を観る。時間がたってみると、かつて自分はこのように観ていたのかと意外とかつての自分に対し冷たいものである。今回は、<瓦斯灯>が気になって仕方が無い。一石橋で、お孝がガス灯の陰に隠れて佇み、葛木と巡査のやり取りを聞いていてガス灯の光を受けて姿をあらわす。照明の具合がいい。ガス灯はこんな具合に柔らかく照らすのであろうかと感じ入ってしまった。実際はどうあろうと私の中でこれがガス灯の灯りとインプットしてしまった。映画の場合、アップになる。舞台の場合は自分が好きなようにアップにしたり、全体を見たりと自在にやっているので、舞台の録画中継のとき、納得できなくて、ただ粗筋を理解しただけという場合もある。

さすが映画も作られている玉三郎さんである。重要な台詞のとき、聞かせどころ、観させどころを心得ておられる。アップが効果的で台詞がリアルに伝わってくる。そして涙しつつ、現実にこのような美しさはあり得ないが創造することは出来るのだと考えさせられる。汚れているはずのお孝がよごれをきちんと引き受ける潔さが伝わる。自分で播いた種を綺麗に刈り取って、次の種を播くためのさらな地を残していく。葛木はその時気がついたのではなかろうか。自分が作った美しさを人に求める時それは消えていくことを。彼が求める理想の人はこの世にはいないのである。しかし、鏡花さんは自然主義の自分をさらけ出して許しを請うことは文学の世界として相容れないものであった。消えても違う世界に美しくとっておきたいのである。触れることができなくなっても。

音がよかった。下駄の音。雪を踏む音。流れてくる長唄など(と思うが)。そこが舞台と違ってはっきり聞こえ映画の平板さを補ってくれた。

日本橋のコレド宝町は凄い人である。『日本橋』の映画を上映していたので行ったので何があるのかよく分らないが、こういうのは苦手なので早々に本郷菊坂散策の取りこぼし拾い作戦に移る。

上野広小路から仲町通りを歩く。現在は様々の歓楽のある通りである。通りの横道の空間から桜と不忍池の弁財天の屋根が見える。お蔦のころはもっと姿を現していたのであろう。その方向に手を合わせる人の姿も美しいものがある。そこから湯島天満宮の下を通り、切通坂を上る。瓦斯灯がきになったが時間がないので寄らない。しばらくは舞台映画のガス灯で十分である。啄木さんの案内板、壺の最中の壺屋さんもどんどん通り越し、本郷三丁目交差点へ。

申し訳ないが、再び交番で、「文京ふるさと歴史館」を尋ねる。春日通りをそのまま、信号3つ過ぎた右手の横道の左である。途中通り向かいに啄木さんの下宿していた床屋さん、理容院アライが見えた。一つ拾う。「文京ふるさと歴史館」についたのが4時40分過ぎ。5時閉館なので資料を買い、周辺地図をもらい、地図で<坪内逍遥私塾跡><宮沢賢治旧居跡>を教えてもらう。ゆっくり再訪することを告げ館の前の道を進むと炭団坂で急な階段である。その横に<坪内逍遥旧居跡>の案内板。メモする時間はない。炭団坂を下りて右手にいくと何人かの女性グループが<宮沢賢治旧居跡>の案内板をよんでいる。まずは三つ拾ったので安心。

地図を観て菊坂に上がり、菊坂を言問通りまで進む。今回は近道をしようとはせず、確実性を重視する。そこから新坂を上り、啄木ゆかりの旅館「大栄館」があり地図どおりに行くと、<徳田秋声旧宅>が見つかった。現在も人が住まわれているので案内板を静かにながめ元来た道をもどり、白山通りに出て<樋口一葉終焉の地>を目指す。そこは3回ほど行きつもどりつしてしまった。反省として旧東海道を歩いているわけではないのであるからして距離感覚を短くである。無事拾い集められたようである。歩いている途中で、明日の町歩きの問い合わせがくる。皇居の乾通り抜けは混雑しているようでやめることにする。

まずは何とか本郷菊坂散策は拾い集めることが出来た。詳しいことは後日何かの折に。

 

 

本郷菊坂散策  (2)

菊坂に行く前に石川啄木さんも歩いた道としての案内板があり、メモを無くしてしまったので何んと書かれていたか探さねばと本をめくっていたら出た来た。(「東京文芸散歩」坂崎重盛著) その前に本に載っている地図から池之端の仲町通りが見つかる。春日通りに平行して不忍池側の不忍通りとにはさまれた位置に仲町通りとある。この通りの角から、お蔦さんは不忍池の弁天様に手を合わせたのであろう。皮肉な結果になってしまうが。

本によると、池之端の料理店「清凌亭」で佐多稲子さんが働いていて、菊池寛さん、芥川龍之介さん、久米正雄さん等作家達の話を耳にしていたとある。

啄木さんは東京朝日新聞の校正係りとして上野広小路から切通坂を上り、本郷通りを横切り下宿先の床屋喜之床の二階に帰ったのである。春日通りの途中に啄木さんの通った道として案内板がある。<二晩おきに、夜の1時頃に切通の坂を上りしも、勤めなればかな> 喜之床は明治村に移されていて、そのあとには理容院アライがあるようであるが、そこまでいかなかった。本郷3丁目交差点手前に老舗の藤村菓子舗がある。もっと手前では、小さいお店だが菓子店があり人が何人か入るので立ち止まってしまったが、壺の形をした最中を売る壺屋総本店であった。

本郷3丁目交差点から菊坂を目指すのであるが、二回ほど来ている。一度は人まかせで、二度目は交番で道を尋ねたので、今回も交番でお世話になる。菊坂はすぐ分かったが、近くに文京ふるさと歴史館があるので、どちらから行ったらよいか尋ねると、そちらから菊坂だと分かりづらくなるでしょうから菊坂の帰りに寄ってはどうですかと言われる。菊坂の入口に案内板があり、宇野千代さんが<西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトをしていて、宇野さんを目当てに今東光さんが通った>とあった。なるほどである。

前の二回では寄れなかった「本郷菊富士ホテル」跡を目指す。道標のあり探すのは難しくなかった。とにかく凄い数の文学者や著名人が泊っていたのである。現在の環境からすると想像できないのである。

「大正から昭和にかけてのころとなると、多くの作家や芸術家達が止宿したホテルというより、いわば高等下宿であったが、もともとは、「帝国ホテル」などに次いで「東京で三つ目のホテル」として、外国人を対象にしたハイカラなホテルであったようだ。そのエキゾチックさに、作家たちはひきよせられていったのだろう。」(「東京文芸散歩」) ここは様々な物語のあった場所である。

菊坂にもどり上がっていくと、一葉さんが通った伊勢屋質店があり、そこから徳田秋声旧宅に行きつこうとしたが行きつけなかった。再び菊坂にもどる途中で旅館「大栄館」があり、玄関前に啄木さんの歌碑がある。ここに啄木さんは一時寄宿したらしい。菊坂にもどり一葉さんの旧居跡へ。菊坂から脇の階段をおりるのであるが、適当に目星をつけて下りて路地をのぞくと今も住民の方が使っている井戸の上の手押しポンプが見える。ここである。生活圏なので、その前を静かに通る。また菊坂にもどればよかったのにそのまま先の階段を上がったために迷路に入ったように、方向を見失い白山通りに出てしまった。そのまま白山に向かえば一葉さんの終焉の地に行きついたのであろうが、頭が回らずそこで『本郷菊坂散策』は中止とした。

<文京ふるさと歴史館><宮沢賢治旧居跡><坪内逍遥私塾跡><振袖火事の本妙寺跡>などがあるのだが、次の機会とする。<坪内逍遥私塾跡>は真砂町にあり、『婦系図』の主税の真砂町の先生もこのあたりに住んでいたことになる。司馬さんの「本郷界隈」によると、坪内逍遥は私塾常磐会には3年いてそばの借家に移っている。そのあとに正岡子規さんがこの常磐会の寄宿舎に入っている。この高台の下に一葉さんが住んでいた。

「子規の友人の夏目漱石も一度ならずこの崖の上の寄宿舎に同窓の子規をたずねてきているのだが、崖下に一葉という天才が陋居(ろうきょ)しているなど、知るよしもなかった。」

 

 

本郷菊坂散策 (1)

友人たちと歩いた谷中から、今度は本郷を歩こうと、湯島天神から始める。梅の三分咲きの頃である。湯島天神となれば菅原道真公であろうが、浮かんでくるのは、<湯島通れば思い出す お蔦主税の心意気>で泉鏡花の『婦系図』で新派である。いつどのようにこの歌の一節を記憶したのか覚えていない。<ちから>が<主税>と書くのも知ったのは随分あとである。

司馬遼太郎さんの『本郷界隈』によると、明治の文明開化の象徴ともいえる瓦斯灯(ガス灯)がこの境内に何基かあったことに触れ、「瓦斯灯があればこそ主税はお蔦をここへよび出せるのである。ふつう、村落の氏神の境内などには夜間灯火がなかった。もし湯島天神もそうだったら、両者は闇の中を手さぐりでにじり寄らざるをえず、芝居にならない。」と記している。なるほどと思いつつ、そこは工夫して石灯籠に火を灯し、背景に月を描き、月明かりとするであろうなどとつまらぬ事を考える。しかし明治という時代性を考えると<瓦斯灯>が似合っている。市川雷蔵さんと万里昌代さんの映画『婦系図』の録画が何処かにあるのでどうなっていたか、そのうち調べてみる。新派の舞台は瓦斯灯だったと思うが。ガス灯も復元されたらしいが、司馬さんの本は今、桜の時期に読み気がつかなかった。

宝物殿へ入館してきたが、ここで思いがけず川鍋暁斎さんの「龍虎図」の衝立一双に出会う。龍も虎も威圧的ではなくどことなく愛嬌がある。意外な出会いである。湯島の梅に因み、奥村土牛、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳等の梅の絵があり、竹内栖鳳の絵に引き付けられた。富くじの箱が展示されていて、司馬さんによると「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり“富くじ”の興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた。」とある。当殿のパンフによると、目黒不動、谷中の感応寺、湯島天満宮が三富と称されたいへんなにぎわいをみせたらしい。落語の「富久」は深川八幡宮である。

男坂から下りようとすると、<講談高座発祥の地>の碑を目にする。文化4年(1807年)湯島天満宮の境内に住み、そこを席亭としていた講談師・伊東燕晋が家康公の偉業を語るにあたり庶民より高い高座とし、北町奉行小田切土佐守に願い出て認められたとある。なるほど初めから高かったわけではないのである。男坂を下り、美空ひばりさんの「べらんめい芸者」<通る湯島に鳥居はあれど 小粋なお蔦はもう居ない>と湯島天神から春日通りを登る。この切通坂は先にある麟祥院に春日局のお墓がありそれに因んだ名らしい。

ここから少しきつくなる。坂の勾配ではない。ここからのメモをなくしてしまったからである。さあどうなりますか。手さぐり坂である。

映画と新派の『婦系図』が見つかった。

映画『婦系図』(1962年) 監督・三隅研次/脚本・衣田義賢/出演・市川雷蔵・万里昌代の湯島天神はガス灯である。実際にはガス灯の明かるさはどの程度であったのであろうか。電球の街灯でさえ一部分を照らしていたのであるから、ほのかに明るいという感じであろうか。

新派は、新橋演舞場1985年公演の録画である。演出・戌井市郎/脚本・川口松太郎/出演/片岡孝夫(現片岡仁左衛門)・水谷良重(現水谷八重子)・波野久里子・安井昌二・長谷川稀世・英太郎・菅原謙次・杉村春子で、大きな石灯籠の灯りであった。こちらの方が場面としては薄暗い。お蔦が「あなた、いい月だわねえ」の主税の答えは「月は晴れても心は闇だ」である。月の姿はないが、台詞の中に<月>が出てくる。「ほらあの月を見てごらん。時々雲もかかるだろう。まして星ほどにもない人間だ。時には闇にもなろうじゃないか。」(主税)

あの周辺を歩いているので、台詞が立体化する。お蔦が自分が巳年なので弁天様にお参りしてくるという。それは上野不忍池の弁天様である。あそこまで行くのであろうかと距離的にどうかと思ったら、戻ってきたお蔦は仲町の角からお参りしたと告げる。江戸の切絵図でいえば池之端仲町の角ということであろうか。お蔦の別れる際の台詞が「切通しを帰るんだわね。思いを切って通すんじゃない。体を裂いて別れるよう。」

喜多村 緑郎さんのお蔦が良かったので、湯島の場面は泉鏡花さんが新たに書き足した場面らしいが、この辺はよく歩いていたらしく風景を上手く台詞に反映している。ただ、一度、石灯籠ではなくガス灯で舞台をやって欲しいとも思う。お蔦が石灯籠に腰かけての形がなくなるが、どうもあそこで形を作っていると意識され、リアルさから引きもどされるのである。それまでの作られているが、清元の「三千歳」の語りに合わせて動くお蔦の自然に流れるような動きが一瞬、それこそ引き裂かれてしまうのである。新しい明治のガス灯の淡い灯りのなかで、闇に向かう恋路というのもなかなかいいではないかと勝手に思い描いてしまった。ガス灯でも月の台詞は邪魔にはならない。

映画のほうは清元の「三千歳」は流れない。替わりに境内の石畳と下駄が作り出す音である。