歌舞伎『三十三間堂棟由来』・映画『三十三間堂通し矢物語』

三十三間堂は、『平家物語』によると、清盛の父の忠盛が、鳥羽院が願っていたので三十三間堂を建て一千一体の仏像を安置したとある。鳥羽院は大変喜ばれ、但馬の国を与えさらに内裏への昇殿を許したのである。文楽等では鳥羽院ではなく、白河法皇となっている。実際には、後白河上皇の時、平清盛の財力で建立が妥当なのであろう。

歌舞伎の『三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』を初めて観た時、解りやすく感動した記憶がある。お柳になった魁春さんが儚い雰囲気で、心の決め方もきっぱりと見せてくれ、柳の模様の衣裳も効果的で印象的であった。調べたら、国立劇場で(2003年)での公演で、歌舞伎鑑賞教室であった。歌舞伎鑑賞教室は歌舞伎に接したことの無い人にも気軽に鑑賞してもらおうとの企画で、学生さんなども、教師に引率されて観にきている。お柳の夫・平太郎が信二郎(現錦之助)さんで好演であった。(中村魁春、中村錦之助、中村歌江、市川男女蔵)

<紀州熊野山中鷹狩の場>では、お柳と平太郎の出会いの場であり、鷹が柳の枝に鷹狩ようの紐を絡ませてしまい動きがとれない。そのため鷹の持ち主が柳の木を切ってしまおうとする。それを、平太郎が弓矢で糸を切り、柳の木を助けるのである。柳の精は、命を助けられる。さっきの鷹主が面子をつぶされたと仕返しに来た時、柳の精は柳の葉で平太郎を隠し助けるのである。この場面は趣向もこらされ、初心者には目にも楽しいものとなる。

三十三間堂は、映画『三十三間堂 通し矢物語』の映像の中でもたっぷり出会うこととなる。成瀬己喜男監督の初の時代劇である。敗戦の年の1月から5月まで撮影が行なわれ6月に公開された。京都ロケの撮影中空襲警報で中断され、東京はこの間に空襲で焼け野原となったのである。検閲も時代劇という事で免れた面がある。

通し矢は、朝六時から翌日の六時までの間に、120メートル先の的を射る矢の数を競うものである。星野勘左衛門が記録を作り、十八年後、18歳の和佐大八郎がその記録を破った事実をもとにしている。この映画を見たあとで三十三間堂を訪れたら、和佐大八郎の額があった。それ以前に訪れた時は、記憶に残るほどの関心を示さなかったのである。

映画では大八郎(市川扇升)の父が、星野(長谷川一夫)に敗れ自害し、そのため大八郎が星野の記録に挑戦し、見事破るのである。大八郎を助け指導した人物が実は、星野であったという筋である。

旅籠小松屋の女将お絹(田中絹代)は未婚であるが、父の亡き後しっかりその宿を守っていた。大八郎の屋敷に2年間行儀見習いに居たことが縁で、大八郎を預かり星野の記録を破るべき五年間導き仕えていた。大八郎は17歳になっているから、10歳から成長を見ているわけである。ついに大八郎の通し矢の日程が決まる。ところが大八郎は弓の腕前に伸び悩んでいた。そこに、星野とは知らず、弓の指導を受けることとなる。一人で練習していた大八郎にとってそれは、力強い応援であった。しかし、大八郎は紀州藩、星野は尾州藩。藩の思惑、星野家の弟の家名のこだわりから、大八郎の邪魔をし、名をかくしていた星野の存在が大八郎に知られてしまう。この辺りのそれぞれの心理と、若者ゆえの迷い、それを見守る星野、見極めがつかぬお絹の揺れが成瀬監督らしい丁寧さで進む。旅籠の室内、武家の茶室の撮る方向など現代物と変らぬ成瀬監督好みである。

通し矢の庶民の盛りあげかたも、三十三間堂の見物人にお寺の者が説明し、辻講釈師に語らせ、噂話でテンションを上げてゆく。そんな中で、星野は自分の意思を通し、自分の誉れよりもそれを乗り越えていく若者の背中を押す。お絹が「立派なお方です」と云わせる恰好良さで終わらせる娯楽時代劇の痛快さをもきちんと盛り込み、秀作となっている。

監督・成瀬己喜男/脚本・小国英雄/撮影・鈴木博/出演・市川扇升、長谷川一夫、田中絹代、田中春夫、葛城文子

このほか成瀬監督の芸道ものは、『桃中軒雲右衛門』(月形龍之介、細川ちか子)、『鶴八鶴次郎』(長谷川一夫、山田五十鈴)、『歌行燈』(花柳章太郎、山田五十鈴)、『芝居道』(長谷川一夫、山田五十鈴)などがあり、長谷川一夫さんは、成瀬監督が、素知らぬふりをして、芸人の世界に通じていたことを、「これは親切な人でね。いけずの親切ですからね(笑)」といわれている。

桃中軒雲右衛門のお墓が旧東海道品川宿の天妙国寺にあるらしい。後から後から見つかって、手に負えない。困窮。

さらに、『三十三間堂棟由来』<平太郎住家の段>のCDを購入していたのである。浄瑠璃が竹本越路大夫さん、三味線が野澤喜左衛門さんである。越路大夫さん引退後も、住大夫さんは指導を受けに訪れられていた。いい声である。それだけに住大夫さんの鍛錬のほどがわかる。進めば進むほど困窮。箱根の峠越えどころの話ではない。天下の嶮がどこまでも続いている。