歌舞伎座六月 『蘭平物狂』

『蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』 この演目は、現松緑さんが、四代目を襲名したときの襲名興行演目でもあった。この演目は立廻りが半端でない動きで、見せ場のひとつでもあるのだが、襲名の時は不満であった。立ち回りが不満だったのではなく、息子繁蔵にたいする蘭平の慈愛が紋切型でこちらに響いてこないのである。今回はそれを一番期待し、今の松緑さんはどう表現するか楽しみであった。待ってた甲斐があった。特に繁蔵を探し繁蔵の名前を呼び回る時の一声、一声の抑揚が違い、どこにいるんだという焦りと不安が出ていた。そこを納得できたので満足であった。大河改め三代目左近さんがこれまた小さな身体を大きく見せての大奮闘である。

『蘭平物狂』は浄瑠璃の『倭仮名在原系図(やなとがなありわらけいず)』の四段目で、現在はこの段しか上演されない。在原とくれば業平で、在原業平といえば、『伊勢物語』のモデル、歌人で六歌仙の一人などが有名である。『倭仮名在原系図』は、業平の兄・行平(ゆきひら)の須磨に流されていた時の松風との恋物語に、皇位継承争いなどを取り込んだ話である。その話の四段目だけであるから、人間関係を理解し、立ち回りを楽しむとなると、頭の回線に油が必要である。さらに、この蘭平、刀物を見ると乱心するのである。凄い事を考えつくものである。このことを知っている行平は、蘭平が気に食わないと刀を抜いて蘭平を乱心させる。操ってしまうのだから恐ろしい。ところが、蘭平のこの奇病は計略のための偽りであった。蘭平は実は行平に滅ぼされた伴真澄(ばんのさねずみ)の子・義雄である。ところが、ところが行平はさらに上手で、蘭平=義雄と見破っていたのである。

行平(菊五郎)の奥方水無瀬御前(菊之助)は、夫が松風のことを忘れられず籠りがちなのを気にかけ、松風に似た与茂作(團蔵)の女房りく(時蔵)を松風としてめあわせる。喜ぶ行平のもとに罪人が逃げたという知らせがあり、その捕縛に蘭平(松緑)は刀物を見ると乱心するので息子の繁蔵(左近)を行かせる。蘭平は息子の事が気がかりで行平の言いつけも上の空である。怒った行平は刀を抜く。ここで、蘭平の乱心ぶりが披露される。ここは、行平が松風に与えた烏帽子と狩衣を使っての蘭平の踊りで、乱心を上手く使った見せ場である。

与茂作夫婦は、蘭平の素性を明らかにさせるための行平の回し者で、蘭平はそうとは知らず行平の罠にはまってしまい追われる立場となる。ここからが、立廻りの見せ場となり、追われながらも蘭平は、息子繁蔵はどこにいるのかと気をもみ心配にくれるのである。繁蔵は手柄をたて、与茂作実は行平の家臣・大江音人(おおえのおととど)の家来として、父を捕らえにくる。息子に対する慈愛から蘭平は繁蔵に捕らえられるのである。

このお芝居を見た時は、刀を見た時の乱心の面白さ、りくの松風になりすます可笑しさ、繁蔵は蘭平の息子という関係、大立廻りのダイナミックさあたりを楽しんだ。その後、行平の策略、蘭平の子を想う親心などが見方として加わり今回の『蘭平物狂』になったのである。

役者さんも若さまかせの躍動感のある動きから、内面の心情表現が加わり、二転、三転のどんでん返しがある話の筋と、それらが上手く舞台という時空の世界で展開され、観客と融合する沸騰点にまで高まり、消えていくのである。そういう経過を辿る芝居の典型が『蘭平物狂』にはあると思う。そして、左近さんの初舞台にふさわしい演目であった。いずれは、松緑さんの芸を捕らえなくてはならないのである。