<対馬丸>学童疎開船

東北の旅の途中で沖縄の学童疎開船<対馬丸>のことを知る。両陛下が沖縄那覇市にある『対馬丸記念館』を訪問されるという報道ニュースをテレビで見て、初めて知ったのである。

1994年8月22日、アメリカの潜水艦の魚雷によって、沖縄から本土に疎開する学童が海に投げ出されたのである。学童を含め、1500人近くの方々が亡くなっている。

水木洋子展もラストへ で、<沖縄では、いわゆる適格者(18歳以上60歳までの男女)は軍の命令によって疎開できなかった>ということを知ったが、さらに、疎開児童まで途中で犠牲になってしまった事実があったのである。生き残った者にも、即、緘口令が言い渡される。生き残った方々の心の傷をさらに傷めつける事をしているのである。いつこの事実が公になったのであろうか。水木洋子さんが取材されたとき、この話は出たのであろうか。ひめゆり部隊のことは多くの人が知っているが、学童疎開船<対馬丸>のことは、どれだけの人が知っていたことであろう。沖縄には行っている。あの美しい海へ、次々と飛び込んだという話も聞いている。バスガイドさんから、様々な話も教えてもらった。聞き逃していたとすれば、うかつ者である。

寺山修司さんのお母さん・寺山はつさんの『母の螢 寺山修司のいる風景』を読んだ。夫を戦争で亡くし、文字通り母一人子一人の生活で戦争を乗り越えられている。その中で、青森での大空襲の中を、修ちゃんの手を引き逃げまわるのである。青森市も焼け野原となったのである。

寺山修司さんの青森高校三年の時の詩にこんなのがある。

すみれうた  - ひめゆりの塔へ

すみれの花が咲く頃には                                                                       また、かなしい海が                                                        耳をいじめるでしょう。                                                          だがー                                                                   バベルになってしまった塔には                                                   もう火の匂ひは ありますまい。                                                僕の中のさみしい空気層。                                                   いつも爆音があけてった穴を                                              繕っていたっけー。

少女よ。                                                                あなたの祈りは                                                                 母のことだったでしょうか。                                           いのちのことだったでしょうか。

僕はまた                                                                  あなたのひとみに 雲を映して                                                  ふるさとの葡萄を                                                                 食べたかった。

 

 

 

東北の旅・仙台~天童~慈恩寺(2)

このバスツアーは、見学時間が20分から30分と短時間である。その乗りで次の朝、秋田県立美術館に行こうと思ったのかもしれない。バスガイドさんが多少年配のかたで、私的には期待していたのであるが当たりであった。歴史的なことをよく調べられていて、長いバスの中と見学の短さを補ってくれた。

宮城県は仙台に降りその後は、バスで通過である。1611年、奥州は地震と津波に見舞われていた。仙台藩も相当の被害があったが、徳川家はそこを見逃さなかった。仙台藩の財力をさらに弱めるため、江戸城の石垣を献上させ、外堀のために、人夫も出させたのである。そこで窮した仙台藩主・伊達政宗は、1613年に支倉常長(はせくらつねなが)をスペインとローマ教皇のもとへ派遣する。メキシコとの直接貿易を試みたわけである。きちんと江戸幕府の許可を取ったらしい。

常長が帰ってきた時は、キリシタン禁制である。政宗は、キリシタンの常長はかくまったが、他の帰国者は長崎で処刑されたようである。常長も帰国して2年後に亡くなっている。お墓が3つあり、何処に潜んでいたか判らないようにしていたことがうかがえる。バスガイドさんからの聞きかじりで、正確さは保証の限りではない。こういう流れがあったと知れたのが嬉しい。

山形と云えばさくらんぼであるが、途中の天童市は日本の95%もの将棋の駒を作っている街である。高いものは数百万円し、一つ一つ手作りで、文字も手彫りの中に、手書きで書き上げる。天童藩は織田信長の子孫が藩主となり、財政のため、将棋の駒作りを奨励したといわれる。衣を正し、戦うということで、武士道に通ずるともかんがえられたようである。<王将>と見ると大阪の坂田三吉さんを、思い出してしまうが、駒は山形の天童である。

山形には紅花もある。<紅花>となると、アニメの『おもひでぽろぽろ』が浮かぶ。秋田県に拠点をもつ<わらび座>の『ミュージカル おもひでぽろぽろ』(台本・作詞・齋藤雅文/演出・栗山民也/作曲・甲斐正人)を観たことがある。アニメをどう生の舞台にするのかと興味があった。途中で、これは、アニメを忘れて別ものとした観たほうが面白いと思った。アニメの、好きなのにわざと虚勢を張る少年の何とも言えない屈折はアニメ独特の淡い表現で、舞台では違う形で表現されていた。初めて観る劇団であったが、役者さん達の演技素地がしっかりしていて、演劇としての『おもひでぽろぽろ』は伝わってきた。

そんなことを思っている間に、バスガイドさんの説明は続く。慈恩寺の近くには、知名度の高い立石寺(りっしゃくじ)がある。そこから、芭蕉の話にもなる。このあたりは、『奥の細道』の現場でもあるわけで、ガイドさんによると、芭蕉の旅日程より、同行の曽良の日記のほうが正確なのだそうである。芭蕉は平泉から、立石寺を経て出羽三山に入っている。ここで、芭蕉の句をひとつ。

眉掃(まゆはき)を面影にして紅粉(べに)の花  <まゆはきをおもかげにしてべにのはな>

芭蕉さんは紅花の花の盛りのころに尾花沢に滞在していて、紅摘み、紅つき、紅干しを見ている。『奥の細道』に入ると道幅が細いどころか広くなるので、この歌だけとする。

ガイドさんではなく、私の調べたところによると、山寺・立石寺は、庶民の拠りどころとしたお寺であり、慈恩寺は、その時々の権力者に庇護されたお寺である。山寺は、石の世界でもあり、慈恩寺は平安、鎌倉の仏像の世界である。

その仏像を拝観する時間の短さに、流す涙の落ちる時間も無かった。感嘆符のみ!

 

東北の旅・慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)