歌舞伎座六月 『お祭り』 『春霞歌舞伎草紙』 

『お祭り』 やはりこれから書くことにする。仁左衛門さんの『お祭り』での歌舞伎座復帰は2回目である。兎にも角にも復帰され何よりである。始終ホロ酔いの心持よさそうな笑顔で踊られた。からみの若い衆は千之助さんである。大きくなられた。以前テレビで、仁左衛門さんが何か舞台のことで注意されたらしく悔し涙を見せた。でも仁左衛門さんの言っていることは間違ってはいない、正しいと言われていたのを思い出す。事実であるから一層悔しかったのであろう。これから、身体もどんどん成長し、長くなる手足のやり場に困るかもしれない。同じにやっても形がとれなくなることもあるであろう。仁左衛門さんの粋な鳶頭が、絡む若い衆をを軽くいなし、楽しんでいる様子がほのぼのとしていて、お酒の酔い具合に色気があった。千之助さんは仁左衛門さんにからみつつ、どうしてあんなに軽く踊れるのだろうと思われているかもしれない。三津五郎さんに続いて本当にお帰りなさいである。

『春霞歌舞伎草紙(はるがすみかぶきぞうし)』 出雲の阿国(時蔵)の一行が京に着き、華やかに踊る。出雲の阿国の恋人である名古屋山三(菊之助)が現れ楽しかった日々を懐かしみ、山三は阿国に新しい歌舞伎踊りが見たいという。この作は長谷川時雨さんで、山三は現身ではなく霊である。阿国と共に新しい趣向の歌舞を創りあげた楽しさを求め、さらに霊になってまでもそれを探す山三。時雨さんは山三の出現をこのように設定したのである。時蔵さんの阿国は貫禄充分で、若衆に亀寿さん、歌昇さん、萬太郎さん、種之助さん、隼人さん、女歌舞伎に、右近(尾上)さん、米吉さん、廣松さん等を引き連れている。若手の役者さんの踊りにも次第にそれぞれの個性が出てきはじめている。山三が出現したくなる艶やかな舞台である。

長谷川時雨さんは大変魅力的な女性である。夫で流行作家の三上 於菟吉(みかみ おときち)の援助をうけ、「女人芸術」を発行する。その際には、平塚らいてう、岡田八千代、柳原白蓮、神近市子、平林たい子、山川菊枝等多数が協力する。この雑誌から育った人も多く、林芙美子、円地文子、太田洋子、佐多稲子、尾崎翠などがいる。さらに与謝野晶子、岡本かの子、長谷川かな女、山本安英等が執筆している。女性でこれほど、様々な方向性の女性達に執筆の発表の場所を提供した人は他にいない。明治末から、大正初期には、歌舞伎の脚本を書き、六代目菊五郎等と舞踏の発表会を催している。少し探ってみると、スケールの大きな女性である。

昨年の11月には、三津五郎さんと菊之助さんが『野崎村』と『江島生島』をやる予定であったが、三津五郎さんが休演となり、菊之助さんが座長で頑張られた。この時の『江島生島』も長谷川時雨の作であった。江島(尾上右近)と生島(菊之助)の逢瀬と別れ、島に流された生島は気が触れて江島を想い彷徨うのである。菊之助さんがリードされたが、右近さんにとっては大役で江島の位の大きさに届かなかった。

機会があれば、他の長谷川時雨さんの作品も上演して欲しいものである。

遠州の三つの庄屋巡り

雑談から旅 で静岡の庄屋の事をかいたが、思いがけず、違う旅行会社で企画があり行くことができた。行きたいと思っていて1年で行けたのであるから早い巡り合わせである。

こちらは三つの庄屋を訪ねる日帰りバスツアーである。ご無沙汰している友人を一年振りで誘う。やっと声が掛かったかと思ったに違いない。前日から明日は雨で、それも激しい雨とテレビでは伝えている。これは天気は諦め、一日友人とのおしゃべりの日としようと、お互い考えることは同じであった。さらに、「彼女雨女だったかしら。」と考えたのも同じであった。ところが、実際には、見学中は強い雨にもあたらず、青空さえ見えたのである。暑すぎず却って好都合であった。

静岡県牧之原市の<大鐘家>  掛川市の<加茂荘>  磐田市の<花咲乃庄(大箸邸)> である。

<大鐘屋(おおがねや)>は、柴田勝家の家臣、越前(福井県)丸岡城家老・大鐘藤八郎貞綱がこちらに移住、大庄屋となり築いた建物である。直接関係ないが、福井の丸岡城は小ぶりだが存在感がある。城好きの三津五郎さんは、「質実剛健で、まるで古武士のような佇まい」と表現されていて、勘三郎さんとの初めての二人旅で訪れている。<大鐘屋>に話を戻すと、300年以上の歴史があり、長屋門と母屋は国の重要文化財に指定されている。長屋門の藁葺屋根の吹き替えに一千万かかるそうで、母屋はその6、7倍かかるとか。長屋門の藁屋根の組形も特徴があるらしい。関東では、庄屋ではなく名主と呼ばれる。<大鐘屋>は農業ではなく、前の駿河湾での漁業である。天井の高い母屋で、室内の天井は刀剣類を振り回せない様に低くなっている。裏にアジサイ遊歩道があるが、まだ時期的に3分くらいであるが、種類が多いので、こんなのもあるのだと色と種類を楽しむ。カシワの葉に似た葉っぱのカシワアジサイは白で、房になって垂れ下がり初めて見た。聞き間違いでなければ、日本古来のアジサイをシーボルトが西洋に持ち帰り品種改良したのが、あのおおきな西洋アジサイだそうである。上からは駿河湾が見えた。御当主が「漁業は日銭が入ります。農業は一年かけなければなりません。」の言葉を思い出す。蔵には書画のお宝があった。

<加茂荘>は、豪農で、江戸後期の建物である。昼食を先にしますと案内された。突然花々がわーっと目に飛び込んできたのには驚いた。花菖蒲で有名なのだが、菖蒲ではなくインパチェンスの花が上から垂れ下がっおり、アジサイなどの鉢植えがある。温室になっていて、鏡も上手く使い花に囲まれての昼食であった。食事は素朴な庄屋弁当である。そのあと、花菖蒲園と<加茂荘>の見学である。庄屋屋敷の前が菖蒲園で、満開であった。屋敷のほうは、庭を真ん中に建物があり、その曲がるところが、三、四段の階段になっていて廊下で繋ぐというよりも、大小の部屋で繋ぐかんじである。別棟に、石彫刻と志戸呂焼きの展示をしていて、志戸呂焼きを初めて知る。小堀遠州の「七つ窯」のひとつなのだそうである。

最後が<花咲乃庄(大箸邸)>である。大箸家は造り酒屋を営み、庄屋となった家柄である。建造物7件が国の有形文化財である。天保の石庭にあるドウダンツツジ2株は磐田市天然記念物である。天保の石庭の石は京都の鞍馬山から運んだもので、鞍馬山の石は敷石にしても、下駄ですり減ることはないのだそうだ。箱根の畑宿から箱根宿に行く道は、整備もしたのであろうが石は平になりすべりやすく、箱根宿から三島方面への道の石はデコボコしており、これは、歩く人の数によるのではないかと想像したのを思い出す。こじんまりとした庄屋屋敷であるが、庭の菖蒲を見ながら手打ちそばやうなぎを食せる。先祖は天竜治水工事にも尽力されたようである。二つの蔵には、勝海舟、水戸斉昭、西郷隆盛、小林一茶らの掛け軸や書があるが、説明文が判りづらく、収集したのか、なぜここにあるのかわからないのは残念である。

友人と、個人が頑張られて後世に残そうというのは大変なことであるとの同じ感慨であった。資料一つにしても保管と維持が大変である。展示品もここにこの品物があるのは、そういうことなのか、と引き付ける工夫も必要である。御当主のかたが説明して下さったが、次の代へつなぐのはなかなか難しいと言われていた。私たちのような旅行者もいるのであるからつながって欲しい。

バスの通る道の両側は茶畑である。新幹線や列車では見られない風景である。友人と、時代劇なら、絣を着た娘さんが並んで茶摘みをして、歌がつくよねと笑う。「八十八夜っていつなの。」「いつなんだろう。」

次の朝、テレビで偶然にも掛川辺りの里山の無農薬の茶畑を写していて、「八十八夜」は、立春から八十八夜数えるとか。なるほど、「夏も近ずく八十八夜、 野に も山にも 若葉が茂る」。

 

松竹大歌舞 中央コース 猿之助・中車襲名披露 (公文協)

演目は『太閤三番叟』『襲名口上』『一本刀土俵入』である。気構えなくても楽しめる演目である。

『太閤三番叟』 『三番叟』も幾つか種類があるが、『太閤三番叟』は<太閤>であるから、秀吉が舞う三番叟である。大阪城が出来上がったお祝いに、太閤(市川右近)自身が三番叟を舞うのである。正室の北政所(笑也)が翁を、側室の淀君(笑三郎)が千歳を舞う。笑三郎さんのほうが笑也さんより貫禄があり、北政所と淀君のタイプとしては反対の気もするが、それはこちらに置いておく。千歳は露払いをし、翁は国の繁栄と安泰を祈る。笑三郎さんは優雅に力強く、笑也さんは品格を持って舞われた。翁が去り、千歳が鈴を持って待ち構えていると、三番叟の右近さんの出である。軽快な出である。顔の作りが良い。金の剣先烏帽子に真っ赤な上衣に白の袴。黒い瞳がはっきりしていて、文楽の人形のようである。多少操りの要素もあるのであろうか。表情は崩さない。それがまたよい。身体はリズミカルに切れよく動く。柴田勝家の残党との立ち回りが舞いながら行われる。邪魔にならない立ち回りである。久方振りに右近さんの踊りを堪能した。

『四代目市川猿之助・九代目市川中車襲名披露口上』 幹部として片岡秀太郎さんと坂東竹三郎さんが参加された。猿之助さんは、中者さんとがっぷり四つに組みたいので『一本刀土俵入』を演目に選んだと言われた。原作者の長谷川伸さんとは縁があり、猿之助さんの祖父である三代目段四郎さんと高杉早苗さんの仲人でもあった。秀太郎さんは澤瀉屋の初演の『一本刀土俵入』では、子守りで出ており、竹三郎さんも出演していたそうである。中車さんは、猿之助さんと組める演目で喜ばれていた。(右近、笑也、猿弥、月乃助、弘太郎、寿猿、笑三郎、門之助)

『一本刀土俵入』 この組み合わせで観て一番感じたことは、花道の短いホールということもあってか、前半は駒形茂兵衛がお蔦に感謝し、最後はお蔦が茂兵衛に感謝して、二人の立場が対等であり五分と五分の関係になったということである。お蔦はいつ帰るとも知れない夫を待ち、酌婦として荒れた生活をしているときに関取を目指す茂兵衛に会い、お金と櫛、かんざしまで与えてやる。茂兵衛に、かなうかどうかわからないが光を見たのである。

茂兵衛は関取どころか博徒となっていた。ただ、お蔦の夫はいかさま博打をして追われる身となっている。茂兵衛が博徒だからこそ救えた底辺の家族である。茂兵衛もその家族に光をみることができたのである。茂兵衛のお蔦に何回もお辞儀をする姿とお蔦が茂兵衛に何回もお辞儀をする姿に、同じ底辺に生きる人のつながりが見えた。それは、ある意味、中車さんがまだ舞台役者の途中でもあるこが原因でこうした面白いかたちになったのだと思う。

前半はお蔦の猿之助さんが引っ張ていく。芝翫さんに習った形で演じると口上でいわれていたが、美しいお蔦でさわやかである。中車さんがリアルになる自分を消そうと意識しているのが垣間見えるので、そのほうが良い。そして後半での茂兵衛は、股旅者の恰好よさもあるのであるが、中車さんはまだそこまで出せない のである。そのことが、今まで見た『一本刀土俵入』では感じられない印象を受けたのである。それはそれでいいのだと思う。これが中車さんの声であるという声もまだできていない。科白まわしもである。映画やテレビの香川照之と別のところに自分を置いているのが判る。これが見えなくなった時歌舞伎役者中車の味がでてくるのであろう。歌舞伎役者猿之助さんと歌舞伎役者中車さんとの取組は始まったばかりである。

 

 

歌舞伎『三十三間堂棟由来』・映画『三十三間堂通し矢物語』

三十三間堂は、『平家物語』によると、清盛の父の忠盛が、鳥羽院が願っていたので三十三間堂を建て一千一体の仏像を安置したとある。鳥羽院は大変喜ばれ、但馬の国を与えさらに内裏への昇殿を許したのである。文楽等では鳥羽院ではなく、白河法皇となっている。実際には、後白河上皇の時、平清盛の財力で建立が妥当なのであろう。

歌舞伎の『三十三間堂棟由来(さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい)』を初めて観た時、解りやすく感動した記憶がある。お柳になった魁春さんが儚い雰囲気で、心の決め方もきっぱりと見せてくれ、柳の模様の衣裳も効果的で印象的であった。調べたら、国立劇場で(2003年)での公演で、歌舞伎鑑賞教室であった。歌舞伎鑑賞教室は歌舞伎に接したことの無い人にも気軽に鑑賞してもらおうとの企画で、学生さんなども、教師に引率されて観にきている。お柳の夫・平太郎が信二郎(現錦之助)さんで好演であった。(中村魁春、中村錦之助、中村歌江、市川男女蔵)

<紀州熊野山中鷹狩の場>では、お柳と平太郎の出会いの場であり、鷹が柳の枝に鷹狩ようの紐を絡ませてしまい動きがとれない。そのため鷹の持ち主が柳の木を切ってしまおうとする。それを、平太郎が弓矢で糸を切り、柳の木を助けるのである。柳の精は、命を助けられる。さっきの鷹主が面子をつぶされたと仕返しに来た時、柳の精は柳の葉で平太郎を隠し助けるのである。この場面は趣向もこらされ、初心者には目にも楽しいものとなる。

三十三間堂は、映画『三十三間堂 通し矢物語』の映像の中でもたっぷり出会うこととなる。成瀬己喜男監督の初の時代劇である。敗戦の年の1月から5月まで撮影が行なわれ6月に公開された。京都ロケの撮影中空襲警報で中断され、東京はこの間に空襲で焼け野原となったのである。検閲も時代劇という事で免れた面がある。

通し矢は、朝六時から翌日の六時までの間に、120メートル先の的を射る矢の数を競うものである。星野勘左衛門が記録を作り、十八年後、18歳の和佐大八郎がその記録を破った事実をもとにしている。この映画を見たあとで三十三間堂を訪れたら、和佐大八郎の額があった。それ以前に訪れた時は、記憶に残るほどの関心を示さなかったのである。

映画では大八郎(市川扇升)の父が、星野(長谷川一夫)に敗れ自害し、そのため大八郎が星野の記録に挑戦し、見事破るのである。大八郎を助け指導した人物が実は、星野であったという筋である。

旅籠小松屋の女将お絹(田中絹代)は未婚であるが、父の亡き後しっかりその宿を守っていた。大八郎の屋敷に2年間行儀見習いに居たことが縁で、大八郎を預かり星野の記録を破るべき五年間導き仕えていた。大八郎は17歳になっているから、10歳から成長を見ているわけである。ついに大八郎の通し矢の日程が決まる。ところが大八郎は弓の腕前に伸び悩んでいた。そこに、星野とは知らず、弓の指導を受けることとなる。一人で練習していた大八郎にとってそれは、力強い応援であった。しかし、大八郎は紀州藩、星野は尾州藩。藩の思惑、星野家の弟の家名のこだわりから、大八郎の邪魔をし、名をかくしていた星野の存在が大八郎に知られてしまう。この辺りのそれぞれの心理と、若者ゆえの迷い、それを見守る星野、見極めがつかぬお絹の揺れが成瀬監督らしい丁寧さで進む。旅籠の室内、武家の茶室の撮る方向など現代物と変らぬ成瀬監督好みである。

通し矢の庶民の盛りあげかたも、三十三間堂の見物人にお寺の者が説明し、辻講釈師に語らせ、噂話でテンションを上げてゆく。そんな中で、星野は自分の意思を通し、自分の誉れよりもそれを乗り越えていく若者の背中を押す。お絹が「立派なお方です」と云わせる恰好良さで終わらせる娯楽時代劇の痛快さをもきちんと盛り込み、秀作となっている。

監督・成瀬己喜男/脚本・小国英雄/撮影・鈴木博/出演・市川扇升、長谷川一夫、田中絹代、田中春夫、葛城文子

このほか成瀬監督の芸道ものは、『桃中軒雲右衛門』(月形龍之介、細川ちか子)、『鶴八鶴次郎』(長谷川一夫、山田五十鈴)、『歌行燈』(花柳章太郎、山田五十鈴)、『芝居道』(長谷川一夫、山田五十鈴)などがあり、長谷川一夫さんは、成瀬監督が、素知らぬふりをして、芸人の世界に通じていたことを、「これは親切な人でね。いけずの親切ですからね(笑)」といわれている。

桃中軒雲右衛門のお墓が旧東海道品川宿の天妙国寺にあるらしい。後から後から見つかって、手に負えない。困窮。

さらに、『三十三間堂棟由来』<平太郎住家の段>のCDを購入していたのである。浄瑠璃が竹本越路大夫さん、三味線が野澤喜左衛門さんである。越路大夫さん引退後も、住大夫さんは指導を受けに訪れられていた。いい声である。それだけに住大夫さんの鍛錬のほどがわかる。進めば進むほど困窮。箱根の峠越えどころの話ではない。天下の嶮がどこまでも続いている。

 

五月文楽 『増補忠臣蔵』『卅三間堂棟由来』

『増補忠臣蔵』  原作にはなく、のちに増補したものである。『仮名手本忠臣蔵』の<山科閑居の段>歌舞伎座(平成26年)新春大歌舞伎 夜の部(1)で加古川本蔵が、虚無僧姿で現れるがどうしてその姿なのかが判るのである。

本蔵は、師直(もろのう)に賄賂を送りへつらい、武士の風上にも置けないとして、浅草の本蔵の下屋敷に蟄居の身となっている。それは主人と同時に家を守るためであったが、武士として許されない行為である。その下屋敷に、主人の桃井若狭之助がお忍びでやってくる。

この屋敷には、若狭之助の妹で、塩冶判官の弟と許嫁である三千歳姫が預けられている。若狭之助のお供できた、井浪伴左衛門(いなみばんざえもん)が三千歳姫を横恋慕し、若狭之助を暗殺すべく、茶釜に毒を盛る。それを咎める本蔵であったが、若狭之助に呼ばれ成敗の身となる。成敗役は伴左衛門である。本蔵と伴左衛門のやりとりから本蔵の本心を知った若狭之助は伴左衛門を切り捨て、本蔵の縄目を切る。本蔵は茶釜の毒薬を示し、若狭之助は本蔵の忠儀に深く感じ入る。さらに本蔵が由良之助に討たれる覚悟を察し、袈裟と尺八を与え、「一人の娘を思う親の身は焼野(やけの)の雉子(きぎす)夜の鶴、巣籠(すごもり)の一曲。」と付け加え、由良之助への土産として師直屋敷の図面をもたせる。

三千歳姫の琴に合わせ、尺八を吹き、主従最後の別れとなる。

なかなか良く出来ている。塩冶判官と若狭之助は、背中合わせである。しかし、家が助かっても、その助かる道は世間から見れば美しいかたちではない。その責めと責任を果たす本蔵を、芝居の中でもう少し時間を与えたかったのであろう。なるほどと思いつつ楽しませてもらった。

『卅三間堂棟由来』 <平太朗住家より木遣り音頭の段> 三十三間堂建立の際の話として作られている。三十三間堂(蓮華王院)は、白河法皇が院御所造営に際し、その中心に1001体の観音像を安置する仏堂として考えられ、柱間数が33あることから三十三間堂と呼ばれ、長さは120メートルある。

粗筋のほうは、紀州三熊野の里に静かに平安に暮らしていた家族のところに、平忠盛の家臣進ノ蔵人(しんのくらんど)が訪れる。嫁お柳が 後白河法皇が熊野参詣の折、危難を助けたので褒美を持参したのである。進ノ蔵人にはもう一つ仕事があった。法皇には頭痛の病があり、熊野権現の霊夢によると、法皇の前生の髑髏が柳の木の梢に留まっていて、その髑髏を三十三間を建て納めると平癒すると告げる。その柳の木が、次の宿にありその柳を切って堂の棟にすべしとの院宣である。

実は、お柳は柳の精で、平太郎と結ばれ一子・みどり丸を授かり5歳になっている。お柳は、髑髏を手に、これを持参し手柄としてくれと差出し、みどり丸の事を頼む。風に乗って柳の木に斧が入るこだまが響きもうこれまでと姿を消す。平太郎はみどり丸を連れ、お柳の面影を今一度と柳の木のもとへ駆けつける。すでに柳は切り倒され車に乗せられ、木遣り音頭が歌われている。 <和歌の浦には名所がござる、一に権現、二に玉津島(たまつしま)、三に下がり松、四に塩竈(しおがま)よ、ヨイヨイヨイトナ> ところが、押せども引けども動かない。

ところがみどり丸が綱を引き、平太郎が木遣り音頭を歌うと動いたのである。 <無惨なるかな稚き者は、母の柳を、都へ送る、元は熊野の柳の露に、育て上げたるみどり子が、ヨイヨイヨイトナ> 稚き者が母の慈愛を引きつつ育って欲しいと願う思いで引かれて行く柳の木である。

この演目の間に『恋女房染分手綱』が置かれ、<情>に根差した好い構成であった。

友人と行った四国内子座での住大夫さんの演目がはっきりせず友人に問い合わせた。その頃私は文楽を見始めて日も浅く住大夫さんが何を語られたか思い出せない。『壺坂観音霊験記』の<沢市内より山の段>の切りということである。

『壺坂』や『恋女房』の座頭について住大夫さんは、次のように言われている。 <座頭の声というのは、普通の声やなしに、音(おん)でちょっとイキを浮かして、半音か一本高い声を出すんです。お目の悪い座頭は話を聴くとき耳をそばだてるようにして「エー、エー」と聴きます。そんな感じを、半音高こう声にして演出してるんです。> そのあとも貴重な話をされている。「文楽のこころを語る」(竹本住大夫著)を読むと、いかに細かい所に神経を使われているかがわかる。

 

旧東海道・箱根から文楽『恋女房染分手綱』

<箱根宿>から<畑宿>に下る途中で、小学生が教師に引率されて登ってきた。足袋とわらじを履いている。それも自分で作ったわらじである。湯本から歩いてきたという。予備のわらじを持っている子もいれば、すでに片足ひもが切れている子もある。作るとき先生から、実際に使うのだからしっかり作るようにと指導されていたであろうが、器用な子もいれば、苦手な子もいたであろうし、これを使ったらどうなるかという想像が甘く、手を抜いた子もいたかもしれない。わらじで旧東海道を実際に歩く体験と同時に、物作りの大切さ、使うためにはどうしたら良いかも学んだことであろう。今、学校でこれだけの体験学習をさせるところもあるのだ。

私たちより歩く距離が長いのである。頼もしい。「頑張ってね」と声を掛けつつ通り過ぎたが、私たちのために、道をよけてくれた班もあった。先頭の子がよけてと言うとさっーとそれに習ってくれた。ところが、その後ろ班の一人が、「今のうちに追い抜こう」と言った子がいたらしい。仲間が「私は聞いてしまった。」という。面白い。仲間と、「さてどちらが上手く人生生き抜いていくのかな。」と話す。子供のころから、こうした切磋琢磨があるのである。切れたわらじの紐を見ると、藁と日本手ぬぐいをよって作ってあった。昔は藁だけを綱にして編んだのである。履き良い、悪いがあり、履いた時に旅人は、あっ!これは良いとか早く切れるなとか感じたのであろう。私も友人から布で作ったわらじを貰ったが、スリッパ代わり使ってみたが、親指と人差し指を支える部分がきつすぎたり、太すぎたりで、美しくても履き心地が今ひとつであった。

わらじの話が長くなったが 『文楽』 七世竹本住大夫引退公演 で住大夫が語られた『恋女房染分手綱』はこの後、与之助は三吉と名乗り、馬方となり、母・重の井に合うのである。それが、<道中双六の段>と<重の井子別れの段>である。<沓掛村の段>や<坂の下の段>よりもよく知られている。三吉は乳母が死に、一平(八蔵)は、主人を探しに旅立ち、三吉は在所の人々に助けられ馬方の手伝いをしている。

<重の井子別れの段>で、三吉が母・重の井に 「ほかに望みはなんにもない。父様を尋ね出し、一日なりとも三人、一所にいて下され。見事沓も打ちまする。この草履もわしがつくった。」というところがある。箱根路を歩いて、小学生の会いその部分を思い出した。

そして<道中双六の段>では、三吉は重の井の仕える姫君のために、道中双六をするのである。「道中早めて戸塚はと、急ぐ保土ヶ谷神奈川越え、川崎を越え品川越え、まつ先駆けのお姫様。一番がちに勝色の花のお江戸に着き給う。」お姫様は、江戸へのお輿入れを嫌がっていたのであるが、この双六で江戸へ立つのである。旧東海道を特に箱根峠越えをしてみると、いかに東国が鄙びたところとして想像されていたかがわかる。

重の井は、三吉の父・与作とは、ご法度の中での結びつきであり、死罪のところを、主人に助けられたのであるから、三吉を息子と認めるわけにはいかないのである。ここで、別れたらもう会う事もないであろう子別れとなるのである。

<沓掛村の段>は、住大夫さんの父・先代住大夫さんも引退公演の時語られている。住大夫さんは、この段は、『恋女房染分手綱』を通しでやると伏線の場面であるが、伏線の場を面白く、丁寧に描かなければ、クライマックスが盛り上がらなといわれている。その通りである。<沓掛村の段>でしっかり人間関係の機微を心に留めたので、いつか<道中双六>と<重の井子別>の段に出会った時、住大夫さんの<沓掛村>を思い起こすことであろう。