歌舞伎映画 『野田版 鼠小僧』

『野田版 鼠小僧』(作・演出・野田秀樹)は、構成もしっかりしていているが、実際に観たときは、勘三郎さんの素が見えすぎて、こちらとしてはしっくりした気分になれなかった。その記憶がありながらなぜ映像を観たかというと、映画としては、編集で役者・勘三郎さんを映すであろうし、三津五郎さんとの対決の場面をもう一度観たくなったのである。 予想していたように、役者・勘三郎さんで、棺桶屋の三太の勘三郎さんであった。笑って泣いて、カーテンコールの映像をバックに流れるエンディングロールを眺めつつ、しみじみと、勘三郎さんと三津五郎さんを偲んだのである。

ところが、自分では大丈夫と思って居たのに、一日、二日と過ぎると、お二人の喪失感に落ちいってしまった。まずい状態である。この状況から脱出するには、荒治療で、映画『野田版 鼠小僧』について書くしかない。

勘三郎さんは、これだけの段取りをどうやって頭にいれ、膨大な台詞を言いつつ身体を軽快に動かすのかと、改めて見入ってしまった。どういう内容だったのかと問われても、答えられない状態であったが、映画を観つつ、どんどん思い出していく。観た舞台を自分が撮っているように、絵ときされていく。舞台では一歩遅れる笑いも、映画では同時に笑えてしまう。

しかし、よく動く。動いていても、鍛えられた太腿はピタッとくっついているので、ピッと立ち姿などは決まる。

棺桶屋の三太はお金のことしか頭にない。前半は三太の兄が死んで、その遺言状ですったもんだが起こる。兄嫁の扇雀さん、その娘の七之助さん、番頭の彌十郎さん。後半はひょんなことから、三太は鼠小僧となり、大岡越前守と対決することになる。

三津五郎さんの大岡は、後家の鑑の福助さんのところに通い、後家の鑑には間男・與吉の橋之助さんがいる。この與吉は皆から善人と思われている。與吉には三太という息子がいるが、三太など知らないと三太の存在さえ認めない。

棺桶屋の三太は、自分と同じ名前の三太の存在をも否定され、大岡との裏取引を反古にして大岡達の悪を暴くが、悲しいかな、三太より大岡のほうの悪知恵が上であった。

クリスマスには、空から小判が降ってくるという祖父の坂東吉弥さんの言葉を信じて手のひらを上に向けて待つ子供の三太。その三太に屋根の上から鼠小僧となった三太が「屋根の上から、誰かがいつも見ているからな。」と声をかけるが、子供の三太には聞こえない。雪が舞いおり、その雪がキラキラと輝いている。

勘三郎さんの台詞が、舞台を観たときよりも、沁みてしまう。そして、大岡の三津五郎さんの弁舌爽やかな論理の展開に、羽交い絞めにされてしまう勘三郎さん。このお二人の丁々発止がもう舞台で観られないということも、沁みてくる。

鼠小僧を追っかける目明しの勘九郎さん。棺桶屋の三太の死んだ兄の幽霊の獅童さん。大岡の妻の孝太郎さん。娘役の新吾さん。その他、いつもは名前の出て来ない方の名前も表示される。ただ悲しいかな、勘三郎さん、三津五郎さんの他にも故人となられた役者さんもおられる。中村屋を支えられた小山三さんも、勘三郎さんのもとへ旅立たれた(合掌)。

屋根の上から、見ているであろうが、悔しがってもおられるであろう。今更ながらそんなこんなの感情が渦を巻く。恐らく、これからも様々な感情がふーっと襲って来るのであろう。

少々厄介な心もちにされてしまったが、映画は細かな部分も再認識でき見ておいてよかったと思う。