歌舞伎座 四代目中村鴈治郎襲名披露(2)

昼の部上方歌舞伎らしく近松物の『碁盤太平記』『廓文章』がある。夜の部の『河庄』を含む三作品は<元辞楼十二曲〉に入っているらしい。

このほかの<元辞楼十二曲>には、『時雨の炬燵』『封印切』『あかね染』『恋の湖』『土屋主税』『椀久末松山』『藤十郎の恋』『引窓』『敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)』がある。観ていない作品が半分ほどあるので、是非上演して戴きたい。

『碁盤太平記』も四十年ぶりの上演。この作品は、『仮名手本忠臣蔵』の<山科閑居>にも影響を与えたそうで、興味深い。

山科での大石内蔵助は、放蕩にふけり敵討ちなどするような気持ちなどないというところを見せる場面である。実際に大石の情報操作が、敵討ちを成功させた一因でもあり、そこを芝居として組立てる近松門左衛門さんの腕でもある。当然ここでの大石は辛抱役となる。大石を取り巻く家族、使用人等の思惑が入り乱れ、その中心点に《碁盤》を据えている。近松さんは、磁場の中心点に何かを持ってくる傾向があるように思う。『河庄』であれば、《手紙》。『廓文章(くるわぶんしょう)』であれば、《炬燵》。それが、役者の動き、心理を面白いものにさせる。

大石内蔵助の立役の扇雀さんも見どころである。『野田版 鼠小僧』の「キリキリキリ」の後家の兄嫁役、『恐怖時代』のお銀の方とは全く発想を変えなければならない役であるが、自然に観ることができ、大石の心ゆるさぬ警戒心のさまも味わうことができた。上野介の間者である染五郎さんとそれを見破る壱太郎さん。大石を諌めつつも、そっと大石の本心を探る母の東蔵さん、妻の考太郎さんとそろい、作品の面白さを楽しませてもらった。寿治郎さんも好演で、亀鶴さんの花道での眼がいい。

『六歌仙溶彩(ろっかせんすがたのいろどり)』は、紀貫之が六歌人を六歌仙と名指しした小野小町(魁春)を軸に僧正遍照(左團次)、文屋康秀(仁左衛門)、在原業平(梅玉)、喜撰法師(菊五郎)、大伴黒主(吉右衛門)がそれぞれの役どころを押さえての舞踊である。それが皆さんニンに合っていて、これだけの<六歌仙>はちょっと無いかもしれない。<喜撰>のお梶の芝雀さんが、すっきりとされた印象で、鷹揚な愛嬌の菊五郎さんと合っている。小町の魁春さんも、遍照、業平、黒主それぞれ雰囲気に合わせたられる。失態の遍照、可笑しみの色好み康秀、気品の業平、大きさをみせる黒主と、艶やかな舞台となった。<喜撰>の所化も豪華。(團蔵、萬次郎、権十郎、松江、歌昇、竹松、廣太郎)

『廓文章』は、夕霧が、藤十郎さんで、伊左衛門が鴈治郎さんである。鴈治郎さんが、藤十郎さんの貫禄に押され気味である。伊左衛門は、江戸では考えられない、ぼんぼんの若旦那である。そして、ここが上方独特の色男である。観ていると何んと我儘でしょうもない男なのかと思わせる若旦那である。それでいながら、どこか憎めないという若旦那で、勘当されているのに、最後は勘当が解けて夕霧を身請けするという、そんなことありなのと思わせる内容である。夕霧しか眼中になく、夕霧をどうしたら自分に目を向けさせておけるかと、端から見ると、可愛い若旦那でもある。そこを、もっとど~んと、上方芸で観せて欲しかった。もっと、藤十郎さんの夕霧にぶつかって欲しいと思った。『河庄』の治兵衛のたっぷりの味を、伊左衛門にも加えて戴きたい。劇中で喜左衛門の幸四郎さんが、新鴈治郎さんの紹介をされる。又五郎さん、歌六さん、秀太郎さんが、手堅く脇をかためられる。

『河庄』の丁稚の虎之介さんがいい。上方の丁稚というものが、実際にはわからないが、こうであったであろうと思い込んでしまう、はんなりとしてしっかり者の丁稚であった。

これを機に、上方の歌舞伎というものの面白さを、加え伝えていって欲しいものである。

 

 

 

歌舞伎映画 『野田版 鼠小僧』

『野田版 鼠小僧』(作・演出・野田秀樹)は、構成もしっかりしていているが、実際に観たときは、勘三郎さんの素が見えすぎて、こちらとしてはしっくりした気分になれなかった。その記憶がありながらなぜ映像を観たかというと、映画としては、編集で役者・勘三郎さんを映すであろうし、三津五郎さんとの対決の場面をもう一度観たくなったのである。 予想していたように、役者・勘三郎さんで、棺桶屋の三太の勘三郎さんであった。笑って泣いて、カーテンコールの映像をバックに流れるエンディングロールを眺めつつ、しみじみと、勘三郎さんと三津五郎さんを偲んだのである。

ところが、自分では大丈夫と思って居たのに、一日、二日と過ぎると、お二人の喪失感に落ちいってしまった。まずい状態である。この状況から脱出するには、荒治療で、映画『野田版 鼠小僧』について書くしかない。

勘三郎さんは、これだけの段取りをどうやって頭にいれ、膨大な台詞を言いつつ身体を軽快に動かすのかと、改めて見入ってしまった。どういう内容だったのかと問われても、答えられない状態であったが、映画を観つつ、どんどん思い出していく。観た舞台を自分が撮っているように、絵ときされていく。舞台では一歩遅れる笑いも、映画では同時に笑えてしまう。

しかし、よく動く。動いていても、鍛えられた太腿はピタッとくっついているので、ピッと立ち姿などは決まる。

棺桶屋の三太はお金のことしか頭にない。前半は三太の兄が死んで、その遺言状ですったもんだが起こる。兄嫁の扇雀さん、その娘の七之助さん、番頭の彌十郎さん。後半はひょんなことから、三太は鼠小僧となり、大岡越前守と対決することになる。

三津五郎さんの大岡は、後家の鑑の福助さんのところに通い、後家の鑑には間男・與吉の橋之助さんがいる。この與吉は皆から善人と思われている。與吉には三太という息子がいるが、三太など知らないと三太の存在さえ認めない。

棺桶屋の三太は、自分と同じ名前の三太の存在をも否定され、大岡との裏取引を反古にして大岡達の悪を暴くが、悲しいかな、三太より大岡のほうの悪知恵が上であった。

クリスマスには、空から小判が降ってくるという祖父の坂東吉弥さんの言葉を信じて手のひらを上に向けて待つ子供の三太。その三太に屋根の上から鼠小僧となった三太が「屋根の上から、誰かがいつも見ているからな。」と声をかけるが、子供の三太には聞こえない。雪が舞いおり、その雪がキラキラと輝いている。

勘三郎さんの台詞が、舞台を観たときよりも、沁みてしまう。そして、大岡の三津五郎さんの弁舌爽やかな論理の展開に、羽交い絞めにされてしまう勘三郎さん。このお二人の丁々発止がもう舞台で観られないということも、沁みてくる。

鼠小僧を追っかける目明しの勘九郎さん。棺桶屋の三太の死んだ兄の幽霊の獅童さん。大岡の妻の孝太郎さん。娘役の新吾さん。その他、いつもは名前の出て来ない方の名前も表示される。ただ悲しいかな、勘三郎さん、三津五郎さんの他にも故人となられた役者さんもおられる。中村屋を支えられた小山三さんも、勘三郎さんのもとへ旅立たれた(合掌)。

屋根の上から、見ているであろうが、悔しがってもおられるであろう。今更ながらそんなこんなの感情が渦を巻く。恐らく、これからも様々な感情がふーっと襲って来るのであろう。

少々厄介な心もちにされてしまったが、映画は細かな部分も再認識でき見ておいてよかったと思う。

歌舞伎座 四代目中村鴈治郎襲名披露(1)

中村翫雀さんが四代目中村鴈治郎さんとなられた。二代目鴈治郎さんは、沢山の映画に出られていて、今でも観ることができる。鴈治郎さんならではの役作りをされるので、鴈治郎さんが出られていると知ると映像でもその出から注目してしまう。 四代目鴈治郎さんは、屋号も「成駒屋」から「成駒家」に変えられた。夜の部の襲名披露口上は、今まで観た事の無い流れである。

成駒家歌舞伎賑(なりこまやかぶきのにぎわい』という演題で、木挽町(こびきちょう)の芝居町に、道頓堀の座元・仁左衛門さんに案内されて鴈治郎さんが現れる。道頓堀の座元が、役者・鴈治郎さんを木挽町の座元・菊五郎さん、太夫元・吉右衛門さん、芝居茶屋亭主・梅玉さんとの顔合わせのお世話をするのである。 花道が二本作られ、両花道には、男伊達と女伊達の役者さんが揃い、それぞれの名の短いが粋なつらねとなる。男伊達が、左團次さん、歌六さん、又五郎さん、錦之助さん、染五郎さん、松江さん、権十郎さん、團蔵さん、彦三郎さん。女伊達が、魁春さん、東蔵さん、芝雀さん、孝太郎さん、亀鶴さん、高麗蔵さん、萬次郎さん、友右衛門さん。 江戸奉行として幸四郎さんが、お祝いに駆け付け、我當さん、秀太郎さん、進之介さん、寿次郎さんと、本当に賑やかな木挽町芝居小屋前である。

そして、芝居小屋の中で口上をご披露ということで、四代目鴈治郎さん、扇雀さん、壱太郎さん、虎之介さん、藤十郎さんの芝居小屋前とは雰囲気を変え、厳かな襲名口上となるのである。 江戸歌舞伎、上方歌舞伎の二本柱という印象的な襲名披露の一場面となった。これだけの役者さんが、同じ舞台で拝見できるとは想像していなかったので、嬉しい趣向を凝らされた口上までの流れであった。

時代物で、幸四郎さんの梶原の『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』に始まり、口上となり、『河庄』へと続く。

これは『心中天網島』の一場面で、紙屋治兵衛と心中の約束までしていながら、治兵衛の奥さんの手紙から、治兵衛に愛想尽しをする遊女小春(芝雀)。信じていたのにと怒り心頭の紙屋治兵衛は、兄(梅玉)に諭されて小春への想いを断ち切る場面である。上方特有の治兵衛の怨みつらみがあり、その繰り返しを飽きさせずにみせるのが、治兵衛の役どころである。治兵衛の鴈治郎さんは、その怒りの様相を笑いをおこさせつつ、事情を知らないのであるから尤もであると納得させるが、そこで幕となるので、観ている方は事情が解ればなあと、気分が晴れない。

その気分をスカッとさせてくれるのが、染五郎さん、壱太郎さん、虎之介さんの三獅子の『石橋』である。江戸、上方と味わったあとで、両花道を生かした若さいっぱいの踏み、毛振りである。 すっきり艶やかな気分で、襲名のお祝いに相応しい心もちでの終演であった。

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

<伊賀越資料館>に向かうが、途中に、木と瓦屋根の忍者の町ならではの西小学校がある。そして、明治時代の白いモダンな校舎の残る上野高校校門前には、作家の横光利一さんの「 横光利一 若き日の五年をこの校に学ぶ 」の碑があった。

 

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さらに、かつての藩の子弟の学校であろうか、<旧崇廣堂>なるものもあったが、<伊賀超資料館>へ急ぐ。この資料館の前の道に 「みぎいせみち/ひだりならへ」の道しるべがあり、伊勢と奈良を結ぶ道で、かつては人通りの多い道であり、この<鍵屋の辻>で敵討ちがあったということは、多くのひとの口の端にのぼり、三大敵討ちの一つに数えられたのがわかる。しかし、私も歌舞伎で観ていなければ、観光としては行かなかったかもしれない。

 

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資料館には、当時の街道の模型や、敵討ちの錦絵などもある。また、敵の河合又五郎の首を洗ったと言われる小さな池には、今は<河合又五郎首洗供養地蔵池>とあり、小さなお地蔵さんが祀られている。

 

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現藤十郎さんが鴈治郎さんの時の『伊賀越道中双六』上演の際ここを訪れられ、首洗い地蔵池で成功祈願をされていて、我當さん、秀太郎さんとの写真とサイン色紙が残されていた。文楽のほうも、二代目吉田玉男さん桐竹勘十郎さん、吉田和生さんも人形共々祈願に来られている写真があった。

 

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歌舞伎の舞台写真などで、敵討ちの背景に異常に高い石垣の上野城が描かれているが、実際の上野城を強調していたわけである。(当時は実際にここに石垣があったようです。)

数馬の茶屋で一服したかったが、先を急ぎ、上野駅方面へもどり、そこから東に向かい<芭蕉翁生家>へ。<芭蕉翁記念館>に、芭蕉が自ら作ったという献立表があったが、生家の方には、こうであったであろうというレプリカがあった。きちんとした献立なので驚いたのであるが、係りのかたの話によると、芭蕉は、若いころ侍屋敷で料理人として修業したことがあるのだそうで、生家裏に今は跡碑のみであるが、<無名庵>を弟子たちが作ってくれたお礼に自らの手で料理しご馳走したとのこと。これもまた、知らなかった芭蕉さんの一面である。

 

<芭蕉翁生家>内の裏にある釣月軒と無名庵跡

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記念館と生家の係りのかたに、「芭蕉さんは、忍者だったと思いますか」と尋ねたら、お二人とも、忍者ではなかったと答えられた。

私も忍者ではなかったと思う。ただし、忍者のいた地域で生まれ育っているなら、忍者という仕事がどういうものであるかということは解っていたであろう。代表的な「古池や蛙飛びこむ水の音」のように、音を俳句に入れてしまうという感性は、忍者の伊賀出身の人ならではのような気がする。そして、旅に明け暮れたのも、俳諧という技をもった人が、どこかで同郷への人々に寄り添っていたような気がするのである。井上ひさしさんはどんな芭蕉さんを書かれたのか、『芭蕉通夜舟』が読みたくなった。三津五郎さんが再演される予定であり、それを聞いたとき、思い入れが強いのであろうと楽しみにしていたが、今となっては叶わない。生家の係りの方が、上野駅から南側のお城とは反対側の街並みも是非歩いて欲しいのですと言われて地図に赤線を引いてくれたが、残念ながら全部は回れず、<上野天神宮>と寺町だけを通過して駅にもどった。

<上野天神宮>は、菅原道真公が主神である。松尾芭蕉が処女句集「貝おほひ」を奉納したといわれている。大きなお社であった。

 

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五つ庵があったうち一つだけ残っている<蓑虫庵>などは行けなかった。生家裏の<無名庵>が、義仲寺にある<無名庵>と同じ名というのも面白い。係りのかたが、名なぞなくて無いでよいということか、巴御前と関係があるのか、そこは解りませんとのことで、うなずける。旅の日程にも嘘があるし、俳聖芭蕉よりどこ吹く風というところがある芭蕉さんなのが良い。忍者が忍ぶ人であるだけに、芭蕉さんは、縛られない生き方、作風を模索されたような気がする伊賀の旅であった。

伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-1)

道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野 で、加茂からの岩船寺~浄瑠璃寺への道程を見つけて、まずいと書いたが、その二日後には歩いていた。そうなるであろうと、まずいと思ったのであるが、旅は良好であった。その旅は置いておいて伊賀である。

そもそも<忍者>に引きずられたのは、 熊野古道の話題増殖 『RDG レッドデータガール』からである。次に来たのが、作者は植物について書きたかったと思われる忍者の小説があるという誘いで、借りてしまった『忍びの森』(武内涼著)。自分では選ばない本である。妖術はきらいなのであるが、妖怪、妖術が出てくる。確かに、植物が出てくる。忍者の存在する時代は、全て自然を利用しての生活である。手裏剣も、原料は自分たちで見つけ出し、忍者の集合体によってその使い勝手で制作して工夫したであろう。薬も保存食料も、その保存方法も考えだしていったのである。そういう点を踏まえると、植物にこだわるというのは納得できるが、こちらがその知識がないから読むのに苦労した。

先ずは、そもそも忍者とか、その歴史が解っていない。伊賀は、信長の伊賀攻めによって大打撃を被ったという事も知らなかった。小説の展開も、仲間なのか敵なのか、どんな妖術を使うのか、どいう戦いとなるのか、誰がやられてしまうのか、頭の中はフル回転である。仏教や仏像の解釈も出てくる。人としての情も出てくる。そいう意味では、頭の中の使わない部分を動かされた感じで面白くはあった。

そんなこんなから、今回の旅の最終は伊賀上野の上野市を訪れることとなったわけである。観光を調べたら、何んと<伊賀越資料館>というのが出て来た。昨年12月に観た国立劇場『伊賀越道中双六』のラストの現場である。「伊賀上野の仇討ち」であるから当然であるが、鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち受け仇を討ったのである。<鍵屋の辻>にこの<伊賀越資料館>がある。茶屋萬屋の代わりに今は<数馬の茶屋>となっている。全然頭になかった。上野市駅から歩いて20分である。

さてどう回るか。開館時間を考慮して、上野城は中に入らず外からその姿を楽しみ、日本一とも言われる石垣の高さを上から下へと見下ろし、横からも眺める。確かに凄い。お城も美しい。

 

上野城

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そこから、芭蕉を讃える<俳聖殿>へ進み、外から眺める。檜皮葺の茸のような屋根は笠を表し、建物自体を芭蕉の姿に見立てて作られている。

その後、一番開館時間の早い<芭蕉翁記念館>へと移動。旅行地のどこへいっても芭蕉の歌碑があり、食傷気味であったが、「企画展 俳諧と絵画ー見て愉しむ俳句の世界ー」を見、係りのかたとお話ししたら、違う面の芭蕉が見えてくる。芭蕉は弟子の許六に絵を習ったとある。弟子に絵を習ったというところが気に入る。俳聖と言われているのに、身体を風が通っていく感じいい。死んだら自分の亡骸は義仲寺にと遺言を残し義仲の隣に眠っている。義仲寺に行ったときから疑問であった。木曽義仲のことが好きだったのであろうか。係りのかたは、木曽義仲なのか、義仲寺の周囲の自然だったのか、両方だったのか、解かりませんと。そう、芭蕉さんには二面性というか、こうであるという規制できないところがある。今回はそこが気に入った。

<忍者博物館>。忍者がどうやって城内に忍び込むかとか、道具などをどう使うかなどがわかる。基本的に情報を収集するのが仕事である。忍者は普段は、農民として働いていて仕事の依頼があれば忍者として働くのである。『忍者の教科書』というのがあったので購入してきた。伊賀・甲賀に伝わる忍術書『萬川集海(まんせんしゅうかい)』なるものを、解かりやすく伝えてくれている。一回読んだだけでは、無理だが、疑問に思ったとき読み返せば手助けしてくれそうである。司馬遼太郎さんの短編小説『芦雪を殺す』は、短編集『最後の伊賀忍者』の中に入っていて、司馬さんの忍者物に触れるきっかけともなった。

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上忍と下忍があるのは知っていたが、司馬さんは、上忍は下忍を仕事先に派遣する派遣業とし、下忍が、過酷な修業によって身につけた技であるにも関わらず、報われない仕事と客観視されている。現代に通ずる組織論と、忍者の技の見せ所の二律背反が面白い。

こういう剣術であったというのとは違い、その技は、風の如く伝えられている。表には出ない忍者らしいところであり、想像過多で創作できるのも忍者物ならではである。こうなると、山田風太郎さんも読まねばならないか。友人に、「風太郎さんまだ読んで無いの?」と軽く聞かれた。読んでません。忍者なんてと思っていたのであるから。忍者を<草の者>という言い方があるが、この呼び方のほうが、儚さを感じさせる。しかし、過酷な仕事である。

 

2015年4月6日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)