加藤健一事務所 『滝沢家の内乱』

『滝沢家の内乱』は再演である。2011年に加藤健一さんが劇団で100本目のプロデュース作品として選んだ作品である。『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴家の内幕である。

劇作家の吉永仁郎さんが、馬琴さんの残っている日記を探り、文字の演劇の馬琴像を作り上げた。あの『南総里見八犬伝』を書いた戯作者がどんな生活をしていたのか興味があるが、自分で日記を読んで馬琴像を作り上げる努力をする気がないので、吉永仁郎さんとカトケンワールドに任せることとする。

これが、面白かった。よく<面白かった>という言葉を使うと自分で自覚しているが、先ずは何かを食して「美味しかった。ご馳走様でした。」の感覚である。それから、味わいがあれば、何か言葉が生まれて来るであろう。

登場人物は、馬琴と、息子の嫁のお路である。初演も再演も、馬琴は加藤健一さんで、お路は加藤忍さんである。滝沢家の家族構成は、馬琴、妻のお百、息子の宗伯、嫁のお路、その後孫が二人と増える。お百は、高畑淳子さんが、宗伯は風間杜夫さんが声だけでの出演である。基本的に二人芝居であるが、声の出演の応援もあって、『滝沢家の内乱』がよくわかる。お百は神経の病気で宗伯も身体が弱く明るさの微塵もない家庭である。さらに暮らしは慎ましく、観ていると逃げ出したくなる状態である。

お路は二人の子を産み、筆記など出来ないほど目の不自由な馬琴に代わって口述筆記の代筆をして、『南総里見八犬伝』を完結させるのである。それが、7か月半の間で、漢字の書けないお路は漢字を馬琴から習いつつ書き上げるのである。初演のパンフレットに、代筆を始めたころの文字と八犬伝脱稿の文字の写真が載っていたが、信じられないほど美しい文字となっている。

再演のほうが、笑いが多くなった。なぜか。馬琴とお路の生き方のすれ違いである。それが顕著になり可笑しさを誘うのである。お路は、家族皆で話しを楽しむ家庭で育ち、『南総里見八犬伝』の作家の家に嫁にこれて、楽しい話しが沢山あるであろうと思ったのに、想像外のしつけに厳しく、倹約、節約の家である。お路の驚きと落胆、馬琴のお路に対する驚きと教育が、他人ごとなので可笑しい。お路の加藤忍さんが、どうすりゃいいのよこの私、バージョンである。

それに輪をかけて、声の出演だと思って勝手なこと言わないでよの高畑さんと風間さん。馬琴の加藤健一さんは屋根の上でしばし、現実を忘れるしかないのである。

お路さん次第に馬琴さんが、一人で滝沢家を守っていることが分って来る。世間で本が人気でも、その頃の戯作者の手にするお金は、今の流行作家の足元にも及ばない。さらに、滝沢家の内乱は、馬琴さんが戯作を書きたいう願望と息子を自分の思う方向に育てたいとの願望から生じた亀裂なのであるが、それは口にせず、お路さんは自分の役目を自覚する。そして、一度だけ、渡辺崋山が幕府からお咎めを受けた時、自分の気持ちを主張する。魅力的な女性である。馬琴さんが、ちょっと夢をみるのもわかる。

最期のお路さんの活躍は『南総里見八犬伝』の代筆である。お路さんが、滝沢家で我慢出来たのは、お路さんが『南総里見八犬伝』の読者であり、現実から逃避できたのは、『南総里見八犬伝』があったからで、漢字を知らないお路さんが代筆ができたのは、登場人物らがお路さんの中に生きていて、その名前などが漢字となる事に、お路さんは喜びを感じていたのであろう。ふりがなで読んでいたものが、自分で漢字を書くことが出来、登場人物との関係に新たな光がさし、読者として一番に八犬伝の先がわかるのである。これこそ、『南総里見八犬伝』の戯作者の家に嫁に来た時の自分の気持ちになれるのである。

演出の髙瀨久男さんがお亡くなりになられ、加藤健一さんが今回演出をされたようであるが、髙瀨さんの演出されたものに、二人の役者さんのさらなる演技が加味され、滝沢家の内乱は、より明確に個々を確立してくれた。偏屈であったと言われる馬琴さんも<馬琴の事情>として加藤健一さんの馬琴はよく判ったし、加藤忍さんのお路も大戯作者馬琴に負けないだけの生き方を示してくれた。『滝沢家の内乱』も<忠・孝・悌・仁・義・礼・智・信>をもって納まったわけである。

下北沢・本多劇場 8月26日~30日

滝沢馬琴さんは、江戸時代で亡くなられている。今、河竹黙阿弥さんと三遊亭圓朝さんが、江戸から明治を超えて生きたことに興味がある。

そして、やっと山田風太郎さんの『忍法八犬伝』に入れる。『滝沢家の内乱』を観てからと思っていた。山田風太郎さんのことである、滝沢馬琴さんもびっくりの世界であろう。

 

 

『春琴抄』

NHKBSプレミアムの『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』で、作家の島田雅彦さんが、佐助が眼に縫い針を刺す箇所の文章に言及されていた。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔らかい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程度這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのがわかった出血も発熱もなかった痛みも殆ど感じなかった此れは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起こしたものと察せられる

 

島田雅彦さんは、金目鯛の目で試されたそうで、谷崎さんも試したのではと言われていた。そのことで面白い文を見つけた。

佐藤春夫さんは『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』という文章の中で『春琴抄』を作品として高く評価している。そして、徳田秋声さんのこの佐助の失明の部分が不用意で痛くない訳がないとの意見に対し、佐藤春夫さんは専門家の意見を聞き、医学的には間違っていないらしいとしている。

さらに佐藤春夫さんは、谷崎潤一郎さん本人に尋ねている。「谷崎は自信に充ちた顔つきで、僕は専門家をそれも二人まで意見を微して安心して書いているのだからね」と書いている。

これらは失明の描写の問題であるが、作品の中での佐助の失明について、佐藤春夫さんは失明以後を好むとし、かれの小説は佐助の失明によって始まるとし「春琴抄」は寧ろ「佐助抄」であろうとしている。

佐藤春夫さんはさらに谷崎潤一郎さんに意見を言う。「作中の春琴の小鳥道楽の部分は甚だ手薄で間に合せな素人くさいものに見えたと言ってみると、すぐ兜を脱いで、あれはあんなに詳しく書かないですませて置けばよかったのに、とあっけなく承認してしまった。」谷崎さんは佐藤さんの自分の作品に対する意見を素直に認めているところに、佐藤さんと谷崎さんの関係が垣間見えて面白い。

谷崎夫人だった千代子さんが谷崎さんと離婚して佐藤さんと結婚したのが昭和5年(1930年)、谷崎さんが丁未子(とみこ)さんと再婚したのが、昭和6年(1931年)、『春琴抄』が発表されたのが昭和8年(1933年)、谷崎さんが丁未子さんと離婚して後の松子夫人と同棲したのが昭和9年(1943年)である。

佐藤春夫さんの『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』が書かれたのが昭和9年(1943年)であるから、佐藤さんと谷崎さんの関係は良好で、佐藤さんにが谷崎文学を好意的に論じるだけのゆとりがあり、谷崎さんも佐藤さんからの意見を素直に受け入れる創作上の環境が出来たということである。

松子さんに対する谷崎さんの手紙は『春琴抄』の佐助である。佐藤さんが『春琴抄』は「佐助抄」であると言われた意見に賛成である。失明することによって佐助は、自分の中に永遠の<春琴>を完成させる。肉体関係にありながら最後まで師と弟子という関係を保つ。それは、失明しても<春琴>は永遠であり、失明することによってさらに研ぎ澄まされた<春琴>から学んだ<音>は常に自分の手の中にあり、再現できるのである。

佐助は春琴が亡くなってから21年後の同じ日に亡くなっている。この21年間のために<春琴>は存在してたともいえる。<春琴>も自分が亡き後、<佐助>のなかで生きる自分の存在を、佐助が失明した時悟ったのであろう。佐助が失明したのを春琴が知った箇所が次の文である。

佐助、それはほんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生まれてから後にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかつた

 

その後に例えとして、失明した悪七兵衛景清のことを書き足している。

佐助は、春琴に滅私奉公するが、きちんと検校となるだけの技量も会得している。現実離れしているが、きちんと土台も出来ていて、滅私奉公も耽美に描かれ、この辺りは谷崎さんの狡猾に構築された構成力と物語性である。

佐藤さんは、『春琴抄』に対する泉鏡花さんの受け取り方も書かれている。

「鏡花先生はめくらの女の琴の話の出るのは朝顔日記以来閉口(何でも少年時代にでもへたな村芝居か何かでいやな印象を得てしまったらしいので)で、好きな作者のもので少しでもいやな気がするのは不本意で読了せぬと理由は先生らしい特別なもので」「好きな作者のものでいやな気がしたくないというのは尤も千万な心理と僕にもうなずける。」

『春琴抄』から、作家達の感想、谷崎作品の分析、谷崎さんとの直接の会話など、作家佐藤春夫さんならではの文であった。この佐藤さんの文があるから、折り畳まれた『春琴抄』を開いてみたが、不用意な開きかたでありながら、手を離せば何もせずとも元の『春琴抄』にもどる力がある作品なので、安心して遊ばせて貰った。

 

 

旧東海道・吉原宿

JR東海道本線の吉原駅から始める。このすぐそばから岳南電車の吉原駅が始まる。

JR吉原駅手前に元あった吉原宿でかつて津波の被害があり中吉原宿へ。さらに新吉原宿へと移転している。新吉原宿は岳南電車の吉原本町駅あたりである。

先ずはそこまで目指すこととする。吉原は工場地帯で先に歩いた仲間は左富士は見えなかったと言っていた。

酒屋の看板に < ちょっと一息 左富士 > とある。

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左富士神社のあたりが中吉原宿であった。

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名勝・左富士の案内板

東から西に進とき今まで右手に見えていた富士が左手にみえることから名勝となった。安藤広重の道中日記 < 原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一丁ばかりの間の松の並木を透かして見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。>今は工場や住宅で当時の風情はないが一本だけ老松が残っていて貴重であると。

えっ! 広重の道中日記があるんですか。読んでみたい。

残念ながら左富士も富士山そのものも見えなかった。

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名勝・左富士の碑

左脇の広重の絵の説明が詳しい。

右方に見える黒い山は愛鷹山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)その上にふとんを敷いて旅人を載せる。この方法はのりじりといい賃料がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付けそれに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。

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平家越えの碑

この場所であったのかと驚き。

治承四年(1180)十月二十日。富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙した。その夜半、源氏の軍勢が動くと近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み、戦い交えずして西へ逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのはこの辺りといわれ「平家越」と呼ばれている。

この頃、八幡神社で頼朝と義経が石に座し対面しているのである。

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平家越えの橋

この下を流れているのは和田川

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平家越の石碑

これはかなり古いですね。横に東海道の道標

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東木戸跡

いよいよ新吉原宿である。

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身代わり地蔵さん

昔、寺町(今の東本通り付近)に悪性の眼病がはやった時、町の人々がこのお地蔵さんに願をかけると、たちまち潮が引くように治った。その時お地蔵さんにはいっぱい目やにがついていたので「身代わり地蔵」というようになった。その後もはしか、おでき等身体の弱い子に霊験あらたかと信仰を集めていた。

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商店街を歩くが本陣など吉原宿の印は何も見つけられなかった。

清水次郎長と山岡鉄舟が泊まったという宿「鯛屋」がありました。今も営業されているようです。

間宿・本市場案内板

本市場の名物は、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなど。

広重の絵には旅人が「名物 山川志ろ酒」の茶店で休んでいる。浮世絵には「吉原」と。広重は旧東海道の浮世絵を20種類くらい出している。右の本市場の地図には旅館が並んでいるが芝居小屋もある。川止めのときはかなりにぎわったのであろうか。

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鶴芝の石碑

かつてこの辺りに「鶴の茶屋」があった。ここから見える冬の富士山は中腹に鶴が一羽舞っているようにみえたという。

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一里塚石碑

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猿田彦大神石碑

きちんとお水と果物が供えられている。

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札の辻跡案内

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道標と常夜灯

JR身延線の柚子の木駅近くの線路を渡った先。JR東海道本線富士駅から山梨県甲府に行きつく身延線が出ている。

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水神の森と富士川渡船場の説明版

富士川は船で渡った。家康の交通政策によるものである。渡船は岩淵村と岩本村との間でおこなわれた。東側の渡船場は上船居、中船居、下船居の三か所あり、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいた。水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀った。

用いた船には定船に定渡船、高瀬舟、助役船があった。定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ船頭が五人ついた。

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松岡水神社

境内に富士山道の道標富士川渡船場跡碑がある。

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富士川

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富士川を渡ると間宿・岩淵渡船場跡

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秋葉山常夜灯

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岩淵一里塚

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【 寄り道 】

広重殺人事件』(高橋克彦著)という推理小説を読みました。軽い気持ちで読み始めたがハマってしまった。特に甲府の「酒折の宮」が出てきて驚きました。

甲斐の善光寺に行ったとき、近くに何か観る所はないかと調べたら「酒折の宮」が歩いて行けることを知り訪ねたのです。ご祭神が日本武尊ということで興味をひいたのは連歌発祥の地ということでそうなのか程度でした。

身延線の善光寺駅から甲斐善光寺へ。そこから酒折の宮へ行き、帰りは中央線の酒折駅から。

甲斐善光寺

長野の善光寺以外にあるのを知りました。それでは行かなくてはと。

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酒折の宮」の万葉仮名で彫られた連歌の碑

日本武尊と御火焼の翁(おひたきのおきな)の歌

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連歌発祥の由来

ここ酒折の宮は古代、日本武尊が東国の蝦夷を征伐しての帰途立ち寄った伝承の地として有名。

尊が、酒折の宮に着いた時「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝たであろうか)と歌で問われた。その時、そばにいた御火焼の翁が受け「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」。尊はこれをたいそうお誉めになり東の国造(あずまのくにつくり)の位をさずけたということです。

この話は「古事記」や「日本書紀」に書かれていて後に連歌の発祥の地として全国に知られるようになった。

 

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酒折宮古天神の説明

江戸時代から多くの学者、文人の参詣が絶えなかったと。

本居宣長と山縣大弐の名があります。

山縣大弐という人物が全然わかりません。ところが『広重殺人事件』では重要な人物で「明和事件」と関係していました。この事件も小説で初めて知りました。というわけで俄然、酒折の宮が身近となりました。行っておいてよかったと。

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本居宣長の「酒折宮壽詞」

隣に山縣大弐の「酒折祠碑」があったのですが本居宣長の碑も難しいので写真を撮らずです。

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酒折の宮の御祭神は日本武尊で御神体に火打嚢(ひうちぶくろ)があります。あの伊勢神宮で叔母の倭姫命より賜った草薙の剣と火打嚢のそれです。

不老圓塚古墳

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酒折の宮の写真はありません。甲斐善光寺のあとなので由緒のわりには地味だなあとの感想でした。観光気分が強く。でも勤皇思想の人々にとっては重要な宮だったようです。

それと旧東海道の富士川の岩淵の渡しは甲州までの舟運がありました。家康が年貢米などの物流のため京都の豪商・角倉了以(かどくらりょうい)に命じ開削工事をさせていました。横だけではなく縦にも船は通っていました。

その後、東海道線、中央線、身延線の開通で物流も鉄道でとなり舟運は終わりました。

広重も浮世絵もどんどんつながって広がってさらに近くなっていく。

歌舞伎座 八月 『京人形』『芋掘長者』『祇園恋づくし』

『京人形』はかつて観たとき、面白い作品とは思えなかったが、今回は面白かった。その第一の要因は、七之助さんの人形である。左甚五郎(勘九郎)が廓で見た太夫が忘れられず自分で太夫の人形を彫ってしまうのである。そして出来上がった人形を前に、本物の太夫と逢っている気分を味わうのであるが、この時は女房(新悟)も気をきかしてお酒を用意して人形と夫だけにしてやるのである。

人形の箱を開けると太夫の人形が現れる。この場面の人形(七之助)がいい。箱から出しこれからお座敷遊びと甚五郎はわくわくである。ところが、さらに嬉しいことにこの人形が動くのである。甚五郎が彫った人形なので、動きが男の動きである。そこで、廓で拾った太夫の鏡を人形の懐に入れると太夫の動きになり、甚五郎は太夫との逢瀬を愉しむのである。この、人形の動きの変化が、人形の基本を保ちつつ甚五郎と共に観客をも楽しませてくれる。

もう一つの話しが隠れていて、甚五郎は元ご主人の妹(鶴松)を匿っていて立ち回りとなる。この立ち回り、甚五郎は右手を切られ左手での大工道具を使っての動きとなる。左甚五郎にかけた立ち回りで、勘九郎さん爽やかにきめた。

『芋掘長者』。十世三津五郎さんが、45年ぶりに復活させた演目で、これから再演されて深めてゆく作品であった。この作品、再び一に戻っての形となった。踊りの腕の見せ合いという作品で、そこの部分が難しい作品である。芋掘りを踊りを加えることにより笑いとなるのであるが、踊りの上手さの落差も出さなくてはならない作品で難易度の高い作品と思う。芋掘り(橋之助)がお姫様(七之助)を好きになり、姫の婿選びの舞いの会に、踊りの上手い友人(巳之助)にお面を付けさせ代わりに舞わせ上手くいくが、もう一舞い所望されて芋掘り踊りを踊り、その面白さに姫に気に入られるのである。橋之助さんと巳之助さんのコンビ、味は薄いが爽やかであった。

『祇園恋づくし』は、上方と江戸の文化や人柄の違いのぶつかりあいが如実に現れる作品で、言葉、仕草、間などの相違が面白、可笑しく演じられた。

江戸っ子の代表が勘九郎さんで、上方が扇雀さん。扇雀さんは、茶道具屋の主人と女房の二役でこれが上方の男と女をもきちんと見せてくれて二役の効果が上手くいった。勘九郎さんも上方で一人で江戸っ子奮闘記で頑張り、その頑張りもウケる。その間に入って、お嬢さんと駆け落ちしようとする手代の巳之助さんが、あんたは何なのと思わせる弱者の自己主張が笑わせる。歴代三津五郎路線にはない空気である。

この作品は、勘三郎さんと藤十郎さんに当てて作られた作品らしいが、新たな違う面白さを出したのではなかろうか。

場所が京の三条で、時間が祇園祭りの時期で山鉾当日の床でのやり取りもある。祇園祭りはよくしらないが、色々な行事が一か月あるのだそうで、こちらは、中村錦之助さん(萬屋錦之助)の制作した映画『祇園祭』を是非観たいと思っている。年に一回京都の京都文化博物館のフイルムシアターでだけで上映されるのであるが、なかなか日にちが合わない。ここのシアターは、かなり以前から京都に行って予定の無い夜利用させてもらっている。

京茶道具屋の次郎八(扇雀)は江戸でお世話になった息子の留五郎(勘九郎)が伊勢参りに来たおり京に寄るよう誘い、留五郎は次郎八宅に世話になる。祇園祭とあって次郎八は忙し忙しいと言って出歩いている。お祭りだけではなく、芸妓染香(七之助)に逢うのがお目当てなのであるが、染香は渋ちんの次郎八を上手くあしらい他に旦那がいるのである。お茶屋の女将(高麗蔵)の雰囲気もいい。

次郎八の女房おつぎ(扇雀)の妹おその(鶴松)は手代の文七と恋仲であるが許されずひょんなことから、留五郎は若い二人の肩を持ち、おつぎに染香のことを、教えてしまう。それを知った次郎八と留五郎は犬猿のなかとなり上方と江戸の自慢とけなし合いとなり、祇園囃子と江戸の祭り囃子の競争になったりもする。

ちとら江戸っ子が、祭りを一か月も悠長にやってられるか。何んといっても祇園囃子どす。コンチキチン・・・。てやんで。テンテンテレツク・・・。

間のいい丁稚や、江戸っ子が嫌いな女中なども配置され緩急自在な上方と江戸のリズム感や言い回しの違いが楽しめる。夏の夜、お江戸の芝居小屋に京の鴨川の風が渡る。

仁左衛門さんが重要無形文化財保持者(人間国宝)となられ、より一層、上方の芸が若い役者さんに伝わり、江戸と上方の歌舞伎のそれぞれの面白さが浸透することであろう。

八月納涼歌舞伎に出演できることは、若手の役者さんにとっても、良い汗をかく価値ある機会である。

 

歌舞伎座 八月 『おちくぼ物語』『棒しばり』『ひらかな盛衰記ー逆櫓』

八月納涼歌舞伎である。三部構成で、『ひらかな盛衰記ー逆櫓』以外は、踊りと新作歌舞伎で気楽に観れる演目である。八月の若手での納涼歌舞伎に尽力された十世坂東三津五郎さんに捧げる演目も二つある。子息の巳之助さんが参加されているが、面白いことに、巳之助さんは歴代の三津五郎路線と違う味わいの役者さんで、これからどのように成長されていくのか楽しみなところである。

『おちくぼ物語』は、シンデレラストーリーで、落ち窪んだ場所に暮らしているので、おちくぼの君(七之助)と呼ばれている。侍女の阿漕(あこぎ・新悟)とその夫帯刀(たてわき・巳之助)が味方で、帯刀は貴公子の左近少将(隼人)とおちくぼの間を取り持つ。ところが、継母(高麗蔵)は自分の娘に左近少将をと考えている。それを知ったおちくぼは落胆するが、左近少将は計略を考え、鼻の大きな兵部少輔(宗之助)を娘のところへ行かせ、目出度くおちくぼと夫婦となる。

左近少将の隼人さんが、美しい貴公子を作りあげた。おちくぼの本来の性格をきちんと解かっているのだが、その包容力までは出せなかった。七之助さんのおちくぼは、押し込められた本心をちらりと見せ、お酒に酔って変貌するあたりも上手く演じ分けた。帯刀の巳之助さんもひたすら二人のために尽くす誠実さを見せた。父役の彌十郎さんさんが頼りなく、それでいて最後に鷹揚に二人を祝福して大きさを出す。継母の高麗蔵さんグループがもう少し丁寧にいじめの演じ方を工夫すると芝居に厚みが加わると思うのだが。夢ものがたりの美しさが見せどころともいえる。

『棒しばり』(十世三津五郎に捧ぐ)は楽しい踊りである。勘三郎さんと三津五郎さんの時は、結構力を入れて観ていたが、勘九郎さんと巳之助さんのは、楽しんで気楽に観られた。良いとか悪いとかいうことではなく、ここがどうでこうでとか考えずに観れたのである。棒に手をしばられても、後ろ手にしばられてもなんのその。お酒の好きな困った次郎冠者と太郎冠者である。

『ひらかな盛衰記ー逆櫓』。橋之助さんがしっか演じられるであろうと想像していたが、その通りになった。すっきりとして芯のある松右衛門、実は木曽義仲の家臣・樋口次郎兼光であった。樋口は漁師の権四郎(彌十郎)の娘・およし(児太郎)の婿として入り、逆櫓という櫓の使い方を習得する。梶原景時にその技量が買われ、義経の船頭を仰せつかる。その様子を義父と女房に話す時の松右衛門の自慢げなのも良い。

漁師・権四郎の家にはもう一つ事件が起こっている。およしの息子の槌松(つちまつ)が三井寺参詣のおり、大津の宿で取込みがあり、他の児と取り違えとなりその子を連れて帰り、その子の親が槌松を連れて来てくれるのを待っているのである。

実は連れてきた子供は、木曽義仲の遺児・駒若丸であった。訪ねて来た腰元のお筆(扇雀)は、そのことを告げ、槌松に早く逢いたいと思っている権四郎とおよしに残酷にも、槌松は駒若丸の身代わりとなって殺されたと伝える。権四郎は嘆き怒るのである。ここは、映画『そして父になる』を観ていたので、取り変えられたその後の深刻な問題も、二人が生きているということで生じるが、どちらかが亡くなっているとするなら、その嘆きはこの権四郎やおよしのような立場で、権四郎の彌十郎さんの怒りが響く。

義仲の家臣である松右衛門は、自分の素性を明かす。現代の感覚からすれば理不尽であるゆえ、ここでの樋口の大きさが物をいう。権四郎に駒若丸の前で頭が高いと言って頭を下げさせるのである。権四郎も婿の主君とあれば納得しないわけにはいかないのである。この場面の橋之助さんはしっかりと抑えた。

ことの次第がはっきりすると、駒若丸を助けるため権四郎は畠山重忠に樋口を訴人する。樋口と他の船頭たちとの立ち廻りも形よく決まる。権四郎は、駒若丸を槌松とし、樋口とは何の係りもない子供であることを強調する。権四郎が、駒若丸の命を守ろうとしているのを知った樋口は、おとなしく重忠(勘九郎)の縄にかかるのである。

『そして父になる』の映画の影響もあるが、それぞれの立場の役者さん達のしっかりした役の押さえどころによって、時代物に血が通って観れた。

時代物でも、武士と庶民の悲哀が重なる物もあるが、『逆櫓』もその一つである。その二重性をしっかり映し出してくれた。

映画『父ありき』と箱根石仏群

映画『TOMORROW/明日』(黒木和雄監督)に小津安二郎監督の映画『父ありき』が挿入されている。結婚する花嫁は、病院に勤めている。結婚式といえども、戦時下である。皆が座ってまだかまだかと待っているのになかなか帰って来ない。結婚式に同席する同僚とともに走って帰ってくる。待っているほうは、とにかく空襲警報の鳴らないうちに終わらせたいのである。何とか写真も撮り終わる。

花嫁の同僚の一人が、もう一人の同僚に映画を観に行こうと誘うが、誘われたほうはそれどころではない。妊娠しており、相手と連絡がとれず困惑しており帰ってしまう。彼女は一人で映画を観るのである。

その映画が『父ありき』である。息子が父のお葬式を済ませた後、東京から妻と二人で秋田に帰る車中である。息子はしみじみと良い父であったと語る。妻は涙する。息子は、妻の父と弟を秋田に呼んで一緒に暮らそうと提案する。妻は喜んで笑顔を見せる。若い夫婦の会話とその妻の笑顔のほんの少しの部分である。息子は、幼くして母を亡くし父に育てられるが、父と一緒に暮らす年月も短かった。一緒に暮らしたいとの願いも虚しく父は亡くなってしまい、妻も母がいないので、義理の父と弟と賑やかに暮らしたいと思うのである。その思いを乗せた列車の去りゆく場面で映画は終わる。

父ありき』公開が1942年で、当然検閲を受けている。いま残っているものは、当時の映画をかなりカットされていて、音声も悪い。そのため、辻褄の合わないところもある。黒木監督は、敬愛する小津監督の作品を挿入したかったのであろうか。さらに、作品の内容に挿入したい意味があったのか、その辺が知りたくて観なおしたが、わからなかった。『父ありき』は戦争中とは思えないおだやかさで、父が息子の将来のために学業に専念できる環境を作ってやり、そのために父子離れ離れに暮らし、父が息子を思う心情と、息子が父を慕う心情を細やかに表している。

この細やかな父子の交流は、戦争高揚にとっては、不要のものかも知れないが、一応は検閲を通ったわけである。もしかすると、この息子の不安な気持ちが、精神状態の不安定だった中学生時代の黒木監督の想いと重なっているのかもしれない。

父親役は笠智衆さんで、中学の教師をしているが、修学旅行で生徒を事故死させてしまう。それが、箱根の芦ノ湖である。生徒が禁止しているボートに乗り転覆事故で亡くなってしまうのである。教師は自分がもっと強く注意していたらと後悔し教師をやめてしまう。そこから父子別々の生活となる。

修学旅行の場面で、箱根の曽我兄弟のお墓が映ったのである。箱根登山バスのⒽ路線の国道1号線に<曽我兄弟の墓停留所>があり、バスの中からもそのお墓が見えて、いつか降りたいと思っていたのであるが、先週、そこの一区間を降りて歩いたのである。映画のなかの中学生は、どこから歩き始めたのか~箱根の山は天下の嶮~と歌いつつそこを歩いているのである。三つ五輪塔があり、二つは十郎と五郎で、少し離れた三つ目は虎御前のものと言われている。

箱根湯本からバスで元箱根港へ行き成川美術館により食事をしバスで<六道地蔵停留所>まで。降りると<石仏群と歴史館>がありそばに精進池が出現した。この池はバスからは見えなかったので驚きであった。そこで、地蔵信仰の石仏群があることを知る。

 

<石仏群と歴史観>でのパネル

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<六道地蔵>から<曽我兄弟の墓>のバス停一区間の左右に石仏があり、国道の下に地下道があり、歩けるようになっていたのである。<八百比丘尼の墓>。八百歳の長寿を得た伝説上の女性のお墓である。友人が言うに人魚を食べて長寿を得てあちこちにでてくるとのこと。「『陰陽師』に出てきた小泉今日子。」「天皇に頼まれて亡き親王が出現したら鎮める役目か。そういえば食べてた。この伝説からきているのか。」

3体の地蔵菩薩の磨崖仏の<応長地蔵>。地下道をくぐって<六道地蔵>。大きい。磨崖仏であるが、きちんとお堂で覆われている。岩とお堂とが上手く合わさっている。磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては、国内最大級。ちょっとの寄り道が凄い手応えに。地下道を戻って進むと<多田満仲の墓>のこれまた大きな塔。平安時代に活躍した源氏の祖先とか。さらに進むと<二十五菩薩>で岩盤に幾つもの菩薩が彫られている。地下道があり、反対側にも<二十五菩薩>。

 

<六道地蔵>

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<多田満仲の墓>

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<二十五菩薩>

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最後が、<曽我兄弟と虎御前の墓>である。国道を進んだら、お墓の前に降りられない。細い道があったらしいのでもどってお墓へ。

 

<曽我兄弟と虎御前の墓>

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涼しげな着物姿のご婦人と息子さんらしいかたがおられた。後で友人が「浅見光彦とそのお母さん!」とそく思ったそうである。そこまで思わなかったが、暑い中で、すがすがしい感じであった。友人は、頭の中で、吹き出しも作っていたらしい。「箱根六道殺人事件」ができるかもしれない。死体は二十五菩薩の上で、どうやってあそこに運んだのか。

作家の内田康夫さんは病気のため、新聞に連載中の『孤道』が終了してしまった。熊野に行った仲間と回し読みしていたので残念である。療養され、お元気にならて執筆活動が再開されることを願うばかりである。

箱根の石仏群は二子山の石で、非常に硬く、西国からの石工の技術によって加工できるようになり、箱根の石畳もこの二子山の石が使われた。現在では、<旧街道石畳バス停>付近(白水坂付近)の石畳が江戸時代の二子山の石らしい。

しかし、バス停一区間であるが、箱根の地蔵信仰の人々の想いが伝わる場所である。暑かったが箱根の自然の良さが加えられたひと時であった。

そして思う。『父ありき』では、父は息子を男手で一人前にし、満足して息をひきとるのである。『TOMORROW/明日』は、あってはならない死である。父は教師として事故死というあってはならない死の責任をとり教師という仕事をやめるが、教師の道を選んだ息子には、しっかりと責任ある仕事であることを伝えるのである。

戦時中この父の様に順序立てて説得のできる大人は多くはなかったであろう。そうした中で誠実に語る父は、子供にとって信頼できる人であった。息子が子供の頃と大人になってから、同じ川で父子並んで釣りをするが、その釣竿の動かしかたがかつても今も同じペースで、父子の信頼関係は変っていないのである。

監督・小津安二郎/脚本・池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎/撮影・厚田雄春/音楽・彩木暁一/出演・笠智衆、佐野周二、津田晴彦、佐分利信、坂本武、水戸光子、

小津監督の絵、富士山も曽我兄弟のお墓もお城の石垣も有無を言わせない撮り方です。構図がきっちり決まっている。見ながら背筋を正してしまった。

 

映画『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』

岩波ホールの企画『戦争レクイエム』<戦後70年特別企画 黒木和雄監督4作品+α>のおかげで、観ていなかった『TOMOURROW/明日』と『美しい夏キリシマ』を観ることが出来た。

『紙屋悦子の青春』を観たあとに、『私の戦争』(黒木和雄著)を読んだが上手く頭に入りきらない部分があったが、『TOMOURROW/明日』、『美しいキリシマ』、『父と暮らせば』を観てから読み返すと岩波ジュニア新書版ということもあって、映像と監督の思いが重なって嬉しいほど想像力が加速する。

『TOMOURROW/明日』(1988年)は長崎に原爆か投下された1945年8月9日午前11時12分の24時間前の結婚式に出席した人々の日常が描かれ、その24時間と同時にそこまでつながっていた人々の命が一瞬にして、この世から消えてしまったということである。それぞれの生きてきた道が、光と共に消失してしまう。結婚し、これから、お互いの気持ちが解かり合えると予感させる新婚夫婦。8月9日にやっとこの世に誕生した小さな生命。まだ誕生していないが、そのことを相手に伝えられない女性。毎日、路面電車の運転手の夫にお弁当を届ける妻。赤紙の来た恋人同士。捕虜収容所に勤務する青年。結婚式の写真を撮った花婿のもと父親。その写真に写された人々が写真と共に消えてしまう。長崎弁が、日本という国にそれぞれ存在している生活のなかの言語を主張する。

この写真に写っていた人々を代表者として、生きていた証として黒木監督は映画を撮られたのであろう。物言わぬ人々への鎮魂の一つの形であり、それを観たことによって、鎮魂の一つとして隅のほうに位置できればよいのであるが。

「1945年7月16日、人類史上最初のプラト二ウム爆弾の実験がアメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で行われたました。7月23日には、広島、小倉(現北九州市)、新潟の順で攻撃目標が選定され、準備が整い次第、気象条件さえ許せば、8月1日以降いつでも攻撃できるということになったのです。」

4番目として京都が候補にあがるが古都ということで、軍需産業の街長崎となる。その日、第1目標が小倉、第2目標が長崎。小倉上空は断続的に雲でおおわれ、2日前の八幡製鉄所を爆撃した硝煙がながれ目視爆撃ができなかった。目標を長崎にかえる。雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所をとらえ投下。長崎には、連合軍捕虜が500人収容されていた。アメリカはそれも承知していた。(『私の戦争』より)

 

原作・井上光晴(「明日ー1945年8月8日・長崎」)/監督・黒木和雄/脚本・黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎/撮影・鈴木達雄/音楽・村松禎三/出演・桃井かおり、南果歩、仙道敦子、大熊敏志、黒田アーサー、佐野史郎、岡野進一郎、長門裕之、殿山泰司、草野大悟、絵沢馬萌子、水島かおり、森永ひとみ、伊佐山ひろ子、なべおさみ、入江若葉、横山道代、馬淵晴子、原田芳雄、二木てるみ、田中邦衛、賀原夏子、荒木道子

 

『美しい夏キリシマ』(2002年)。題名のようにキリシマの自然は美しい。しかし、霧島連山が邪魔をして沖縄を隠しているとして、孤児になった沖縄の少女は引き取られた遠い親戚の屋根に登って、霧島連山の見えない先を見ようとしている。

この作品は黒木和雄監督の自伝のような映画でもある。黒木監督は満州国からの引き上げ者で、満州国という日本の後押しで作られた国を子供の目から実際に見ている。日本へ帰ってから、登校拒否児の形となり映画ばかり観て、家族と別れ、宮崎県えびの市の祖父母のもとで生活する。国民勤労動員令により、都城市の航空機の工場に動員され寮生活を送る。1945年5月8日米軍機の爆撃で級友が11人なくなってしまう。その時、友人を救うことをしないで逃げてしまった。

「頭が、ざっくりと真ん中割れて、脳漿があふれてくる瞬間を見たような気がします。両手を私のほうにさしのべて、「たすけてくれ・・・・」というようなしぐさをします。眼は空をみつめて放心して・・・・。ただただ恐怖のあまり、私は立ち上がるやいなや、後ずさりすると、そのまま夢中で走り出しました。」

この後この中学生は、学校にいくことができず、いまでいえば、PTSD(心的外傷ストレス)で医師の診断は肺浸潤ということで、家でぶらぶらすることとなる。祖父が、地主で女中さんがいるような、中学生にとっては違和感のある家であった。

この、ぶらぶらした中学生が見た終戦までの自分の周辺の人々の「美しい夏キリシマ」の生活である。どう生きればよいかわからない中学生の主人公を、柄本佑さんが、演技しているのかしていないのか、主人公そのままの中学生として、映像の中に存在している。助けなかった級友の妹が、屋根の上の少女で、彼女にどうしたら兄を見捨てた自分を許してくれるか尋ねると、妹は「敵をとって」という。主人公は、敗戦となり、ジープとともにゆっくり美しい村の道を歩く米兵に竹槍で一人突き進むのであるが、相手にされず道路から下に転がされてしまい笑われてしまう。主人公は叫ぶ「殺せ」と。米兵は、ライフルを上に向けて撃つ。その時、主人公に見えていた蝶が撃ち殺されてしまう。

霧島連山を望む田の稲は青々と優しく風になびいている。

この村にも敗戦までの夏、生きるために人々には様々なことがある。自分自身さえ支えられない主人公は、キリストの絵を自分の部屋に張り、回答を求めているようでもあるが、人の質問にも、そうとは思わないという能動的な回答しかできない。現実の捉え方ができないので、憲兵にも、解からなとしか答えられず鉄拳をうける。主人公だけでなく大人もどう捉えたらよいのかわからない状態だったのである。

 

監督・黒木和雄/松田正隆、黒木和雄/撮影・田村正毅/音楽・松村禎三/出演・江本佑、原田芳雄、左時枝、牧瀬里穂、宮下順子、平岩紙、石田えり、小田エリカ、倉貫匡広、中島ひろ子、寺島進、入江若葉、香川照之

 

黒木監督はドキュメンタリーやPR映画を撮っていて、劇映画の撮影所には入ったことがない 。

「ああ、劇映画というのは誰でも撮れるのだ。文法というのはあまり必要ないのだ。多くの映画を観て、自分が撮りたいものを撮ろうとすれば劇映画はなんとか、できあがるものだ。何も撮影所にはいって巨匠について学ばなくても、劇映画のイロハ、ABCを現場で覚えなくても映画館こそが学校ではなかったのか」

そう思わせたのが、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』である。映画監督となった黒木監督は自分の仕事で亡くなった級友たちの代弁をされ、生き残った者と戦争の犠牲となって亡くなられた人々との交信を映画という媒介を通して教えてくれている。

さらに黒木監督には、撮りたいものがあった。

「じつは私は25年以前から、28歳10カ月戦病死した天才映画山中貞雄を主人公にし、山中の戦友で脚本家の三村伸太郎との友情と確執を描いた企画をあたため続けています。」

残念ながら撮る時間が黒木監督には残されていなかった。

『僕のいる街』は、1989年に撮られた短編である。銀座の空襲で一人だけ亡くなった泰明小学校の少年が、幽霊として現れ、戦争をはさんでの前、中、後、現代の銀座の路地などを歩き走り周るのである。映像と写真の中を。銀座という街が通過した時間がわかる。

長野の棚田、姨捨(おばすて)に行ってきた。青々とした田が観たかったのである。太陽の日を受けて緑が美しかった。美しさと暑さが比例していた。この青さを眼にしたかったのだから仕方がないが、暑さのため棚田は一時間弱しか歩けなかった。映画のキリシマの稲と信州の稲の色が重なる。

 

 

旧東海道・沼津宿~原宿

沼津は旧東海道歩き前に訪れている。目的地は御用邸記念公園、沼津港魚市場、千本公園である。さらに旧東海道を歩いてた友人と再度訪れ散策した。

旧東海道。街道の左右のお寺それぞれに一里塚。沼津に向かって右手に玉井寺(ぎょくせいじ)。こちらにあるのが玉井寺一里塚。左手に宝池寺(ほうちじ)で宝池寺一里塚。写真は宝池寺一里塚。この一対を伏見一里塚というのだそうだ。

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八幡神社の奥に源頼朝と義経が腰かけたという対面石

治承4年(1180)10月に平家軍が富士川の辺りまで進軍してきたので頼朝は鎌倉から出陣しここに陣をかまえる。そこへ義経が奥州からかけつけこの地で感涙の対面。この時頼朝が食べようとした柿が渋柿だったためねじってかたわらにすてたところ後に二本の柿の木が成長した。二本の柿の木は幹をからませねじりあっていたので土地の人はねじり柿と呼ぶようになった。

史実の正確さはわかりませんが凄い場所です。写真左奥の石のそばの二本の木がねじれていたので一応ねじれ柿としておきますがどういうことか。二人の仲がねじれてしまったことを意味するのか。心は離れることなく複雑につながっていたということか。

それぞれの石の下とまわりが面白い。長方形の石と丸い石。何か意味があるのかな。

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亀鶴伝説の潮音寺

子のない長者が観世音菩薩に祈り女の子に恵まれる。名前を亀鶴とつけ美しく成長するが両親は早くに亡くなる。頼朝に召されて応じなかったとか工藤祐経に召され曽我兄弟の敵討ちの後入水したなどの伝説が残っている。

道は旧国道1号線と合流する。この先旧東海道は狩野川の土手に添う細い道に入るのであるがそのまま国道を歩いてしまい平作地蔵の祠を見ずに通り過ぎてしまう。なんたる失態。

平作地蔵の祠。文楽や歌舞伎で同じみの『伊賀越道中双六』の「沼津」「千本松原」での父親平作の地蔵尊がある。

「沼津」。平作は旅人の荷物運びをしていた。一人の客の荷物を運んでケガをした平作は客に手当てしてもらい客を自分の家に泊める。ところがこの客は平作の別れた実の息子であることがわかる。息子は娘の恋人のかたき討ちの相手の居場所を知っている人物でもあった。平作は切腹をして自分の命と引き換えに仇の居場所を息子から聞き出すのである。切腹の場面は「千本松原」である。

平作地蔵は平作の住まいのあったところとされている。

中央公園の中に沼津城本丸跡

戦国時代に武田勝頼が三枚橋城を築城。その後廃城となり江戸時代に沼津城として同じ位置に築城されたようである。明治に入って沼津兵学校として使い廃校。さらに二回の大火を受け堀も埋められ城は姿を消す。

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この先、御成橋、永代橋を左手に右方向に直角にまがって進む。城址近くだからであろうか面白い道筋である。沼津は城下町であったのかと印象が変わる。

間宮本陣跡。沼津宿の中心となる。

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駿河湾方向に進むと千本松原へと続くが旧東海道は永代橋を左手に右折する。

【 寄り道 】

千本浜公園

若山牧水歌碑

< 幾山河こえさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく >

牧水は宮崎県の生まれである。23歳のとき歌壇に認められる。大正9年(1920年)沼津に移住。千本松原に魅せられ近くに新居を構える。旅と自然に親しみ酒を愛した牧水は昭和3年(1928年)43歳で永眠。

この公園に『若山牧水記念館』もある。気持ちの好い空間である。

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若山牧水のお墓は永代橋のところで右に曲がって左手の乗運寺にある。素通りしましたが。

井上靖文学碑

< 千個の海のかけらが 千本の松の間に 挟まっていた 少年の日 私は毎日 それを一つずつ 食べて育った >

小説『夏草冬濤(なつくさふゆなみ)』に主人公・洪作が中学2年生のとき浜松中学から沼津中学に転向している。下宿先の伯母の家は三嶋大社の門前にありそこから一時間半かけて沼津中学に通っているそうである。

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千本松原

文楽、歌舞伎の「千本松原」の場面にぴったりである。

ここは戦国時代、武田軍と北条軍が激しい地上戦をしたらしい。

旧東海道沼津~原

途中から旧東海道は163号線に入る。そして右手にJR東海道本線。

31番目の松長一里塚跡碑

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片浜駅が右手に。東海道本線を渡り東海道本線は左に。

名僧といわれる白隠禅師ゆかりの松蔭寺

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白隠禅師誕生の地

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< 駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠 >

白隠禅師はこの地で生まれ15歳のとき松蔭寺で出家。19歳から32歳まで全国で修行行脚。33歳で松蔭寺の住職に。84歳で亡くなるまで全国を巡り禅宗の教えを広める。現地は母の生地で屋号味噌屋。その後父が分家し沢瀉屋を名乗った地跡地。

禅師が生まれたとき使用した「産湯の井戸」は今なお清水を湛えている。

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白隠禅師産湯井

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原宿渡邊本陣跡

南側に原駅

渡邊家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫で、代々平左衛門を名乗っていた。明治天皇の行在所でもあった。建坪235坪。

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原宿一里塚

東海道線がどんどん近づく。

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浅間愛鷹神社前に改称記念碑

この辺りは浮島ケ原と呼ばれ低湿地帯であった。開墾に貢献した二代目鈴木助兵衛の名をとり助兵衛新田と呼ばれていた。明治に入りスケベエはよくないと桃里に改称したらしい。

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浅間愛鷹神社の狛犬

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東田子の浦駅前で旧東海道は東海道線を南に渡り旧国道一号線となる。

田子の浦

< 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける > (山部赤人)

富士は見えませんでした。

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原宿と吉原宿の間の間宿柏原本陣跡案内

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間宿柏原案内

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立圓寺

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増田平四郎の像・一里塚跡案内

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増田平四郎像

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増田平四郎の案内

天保の大飢饉と水害から村民を救うため浮島沼の大干拓を計画。代官所へ12回、勘定奉行に駕籠訴6度で計画発案から27年目に着工。明治2年現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成。人々は「スイホシ(水干)」と呼んだ。ところがその年の8月の高波で跡形もなく壊されてしまった。しかし彼の志はその後に受け継がれた。

不屈の精神です。それだけ災害は悲惨だったのでしょう。

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一里塚跡石碑

昭和放水路を渡ると一里塚。

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JR東海道線吉原駅まで。

『画鬼暁斎展』幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

鹿鳴館の設計者であるジョサイア・コンドルと絵の師である河鍋暁斎のジョイント展覧会である。開催されている<三菱一号館美術館>はコンドルの設計したときの建物の解体後に再建されたレプリカである。

展覧会には、鹿鳴館の階段の一部が切り取られた形で展示されており、暁斎の<河竹黙阿弥作「漂流奇譚西洋劇」パリ劇場表掛りの場>の行灯絵があり、明治の一部分も見せてくれる。

河鍋暁斎さんのこと、そして、ジョサイア・コンドルさんとの関係を知ったのは  河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)  からである。

そのあと、埼玉県蕨市にある『河鍋暁斎美術館』も訪ねた。今回の展覧会は、師弟二人の作品が観れるわけである。

コンドルさんは建築家でもあるので設計された図もあるが、こちらの興味は絵と、日本舞踊家であった奥さんと踊られた時の『京人形』の時の写真などである。京人形の扮装のくめさんの指に三つほど指輪をしているのが面白い。コンドルさんも彫り師の扮装である。『鯉の図』の鯉の目を見て、金目鯛の目を思い出す。これは、谷崎潤一郎さんの『春琴抄』のことに関係するのであるが、後日書くこととする。暁斎さんの<鯉>の絵は口を開けていてその口の強調と詳細さ、水を動かして泳ぐ律動感ある水面の描き方などに惹きつけられるが、コンドルさんは、穏やかな絵である。

暁斎さんと旅を共にし師の絵を描く姿を描かれているが、絵も描書き方もスケッチということもあるのか、絵の中の暁斎さんも力の抜かれたもので、狂画師の趣きはない。

暁斎さんのほうは、才能のほとばしりが感じられ、展覧会での解説でもかつては評価が難しかったとある。美人画なら、美しく描けばそれで評価の高い作品となる腕があるし、そうした作品もある。ところが、それだけでは暁斎さんはあきたらない。美人の眺める先には沢山のカエルが描かれていたり、美人のそばに飾りものではない動物の姿が加わっていたりする。美しい太夫も『閻魔と地太夫図』となる。

鳥花図や自然の中の動物も、生きて行くための狩りや弱肉強食の世界がある。花が美しく咲き、うさぎがそれを愛でていると思ったらその下には蛇が頭を持ち上げて待ち構えている。鷲がゆうゆうとその雄姿を誇っていると思うと、その下では、猿が頭を抱えて震えている。赤い柿を狙う鴉。蛙を口に咥える猫。戸隠神社の中社の帰りに出会ったという生首を加えた狼の絵。

そうかと思うと、楽しい鳥獣戯画的作品がある。『風流蛙大合戦之図』『猪に乘る蛙』など。

さらに、『鷹匠と富士図』は、鷹を手に、富士を眺めている穏やかな鷹匠の後姿。子供が盥に入れた金魚と遊びその後ろで木に縛られた亀が何んとかして逃れようとしている絵。あらゆる感情を喚起してくれる絵の数々である。

コンドルさんは、噺家の圓朝さんの落語を書き起こしていたが、暁斎さんの幽霊の絵は『牡丹灯籠』の新三郎にまとわりつく幽霊のお露さんを見たという伴蔵の話しから想像する幽霊を思い出す。美しいのとは反対のあばら骨の見える恐ろしい姿である。こちらも『牡丹灯籠』は読み終わったのだが、新三郎の住んで居た根津の清水谷はどの辺りかと思っていたところ根津神社のすぐそばらしい。本に地図があったので、森鴎外さんの作品散歩の時、二つ合体で楽しむこととする。

鴎外さんが大正6年に総長となった帝室博物館の東京帝室博物館はコンドルさんの設計で、この時はまだ現存している。関東大震災で崩壊してしまう。この大正6年に竣工したのがコンドルさん設計の、古河虎之助邸で、現在の旧古河庭園にある洋館である。

暁斎さんもコンドルさんも多くの現物が失われているが、残されているもので今も、まだまだ楽しませてくれている。暁斎さんは観るたびに、どうしてこの作品からこの作品に飛ぶのかと、その腕と想像と創造力に呆れさせてもらっている。分類、分析などを超えたところに暁斎さんの楽しみ方があるように思う。

 

 

新橋演舞場 『もとの黙阿弥』

井上ひさしさん原作の『もとの黙阿弥』である。場所を強調するためか、小さく<浅草七軒町界隈>とある。浅草七軒町にある大和座という芝居小屋を軸に芝居は展開される。男爵の相続人と政商の娘の縁談がきまり、鹿鳴館の舞踏会で踊ることに取り決められていた。その西洋踊りの指導をすることになったのが、大和座の座長である。本人に相談もなく勝手に取り決められ、男爵の相続人・隆次は、書生の久松と入れ替わり相手をじっくり観察することにする。 政商の娘・お琴も同じことを考え、女中のお繁と入れ替わる。

同じ事を考えるわけで、これは相性が良いはずである。入れ替わった書生(愛之助)と女中(貫地谷しほり)は相思相愛となってしまう。このお二人苦労したことがないから、愛一筋である。一方、隆次(早乙女太一)とお琴(真飛聖)に入れ替わった二人にも恋が芽生えるが、お琴から女中のお繁に戻ることができなくなってしまうという、思いもしない結果が生じてしまうのである。

大和座の座長・飛鶴(波乃久里子)が、自分の現実がみじめすぎて、入れ替わった華やかさからもどれなくなったと説明する。では、そのみじめな現実に隆次とお琴は身を置くことができるのであろうか。

時は明治である。浅草七軒町周辺から、オペレッタが生まれ、隆次の姉で男爵未亡人(床嶋佳子)と飛鶴の演劇改良劇と黙阿弥先生の劇とが一騎打ちとなる。条件は、物を食べ、実は何々であった、取込みを入れるのが設定条件である。

庶民の生活から、大きな問題を提起するのが、井上ひさし戯作者の手である。ここがおざなりになっては、何の必要があったの、あの芝居の中の芝居場面となってしまうのである。

後半のこの部分が見ものである。演劇改良劇のリアルさの可笑しさと、歌舞伎を演じたことがない人々が演じる黙阿弥歌舞伎。歌舞伎役者が演じる、歌舞伎を演じたことのない人に成りきっての歌舞伎。それも、その身は男爵を引き継ぐ立場の若者である。このあたりの演じ分けは、愛之助さんの腕である。それを受けての貫地谷さんも恐れをしらぬお嬢様としての度胸がいい。

明治の価値観の混沌を上手く出していた。ただ、もうすこし泥臭さ、バタ臭さがあってもよかったと思う。周囲にもう少し色が欲しい。オペレッタ。座長と姉君との言葉による演劇論の対決など。周囲の人々の個性が薄い。原作者の役づけは用意周到であり台詞も多い。それに乗っているだけでは、原作者に押しつぶされてしまう。国事探偵さん(酒向芳)は儲け役であったが、お繁に匹敵する久松の生い立ちが上滑りで追跡の緊迫感からの可笑しみとまではいかなかった。

大きな劇場で通用する井上さんの戯曲であるが、一人一人の姿が霞み気味なのが残念である。しかし、ラストの照準は外さずしっかり合わせて見せてくれたのは見事である。実は ・・・

浅草七軒町というのは、現在の元浅草だそうで、都立白鴎高校のあたりであろうか。大和座は実際にあった小屋でモデルがあったわけである。新橋演舞場の場内には、花道の上に大和座と書かれた大きな提灯と、<もとの黙阿弥>と書かれたの舞台幕が迎えてくれる。

 

原作・井上ひさし/演出・栗山民也/出演・片岡愛之助、貫地谷しほり、早乙女太一、真飛聖、渡辺哲、床嶋佳子、浜中文一、大沢健、酒向芳、石原舞子、前田一世、浪乃久里子

8月1日~8月25日