国立劇場『研修発表会』『神霊矢口渡』(4)

三幕<生麦村道念庵室の場>。托鉢をして歩く道念(橘三郎)の庵室に、義興の弟・義岑(歌昇)と傾城・うてな(米吉)がかくまわれていた。道念は、元新田家の旗持ちで、義岑の素性を知っていて、新田家伝来の白旗を渡す。そこへ、若い男女が道念の庵室に入ったのを見たぶったくりの万八(吉三郎)が百姓を焚き付け二人を捕らえにやってくる。それを察知した道念は隣にある、稲荷大明神のお堂に隠す。

この稲荷大明神の鳥居の額のところに狐のお面がかかっていて、これは何か意味があるのであろうかと観ていたところ、道念はこのお面をかぶり、お堂から稲荷大明神となって飛び出し、万七の行いの悪さを百姓にお告げして退散させるのである。たわいないが、これが橘三郎さんの動きと百姓の恐れおののくタイミングが合い滑稽である。二幕目と歌昇さんと米吉さんの落人の物悲しさからちょっと息抜きさせる場でもあり、二人を力づける場でもある。

ついさきごろまでは、歌舞伎は都合のよいところに、お堂があらわれると思っていたが、お堂しかないのである。

旧東海道を歩いていると、淋しい道中に小さなお堂がある。金谷坂の途中には、庚申堂があって、そこは、大盗賊の日本左衛門が夜働きの着替えた場所とされ口碑として残っているということで、堂横には見ざる聞かざる言わざるの三猿を彫った庚申塔があり可笑しさを誘う。庚申塔はかなり時間が経っているらしく剥離している。村人が長く信仰して守っているものがあり、当時暗闇に稲荷大明神が現れたのを信じてもおかしくない状況があったと思えた。この庚申堂は、猿田彦命を祀っていて旅人の安全をも守っていてくれる。

もう少し触れると、この金谷の地域の人々は江戸時代の旧石畳がわずか30メートルだけ残し、コンクリート舗装だったのを掘り起こし、町民約600人で石畳の道を430メートル復元されたのである。そこを、往時をしのびつつ歩かせて貰ったのである。ところで現在の生麦村はと考えたら、川崎から神奈川まで歩いていないようである。生麦はビールと生麦事件の碑だけであった。抜けていた。

そんなわけで、他愛無さそうでいて、結構江戸時代の村人の様子でもあると思える。

大詰め<頓兵衛住家の場>。お舟の芝雀さんの中に四代目雀右衛門さんが早くも降りてこられていた。芝雀さんはお舟が初役ということで、ちょっと驚いた。筑波御前とお舟を同時に観させてもらい、女形というもの奥の深さを知った。年齢を超える芸の被膜である。動きの少ない時も、激しい動きの時も娘で居なければならない。米吉さんは、大変な時に同じ役への挑戦であった。吉之助さんほか若い役者さんたちにとっても、大きな先輩達が前に立ちはだかってくれるということは、風よけをしていてくれるわけで、この風よけがなければ、上手く飛び出せないともいえる。

お舟は一目惚れで義岑のために突き進むが、義岑の身分と落人であるということ。さらにその原因が父親の頓兵衛にあり、お舟は父親自身の極悪非道さとも戦うのである。或る面では恋から人間性に目覚めたともいえる。義岑があの世では添い遂げようと言ってくれた言葉に自分の純化もかけてしまっている。玉手とかお三輪の流す<血>と通ずるところがある。義興の亡霊(錦之助)もお舟の想いによって出現したように思えてくる。

歌六さんも、筋の通った武士から、強欲な極悪さとがらっと変えて観せてくれた。

お舟の心をとらえたのは、美しさと品格と憂いであろうが、歌昇さんはそれに充分答えていた。米吉さんは、機転を利かせ歌昇さんを新田の白旗を掲げ諌めるのであるから、もう少し腹が欲しい。

種之助さんは、六蔵という凄い役をもらってしまった。ちょっと抜けていておかし味があり、お舟を恋して、頓兵衛という主人を持ち、お舟を止めなければならないしと大忙しである。引き出しに納まったであろうか。

頓兵衛の花道の引っ込みは、弁慶に源内さんが対抗してと思ったが、どうもそうではないらしい。頓兵衛が大役になったのは、天保2年5月の江戸河原崎座で七代目市川團十郎が演じて大きな役になったらしい。その時、蜘蛛手蛸足の引っ込みをしたかどうかは定かでないが、その時演じた役者さんによって極悪非道な登場人物が大役に変身したのである。

頓兵衛にかんしては、国立劇場脇にある伝統芸能館の中の図書館で知った。歌舞伎座での真山青果さんの元禄忠臣蔵の『仙石屋敷』の脚本を読むためであったが、『神霊矢口渡』が載っている書籍がその個所を開いて並べてあったのである。お陰で、思いもかけず短時間で情報収集ができた。

矢口の渡し付近へも散策に行かなければ。