藤村さんんの『嵐』の中に、馬籠の長男・楠雄さんの新しい家を訪れた時のことが書かれています。
中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待ってい木曽路に残った冬も三留野(みどの)あたりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓(たに)の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた。
藤村さんたちは、甲府を通り下諏訪で一泊し、落合川駅かから木曽路に入っています。私は、中津川駅からバスで木曽路口へ行き、そこから歩きたかった落合の石畳を登って馬籠へ。雨の後で石がぬれておりすべる。登りでよかったです。水力電気の工事での木曽川の様子も藤村さんは見ていたわけです。
途中で私は森さんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。
藤村さんはこの森さん(原さん)には、お金は登記をしてから渡したほうがよいなど細かく手紙で書かれていて、原さんも若いながらしっかり楠雄さんの自立に手をかされています。
私のほうの旅には、藤村さんだけではなく、もう一人同道者がいました。それは、ノボさんこと正岡子規さんで、子規さんは念願だった木曽路を歩いた紀行文『かけはしの記』を書いています。念願とはいえ、健康を害し帰郷する途中で歩いているのです。このあたりが子規さんの無茶なところであり、この性格が皆に愛されると同時に血を吐いても鳴きつづける<ホトトギス>の一生となりました。
子規さんは、上野、軽井沢、善光寺、川中島、松本、三留野、妻籠、馬籠、余戸村、御嵩を越えて、舟にて犬山城の下を過ぎ舟を降り、木曽停留場に至っています。
この旅ついに膝栗毛の極意を以て終れり
信濃なる木曽の旅路を人問はばただ白雲のたつとこたへよ
妻籠と馬籠にかんしては
妻籠通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇川(きそかわ)に別れ行く。
馬籠峠のふもとで馬を頼もうとするがいなくてわらじを履きなおし、下りてくるひとに里数をききながらのぼりつめている。私は馬籠側から子規さんとは反対方向から登り妻籠へ向かったわけで、子規さんと同じようにあと何キロかと標識を眺めつつ馬籠峠目指して登ったのです。
子規さんは馬籠宿で一泊していますが、次の日雨なのに宿の娘に合羽を買って来るように頼み馬籠を下っています。病の身でありながらと紀行文を読みつつ気にかかりました。
馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。












馬籠のいわれの説明
昔のまごめは生活物資は馬の背で何でも運び馬は大切な動物でした。馬方衆は朝八時頃中津川や落合まで出て帰りは十一時頃荷物を持ち帰ります。人間が病気やケガのときは中津川まで皆で籠で運びました。まごめ。つまり馬と籠であります。

馬籠城跡
馬籠は武田信玄、織田信長、豊臣秀吉によって治められる。秀吉は家康と小牧山に対峙したとき木曽義昌に木曽路防衛を命じた。その時馬籠城を警備したのが島崎重道(島崎藤村の祖)である。重道は妻籠城に逃れたため馬籠集落は戦火をまぬがれた。その後家康は木曽を直轄領としたが尾州藩徳川義直の領地となり以後戦火のないまま馬籠城は姿を消す。






水車屋・馬籠宿水力発電一号機




【 寄り道 】
「子規庵」
正岡子規が亡くなるまでの8年半を過ごした東京都台東区根岸にある家
庭にある絶筆三句碑
をとゝとひの へちまの水も 取らざりき
糸瓜咲いて 痰のつまりし 佛かな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず































