南木曽・妻籠~馬籠・中津川(2)

藤村さんんの『嵐』の中に、馬籠の長男・楠雄さんの新しい家を訪れた時のことが書かれています。

中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待ってい木曽路に残った冬も三留野(みどの)((たりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓(たに)の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた

藤村さんたちは、甲府を通り下諏訪で一泊し、落合川駅かから木曽路に入っています。私は、中津川駅からバスで木曽路口へ行き、そこから歩きたかった落合の石畳を登って馬籠へ。雨の後で石がぬれておりすべり登りでよかったです。水力電気の工事での木曽川の様子も藤村さんは見ていたわけです。

途中で私はさんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。

藤村さんはこの森さん(原さん)には、お金は登記をしてから渡したほうがよいなど細かく手紙で書かれていて、原さんも若いながらしっかり楠雄さんの自立に手をかされています。

私のほうの旅には、藤村さんだけではなく、もう一人同道者がいました。それは、ノボさんこと正岡子規さんで、子規さんは念願だった木曽路を歩いた紀行文『かけはしの記』を書いています。念願とはいえ、健康を害し帰郷する途中で歩いているのです。このあたりが子規さんの無茶なところであり、この性格が皆に愛されると同時に血を吐いても鳴きつづける<ホトトギス>の一生となりました。

子規さんは、上野、軽井沢、善光寺、川中島、松本、三留野、妻籠、馬籠、余戸村、御嵩を越えて、舟にて犬山城の下を過ぎ舟を降り、木曽停留場に至っています。

この旅ついに膝栗毛の極意を以て終れり

信濃なる木曽の旅路を人問はばただ白雲のたつとこたへよ

妻籠と馬籠にかんしては

妻籠通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇川(きそかわ)に別れ行く。

馬籠峠のふもとで馬を頼もうとするがいなくてわらじを履きなおし、下りてくるひとに里数をききながらのぼりつめている。私は馬籠側から子規さんとは反対方向から登り妻籠へ向かったわけで、子規さんと同じようにあと何キロかと標識を眺めつつ馬籠峠目指して登ったのです。

子規さんは馬籠宿で一泊していますが、次の日雨なのに宿の娘に合羽を買って来るように頼み馬籠を下っています。病の身でありながらと紀行文を読みつつ気にかかりました。

馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。

桑の実の木曾路出づれば穂麦かな
上の句の碑が、藤村さんの書いた「是より北木曽路の碑」のそばにある正岡子規さんの句碑です。芭蕉さんの「送られて送りつはては木曽の秋」の句碑もあり、この芭蕉句碑を建てた頃のことが『夜明け前』に出てきます。島崎正樹(藤村の父)翁記念碑もありました。そしてここは美濃と信濃の国境なのです。
私の歩いた時は、山々の緑と麦穂の黄色に百日紅の濃い桃色の花が調和した木曽路の風景でした。<百日紅なにをかたらん麦穂かな>
こういうつまらぬことを書けるのは、今回の旅の友の本『笑う子規』のせいであります。
俳句とはおかしみの文芸として、子規記念博物館の館長もされた天野祐吉さんが、子規さんの俳句から笑える句を選び、それぞれの句に天野さんが短文を書き、南伸坊さんが絵を添えられているのです。子規庵で見つけたのですが、楽しい本で笑えます。
桃太郎は桃金太郎はなにからぞ (金太郎は飴から生まれたに決まっとるじゃろ)
えらい人になったそうなと夕涼み (「秋山さんとこのご兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」)
夕立ちや蛙の面に三粒程  (一粒じゃ寂しい。五粒じゃうるさい。三粒程がよろしいようで。)
そういえば、どこかの風邪くすりも三回と三錠でした。俳諧の心のあるひとがコマーシャルつくったのでしょうか。三を二回も使っているのでそれはないか。そこで自分の句?に短文を。(百日紅の高さと下をむく麦穂が話をするのはかなり困難であろう。ないしょばなしはむりである。)つまらぬと思った人は、『笑う子規』を購入して口直しをされたがよかろう。



 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(1)

『夜明け前』を読んでいると、やはり現地へいかなくてはと思い立ちました。JR南木曽駅で降りてバスで妻籠へ。南木曽から妻籠まで歩いて一時間ということなので歩くことも考えたのですが、東海道歩きでどうしても時間に追われるのを経験しているためそれをやめにし、今回は宿場をゆっくり見学することにしました。正解だったとおもいます。南木曽は<みなみきそ>ではなく<なぎそ>と読むのですが、<なぎそ>にすぐ反応できず、一呼吸おいて気がつきあわてて降りました。

南木曽はもう一つ発見があり、記憶に強い場所となりましたが、それはのちほど。

妻籠と馬籠間は歩きました。ここは歩いて置かなければ『夜明け前』の世界により密着できないですし、まだ四分の一しか読んでいないのですから、このあとのための楽しみとも関係してきます。『夜明け前』は面白いです。島崎藤村さんは、この作品があっての文豪とおもいます。

明治維新前の木曽路の山の中で限られた情報と規制の多い生活の中でこれから起こるであろう渦をまだ捉えられず、続いてきたしきたりを受け継いでいこうとする主人公・半蔵がゆっくりと自分の生き方をさぐりはじめています。

妻籠、馬籠、中津川は半蔵にとっての心の支えともなる地域であり人でもあります。

本陣の仕事、それを助ける宿のそれぞれの立場の人。宿には旦那衆という集まりもあって、そこでは、俳句であるとか、古美術に対する趣味であるとか、それを理解する仲間があったようです。本陣とか脇本陣となれば、お殿様が泊ったり休憩したりするので、床の間の掛け軸や置物などのためにも名のあるものを収集したりもしていたのでしょう。

ただ本陣は副業が許されず、脇本陣は許されていたようで酒造業を兼ねたりして、維新の時には脇本陣のほうが長く生き残れたところもあるようです。

先に馬籠で、藤村さんの家族のことで気にかかっていたことのあらましがわかったのでそのことから書き記します。

年譜に1923年(大正12年)8月藤村さんが52歳のとき、「長男楠雄を郷里で帰農させ、妻子の遺骨を埋葬するため帰郷した」とあり、楠雄さんが18歳のときです。一人で親戚にでもあずけたのであろうかと気になっていたのです。

馬籠宿に「清水屋資料館」があり、馬籠宿役人を努められた家で、建物は残っていて二階が資料館となっています。そこに立ち寄って二階を見せてもらったのですが、その時、「上には藤村さんの手紙などもあるのですが、お金の事が出て来て金貸しだったのですかとよくきかれます。そうではなく、藤村さんの息子さんの楠雄さんを預かっていたのです。」とご婦人が教えてくれました。「えっ、楠雄さんはここに預けられていたのですか。」私があまりびっくりして素っ頓狂な声をだしたからでしょうか、色々なお話しを聞かせてくださいました。楠雄さんは東京で明治学院に通っていたのに中退して馬籠にて帰農するのです。

そこまでにいたる、藤村さんと楠雄さんとの話し合いがどんなものであったのかはわかりません。清水屋さんの原家は、島崎家とは旦那衆としての付き合いもあり親しい関係で、すでに島崎家は馬篭をはなれだれも残っていませんでした。いわば他人に楠雄さんを一人農業にたずさわるため預けたわけで、相当信頼関係がなければできないと思います。

ご婦人は楠雄さんを預かった原一平さんの息子さんのお嫁さんで、一平さんは舅にあたるわけです。ご婦人からみても一平さんは穏やかで周りからも信頼されたかただったそうです。楠雄さんは、通りに面した部屋で寝泊りして農業に従事し、藤村さんがたずねてくると藤村さんはその部屋の二階の部屋に泊まられたそうです。

資料の手紙には、細かくお金のことがでてきます。楠雄さんはその後家を持ち、田畑ももちます。そのため藤村さんはお金をだされたようで、そのやりとりの様子が手紙からうかがうことができるのです。そこまで原さんにまかせるということは、藤村さんが原一平さんを信頼して楠雄さんを預けられたのだということですし、原さんもその信頼にこたえて楠雄さんを受け入れられたわけです。

1926年(大正15、昭和元年)には、楠雄さんの新築の家に藤村さんも訪れています。楠雄さんが馬籠の人となり、藤村さんが『夜明け前』を書くことによって、馬籠から去った本陣の島崎家はその過去の足跡を残すかたちとなったわけです。

原一平さんのことは、藤村さんの作品『嵐』に「森さん」としてでてくるようです。ご婦人のおかげで、楠雄さんが親戚のいない馬籠で帰農するという新しい出発が危惧していた暗さとは違っていたらしいことがわかりお話しを聞けてよかったです。ご婦人のお嫁にこられた時の様子も聴かせてもらえて楽しいひと時でした。

南木曽の発見ですが、馬籠から妻籠に入るところに、「関西電力妻籠発電所」のたてものがあり、関西電力といえば、電力王の福沢桃介さんですので、桃介さんとこの旅であうかも、貞奴さんも出て来たりしてと思っていたら出現しました。

木曽の豊富な水を見逃すような桃介さんではありません。しっかり水力発電をやっておりました。その仕事の関係で南木曽に別荘をたてており今そこが記念館として公開されています。もちろん貞奴さんも訪れています。そして木曽川に発電所建設資材運搬用の橋をかけ「桃介橋」となずけられ今は生活道路として使われている橋があるのです。

日本最大級の木製吊り橋で、南木曽駅から5分のところにあり、急いで少しだけ渡ってきました。残念ながら福沢桃介記念館による時間はありませんでした。橋の竣工式の写真には、貞奴さんも写っていました。

長谷川時雨さんの「近代美人伝」の「マダヌ貞奴」を読みました。時雨さんとしては、さらなる芸の修練をした役者貞奴さんを観たかったようです。それほで、役者貞奴は時雨さんの眼にかなった役者さんだったようです。時雨さんから観ると和物よりも洋物のほうが魅力的だったようですが、残念ながら写真と想像ではわかりません。おそらく和の型のないところから匂いたつ妖しさなのでしょう。

『夜明け前』は読み終わるのに時間がかかりそうです。

 

 

茅ヶ崎散策(2)

鎌倉で思い出しました。夏目漱石さんが円覚寺で参禅しましたが、そのときのことは『門』に書かれていて、『門』にでてくる釈宜道が釈宗活さんのことで、宗助は宜道さんあての紹介状をもって寺を訪れ、宜道さんによって老師とお会いします。らいてうさんはこの宗活さんのもとで「見性(けんしょう)」といわれる悟りの一つに到達しています。不思議なつながりです。森田草平さんとのことでは、らいてうさんは漱石さんを快くおもっていなかったようです。  東慶寺の水月観音菩薩

さて二回目の茅ヶ崎散策には、「開高健記念館」をいれ、そこから海岸にでて適当なところで高砂緑地に向かい、市立美術館へもより駅にむかうコースを考えました。

「開高健記念館」は開館日が週3日ほどでバスを使うことにしましたが、開高健記念館前には停まらないバスに乗車したので、一番近いバス停を降りる時に運転手さんが道を教えてくれ助かりました。

開高健さんならではの言葉の石碑やモニュメントがあります。「入ってきて人生と叫び出ていって死と叫ぶ」「明日世界が滅びるとしても今日あなたはリンゴの木を植える」

可笑しかったのは家のサンルームから外にでて玄関のほうへ降りてゆく階段があるのですが、その階段の石が、火口から飛んで来てそのままの石というようなごつごつした石で、足元が危なっかしくあえて危険につくってあるようで、これは下駄で呑気に降りれない石段だと思わず開高健さんの怪しげな笑い顔を思い浮かべました。「遠い道をゆっくりとけれどやすまずに歩いていく人がある」

書斎から見える庭には越前スイセンがあります。ベトナム戦争の取材を終えた冬、越前岬の深い雪のなかで、灯の様に咲く越前スイセンに強い感銘を受けたのがこの花との出会いのようです。

柳原良平さんのイラストと開高健さんのキャッチコピーのトリスウイスキーの広告も多数展示されていますが狭いのがちょっと残念でした。映像の笑っていながら眼が笑っていないところが、開高さんの見て来た深淵を覗きみるようでしたが、つりのときが一番幸せな表情です。

お隣が「茅ヶ崎ゆかりの人物館」になっていて、茅ケ崎ゆかりの土井隆雄さん、山本昌さん、加山雄三さん、桑田佳祐さんなどの関連するものが展示されていました。新しくて明るくて、休憩室に茅ヶ崎関連のコミュニティ雑誌もあり閲覧させてもらいました。

面白いのを見つけました。小津安二郎監督の甥御さんが撮影を見に行った時の文で、見ているとをお風呂を沸かしていて、気に入った湯気がでず何回も同じことをやっていてあきてしまったというのです。これには笑ってしまいました。小津監督が俳優さんだけではなく湯気とも格闘していたのです。

森田芳光監督も茅ヶ崎出身でした。函館を舞台にした映画を4本も撮られているので、海の近くに親近感があるのかもしれませんが、湘南の海とは違うなあとおもわれたかもしれません。でも湘南の森田監督の映画はまだみていません。あるのでしょうか。漱石さんの『それから』を期待せずにみたところ、松田優作さんが思いがけずはまっていて驚いたことがあります。

気持ちのよい時間のあと、係りのかたと少し話しをしましたら、小津監督の定宿がまだ営業しているということで、このまま海に出て海岸線を歩き、サザンビーチのモニュメントのあるあたりから駅に向かう途中であることを教えてもらいました。小津さんのことは調べていなかったので朗報でした。

海にでたところその砂山の感じに、映画『長屋紳士録』の飯田蝶子さんと少年がおにぎりを食べる場面を思い出し、きっとここの海岸線で撮ったのだろうと確信しました。この砂浜の山の感じなのです。ここと決めました。八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」 の浜でもあります。  映画『長屋紳士録』と『日本の悲劇』

サザンビーチのCのモニュメントを背に国道にでて、途中昼食をとり、小津監督の定宿「茅ヶ崎館」に向かいます。この宿は、南湖院の国木田独歩さんを見舞った田山花袋さんなども滞在し、なんといっても小津監督の『東京物語』などの映画作品のうまれた場所です。宿は民家の住宅街にこじんまりとはまりこんで暖簾が静かにゆれていました。ここから浜へも散策にもいかれたのでしょう。

最後は再び、高砂緑地から市立美術館へ。今回は開館していることを調べてありました。

青山義雄展 「この男は色彩を持っている ーマティスが認めた日本人画家ー没後20年」

初めて目にする画家でした。残念ながらこの人だけの色というのがわかりませんでした。歩き疲れた者にとってはじーっと見つめるというよりも、ふわっとながめる感じの絵でした。

茅ヶ崎関係の本が展示されていて、長谷川時雨さんの『近代美人伝(上)』がありました。貞奴さんのところだけでも読んでくださいとありました。ほかの本もながめ読まずにきましたが、今思えば読んでくればよかったとおもっています。いずれ手にしましょう。いずれが多すぎますが。

森まゆみさんの『断髪のモダンガール』に<読書案内>があり、数えますと88あります。(上)(下)とか全集もありますから何冊になることでしょう。

菱沼海岸からサザンビーチを歩いたわけですが、東方面の鵠沼(くげぬま)海岸あたりも歩いてみたいと思っています。

茅ヶ崎は芸能の街で、壮士演歌手の添田唖然坊さんが住んで居たり、友田恭助さんと土方与志さんが子供芝居「南湖座」をはじめたりもしています。イサムノグチさんも小学校時代ここで過ごしていました。なかなか盛りだくさんの散策となりました。

 

茅ヶ崎散策(1)

JR茅ヶ崎駅から海側に10分位歩くと茅ヶ崎市美術館があると知り、鎌倉の帰りに寄ったことがあります。

残念ながら美術館は何かの都合で展示室は閉館でしたが受付の人はいまして、川上貞奴さんの写真絵葉書に目がとまりました。どうして貞奴さんの絵葉書があるのか係りのひとに尋ねますと、隣に川上音二郎さんと貞奴さんの住んで居た邸宅(萬松園)があったということです。

写真絵葉書は <舞台の貞奴「八犬伝墨田高樓」帝国劇場> とあり緑地、頭に烏帽子の横向きの舞台衣装すがたで静かな気迫と気品があり、きちんと和物の舞台姿を写真で眺めたのは初めてでした。

貞奴さん、女好きの伊藤博文さんの寵愛からするりと抜け出し、壮士芝居の川上音二郎さんと結婚、海外での巡業芝居で「マダム貞奴」として名を馳せたかたです。その二人の邸宅跡が今は高砂緑地となっていて、その後そこは実業家の原安三郎さんが購入し松籟荘(しょうらいそう)となり、茅ヶ崎市美術館の入口脇には、松籟荘の玄関前庭と塀の一部が残されています。

森まゆみさんが『断髪のモダンガール』のなかで貞奴さんのことも書かれていますが、名古屋の町づくりNPOに招かれた時旧貞奴邸があって驚かれています。私もこの地域は歩いたことがあり、ステンドガラスの美しい旧邸は「文化のみち二葉館」の名称で市民に広く利用されていました。

ただ入ってこの建物が貞奴さんの旧邸で、川上音二郎さんの死後、福沢諭吉さんの娘婿である福沢桃介さんと同居していたことを知り驚きました。貞奴さんは学生時代の桃介さんに会っていて別れざるおえない状況だったのですが、再び出会い生活を共にするのですから、時間の経過の面白さです。

貞奴さんは七歳のとき、人形町の浜田屋へ養女に入りますが、その浜田屋の位置が歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわのなさけうきなのよこぐし)』の<源氏店>の場と重なるのです。川上音二郎さんは、尊敬する九代目團十郎さんの別荘・孤松庵が茅ヶ崎にあるため茅ヶ崎に住んだともいわれています。茅ヶ崎の駅のそばには演劇学校予定地も購入していましたが、死によって中止となってしまいました。

茅ヶ崎市美術館のそばに、平塚らいてうさんの記念碑と八木重吉さんの記念碑があります。その時はらいてうさんよりも、八木重吉さんの碑が心に沁みました。

「蟲が鳴いている いまないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いている しぜんと涙をさそわれる」

碑の説明には教師をしていたが結核となり茅ヶ崎の南湖院に入院し、その後自宅で療養し29歳で亡くなり、療養中のノートに「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」とに記されていたとありました。

この南湖院がらいてうさんと奥村博史さんが出会った場所なのです。南湖院は当時東洋一のサナトリウムでした。らいてうさんの身近な人がここに入院していてここで『青鞜』の編集会議をすることもありました。そこへ雑誌社の人と列車の中で偶然知り合った奥村博史さんが訪れたのが初めての出会いです。お互いに一目惚れだったようです。世間では、奥村さんが6歳年下なので、<若い燕>などとも言いましたがそんなことにひるむような方達ではありません。

その後共同生活に入り、奥村さんは結核にかかりこの南湖院での闘病生活がはじまります。らいてうさんは看病に通うこととなり、幸い快方に向かうのです。そういう意味で茅ヶ崎はらいてうさんにとっては新たな出発地点でもあったわけです。

映画『『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』でもこの記念碑の除幕式の様子が映されています。「元始 女性は太陽であった 真生の人であった」やっとらいてうさんと茅ヶ崎が実態としてつながって浮かび上がってきました。

この南湖院は今、第一病舎だけが残っていて、今年の4月から建物は未公開ですが「南湖院記念 太陽の郷庭園」として公開されています。開設者が 高田畊安(たかたこうあん)さんで、奥さんが勝海舟さんの孫娘・輝さんです。

南湖院には、国木田独歩さんも入院し、ここで亡くなっています。

茅ヶ崎散策とは離れますが、少し拾い読みの明治女学校で学んだ人々とつながりました。明治女学校出身の女性で『青鞜』と少し係ったかたに作家の野上彌生子さんがいます。相馬黒光さんは、国木田独歩さんの最初の奥さんで有島武郎さんの『或る女』のモデルとされる佐々城信子さんの従妹にあたり『国木田独歩と信子』を書かれています。羽仁もと子さんは自由学園を創立します。

興味深いのは、相馬黒光さんは、明治女学校の生徒と教師の年の近さもある恋愛に懐疑的で、羽仁もと子さんは、学費は免除され『女学雑誌』の仮名つけを手伝いそれを寄宿舎料にあてるという苦学生でこちらも恋どころではなかったようです。若松賎子さんの『小公女』訳文や島崎藤村さんの原稿にも目を通されています。その経験から日本で初めての女性ジャーナリストとなり教育事業へとすすむのです。

その自由学園で学ばれたのが羽田澄子監督なのです。羽田監督の中に生きているのが、羽仁もと子先生の「感じた人は行う責任がある」という言葉で、言葉通りに生きておられます。

最初の散策は、高砂緑地と美術館だけでした。その後の時間の経過で今は訪れたときよりもかなり膨らみました。二回目は八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ   浜へ行きたいなあ」の浜まで行かなければと計画したのです。

 

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』

羽田澄子監督の2001年の作品です。

1998年に「平塚らいてうの記録映画を創る会」から高野悦子さん(元岩波ホール総支配人)を通じて話しがあり、軍国時代に青春を送った羽田監督が、平塚らいてうさんの『青鞜』の新しい女から平和運動に行き着いた生き方を通じて、反戦への想いがつながりそうである。

平塚らいてうさんらの創刊した『青鞜』は、文学作品としてこれだという優れたものがなく、運動の主軸もよく判らず、らいてうさんと森田草平さんとの心中未遂事件、それを題材にして森田さんが『煤煙』を書き、伊藤野枝さんが『青鞜』の編集を引き受け、その野枝さんは大杉栄さんとともに官憲に虐殺され、『青鞜』も廃刊といったことがばらばらと浮かぶ。きちんと、らうてうさんの生涯を知らないのである。総体を知るうえでは良い機会でした。

まず驚いたのは、らいてうさんは己とはなにかと自問し、禅に出会い修業し、自分を捨てることができたと感じていることです。塩原事件については、森田草平さんはらいてうさんに<あなたを殺したい。私は死ぬわけにはいかない。その後の全てを書かなくてはいけないから。>というようなことを言われ面白いことを言う人だとつき合いはじめ、<死のう>といわれ承知します。らいてうさんは母の守り刀を持ち森田さんに着いていきます。雪の中を歩き途中で森田さんに懐刀を投げ捨てられ、どちらかというと森田さんに嫌気がさし、森田さんを先導するようにあるき出し、捜索のひとに見つけられるわけです。

森田草平さんとは肉体関係はなく、らいてうさんは実際に己を捨てきれるかを試したようにも思えました。森田さんが本当のことを書くのかとおもったら期待はずれで、どうも、らいてうさんのほうが腹が座っていたようです。

本名は明(はる)で、心中事件のあと信州で感じた、雷鳥になって太陽を三回まわった幻想から<らいてう>をペンネームとします。スキャンダルをものともせず『青鞜』を創刊します。お金に関しては、母親が出してくれたようで、この母の娘に対する援助は普通では考えられない関係とおもえます。その後も何かのおりには、援助の手を差し伸べていたように思えます。

マスコミから批判的に<新しい女>と言われると、そうよ私は<新しい女よ>と逆手にとり、<新しい女>とは何かを探しつつ進んで行き、六歳年下の定収入のない絵かきの奥村博史さんと共同生活をはじめ、奥村さんとは最後まで添い遂げるのですから、らいてうさんにとっての新しい女とは、実戦の続きがそうなっただけよということなのでしょうが、そこが面白いです。実行ありきなのです。

『青鞜』は伊藤野枝さんにまかせますが野枝さんが虐殺され、創刊1911年(明治44年)9月から1916年(大正5年)2月で廃刊となります。当時の古い体制に対抗する様々の女性達が『青鞜』を訪れ、その中で考え、女性の問題を外からの異論に対し答えて行きつつ時代を照らし出して闘っていきます。

イデオロギーのなかったことが『青鞜』の弱さでもありますが、自分の頭で考えて行動していくということが、かえって束縛されない柔軟性でもあり、それが、らいてうさんの生き方ともいえますし、継続の無さと批判されるところでもあります。

子どもは産まないとしたらいてうさんは、妊娠すると産むほうを選択し、夫婦別性でしたが、子供が戦争への出征のさい、私生児だと不利益をこうむるとして婚姻届けを出しています。

子どもを産むことによって「母性保護」を考え、市川房江さんと名古屋の紡績工場を見てまわり、綿ぼこりの中で働く十代の女子の労働条件の酷さから「婦人と子供の権利」を考え、しばらく子育てに専念してから、相互扶助の消費組合運動、医療組合運動を支持し、敗戦後の新憲法に明記された婦人参政権に、よその国から与えられたとしてもそれまでの地道な女性たちの運動が実ったことを素晴らしいことであるとし、平和憲法があぶないと思い、1970年にはデモの先頭にたちます。亡くなる1年まえで、85歳で命の火を消します。太陽をまわり周られてて飛び立たれたのでしょう。

婦人参政権が認められて70年しかたっていないのです。今考えると、古い女の時代が70年前なのです。すぐそこであったのです。石を投げられ、罵倒されつつ、それをここまで運んでくれた女性達がいたわけです。主義主張の違いを論じつつここまで運んでくれたことの真摯さにあらためて驚かされます。

<新しい女>として奇異な扱いを受けながららいてうさんは、運動体からしりぞくこともありましたが、自分を捨てれると感じた時、再び表にでて主張することを始めるといった人のように思えました。

らいてうさんの一生を知らない者にとっては、基本線の自伝ドキュメンタリーでした。ここからもっとらいてうさんを知ろうと突き進めれば、その矛盾点も見えてきて次に続く人々への指針となります。

森まゆみさんの『断髪のモダンガール』を読み返しました。「42人の大正快女伝」で、人数が多くてそれぞれの生き方に圧倒されますが、<第三章「青鞜」と妻の座>に平塚らいてうさんについても書かれていて、森さんは岩波ホールで公開されたこの映画を見ていて、この映画に触れつつ書いておきたいとしています。森さんは、調べられているので、この映画にたいしては違和感をおぼえられ、らいてうさん自身にたいしても手厳しい。

世の中を知らなかったお嬢様が、それを見て、この理不尽さを何んとかしなくてはと思って行動している甘さとしても、そういう人が掻きまわさなければ水面下に隠されているものは隠されたままなのかもしれないので、それはそれで意味があるようにおもいます。そういう意味で、映画も基本線として受け入れられました。

それとは別に森さの『断髪のモダンガール』からは、『青鞜』に関係していた人はもちろんのこと、こういう繋がりであったのかと図式的にわかったこともあり、先に読んだときには素通りしたことをかなり埋めさせてもらいました。

羽田監督は新作にたいし「戦争の時代に育った人間ですからとにかく戦争反対の映画を作りたいと思って、同じ世代のインタビューを中心にやっています。」(NFCニューズレター第128号)と語られています。貴重な記録が一つまた残されそれを見て、考える人がでてくるという連鎖の波紋は静かに広がりつづけるでしょう。

監督・羽田澄子/制作・青木生子/撮影・宗田喜久松/美術・星埜恵子/デザイン・朝倉摂/録音・滝澤修/ナレーション・喜多道枝、高橋美紀子

星埜恵子さんの美術にも出会えました。円窓の下に文机のらいてうさんの部屋などがそうなのでしょう。らいてうさんの最初の評論集『円窓より』は発売禁止となり『扃(とざし)ある窓にて』とかえ再刊されています。

茅ヶ崎散策に行った時、らいてうさんの記念碑があり、どうして茅ヶ崎なのか不思議でしたが、今回納得できました。これで発見の多かった茅ヶ崎散策を書きすすめられます。

追記: 2017年7月8日11時30分/7月16日3時 東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にて上映します。(アンコール特集)