国立劇場『伊賀越道中双六』

2014年(平成26年)12月に上演された再演です。演劇全般に与えられる読売演劇大賞が歌舞伎の作品として初めて受賞したのだそうです。歌舞伎は古典のイメージがあり、こういう演劇賞とは縁がないようにおもわれますが、古典作品も現代に通じるという視点をもたせる作品だったということでしょう。

2014年の観劇については書いており、あらすじも紹介していますので、よろしければ下記を参考にされてください。

国立劇場 『伊賀越道中双六』(1) 国立劇場 『伊賀越道中双六』(2)

前回と今回では違うところがあります。前回の<大和郡山 誉田家城中の場>がなくなりました。唐木政右衛門(吉右衛門)が、誉田家に仕官が決まりながらわざと御前試合に負け、敵討ちのため誉田家を去る場面です。ここがなくなり、<相州鎌倉 円覚寺方丈の場><同 門外の場>が加わりました。

沢井股五郎(錦之助)は、和田行家(橘三郎)を殺し、<正宗>を奪おうとしましたが、<正宗>は行家の高弟の佐々木丹右衛門(又五郎)が預かっていてありませんでした。

<円覚寺の場>は、<正宗>と股五郎を交換する場で、<正宗>を渡し、股五郎を護送中、丹右衛門はだまし討ちにあってしまい、股五郎に逃げられます。心配になって駆けつけた志津馬(菊之助)と姉のお谷(雀右衛門)に丹右衛門は、お谷の夫・政右衛門に助太刀してもらい本懐をとげよと遺言するのです。

<円覚寺の場>のほうが、股五郎側の悪戸さが増し、政右衛門の助太刀がはっきりし、志津馬の仇討ちの意志決定の度合いも増しました。そもそも股五郎の図りごとにはまったのは志津馬で、<三州藤川 新関の場>では、お袖(米吉)をだまし、腹のみせずらい役となっていましたが、<円覚寺の場>があることで、それまでの話しに出てくるダメ男志津馬が、敵討ちをする志津馬として観客はのり移れました。志津馬役の菊之助さんにとっては、心おきなくお袖をだませます。

お谷の場合も父の死に続いて丹右衛門の言葉を聞いていますから、政右衛門と会って、もう少しで敵と会えると言われれば子供は寒さからのがれ家の中ですから素直に山田幸兵衛(歌六)の家からはなれられます。

敵討ちに入りやすい状況なのですが、結果的には前回よりも、縛られている人々がより鮮明にうちだされました。素直に敵討ちのためとわが子と離れたお谷のその後の嘆きが伝わります。何のためだったのであろうか。

もつれもつれて、敵討ちという世界に絡めとられていく人々。錦之助さんの股五郎は前回より悪が大きく強くなっていました。憎しみが増しますが、それなのに、敵討ちという道しか進む道のない不条理。あともどりの道がないのです。

莨(たばこ)の葉をきざむ政右衛門の吉右衛門さんの刃の音が、早くなったり、時にゆっくりと強い音になったりして、ここを乗り切ればといった迷いを消そうとするおもいが響きました。その想いが頂点に達した時、人はとんでもない行動に出るものなのだとおもいしらされました。

前回よりも、判りやすくなっているのに、深さが増していました。悲しいながらも、志津馬は周りに助けられながら本懐を遂げることができました。そういう意味では、志津馬という人は恵まれた若者です。

再演で一つの場がなくなって、一つの場が増えるというのを意識して観れたのは初めてでした。前上演も再演も効果を考えられ、思考を重ねられたのでしょう。役者さんも、役どころが深くなっているのも再演の見どころです。幸兵衛の女房・おつやの東蔵さんは幸兵衛とは違い、物事を理詰めでなく情で動くところに暖かさがあり、幸兵衛夫婦に味わいが加わりました。

又五郎さんは、丹右衛門と助平の二役の変化を上手く出されています。吉右衛門さんと歌六さんの師弟関係と敵の立場の複雑さが今回もダイナミックにしめられました。また雀右衛門さんの母としての哀しさが一層細やかで、それを受けとめる吉右衛門さんに口は出さない情がありました。歌六さんと雀右衛門さんは、歌舞伎座との掛け持ちだったのですね。役どころが違うので、それぞれを楽しませてもらいました。

米吉さんのお袖も可愛らしさだけではない、許婚の股五郎を振っての女の性(さが)が少しだけ匂いました。菊之助さんは今回の<円覚寺の場>で、筋の通った役に昇格したと思います。

新しい<円覚寺方丈の場>の床の間の達磨の絵の掛け軸が臨済宗の雰囲気を表していてよかったです。すぐ目につきました。そういうところにも、舞台装置の効果があらわれます。

映像は残りますが、舞台は消えてしまいます。しかし、その時舞台は息をしています。