ドキュメンタリー映画『石井輝男 FANCLUB』・映画『黒い画集 ある遭難』

江戸川乱歩の映画となると、石井輝男監督のドキュメンタリー映画『石井輝男 FANCLUB』が思い浮かびます。石井輝男監督の映画は、高倉健さんとの関係からもかなりの数観ていますが、エログロ路線作品は観ていません。

ドキュメンタリー映画『石井輝男 FANCLUB』(『石井輝男 ファンクラブ』)は石井輝男監督の遺作となった『盲獣vs一寸法師』(原作・江戸川乱歩)を撮影している現場を撮っています。こういうドキュメンタリー映画の場合、監督のコメントがあったり、石井監督を敬愛するかたなどがコメントしたりするのでしょうが、そういう事が一切ありません。石井監督と若いスタッフたちが撮影に臨んでいる姿だけです。石井監督が役者さんにこうしようと提案したり、休憩したり、準備したり、外でのゲリラ的撮影があったりしますが、皆さん楽しそうです。

こんなんで映画撮れてしまうのかなあという感じで、映画を撮りたい若者はこのドキュメンタリー映画を観た方がいいです。撮ろうという気になると思います。石井輝男監督の長い経験からの撮影現場ですが、その姿は「先ず撮ったら」と言っているようです。

兎に角、石井輝男監督、好き好き人間が集まっていて、出演しているのも、リリー・フランキーさん、塚本晋也さん、リトル・フランキーさん、及川博光さん、本田隆一さん、熊切和嘉さん、園子温さん、丹波哲郎さんなどで、演じるよりその現場を愉しんでいる感じです。

丹波哲郎さんが来ると皆緊張しているのがわかります。スタッフが写真を撮らせてくださいと座っている丹波さんに頼みますと、隣に座っていた石井監督が、丹波さんの洋服を直します。丹波さん泰然自若としていてされるままです。監督のやることに間違いはないと任せています。丹波さんは、何か不思議な人です。

リトル・フランキーさんの名前を間違えて「リリーさん、リリーさん」と呼ぶと、スタッフが困ったようにカメラに向かって「リトルさんです。リトルさんです。」と訂正するのも可笑しいです。リリーさんのほうは、足先にマタタビを塗って猫を寄らせる場面で転んだらしく、アザができたと太腿をみせます。みたくありませんよ。真面目におやりなさいといいたくなるほど、ご本人は現場をひたすら楽しんでいます。

及川博光さんは、えっ!もういいのと拍子抜けしていましたが、及川博光さんの代役が女性との抱き合う場面の後ろ姿は撮っていて、代役はスッタフの男性で、その彼女がその場にいたらしく、石井監督はしきりに彼女に「ごねんね。」とあやまっていました。

映画についてなど一言もなく、新聞に深作欣二監督の『バトロワ』がPTAで問題になったという記事を紹介されて、「彼は論客だからね。いい宣伝になったんじゃない。」と言われます。

『石井輝男 FANCLUB』のファンになってしまいました。ですので『盲獣vs一寸法師』は見ていません。『石井輝男 FANCLUB』に比べるとつまらないような気がするのです。石井監督を見ている方が面白いです。生真面目な高倉健さんの二枚目半を引き出したのも石井輝男監督だと思いますし、都会的ギャングものも石井監督ならではのセンスだと思います。全員死ぬというのが残念です。最後に全員生きて都会のどこかを人知れず闊歩していたというのが一本くらいあってもよかったのにと思いますが。

監督・編集・矢口将樹/撮影・熊切和嘉

『盲獣vs一寸法師』は2000年撮影開始。2003年完成。2004年公開。石井輝男監督肺がんのため2005年急逝。『石井輝男 FANCLUB』公開は2006年。

立川連峰の映画『劔岳 点の記』を紹介しましたが、石井輝男監督が脚本を書いた松本清張さん原作の映画『黒い画集 ある遭難』も立山連峰の鹿島槍ヶ岳と五竜岳を舞台にしたサスペンスです。原作は読んでいないのですが、映画は理路整然と言った感じで進み次第にひとつひとつが明らかになっていく楽しさを味わわせてくれる作品です。

松本清張さんの『黒い画集短編集』の中から、三篇が映画化されています。『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年)、『黒い画集 ある遭難』(1961年)、『黒い画集 第二話寒流』(1961年)で、それぞれ松本清張ワールドが楽しめる作品に出来上がっています。松本清張さんの映画は古いほうがしっくりきます。

黒い画集 ある遭難』は、銀行に勤める江田昌利(伊藤久弥)、岩瀬秀雄(児島清)、和田孝(浦橋吾一)の三人が鹿島槍ヶ岳から五竜岳を目指すのですが、山小屋に泊った次の日雨と霧で道を間違えたようで、途中で江田は救援を頼みに一人おりるのです。和田よりも登山実績のある岩瀬は疲労がひどく、寒さもあり錯乱状態となり黒部渓谷の奈落へ転落死してしまいます。

岩瀬の姉・真佐子(香川京子)は、初心者の和田が助かって、経験豊富な弟が死んだことに納得がいかず、山登りをする従兄の槙田(土屋嘉男)に、江田ともう一度弟が登ったルートを体験し遭難現場へ行ってもらうことにします。

江田は三人で登るとき、夜行で疲れるので寝台まで取ってくれました。ところが、和田は夜中に起きている岩瀬の姿をみています。岩瀬はなぜ疲労がひどくなったのか。槙田は江田にどこで休憩し、どう進み、なぜ道を間違えたかを冷静に聴き検討し、疑問をなげかけます。江田も冷静に答え、江田の周到な計画であると思えるのですが、経験の薄い和田も同じように登っているのですから確信をつかめません。実際の雪山を体験しつつのこの映画も山岳ものとしては秀逸だとおもいます。

そして、岩瀬の疲労の原因がわかります。岩瀬は眠れなかったのです。寝台車でも、山小屋でも。なぜか。岩瀬と江田の妻とが不倫関係にあり、そのことを江田は岩瀬に耳打ちしたのです。江田は、岩瀬を眠らせず疲労させ自から錯乱状態に陥って死ぬようにしむけたのです。

そのことを槙田に告げると槙田を骨落させるが、自分も雪崩に巻き込まれてしまいます。

原作はありますが、映画でみせる筋道の立った脚本の展開で石井輝男さんのそれこそ、ある一面をみせてくれる脚本でした。

監督・杉江敏男/原作・松本清張/脚本・石井輝男/撮影・黒田徳三/音楽・神津善行

 

名古屋散策と芦雪(2)

長沢芦雪展』では作品の数の多さにびっくり転です。よくこれだけの数を集められたと思います。

 

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名古屋は、<ドニチエコきっぷ>(一日地下鉄・バス乗車券、600円)がありまして、それを試しに見せましたら100円引きになりました。安くなるのも嬉しいですが、こういう手もあるぜというのが楽しいです。地下鉄・バスの両方一日乗り放題ですから名古屋さんやりますね。地下鉄の中にも広告で紹介していました。平日はまた違いますので要注意。

南紀・無量寺のふすま絵を同じ空間で体験してもらうということで、無量寺の方丈と同じ空間を作られたのがこれまた結構な計らいです。虎や龍には、またお会いできましたねです。  串本・無量寺~紀勢本線~阪和線~関西本線~伊賀上野(2)

 

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なめくじが動いた線が一筆書きになっている「なめくじ図」、象の後方に乗ってあまりの高さにしがみついている「象背戯童図」、白象の背中に黒いカラスがとまっていて寝そべる黒い牛のお腹のそばには小さな白犬が座っている「白象黒牛図」。相変わらず芦雪さんは愉しませてくれます。

その他可愛いらしい童の遊ぶ姿、そこに子犬も加わり遊びに夢中の童や子犬たちの元気な声が聞こえてくるようである。ただ絵の左手の子供と犬は後ろ向きで空に向かっているような様子で色も淡くなっていて、友人がこの子たちは死の世界に向かっているのかもといいます。そうともとれる描き方で、芦雪の子供が相次いで死去してるとのことで、その影響なのかもしれない。

『芦雪を殺す』(司馬遼太郎著)の作品の中に出てくる、印形の中に五百羅漢がびっしりと書き込まれたものもありました。さらに、円山応挙さんの高弟で、芦雪さんと二哲と言われた源琦(げんき)さんが絶賛している「山姥図」(重要文化財)も厳島神社から出品されています。司馬さんの小説では芦雪さんはかなりの変人に書かれていますが大胆で小心なのかもしれません。

東京で開催されていたらこんなにゆったりとした状況では鑑賞できないでしょう。まだ次の部屋があると思うほどの作品数で、出品作品リストには、和歌山の徳泉寺、無量寺、草堂寺、高山寺からの出品作品もあり現地に行っても観れないでしょうし、雨に感謝でしょうか。

神の手・ニッポン展Ⅱ』は、手で作られるアートの細やかさと高度さを紹介する展示です。エッグアーティスト・遠藤一恵さん、水引工芸家・内野敏子さん、レザーアーティスト・本池秀夫さん、立体間取りアーティスト・タカマ ノブオさん、ペーパーアーティスト・中山ゆかりさん、墨絵アーティスト・西元祐貴さんの作品が展示され映像もありました。

 

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第一期の代表作品も展示されていましたが、息を詰めて仕事をされているのではないかと思えるほどの繊細さで溜息がでてしまいます。その発想が実物になる過程の時間の経過と失敗と成功のくりかえしが、美しいと思わせてくれるのでしょう。

東京の三井記念美術館での『驚異の超絶技巧! ー明治工芸から現代アートへー』も、その手は何なのだです。恐ろしくなってしまうほどの技です。

 

 

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こちらはただただ愉しませてもらい、あーじゃらこーじゃら言わせてもらうだけです。あーじゃらこーじゃら言わなければと言われそうですが、好きかどうかもありますし、守るものは守って変化しなければ気の抜けた炭酸水のようなものです。

ただし時にはこれこそが水だというものもあります。それは全部ではありません。短い時間だったり、組み合わせて作り上げられたりといつ現れるかわからないのです。今日そうだと思っても明日は違うかもしれません。明日が今日になりました。

 

名古屋散策と芦雪(1)

名古屋でのイベント参加で友人と出かけたのですが、イベントがが台風のため中止となり、10月29日の帰る日は予定を繰り上げて午前中に名古屋を後にしました。台風22号は、爪痕を深く残した21号よりも傷をえぐらず通りすぎてくれました。何にせよ近頃の台風や気候変動は予想がつかないので逃げるが勝ちです。

名古屋の散策は、名古屋城、中村公園、明治村にしましたが、二日目は雨のため明治村は中止として、美術館としました。

名古屋城についてはパンフを改めて読みました。まとめますと、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごとの引っ越しを決定。普請(土木工事)は、加藤清正、福島正則ら西国大名20家に命令。慶長17年(1612年)に完成し、尾張初代藩主は家康九男の義直。以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城となります。

昭和20年(1930年)の名古屋空襲で本丸のほとんどが焼失。昭和34年(1959年)天守が再建。

そして今回は、本丸御殿の再建中で一部が公開されていました。来年の2018年には全て完成する予定です。公開されているのは<玄関><表書院><対面所>で、黒の漆が目に映る建物内で襖絵、壁画と同時に天井がみどころです。

東門から入ると<清正石曳きの像>があり、天守の石垣は清正が任せられ大きな石の上に乗り音頭をとった像です。本丸御殿見学のあと進むと石垣に<清正石>があります。大きな見やすいところにあるのをそう名付けたのかなとも思ったりします。以前来たときよりも見学時間がかかりました。その時は、そこから徳川美術館へいったのですが、今回は中村公園です。

友人の御朱印のためにと探していましたら、中村公園に行きあたりました。名古屋中村区中村町は、豊臣秀吉さん、加藤清正さん、そして初代中村勘三郎さんの生まれた土地なのです。

豊國神社(御祭神 秀吉公、摂社 清正公)があり、秀吉公誕生の地として常泉寺があり、清正公誕生の地として妙行寺があります。

 

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そして初代中村勘三郎さんの踊っている像がありました。解説文には次のようにあります。この地で生まれて、京都で大蔵流狂言を学び、京から江戸に下ってのちは猿若勘三郎と名乗り、現在の日本橋付近で「猿若座」を開設、江戸で初めての常設の芝居小屋で、初代中村勘三郎が江戸歌舞伎の開祖といわれる由来です。その後堺町に移転。その際、中村勘三郎を名乗り、猿若座の名前も中村座と改めました。

 

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2006年(平成16年)には、区内同朋高等学校で十八代目中村勘三郎の襲名披露公演も行われています。9月24日から27まで、同校の体育館を改装して行われていました。11年前ですね。

初代中村勘三郎像の除幕式は今年の5月だったのですね。体育館襲名はテレビで特集のとき見ていますが、除幕式は知りませんでした。本来であれば、名古屋に行くからには初代勘三郎像をまず見なくてはと言わなければならないのでしょうが、思いがけない出現だったのです。

豊國神社では、季節限定の御朱印と通常御朱印、清正公の御朱印が頂けたらしく、その他のお寺もありますから、この公園で御朱印が増え友人はニンマリでした。こちらも、初代中村勘三郎さんの生誕の土地に立つことが出来、名古屋中村区は印象に残る土地となりました。文化プラザの中には秀吉・清正記念館もありましたが時間的にパスです。

次の日は雨模様ではっきりしませんので、観光案内で美術館などのチラシをゲットして呑気にいきましょうと検討し、友人が『神の手・ニッポン展』(テレピアホール)に行きたいというので、もう一箇所は近い場所の『長沢芦雪展』(愛知県美術館)にしました。

気になるチラシがありまして、「文化のみち二葉館」(旧川上貞奴邸)での『江戸川乱歩と人形』でした。あの建物と江戸川乱歩さん合うと思います。でもどうして名古屋なのと不思議でしたが、乱歩さん、生まれは三重県名張市ですが、お父さんの仕事の関係で3歳から18歳(愛知県立第五中学校卒業)まで名古屋で育ったのです。

最初からここまでという意気込みがなく、二箇所まわった時点で、今日はこのぐらいでということになってしまいました。今から考えるとちょっと残念でした。名古屋での乱歩さんに御目通りしておけばよかったと。

 

映画『追憶』・ 映画『劔岳 点の記』

能登半島の旅の輪島で、映画『追憶』のロケ地マップを手にいれました。<刑事、被疑者、容疑者として、25年ぶりに再会した幼なじみの3人。彼らには誰にも言えない過去がありました。>

11月3日からDVDレンタルで新作としてレンタル開始で、開始日に借りたのは初めてです。ロケマップで見ても、旅の途中の風景は入っていないようですが、一応手にしてしまったので観ることにしました。

降旗康男監督と撮影の木村大作さんとは9年ぶりのタッグだそうです。どちらかといいますとこのお二人の映像美が見たかったのが強いです。主演は、岡田准一さんですが、降旗監督と木村さんの映像に一人立つには少し早いようですが、動きの少ない中でよく頑張られたと思います。観るほうは岡田さんの立場はわかるのですが、小栗旬さんと柄本佑さんについては分からない部分があり、柄本さんは思い描いたよりもいいヤツで、小栗さんはかなりこちらの思いがぐらつくほどマイペースで、それぞれのキャラを上手く発揮してくれ、終盤に向かい、三人の人間性も見えて来ました。観ている時はウムと思いこれはとインプットしますが、かすかな表情を逃がさず捉えているなあと感じました。

ヒューマンサスペンスということなので内容は書きませんが、何か大変な経験をした子供たちが大人になって顔を会すというのはよくあるパターンですが、自分から大変な環境を打破しようとした子供たちが、大人になってもっと困難な状況に陥るというのはやるせないです。それがどう展開するのかが見どころでもあるのですがヒューマンの方向性にいきました。

映像に出てくる輪島の間垣(高さ約5メートルの苦竹をすき間なく並べた垣根。冬は強い潮風から家屋を守り、夏は暑い西日をさえぎる)などは、その地の風土に合った生活の知恵の美しさです。

最初に車に子供三人と運転する人(吉岡秀隆)が乘っていて、運転する人が、蛍光灯を変えて来るからと資料館のようなところにいくのですが、ここは<時国家(上時国家)>で、平時忠さんを祖とする800年続く旧家で公開されているようです。本家と分家があって、上時国家と下時国家と呼ばれているのです。なるほどここであったのかと納得です。

次世代が、降旗康男監督と木村大作キャメラマンに挟まれて仕事ができた記念すべき映画と言えるでしょう。

原案・脚本・青島武、瀧本智行/出演・岡田准一、小栗旬、柄本佑、長澤まさみ、木村文乃、安藤サクラ、吉岡秀隆

『追憶』は富山ロケもしていまして、となれば次は木村大作キャメラマンが監督した映画『劔岳 点の記』(2009年)となります。立山連峰や剱岳が豊富に贅沢に映されている映画です。立山に行かなくてはと思ってしまう映画です。

「点の記」は、三角点など基本になる位置を測量して設定し、その記録を書き記すことを指すようです。劔岳の点の記なのですが、1906年(明治39年)の実話で、まだ誰も登ったことのない剣岳を踏破し地図をつくれとの軍の威信をかけての命令です。その指令を受けるのが参謀本部陸地測量部の測量手・柴崎芳太郎(浅野忠信)です。先輩の元測量手(役所広司)に相談し、地元の山の案内人・宇治長次郎(香川照之)を紹介されます。

立山は山岳信仰の山で立山曼荼羅といわれていて、剣岳に登るなどとんでもないと反発されたりもしますが、案内人の宇治長次郎の協力のもとなんとか下調べもでき、紫崎は無理であると判断します。軍部は日本山岳会も踏破を目指しており精神論など持ち出して威嚇し、実行するしかありません。

紫崎は、他の測量夫二名(モロ師岡、松田龍平)と長次郎の集めてくれた村人三名の協力のもと雪崩などにも会いつつ、行者(夏八木勲)の「雪を背負って登り、雪を背負って降りろ」の言葉を胸に劔岳の頂上に立つのでした。

軍部のお偉方には、本当に腹が立ちます。じゃ、自分で行ってごらんよと言いたくなります。紫崎が静かなだけ、こっちが憤ってしまいます。紫崎や長次郎はあくまでも冷静で、自然の驚異を知っているだけに人間の感情などに左右されないのかなと思ったりもしますが、その冷静さのため観る側は山自体をじっくりあじわうことができます。一歩一歩一緒に歩いています。そして適確な判断で速く下りましょうの言葉にほっとしたりします。

さらに腹が立つことには、頂上には修験者の錫杖(しゃくじょう)の頭の部分が残されていて初登頂ではなかったのですが、それを聞いた軍の上層部は紫崎達のやったことをなかったことにしたいとまでいうのです。現場を無視してご都合主義もいいところです。

しかし、木村大作さんの映す立山連峰や劔岳はそんな人間界のあほらしさを跳ね飛ばす悠久さと威容さがあります。木村大作・名キャメラマンならではの監督作品です。音楽も抜群でした。

列車に乗降シーンなどは明治村で撮影したそうで、東京の電車の神田橋停車所なども明治村だったのでしょうか。あったようななかったような記憶が薄いです。愛知の明治村に再度行く予定が台風22号のために『長沢芦雪展』に変更したのです。行く機会があったときは、じっくり見てこなくては。

エンドロールは、「仲間たち」として、監督などの名称はなく名前だけが流れます。最後に、 原作者 新田次郎 「この作品を原作者に捧ぐ」 とあります。木村大作監督らしい計らいです。ここでは、蛇足かもしれませんが紹介させてもらいます。

監督・撮影・木村大作/原作・新田次郎/脚本・木村大作、菊池淳夫、宮村敏正/音楽監督・池辺晋一郎/出演・浅野忠信、香川照之、モロ師岡、松田龍平、螢雪次郎、仁科貴、蟹江一平、仲村トオル、笹野高史、國村隼、小澤征悦、宮崎あおい、鈴木砂羽、石橋蓮司、井川比佐志、夏八木勲、役所広司

 

能登半島から加賀温泉郷への旅(番外篇)(5)

化生の海』を書かれた内田康夫さんと浅見光彦にありがとうです。そして、この本を置いてくださっていた<北前船主屋敷蔵六園>にもです。

化生の海』は今回の旅をさらに膨らませてくれました。内田康夫さんは歴史的な裏付けをされるので、それを読むだけでもそうなのだと新たな知識を頂きます。浅見光彦は雑誌『旅と歴史』のルポライターということもあり、内田康夫さんに劣らずよく調べてくれ、さらにソアラに乗って動いてくれます。今回も北海道の余市に住む男性が加賀の橋立で死体で発見されるのですから、加賀に話しが移動するであろうし、こちらの旅と重なるのかどうか楽しみでした。

殺された三井所剛史(みいしょたけし)は、家族に松前に行ってくるといって出かけ、発見されたのは加賀の橋立漁港の近くの海中です。娘の園子は余市のニッカウヰスキーの工場見学案内係りをしていて、受付の女性が浅見光彦の友人の妹で、5年たっても進展のない事件を浅見光彦が調べることになるのです。

松前城の資料館で、三井所剛史が持っていた箱に入った土人形と同じ人形を発見します。函館では、三井所剛史が中学2年の時作文コンクールで最優秀になった作文をみつけます。浅見光彦は北海道へは取材旅行としてきていますから、「北前船の盛衰」でもテーマにして雑誌社に一文を送ろうと思っています。そのことから橋立が北前船と関係ある土地だと知るのです。江戸時代から昭和27年まで、「江沼郡橋立村」は、大阪と松前を結ぶ不定期回船北前船の根拠地の一つであると。

函館の「北方歴史資料館」も訪ねていて、高田屋嘉兵衛の記念館でもあるらしく、彼は函館の廻船問屋で財をなした函館の中興の祖なのですが、ニシンを獲るだけ獲ってそれを肥料にして儲けたのです。生の魚(塩づけとか乾燥にもしますが)と違い肥料は日にちがもちます。二代目の時ロシアとの密貿易の嫌疑をかけられ闕所(けっしょ)に処され、所領財産を没収され、所払いとなっていますが、四代目の時闕所が解かれていますので、いいがかりだったとの説もあるようです。こちらは、函館を旅した時、名前だけでしたので、今回その様子を知ることが出来ました。

いよいよ加賀の橋立に向かいます。読みつつわくわくします。そして山中温泉につながっていきます。山中節の歌詞に「 山が赤うなる木の葉が落ちる、やがて船頭衆がござるやら 」というのがあり北前船の帰りを待っているわけです。

土人形は、裏に「卯」の字があり浅見光彦は<北前船の里資料館>で全体の感じが似ている土人形を見つけます。その人形の裏にも「卯」の字がありました。そして光彦の母から、自分が若い頃旅で見た「卯」の字がついた人形は「津屋崎人形」だと教えてもらいます。九州福岡市から少し北の小さな港町で、もちろん、浅見光彦は行きます。ところがその間にまた一人行方不明となり、その車と死体が発見されるのが、九谷焼窯跡の先の県民の森のさらに先なのです。地図をみつつここあたりなのだと確認しました。

いよいよ事件は佳境に入って来て、北海道の余市から、三井所園子と母もやってきます。その後は書きませんので興味があればお読みください。

函館の五島軒のカレー、港の倉庫群、行ってはいませんが山中温泉のこおろぎ橋、無限庵などもチラッとでてきます。九谷美術館、山中塗と輪島塗の違いなどもあり、登場人物の父と兄が船の事故で能登の義経の舟隠しあたりで見つかったなどという話しも出て来て地理的にもわかり、文字が身近な事として生きてきました。そういう意味でも楽しい内田康夫ミステリーワールドを充分味わわせてもらいました。

能登演劇堂は能登の中島町の町民の方達のボランティアが大きな力となっていますが、映画『キツツキと雨』(2011年)は、映画ロケに協力するロケ地の木こり職人と新人映画監督との交流、村人や映画スッタフの撮影現場の様子を描いている佳品です。

真面目一筋の木こり職人・岸克彦(役所広司)は、妻を二年前になくし、息子(高良健吾)と二人暮らしですが、この息子が無職で一人立ちできないのです。そんなことに構わず木を切る仕事をしているとチェンソーの音がうるさいから少し仕事を止めてくれと言われます。何かと思って様子をみますと映画のロケらしいのです。

人の好い克彦は、撮影場所に案内したりするうちに、このロケに次第に協力体制に入ってしまいます。ワッオー、映画のロケだ!などのノリは無く、いつのまにかそうなっていくのが、とぼけているわけではないのになぜか可笑しいのです。よく判らないのだが、助けなくてはならないのかなあの感じです。

新人監督の田辺幸一(小栗旬)は自分の脚本にも自信がなく、ベテラン助監督に引きずられるような感じで、これで映画が完成するのであろうかの様そうです。ところが、克彦が加わってから、すこしづつ空気がかわっていきます。言われたことをするだけなので、自分を主張するわけではないのですが、村の人を巻き込むとなると俄然力を表すのです。

そして、監督の幸一でさえ面白いと思えない脚本を読んで面白いと真面目にいうのです。田辺監督も次第に撮影に自分の意見を言い始め、克彦も監督用の木の椅子を提供したり、ゾンビとなって村人と映画に出演したりして盛り上がっていきます。

ザーザー降りの雨に克彦は木こりの勘で晴れるといいます。さてどうなりますか。

ほのぼのとしていて、克彦に衒いのない真面目さと、監督の幸一の自信の無い影の薄さのコントラストがコミカルさを発散しています。村人がゾンビになって撮影する場面も笑ってしまいます。

どうやら克彦と息子の気持ちにも同じ風が吹き始めたようで、どうなるかと思った撮影も大物俳優(山崎努)から田辺監督は認められたようです。

この映画、役所広司さんが『無名塾』出身だからというわけではありませんが、紹介したくなりましたので書いておきます。

監督・沖田修一/脚本・沖田修一、守屋文雄/出演・役所広司、小栗旬、高良健吾、臼田あさ美、古舘寛治、黒田大輔、森下能幸、高橋務、嶋田久作、神戸浩、平田満、伊武雅刀、リリィ、山崎努

 

 

能登半島から加賀温泉郷への旅(4)

那谷寺>は、泰澄禅師が開創され今年は開創1300年で33年に一度の秘仏・御本尊・十一面千手観音菩薩の御開扉でした。バスのガイドさんが今月の31日までですからよかったですねと教えてくださいました。那谷寺を一番にしながら事前に調べていなくて、帰ってから五木寛之さんの『百寺巡礼』の那谷寺の録画を見直しましたら、ここには若宮白山神社もあったのです。頂いた案内には載っていなかったので見過ごしてしまいました。またいらっしゃいということでしょう。

もう少しお天気の好い日に再度訪れたいお寺さんです。白山信仰のお寺で、岩屋寺ともいわれ、太古の噴火の跡といわれる岩が風雪をへて奇岩の姿をみせ、景勝になっています。五木寛之さんは、この「奇岩遊仙境」の階段を登られていましたがさえぎられていました。今回は雨は降っていませんが、足元がぬれていてすべり歩ける状態ではありません。晴れた日には歩けるのかどうか、今はどうなんでしょうか。本殿も岩窟内にあり、胎内をあらわし、この世の罪を洗い流し新しい白山のように生まれ変わる聖地とされています。

芭蕉さんが残された句が 「石山の 石より白し 秋の風」 です。本殿、三重の塔、護摩堂、鐘楼堂、庫裡書院が重要文化財で、一つ一つの建物が見どころありで、特別拝観の庭などもあり今回計画を実行してやはりよかったです。

 

 

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そこから加賀温泉駅にもどり今度は海まわりのキャン・バスで橋立へ向かいます。北前船は北海道から日本海側の港に寄り、下関を通って瀬戸内海から大阪までを行き来して商品を売りさばいた船程度の知識でした。

船主は荷物を運ぶ運賃を稼ぐのではなく、品物を買い付けては売るという動く商店なのです。危険な航海なのに凄い利益を生み出していたのは、今のように情報が北から南まで伝達していませんから、本来の物の値段が北と南ではわかっていないのです。ですから安く買って高く売ってもだれも不当であると思わなかったわけです。運んできてくれなければ手にはいらないのですから。商売に長けた近江商人が関係したようです。

ところが次第にそのことが知れ、船主の儲けが少なくなり、それでなくても航海は命がけで、板子一枚下は地獄です。次第に他の商売に転じたりします。その一つに、保険会社などがあります。自分たちが経験していますから、海難事故などがあった場合の損失をよく知っていたわけです。

江戸時代から明治にかけて橋立には多い時には42名船主がいたとされ、日本でも1、2位を競う富豪村と呼ばれたそうです。現在残っている屋敷を公開しているのが2つあり、一つが<北前船主屋敷蔵六園>です。酒谷家屋敷で蔵六園の由来は、大聖寺藩主が庭にある石が亀そっくりなので命名されたのです。蔵六とは亀のことで、亀は頭、手足、尻尾の六つを甲羅の内にしまうので蔵六というのだそうです。

色はくすんでいますが、全館紅がら漆塗りで、やはり広いです。建具、調度品なども立派ですが、一番素敵だったのが、飾られている植物です。庭から切って生けられたのでしょうが、その草木に名前が紹介されていましたが、知らないものが多く種類の多い庭の植物を大切にされておられるようでした。ご近所の集まる場所でもあるようで来客もあり、すいません自由に見て行ってくださいとのことでした。

 

 

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入館するとき、路地の狭い空間と板塀の感じが映画のロケに使えそうな好い感じで奥に神社があり、そのことをお話ししましたら、「帰りに神社に上がって見てください。狛犬が石ではなく、木でできているのです。沈まないように。」ということで、出水神社の階段を上りました。今は社殿のそばに木の狛犬が鎮座していまして、朽ちないようにでしょうか、前面は透明のアクリル板で覆われていました。俺たちも潮風を受けつつ頑張ってきたのだぞという姿で、沈まないようにとの願いを全身で受け止めたのがよくわかります。

 

 

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北前船の里資料館>は、小説『化生の海』(内田康夫)のなかで浅見光彦が今まで見た北前船の資料館の中で一番充実していると褒めていました。北前船の模型、航路、船箪笥、船乗りの衣裳、解説パネル、音声ガイドなどがあります。

 

 

 

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大小の立派な夏用冬用の仏壇があり、北前船は冬は休み、春から秋まで活動したので当主がいる間は冬用の小さな仏壇を開け、海に出ている時は夏用の大きな仏壇を開けたそうで、残された家族は大きな仏壇で安全をご先祖様にお願いしていたのでしょう。

船乗りの一年は、3月には徒歩で大阪へ。船の修繕、買い積み荷(酒、木綿、古着など)して4月上旬には出帆  ⇒  中国、四国の港で買い積荷(塩、紙、タバコ、砂糖、ロウなど)  ⇒   日本海にまわり境、小浜、敦賀で買い積荷(鉄、縄、ムシロなど)  ⇒  福浦、輪島、佐渡、新潟、酒田、深浦、鰺が沢から函館、江差、松前、小樽、厚田各地で荷物を売り払い、買い積荷(ニシン、〆粕、数の子、コンブなど)  ⇒  (上り)9月上旬までには瀬戸内海に入るように出発   ⇒   瀬戸内海の港で売りまわり  ⇒  晩秋か初冬には終点大阪  ⇒  徒歩で郷里へ帰るのは年末。そして次の出発まで山中、山代、粟津の温泉地へ行くのです。

 

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北前船によって物資と同様に文化、民謡、お土産品の工芸、人形などが行き来し、寄港した港のにぎわいが浮かんできます。

印半纏(しるしはんてん)は、江戸時代一般庶民は羽織の着用は許されず半纏をきたようで、江戸後期になって大工、職人、船頭なども外着として着るようになったそうで、羽織、半纏で時代がわかるわけです。

 

 

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敷地面積は1000坪で明治9年に酒井長兵衛さんが建てた屋敷で6隻の船を所有していました。資料が多くてざーっと流し見でしたが危険と隣り合わせで巨額の富を得たことはわかりました。

ここの家々は赤の瓦屋根が多く、橋立漁港バス停までに船の駐車場の船留めがあり、自動車道からは上に向かう細い階段の路地があり、地図によるとその上は迷路のような細い道があるとのこと。海側には蓮如上人の碑もあるようです。そろそろ五木寛之さんの蓮如、親鸞関係の小説の出番でしょうか。

ここは夕日の綺麗なところだそうですが残念ながら見られませんでした。バス停の前が魚屋さんでその上に食事処があり、バスの時間まですぐできるものをと頼み、やはり生ものが美味しかったです。

 

 

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能登半島から加賀温泉郷への旅(番外篇)(5) | 悠草庵の手習 (suocean.com)