友 遠方より来たる (番外編)

友人が旅の記録を一枚にしてくれると期待していたら、葉書一枚にして早々配達される。お見事である。いつの間にか行った場所のピンナップを撮っていてくれていて、人物は飲み会で、お店の人に撮ってもらっただけである。朝倉彫塑館の門柱のブルーの名前の彫がいいねと言われ頷いたが、それも建物の横に配置している。写真のために立ち止まらせることもなく意識させることもなく旅の最高の写真家であり編集者である。

大円寺に笠森お仙の碑があったが、笠森稲荷境内の茶店鍵屋というのは、本当は、天王寺の塔頭福泉寺(現功徳林寺)にあったもので、どうも後の人が大円寺の瘡守(かさもり)稲荷と混同したという説もある。

私の間違いで築地塀のあるお寺を長安寺と書いたが、観音寺であった。

初めて谷中を訪れたのは、団子坂に住んで居たことのある友人の案内であった。その時日暮里駅から御成坂を上がった右手の最初のお寺・本行寺で彰義隊が立てこもったため門に銃弾の跡があると教えられたつもりで確かめたが無かったので違う場所だったかと思いきや、調べたら隣の経王寺であった。今回近くを通りながら、上野の山の戦いの歴史の傷跡ととして見せられなかったのが残念である。その初めての時一緒に高村光太郎と智恵子の住んで居た住居跡も探してもらたのだが見つからなかったが、今は地図に載っているので今度突き止めたいと思う。

朝倉彫塑館を左手にまっすぐ進むとお寺の町のイメージが味わえるであろう。川口松太郎さんの「愛染かつら」のヒントとなった自性院もあるが、ただ、愛染明王は非公開で桂の木もないので行ったが印象うすいお寺である。

桜の時期は谷中霊園が、ツツジの時期は根津神社と忘れ物を探すように町歩きを楽しめる谷・根・千である。

その後、友人が『上野谷中殺人事件』(内田康夫著)を読み<谷根千>の意味が分ったと知らせてきた。こちらが分かっていても共通語になるには時間を要することもあるようである。

 

 

友 遠方より来たる (3)

千駄木から湯島に移動。湯島駅を出ると湯島天神が見えるが寄らなくて良いということで旧岩崎邸へ。秋には大きなイチョウの木が美しい。青空の日は下から見上げると青と黄色のコントラストが現実の時空から飛び立たせてくれる。私たちが興味惹かれたのは洋館の壁紙である。革に彩色したものと紙に彩色をしたものがあった。紙の方はおそらく何回も重ねて壁紙用としたのであろう。それをローラーで型押しし、その模様に合わせて彩色している。紙のため鮮やかな色づかいとなっている。革のほうがくすんだ趣きのある色で、住まいとしては革の色彩を皆押す。

岩崎邸は三菱財閥三代目久弥さんが住んでいた邸宅である。岩崎家の写真があり、エリザベス・サンダースホームを創立した沢田美喜さんが、後に艱難の道を選ばれたとは想像できない娘時代のふくよかな着物姿で写っている。弥太郎さんの孫であり久弥さんの娘である。大磯のプチ旅の時、沢田美喜記念館がありここだったのかと知ったのであるが時間の関係で寄れなかったが、要予約のようであり、現在は3月末まで休館のようである。友人が三菱は直系ではないのではの言葉で家系図を見ると、初代を弥太郎さんとして、二代目はその弟さん、三代目がこの家の主であり弥太郎さんの息子の久弥さん、四代目は弟の息子へとつながっている。二家族が三菱の中心だったわけである。そして、やはり政界とつながっている。

洋館から和館へと続くが今は大広間しか残っていない。和館は洋館よりもっと広く、洋館は寒かったとあるから生活は和館だったのであろう。和館を出ると広い芝生の片隅に冬ぼたんが咲いている。一つの菰囲いに二花づつ咲いている。友人がぼたんは丈の高い6月頃と思っていたというので検索したところ。冬ぼたんは冬に花がないので春ぼたんを品種改良して冬に咲くようにしたのだそうである。花は小さ目のもあるがここのぼたんは茎の細さに比べると花は大きい。芝生の庭園から見る洋館は「風と共に去りぬ」の映画を思い出してしまう。カーテンからドレスを作るスカーレット。ドレスに相応しいカーテンは見当たらなかった。洋館と離れて撞球室がある。山小屋風で友人がフクロウのようだという。入口の上がフクロウの目のようで、鱗のような装飾がフクロウの姿を連想する。この洋館の一部と撞球室はジョサイア・コンドルの設計である。河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)

次が不忍通りを渡り下町風俗資料館である。近くに不忍通りに添って行くと岡倉天心の弟子である横山大観記念館もあるがそこはパスして、豪邸から一気に大正時代の庶民生活に入る。木のゴミ箱などは幼い頃目にしたものである。井戸端などから、韓流ドラマを見ている友人は外で皆で食事をするのだがあれはどんな場所なのかという。私は見ていないのだが3人はよく出てくると賛同する。韓国の家の造りなど何処かで展示すると、韓流ドラマを見ている人にとっては一層楽しくなるかもしれない。<女性たちの装いと暮らしー明治から昭和へー>展をやっていて、女性の江戸から大正の髪型の紹介もあるが、日本髪というのは誰がどういう経過でできあがったのであろうか。あの複雑さ、飾り。あの髪、着物で劣らずに動いていたのであるから感心してしまう。鎖国ということも影響しているかもしれない。あっという間に日常から日本髪は無くなるのであるから。ここで町歩きの最終とする。

町歩きと飲み会兼語らいが半々というところがベストであろうか。友人の計らいで宿は我々にとってはベストの条件で、外で飲み会をしたあと、二次会を兼ね心おきなく語り合うことが出来たのである。年とともに物事も人間関係も俯瞰してみることが少しできるようになり、以前よりも同じ状況の話も両サイドの状況が見えるようになる。年をとるのも悪くない。イベントも無事終了。この旅はパソコンの得意な友人が写真を使ってまとめてくれるだろう。これから写真は少なくの方針にそって忘備録としてして一枚にしてくれるのが嬉しい。(な~んて期待している)

次の朝、二人の友はそれぞれの予定へ、私ともう一人の友人は巣鴨に行きたいというのでとげぬき地蔵へ向かう。巣鴨から庚申塚で都電の荒川線で早稲田に向かいと考えて居たら、電車の中で、生麦のキリンビールの話が出て、彼女も生麦には行っており、では恵比寿でビールを飲もうということになる。JR巣鴨駅から江戸六地蔵尊の真性寺を通りとげぬき地蔵尊のある高岩寺へ。巣鴨地蔵通りは凄い人である。高岩寺の大例祭の日であった。日本の庶民の町が元気なことは頼もしいことである。とげぬき地蔵尊も並んでおり横からお姿を見るだけとする。本殿をお参りする。講話の終わるところであった。講話をするお寺さんも今は少ないのではないだろうか。このお寺のすぐ横に並ぶカレーうどん屋さん「古奈屋」がある。並んでいない。10時58分。11時開店である。これは好機と食べていくこととする。後ろにならんだ方は常連さんのようである。汁ではなくスープである。全て飲みほす。再び巣鴨駅に引き返し、恵比寿にある、ヱビスビール記念館へ。ここで有料のツアーと試飲がある。それを申し込んで時間まで待つつもりが、同じフロアーにビールカフェがあり、福笑いセットで二種類のビールが味わえるとある。こちらにしようと、ツアーをキャンセルしてもらいそちらに変更。やはり一杯目のビールは美味しい。もう一種類はビールカクテルということで、私たちの好みでは無かった。

本当は町歩き第二弾の予定であったが、食べ飲み歩きにしてしまった。ビールをおいしく飲める温度ということで、コートはロッカーに預け、ゆったりと飲むことができた。友人は東京都写真美術館に行きたいと思って居たので場所がわかり、ビールの飲めるところもあり、今度改めてくるとのこと。写真美術館では映画やドキュメンタリー映画も上映していて何回か来ているが、ヱビスビール記念館も穴場である。三越の建物の地下に映画館がありこの映画館も他では観られぬ映画を上映していたが閉館し、今はK・POPの専属劇場になっているようである。行ったという仲間の話は聞かないが、今度聞いてみよう。

 

友 遠方より来たる (2)

JR日暮里北口出口で友人4人が集合。何年ぶりであろうと昨日まで会ってたような感覚である。出口を出ると前の道路は、下を列車が走る橋である。その橋の下は常磐線、山手線、東北新幹線、スカイライナー、京成線、京浜東北線が走る。歩道橋を渡り欄干から下を覗くと何もない多数の線路の上に一つの列車が姿を現すとあちらからもこちらからもと次々と姿を現す。歩道橋を渡り御成坂を上がり朝倉彫塑館へ。

朝倉文夫さんは彫塑家で早稲田大学に大隈重信像、東京国際フォーラムに太田道潅像がある。アトリエには大隈重信像(原型があるのでそれを使って作れることを友人が係りの人に聞きだす)が丸い台に乗っている。それは地下に下がることが出来、大隈像の頭から足まで同じ位置で制作作業ができるようになっている。他の部屋の骸骨の模型の前で友人が何か話している。模型を見ると自分の悪い部分がよくわかったという。そこでしばし人間の身体の仕組みについて考える。ただの老化の話であるが、声が大きくなるのが実感を伴っている。庭を建物のあらゆるところから眺められ、二階を含めてお日様の光をふんだんに取り入れられるように建てられている。欄間のカーブとか、壁や天井の材質、障子などあらゆる細やかな朝倉文夫さんの美意識が詰まっている。ここで皆、金沢の旅の時の群青色の壁を思い出す。あの色も忘れられない色である。屋根瓦にも趣向があり、取っ手のような突起のある瓦が並べ方も考えて配置している。屋上は庭園となっている。谷中霊園や沢山のお寺の屋根がみえる。谷中は寺町でもある。屋上庭園で背中を見せて下を覗いていた若者の像を、帰りには下から見上げて朝倉彫塑館ともお別れである。舞台美術家の朝倉摂さんと彫刻家の朝倉響子さんは朝倉文夫さんの娘さんである。

谷中ぎんざのに文字がみえるゲートをめざすと下りの階段がありここは夕焼けだんだんと名前がついている。その左手の下り坂が七面坂である。夕焼けだんだんを降りると谷中銀座の商店が続くのだが、その入口にトルコ料理のお店があり、シナモンケーキのカット売りをしている。一カット50円。昼食はもう少し歩き進んでからなのでここでゆっくり歩きつつ軽く胃袋へ。御惣菜屋さんの安さや、アンコウの量の少ない鍋用に便利と話しつつよみせ通りへぶつかる。今回はそこから案内版を左の路地に入り、岡倉天心の旧居跡の岡倉天心記念公園へ。六角の堂がある。扉が閉まっていたのでそのまま立ち去ったが、この中に平櫛田中さん作の岡倉天心像があったはずなのである。横の方の窓から見えたのかもしれないが確かめなかった。岡倉天心の映画が出来たはずと調べたら映画『天心』は昨年完成していたが、上映館が少ない。特定の所でしか上映しないのであろうか。見たいのであるが。

築地塀の長安寺(観音寺の間違いであった)への道が解らずそのまま三崎坂にぶつかる。おそらく左手に鉄舟・圓朝のお墓のある全生庵があったのであろうが、そのまま右に折れると、笠森おせんの碑がある大円寺があり、その門をくぐる。笠森お仙は江戸時代の三大美人の一人で、鈴木春信の美人画のモデルになった女性である。その碑に書かれている文は永井荷風によるものである。三大美人ならあと二人は誰かと友人が言ったのを思い出し検索したら、柳屋お藤と蔦屋およしである。美人画があるのかどうかは調べていない。向かいにある千代紙のいせ辰を教え、菊見せんべいの所で団子坂を説明、少しもどりべっ甲屋さんのところのよみせ通りを入り、一つ目の路地の奥に指人形の「笑吉」がある。その前にたったらこれから指人形劇が始まるという。すでに8人ほど座っている。椅子を空けてくれ私たち4人がいっぱいになるせまさである。人形劇をする小さな舞台の上には、たけしさん、鶴瓶さん(ここでたけしさんと鶴瓶さんに女の恨みを一言。一昨年、昨年の年末にテレビで落語をすると言ったのに二人は約束を破ったのである。怨念。予定外のテレビ番組)サブちゃん、エルビスなどの指人形が飾ってある。人形劇はショートで10種類くらいあり時間は30分くらいで500円。柳家金語楼さんのような表情豊かな老人などが出てきたりして笑わせてくれる。友人達も気に入ってくれたようだ。教えてくれた仲間が、私も参加するといったので、今回は遠方からの古い友人だから駄目、今度別枠で企画するからといったが、お礼を兼ねて早めに計画しなければ。谷中の七福神は回ったと言っていた。

ここから、森鴎外記念館に行くか、歩いて上野公園を抜けるか、地下鉄を使い千駄木駅から湯島駅まで行くかの選択で地下鉄を使うと選択。ではその前に昼食をと、一番近いお蕎麦屋さんに入る。

 

 

友 遠方より来たる (1)

2014年1月の最大イベントは、遠方より友が来て、東京の町歩きをして、飲み語らうことであった。町歩きは谷中周辺から上野と決めた。谷中・根津・千駄木の谷根千となるとかなり範囲が広くなり、さらに上野に抜けるとなると時間的無理が生じる。

何時ものことながら内田康夫さんのお世話になって『上野谷中殺人事件』を読む。<谷根千>の命名者・森まゆみさんをモデルとしているらしき人も登場する。森まゆみさんは世田谷文学館の『幸田文展』の監修者でもある(堀江敏幸さんと)。世田谷文学館 『幸田文展』 この小説に出てくる江戸川乱歩の乱歩から名前をとった喫茶店「蘭歩」は三崎坂にあることになっていて、三崎坂につながって千駄木にあるのが、団子坂である。団子坂には青鞜社発祥の跡や森鴎外の旧居「観潮楼」跡に森鴎外記念館がある。そして、乱歩もこの辺りに住んでいて乱歩の小説『D坂殺人事件』のD坂は団子坂のことである。『D坂殺人事件』が大正時代に倒錯した性、錯覚の説明などを書き表しているのには驚いた。江戸川乱歩は、エドガー・アラン・ポーからとっているが、ポーの『モルグ街の殺人』を鴎外は『病院横町の殺人事件』のタイトルで訳している。『上野谷中殺人事件』には、谷中銀座、昔藍染川だったよみせ通りが出てくる。

風野真知雄さんの『耳袋秘帖 谷中黒猫殺人事件』は時代物で、三崎坂は三遊亭圓朝作の『牡丹燈籠』の舞台の坂と説明している。三崎坂を上がりきったところに岡場所があり、そこを左に曲がると五重塔で有名な感応寺(かんのうじ)でのちに天王寺となったらしい。今は無きこの五重塔が幸田露伴さんの小説『五重塔』のモデルである。その他、七面坂、千駄木坂、三浦坂、芋坂なども出てくる。時代ものであるから、今は流れていない藍染川が流れている。

谷中・千駄木は数回歩いているが、時間も立っており心もとないのと、地図を見ていると歩きたくなり日暮里から下調べである。日暮里から御成坂を上がって左手の朝倉文夫の朝倉朝塑館を確認。御成坂にもどり右手の諏訪神社をめざしそこから富士山の見えていた富士見坂を下り、適当なところから夕焼けだんだんの谷中銀座へでる。そこを抜けるとよみせ通りにぶつかる。それを左に千駄木方面に向かうと三崎坂にぶつかり右手は団子坂。三崎坂を渡りへび道へ。この道は旧藍染川のながれにそってヘビのようにくねくねと曲がった道である。そこからあかじ坂、三浦坂を探し不忍通りに出て忍ばず池を目指す。不忍池は琵琶湖に見立て、弁天島は竹生島を模している。水上音楽堂をすり抜け下町風俗資料館へ。そこから、不忍通りを渡って森鴎外の『雁』の舞台である無縁坂から岩崎邸へ。これはかなりきつい。検討しなければならない。

谷中を歩くと知った他の仲間が千駄木に指人形のお店があるらしいと教えてくれる。指人形劇もあり、そのお店「笑吉」に電話で尋ねると、三人集まれば人形劇をやってくれるとのこと。4人であるから、それもその時の状況に合わせよう。今回はその時の皆の乗りに合わせることにする。

 

三浦半島と浦賀 (3)

燈明堂というのは和式の灯台である。1648年(慶安元年)、幕府の命で作り1872年(明治5年)まで役目を果たしていた。現在のものは平成元年に復元されたもので、土台の石垣は当時のものである。燈明堂の中には、灯台守が寝泊りできるスペースもあるようで、中の仕組みを見れないのが残念である。この燈明堂の運営にも干鰯問屋がお金を出している。この燈明崎の背後が平根山台場で外国船に備えていた。天保8年(1837年)日本人漂流民を送り届け来航した米商船モスリン号を最初に砲撃している。この燈明崎は浦賀奉行所の処刑場でもあり首切塚もあった。海はあくまでも美しく凧揚げをしたり、磯遊びする家族、魚つりの人などのんびりと時間を過ごしている。

為朝神社を見つけるため気を付けて歩く。為朝は『保元物語』で語られ、『椿説弓張月』(滝沢馬琴著)の主人公であり、歌舞伎では三島由紀夫の『椿説弓張月』がある。歌舞伎は観ているがほとんど覚えていないのである。歴史物のデフォルメした歌舞伎には中々慣れる事ができなかったからでもあろう。為朝神社は源為朝を祀っている。この為朝神社に関しては、旧浦賀文化センター(新しい名前より古い名前が好きなのであえて旧として使わせてもらっている)に置いてあった<浦賀文化34号>に載っている郷土史家・山本詔一さんの「為朝神社」を参考にさせてもらうと、木像が1800年に浦賀に上がり、その木像に病気、怪我の人が祈ると効き目があった。その木像が為朝像であることがわかり、人々は為朝について調べ始め、『伝由記』としてまとめ、社殿を建築することとなる。三浦群の人々は裕福な人も、貧しい人も賛同し出来上がったのが為朝神社である。

この為朝神社で面白い事を知る。神社に奉納される「虎踊」である。近松門左衛門作の歌舞伎や文楽の『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)をも取り入れている。和藤内(わとうない)の登場に始まり太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞い。最後に和藤内が虎を神符で成敗しみえをきるとある。虎は親子二体。親虎には青年、子虎には少年二人づつ入る。和藤内は男の子。唐子は女の子。太唐人は成人男子。「浦賀と野比の虎踊」とあり、野比にもあるようである。どういう経緯でこの民芸が出来上がったのであろうか。興味深いところである。神社を出るとやはり町歩きの男性であろう。為朝神社はここですかと聞かれる。調べてきていないと分からないかもしれない。

次の愛宕山公園は登りである。中島三郎助招魂碑、咸臨丸出港の碑、与謝野夫妻文学碑などがある。晶子のほうは、「春寒し造船所こそかなしけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く」で、寛のほうは読めなかった。寛はこのあと亡くなりこの地での歌が最後とあった。ここから浦賀周辺の眺めと別れ、渡し場にもどる。城ケ島で教えてもらったように、対岸の船を呼ぶボタンがある。今回は家族が一組同船である。乗船時間は5分弱である。この船は1725年(享保10年)から市民の足として続いている。三崎港と城ケ島の渡船は城ケ島大橋が出来て一度途絶え復活している。

最後の目的地、東叶神社である。由緒は西叶神社(三浦半島の浦賀 (2))と同じである。同じ神社が東西にあるのが面白い。それを渡船で繋いでいる。こちらは、勝海舟が咸臨丸で出港する前に水ごりをしたという井戸が残っている。奥の院では座禅をし断食をして航海の無事を祈ったようであるが、途中まで登ったがきついので引き返した。予定を終了し近くのバス停からバスに乗る予定であったが、10分くらい待ち時間があり駅まで2停留場なので歩いた。長川の河口をせき止めた形(地下を流れているらしい)で、来た時と反対側の浦賀ドックを左手に駅に向かう形となる。駅前に逆三角形で浦賀ドックはある形となる。

想像していたよりも、江戸をさかのぼって鎌倉、平安末期までタイムスリップさせてくれるものが残っている町であった。そして宿題も沢山おみやげに頂いたような気がする。

 

三浦半島の浦賀 (2)

プチ旅といえども何が飛び出すかわからない。浦賀は鎌倉時代からの港で、江戸時代は干鰯(ほしか)問屋でにぎわったところらしい。先ずは造船所が見えてくる。浦賀ドッグは戦時中は駆逐艦の建造をしている。平成15年に閉鎖となった。浦賀に造船所ができたのは、明治24年中島三郎助の23回忌に愛宕山に中島三郎助の招魂碑が建てられた、除幕式の日にそこに立ち会った人々が決定している。その中に榎本武揚もいる。

そもそも、中島三郎助とは何者なのか。浦賀ドックを左手に眺めつつ、浦賀文化センターを目指す。浦賀のことが解るであろう。浦駕通りから少し奥まった高台にあった。名前が浦賀コミュニティーセンター分館にかわっていた。人の気配はしないが、二階が展示室のようである。映像がながれている。横須賀市と会津若松市は友好都市であるらしい。<会津若松と横須賀の古くて深い関係>と題された映像である。鎌倉時代、三浦の佐原義連が頼朝から会津若松をもらいうけている。江戸に入って江戸湾と三浦半島の警備にあたっていた会津藩は1820年任をとかれ浦賀奉行所がもうけられる。それまで一家をあげて警備のため浦賀にきていた会津藩士はここで骨をうずめた人々もあり、そのお墓も残っている。そして明治維新で敗れたときも新天地をもとめて横須賀にきた人々は多いのである。

中島三郎助は浦賀奉行所の与力で、ぺリーが来航したとき、その艦隊に乗り込み米国使者と対応したのがこの人である。展示室はこの人のことが三分の一占めていて、町には「1月26日 中島三郎助まつり」のポスターもあった。日本最初の様式軍艦「鳳凰丸」の製造の中心人物で、勝海舟が渡米するときに乗った「咸臨丸」の修理もしている。最後は榎本武揚と函館に行き、息子二人とともに戦死している。旧浦賀文化センターでは会津若松との関係、中島三郎助のことを知ることができた。

次に西叶神社である。この神社の創建は文覚上人である。平家物語にも出たきたあの人である。出家する前の名前が遠藤盛遠(えんどうもりとう)である。(映画『地獄門』 と 原作『袈裟の良人』) 頼朝に挙兵を促した人であるから関東の何処かでお会いするとは思っていた。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は上総国鹿野山にこもりはるか京都の岩清水八幡宮に源氏再興を願い叶ったのでこの地に石清水の応神天皇を祀ったのだそうである。文覚上人についてはまた書く機会もあるであろう。この本殿は総檜造りで、安房の彫刻師、後藤利兵衛の作である。干鰯問屋群の力を感じる。町名の案内版などにもそのなごりがある。

そのまま港に近い道に出ると渡し船がある。この船は対岸の東叶神社に行けるのである。その前に燈明崎の燈明堂を目指す。途中、陸軍桟橋がある。浦賀は終戦後の引き揚げ指定港でもあり、約56万人の引き揚げ者がこの地を日本の第一歩として踏んでいる。感染症のため日本を目の前にして踏むことが出来なかった人も沢山いるのである。鎌倉の浄智寺にも、ある戦友会の碑があり次の様に記していた。「世界平和待ち侘びし 平和の光さし出でて 千代に守らん四方のひとびと」 寒さは厳しいがそのまま海を眺めつつめ歩き、愛宕山公園と為朝神社を通り過ごしてしまった。道が一本山側のようだ。帰りに寄ることとする。

 

三浦半島の浦賀 (1)

東海道神奈川宿から保土ヶ谷宿で、台の茶屋跡も残っており仲間達は皆感動したのであるが、そこでこんな会話が。「こちらが横浜の海、黒船に江戸の人は驚いたのよねえ。」「黒船が最初に姿を表したのは?」「浦賀でしょう!」この時インプットされてしまった。そうだ浦賀に行かなくては。おりょうさんを吉田家に世話したのは勝海舟である。徳富蘆花が愛子夫人と新婚生活を始めるのが、赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家である。(世田谷文学館と蘆花恒春園)勝海舟という人は色々なところに出没する。

旅行案内本にも浦賀の散策が載っている。ぺリーの黒船は1854年浦賀沖に現れ、久里浜で親書を渡し、次の年1854年横浜で日米和親条約(神奈川条約)を結び、1856年ハリスが下田に着任し日米和親条約付録(下田条約)を結ぶのである。神奈川条約締結で下田と函館の開港を決める。ぺリーはなるべく江戸に近づこうとし、江戸幕府は江戸に近づけさせないようにと苦慮している様がうかがえる。

ぺリーの黒船の上陸したのを記念して、久里浜海岸にぺリー公園とぺリー記念館がある。まずそこに久里浜駅からバスで行く。公園には伊藤博文筆の大きなぺリー上陸記念碑がある。戦争中は倒されていた。黒船は 沖縄に寄ってから浦賀に来航しその6日後に久里浜に上陸している。外国船はその前から通商を求めてきていた。欧米諸国はアジアをに工業原料を求め、それを自国で生産して、その商品を売り込みたがっていた。

帆船ではない車輪のついた黒い蒸気船に江戸の人々は驚いてしまった。それに開国派、攘夷派、尊王派、幕府派の組み合わせが迷走入り乱れ徳川幕府も内と外からの波に翻弄されていく。相模湾、東京湾に挟まれ太平洋に突出している三浦半島も風光明美でありながら陸では様々な事を見てきたのである。再びバスで久里浜にもどり、浦賀に向かう。途中、京急大津駅から10分のところにおりょうさんの眠る信楽寺があるが帰りに寄ろうと思ったが寄れなかった。

司馬遼太郎さんが『街道をゆく 三浦半島記』で次のように書かれている。「山門が、すでに高い。その山門へ上る石段の下にー つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背にー いわば路傍にはみだしてー 墓が一基ある。路傍の墓である。」「りょうの墓碑は、おそらく海軍の有志が金を出しあって建てたものらしく、りっぱなものである。碑面に、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とある。りょうの明治後の戸籍名である“西村ツル“は、無視されているのが、おもしろい。」

東慶寺から城ケ島へ (3)

『東慶寺花だより』にも、城ケ島がでてくる。『東慶寺花だより』は、見習医者になるか滑稽本の作者になるか未だ定まらない主人公・信次郎の目から見た、縁切りのために東慶寺に駆け込む女人とその関係者、逗留する旅籠の柏屋の人々の様子などが花の名と共に語られる。その柏屋の八歳になる一人娘・お美代に信次郎は話をねだられ昔々おられた東慶寺の梅月尼についてのお話をする。(実在の方なのかどうかは調べていない)

梅月尼様は上総の国の武将の御姫様で、八歳のとき安房の国の武将の若様と婚約する。この二人は一度だけ顔を合わせている。その後、御姫様の父は戦で討死。御姫様が敵に殺されてはと恐れた母がお姫様を東慶寺に預けたのである。母はその後敵に殺されてしまう。御姫様は梅月尼として両親の菩提を弔って20年がたつ。その頃関東に大合戦が起こり、許嫁の安房の国の若君が大将として城ケ島から鎌倉に攻め入り梅月尼を奪い去り、安房の国に連れて行き幸せに暮らすのである。安房の国から若君は三浦半島をいつも眺めていたのであろうか。城ケ島から鎌倉にまっしぐらに進んだ若君の雄々しさが想像できる。お美代もその話に涙し、それから信次郎に話をせがむようになる。信次郎は、大人の汚れた部分をも耳から伝え聞いてしまうお美代の居る環境に対し、御姫様をお美代と同じ年齢から話を設定し作りあげたのである。夢を見る前に現実を感じてしまうお美代の感性に、違う風を吹き込んだである。

この話の後でお美代が語る言葉は八歳の子が言えるとは思えない内容で、反対に大人が言えば空中分解しそうな言葉でお美代ちゃんが言うから可笑しみのある真となる。

「このあいだ、円覚寺のお坊様がお説教で、この世はだれが騙してだれが騙されるか、嘘と噓との寄り合い所帯、確かなものは仏の御教えだけじゃと、そうおしゃっていた。けれど、その噓と噓との寄り合い所帯のこの世に、恋という、もう一つたしかなものがあったのね」

お美代ちゃんの言葉を借りると、白秋さんはそのたしかな恋で名声を失い恋を成就させ三崎で俊子さんと共に暮らすのである。そして様々な思いの中で詩作し、「城ケ島の雨」も作り、俊子夫人の結核療養のため小笠原の父島に渡る。その恋は破たんするが歌集『雲母集』で「兎に角此の雲母集第一巻は純然たる三崎歌集である。而してこれらの歌が全く自分のものであり、私の信念が又、真実に自分の心の底か燦めき出したものに相違ないという事は、自分ながらただ有難く感謝している。」と書いている。恋というたしかなもののほかに、歌というたしかなものもあったということであろうか。

現在の「城ケ島の雨」の一節を刻んだ白秋碑は城ケ島大橋の下に位置する。歌からすると橋よりも雨と舟が似合う。

雨はふるふる 城ケ島の磯に 利休鼠の雨がふる                          雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き                       舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟                      ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意氣                    雨はふるふる 日はうす雲る 舟はゆくゆく 帆がかすむ

かつての御姫様と若君様は城ケ島から舟で安房の国へ渡ったのであろう。その時は梅の香るころ、雨ではなく、月の美しい夜。そのほうがお美代ちゃんが喜びそうなので。

 

白秋歌碑

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東慶寺から城ケ島へ (2)

京急の三浦海岸駅からバスで三崎港へ。調べた限りでは三崎口駅よりもバスの本数が多いからであるが、それでも1時間に1本程度である。よく解らぬが予定にないバスが、あまり待つことなく来てくれた。テレビで路線バスの旅をする番組があるが、あそこまでは行かなくともこの辺りも路線バスは少ない。地形的には高い位置をバスは走る。30分ほどで三崎港に着く。

旅行ガイドブックの紹介によると、三崎港から城ケ島渡船「白秋」で城ケ島に渡るルートでそれも気に入ったのである。12人乗りの船で他に乗船者が見当たらない。船を運転する方が乗っていいと言う。お金を払って、乗船し何人か来るまで待つのだろうかと思っていると動き出した。貸し切りである。300円で船を貸し切ってしまった。10分に満たない時間ではあるが。城ケ島に着くと、もし船がいなければそこにあるボタンを押すと10分で迎えに来るからと教えてくれる。成る程そういう仕組みになっているのか。お店のある方向と山には水仙が咲いている事も教えてくれた。

年末暴飲暴食でひどい目に合い、お粥とスープが続いていたので軽くミニマグロ丼を半分食べる。周りは豪華に海の幸を食べているが、我慢である。灘ケ崎の岩棚まで降りもどって丘の上の楫(かじ)ノ神社で平和祈願。航海安全と大漁祈願の漁師さんの神社のようだが今年はどこの社寺仏閣でも願いは全て平和祈願に決めた。

お土産屋さんを通って途中から階段を登り真っ白な城ケ島灯台へ。灯台の後ろには伊豆半島と雪の富士山がうっすらと見える。長津呂(ながとろ)の磯も見える。この千畳敷の長津呂の磯から浸食されて穴のあいた馬の背洞門までが大変であった。岩礁は見ていると美しいが波に削られ起伏があり、平になると砂場で足を取られ歩きずらい大した距離ではないが時間を要した。削られた岩穴から地平線を見るのも海の自然の金魚鉢のようである。馬の背洞門から上の道に上がると両脇に水仙が植えられているがまだ花の数は少ない。水仙まつりは12日からだそうで山の上の散策コースを歩くともっと咲いていたのかもしれない。

ウミウ展望台から眺めるとウミウであろうか鳥が飛び回っている。海に突き出た切り立った崖とその上の緑が広い海に一言物申しているかのようである。道なりに歩いていくと県立城ケ島公園である。展望台からは千葉房総半島、伊豆大島、伊豆半島がパノラマ式に見える。公園の東側に安房崎灯台がある。下までおりて上がってくるのが大変そうなのでそのまま公園の入り口に向かう。風に任せて曲がっている松の下に水仙という取り合わせがなかなか良い。そこから「北原白秋記念館」に向かう。

白秋の三崎時代は短いが凄い時間であったことを知る。「城ケ島の雨」の雨に色をつけ、それも<利休鼠>としたことに感動してしまうが、白秋さんにとってはもっと深い色であったのであろう。記念館で「北原白秋 その三崎時代(抄) 『雲母集』を歩く」(野上飛雲著)を購入。これがとても参考になる。「彼の官能的唯美時代で、この年(明治43年)の二月の強烈な官能美をたたえた作品「おかる勘平」を掲載した『屋上庭園』は、その内容が検閲当局の忌諱に触れて、発禁処分を受けた年であった。」の部分にはどんな「おかる勘平」なのか知りたい。こんな所までおかると勘平が追いかけてくる。頼朝が設けた三つの御所・桜・桃・椿と白秋の関係など場所も訪ねられ歌も調べられて書かれているので、またまた三崎の関連場所を歩きたくなる。帰りはバスで城ケ島大橋を渡ったのであるが、渡ってすぐに「椿の御所」の名前のバス停があった。大椿寺(だいちんじ)が「椿の御所」の跡だそうで、白秋さんが朝な夕な散策したところである。見桃寺は「桃の御所」でここに白秋の歌碑がある。「寂しさに秋成が書讀みさして庭に出でたり白菊の花」上田秋成の「雨月物語」を読んだときの気持ちである。

「ただ一人帽子かぶらず足袋穿かず櫻の御所をさまよひて泣く」 「桜の御所」は本瑞寺で、この歌はノートに記されていながら棒線を引いて消されていて『雲母集』のなかにも収められていづ、世の中に出ていないのだそうである。あまりにも実写過ぎて歌としての空間がないということであろうか。筆者も「白秋が三崎に流離した当時の風姿を知る上で貴重な歌である。」としているが、その当時の白秋さんの姿そのものと思う。そして三崎から城ケ島の木々の緑が雨のベールを通して見た時<利休鼠>だったのである。

 

東慶寺から城ケ島へ (1)

迎春と思って居たら、もう七草である。今年はプチ旅からの出発である。

昨年は何から始めたのであろうと振り返ったところ腕に抱え込んだ継続 (小村雪岱)であった。『平家物語』『日本橋』『「日本橋檜物町』と繋がっていたようである。今回のプチ旅の<東慶寺>も本に関係する。そしてそれは、歌舞伎座新春歌舞伎の新作演目として『東慶寺花だより』が登場したからであり、原作が井上ひさしさんの『東慶寺花だより』なのである。その前に古本屋で鎌倉の旅の本を購入したところ、三浦半島が載っていた。持ち合わせの鎌倉の本には三浦半島は載っていない。最後の案内が城ケ島である。<奇岩と波と島 白秋の詩が聴こえる 絶景の隣には漁港>地図を見ているだけで次はここと決めている。城ケ島に行く前に<東慶寺>と<浄智寺>に寄ろう。

北鎌倉8時半着である。<東慶寺>は8時半開門である。北鎌倉なら円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院、建長寺、そこから鶴岡八幡宮であろうか。あとは健脚次第だが、今回は楽勝である。時間も早いため人もまばらである。北鎌倉駅から東慶寺が近づくと、離縁のために東慶寺に駆け込む女性達を世話した宿がこの辺にあったのであろうかと想像たくましくなる。お寺の前は鎌倉街道。この辺りは山ノ内と言われ山ノ内街道ともいわれる。テレビで新春東西の歌舞伎が紹介され『東慶寺花だより』の中継もあったが、録画してまだ見ていない。芝居の方の観劇は千穐楽に近い日にちになる。それが終わってから録画を見ることにする。

東慶寺>の歴史に関しては興味深いことが沢山あるが説明は省く。お寺にも『東慶寺歴史散歩』の小冊子が置いてあり購入した。「会津四十万石改易事件」などという項目があったのである。その冊子の最後に詳しくお読みになりたい方は有隣新書『東慶寺と駆込女』をお求めくださいとある。井上ひさしさんの『東慶寺花だより』(文春文庫)にも「特別収録 東慶寺とは何だったのか」があり、解り易く解説されている。

東慶寺に小さくて可愛らしい観音菩薩がある。<水月観音菩薩遊戯座像>である。いつも拝観できるわけではない。予約が必要である。10年ほど前、上野の国立博物館で『鎌倉ー禅の源流』展がありその時お逢いしている。今年は2月4日~4月13日まで東慶寺で公開のようである。(再確認されたし)東慶寺でお逢いしたいのでまた訪れねばならない。花としては蝋梅がまだですがせっかくですから少しだけと奥ゆかしく咲いていた。岩壁にイワタバコと書かれていたが岩肌に群生する花の名前のようである。これも見てみたい。いつ頃咲くのであろうか。本堂の屋根の線が美しい。松ヶ岡宝蔵は時間が早く開いていないので次の機会とする。

 

 

水月観音菩薩遊戯座像     (絵葉書より)

 

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今回は周囲の雰囲気を想像したかったので次の、浄智寺へ。山門への石段の感じがいい。石段の薄さ、ゆるくデコボコしているのが優しい。大正12年の震災で破損し昭和の初期に復元された南北期の観世音菩薩が裏の方にひっそりと佇ずまれているのが印象的である。古くて大きな高野槇がありやぐらも多く、トンネルの先のやぐらの中の布袋尊がユーモアがあり福がきそうである。お腹をなでると元気がもらえるそうで、もちろん元気をもらってきた。鎌倉・江の島の七福神の一つである。浄智寺の横の出口を抜け山に向かっていくと少し竹林があり、道が細くなり登り道となる。源氏山公園に続く道である。こちら方面に錢洗弁財天、佐助稲荷神社がありそこから大仏坂を下って行くと大仏の高徳院そして長谷寺へと続くのである。長谷方面からこの道で東慶寺へ入る女人もいたのである。寿福寺から長谷まで裏大仏の道を歩いたことがあるので、その辺りのことが小説『東慶寺花だより』に出てくると様子が浮かんでくる。東海道の宿場の名前が出てきたりすると嬉しくなり読んでいてとても楽しかった。

山道は途中で引き返し北鎌倉駅に向かい久里浜を目指す。反対に駅からこちらに向かう人の多さに驚く。早い出だしで正解であった。