映画館「銀座シネパトス」有終の美 (2) 「東京は恋する」「二人の銀座」

「夜の蝶」・「夜の流れ」・「河口」・「その場所に女あり」 見たい映画が時間が取れず見事にパス。

和泉雅子さんと川本三郎さんのトークショーを込みで「東京は恋する」と「二人の銀座」。和泉さんの銀座の話は銀座シネパトスのお向かいさんで、江戸弁(しとひの発音が反対でした)ですらすらと2、3歳頃の話から銀座を浮かび上がらせてくれた。あまりにも気さくな方で川本さんも、多くの女優さんをインタビューしているがこれ程映像と違う方はいないと言われる。聞いているこちらは楽しくて、大型店の氾濫する前の銀座の庶民性と銀座を愛する心意気が伝わる。

「東京は恋する」(1965年・監督・柳瀬観)「二人の銀座」(1967年・監督・鍛冶昇)。この日活青春映画と云われる頃から銀座が若者の街として登場する。川本さんは<銀座病>で、銀座というと大人の高級な街というイメージで銀座にコンプレックスがあったと。木挽町(こびきちょう)とか現銀座4丁目は尾張町とか尾張町交差点と呼び名が残っていてそれだけでも時代を感じさせる。今は交差点とか交番に古い町名が残っているそうだ。

江戸は火事が多かったが明治に入ってからも多く、火事から守るために周りに堀を巡らし、関東大震災での瓦礫を処理するために堀は埋め立てられ、さらに高速道路のために埋め立てられ現在に至っているわけである。和泉さんが子供の頃は浅草に水上バスで行った事もあったとか。

「銀座化粧」で三原橋も出てくるが、出だしが服部時計店の時計台が写り子供がそのあたりで大人に時間を聞き駆け出して家に帰る。川本さんは「銀座裏の子どもには銀座が遊び場所になっているのだろう」(「銀幕の東京」)とあるが、和泉さんはあの映画の坊やそのままのお嬢ちゃんで3歳頃からデパートが遊び場だった。三越は迷子にならないのだが、松坂屋に行くとよく迷子になり、配達の自転車の後ろの駕籠に乗せられて帰った。迷子になるのに松坂屋をめざしたのは松坂屋の屋上の滑り台の上から富士山が見え、それが見たかったそうで、どうやら冒険家の血は幼い頃からのようである。

銀座の商店(和泉さんは食堂屋さん)にはお風呂がなかったので東京温泉にもよく入りにいき、小さかったので男女両方のお風呂を経験。東劇の5階にはストリップ劇場もあり、出前にくっついて行きキョロキョロ。銀座のあらゆるところに出没していたようだ。

名門泰明小学校の話で役者さんでは殿山泰司さんと中山千夏さんもいましたがと川本さんがフルと中山さんは芸術座の「がめついやつ」に出ていて、泰明小に転向してきてお友達だそうだ。やはり泰明小学校は凄い。

銀座の商店は二階が住まいになっているので、お店を通って二階に上がるが、途中でお客さんにこましゃくれて「いらしゃいませ」などとは云わず、そうっと下を向いて静かに通ったそうである。ここは大人の領分と云う不文律があったのであろうか。

「東京は恋する」の主人公舟木一夫さんは看板屋さんでアルバイトをしつつ芸大を目指している。看板屋さん自体が今どれだけ残っているのであろうか。ビルの上に掲げる大きな看板や銭湯の絵を描いたりしているが、もうあの時代にしかない風景かもしれない。ビルの屋上を使う映像も多くなり、この映画は職業がら上手く取り入れている。またエレキバンドの最盛期で、「東京は恋する」にも素人バンドがプロを目指す話が加わり、「二人の銀座」は素人バンドが一枚の楽譜とめぐり合う事から話は始まる。「東京は恋する」よりも「二人の銀座」のほうが後の公開なのに、「二人の銀座」は白黒である。和泉さんは映画にもA面とB面があって、「二人の銀座」は歌が流行ったので映画も作ることになりB面だから白黒と言われていた。

「二人の銀座」の字幕に美術・木村威夫さんの名前が。ライブハウスや事務所の壁にビートルズの白黒の大きな写真。和泉さんのお姉さんが経営する洋裁店の住居との境のドアにはレイモン・ペイネの絵が。こういうのを見ると楽しくなる。白黒を狙っている。映画の作り手はA級B級に左右されないように思う。見えなくてもどこかで自分の発想や工夫を押し込んでいる。ライブハウスの尾藤イサオさん歌うアップの光加減も白黒ならではである。

この二本の映画で地方の若者たちも映画館の中で東京の銀座を闊歩したのであろう。