『源氏物語』から『愛宕信仰』そして『源氏物語』

栄西禅師から明恵上人そして清滝とつながったが、その後の旅で『愛宕信仰』に出会った。予想外にである。京都でそれまでの旅のルートから外れて、行っていないところを訪ねることにした時、『源氏物語』執筆地といわれ、紫式部宅址と言われている<蘆山寺>をまずと思った。

地下鉄今出川駅を降りたら同志社大学である。素敵なキャンパスである。ここは歩かなければなるまい。眼にも楽しい古い建物を見つつ進んでいくと、同志社の歩みを紹介しているらしい案内の建物があり、そこで一通りの同志社の沿革や新島襄さんの思想などを学ばさせてもらう。さらに、襄さんと八重さんの住んで居た旧宅が公開されているのを知る。是非寄らねば。

京都御所に向かうとき、この同志社と相国寺が近いのに気がつく。特別公開の時期をめざし、お寺のみを駆け足で巡っていたころであろう。大学など眼中になかった。清滝を歩いたのもそのころである。京都御所も『源氏物語』の舞台であるが、予約していないので建物の中には入れない。御苑の中を通り清和院御門を出ると<梨木神社>がある。この説明板に、このあたりは中川と呼ばれ、『源氏物語』で貴族の別荘が多くあった地で、「花散里」や「空蝉」と逢ったのもこのあたりとしている。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母も、中川の近くに住んでいたとある。工事中のところもあったが、ここは京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうち唯一現存しているところで<染井の水>は、現在も名水を求めて人々が並んでいた。

<梨木神社>の向かいが<蘆山寺>である。このお寺はもとは、京都の北にあったが、応仁の乱、信長の比叡山焼き討ちに遭遇し、現在地・紫式部邸宅址に移転したのである。ここは、紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔の邸宅で、鴨川の西側の堤防に接していたので「堤邸」と呼ばれ、兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。その後、息子の為頼、為時(紫式部の父)へと伝えられ、紫式部は、ここで結婚生活を送り、娘・賢子(かたこ)を育て『源氏物語』を執筆したとされる。あれ!では<石山寺>は。あそこは、構想を練ったところでしたかな。

<蘆山寺>の源氏庭と命名された苔と白砂の庭をゆったりと一人占めして眺めた。桔梗の庭としても有名であるが、桔梗は想像の中で咲かせる。そういえば、東福寺の塔頭の一つで桔梗を愛でたなと思って調べたら天得院であった。<天得院>は内輪という感じで、<蘆山寺>は少し余所行きに気取らせて貰いましたという感じである。

寺町通りを<新島襄旧邸>目指して丸太町通りに向かうと、<京都市歴史資料館>がある。覗かせてもらうと、何か難しそうである。「愛宕信仰と山麓の村」。ではさらさらと分かる範囲で。火を防ぐ、火伏せ信仰で、映画で見たような気がするが、京都の家の台所に張ってあるお札の事のようである。あのお札「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれているのだ。この火伏せ信仰として名高いのが愛宕信仰で、その総本社が愛宕山の愛宕神社なのである。

あの鳥居はずっと下であったのか。道理で神社などありそうもなかったのだ。愛宕山は神仏習合の霊山で祭神は天狗である愛宕権現太郎坊と称する火神で、江戸時代には庶民から武士まで信仰したらしい。そのお参りの人々の宿泊所として愛宕山を支えたのが、水尾、樒原、越畑の3村で、愛宕山へのそれぞれの登山口であった。航空写真もあり、愛宕山の下の3村が写っている。博打はしてはいけない、身元の判らない者は泊めてはいけない、病で倒れたら介抱し、亡くなったら村の墓地に葬るなど色々なきまりもあったらしい。それから、日本地図を作った伊能忠敬さんも、愛宕山付近を測量して、越畑から樒原を通過し水尾・清滝へと向かっていた。それらのことを実証する当時のこちらには全然読めない文書が展示されていて、いいとこ取りをさせてもらいまいした。こういう地道な仕事をされているかたがおられるから歴史が残るのである。

東京の愛宕山の方は、町歩きであの急な階段を馬で降りたか登ったかしたという説明を聞いた覚えがある。あそこも火の神様なのであろう。

新島襄旧邸は機能的にハイカラに作られていた。台所も土間ではなく床で、井戸も室内にある。襄さんの両親の隠居所は江戸藩邸にあった住居に準じている。配られた小冊子が写真入りで丁寧なつくりであった。最初に、見学は無料であるが、東日本大震災の支援金300円を帰りにいただきますと言われ、帰り出口にきちんと係りの人が立っておられ、お願いしますと言われ、襄さんが、同志社の為に寄付をお願いして回った精神と似ているように思われた。

最後の『源氏物語』は、東京の<五島美術館>で展示されている源氏物語絵巻である。今回は、「鈴虫一・鈴虫二・夕霧・御法」で、絵の復元もある。この源氏物語絵巻は『源氏物語』が出来てから百数十年後の12世紀に誕生していて、その中でも現存する日本の絵巻の中で最も古い作品とされている物である。気が遠くなるような年数である。詞書と絵は別にしている。絵の方を楽しむ。現存しているのが不思議なくらいである。色は薄くなっているが、構図ははっきりしている。それをさらに原本に近い色使いで復元したものも展示されているので、美しい色使いの絵をながめつつ、心踊らせて読んだ平安の人々の様子が想像できる。

この旅はこの辺で閉じる事とする。