コロッケと「早稲田大学演劇博物館」

ものまね芸人のコロッケさんが、地下鉄の関係の小冊子だったと思うが、人形町のすき焼きの「今半」の<すき焼きコロッケ>をお勧めと紹介していた。明治座に行った時思い出した。水天宮駅前店のほうで、お客さんが少なかったので1個購入し、お店で食べて行きたいのですがとことわると快く紙の包みにいれてくれた。温かくて、すき焼きのたれの味つきなので美味しかった。

~ いつも出てくるおかずはコロッケ 今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中コロッケ ~

この歌は、誰が歌っていたのか記憶にないが、なぜか知っている。ところが、よく知らなかったのである。「早稲田大学演劇博物館」へ、<六世中村歌右衛門展>を見にいったところ、<今日もコロッケ、明日もコロッケ “益田太郎冠者喜劇”の大正>企画展示もやっていた。初めて目にする名前である。この歌は大正時代に作られていて、益田太郎冠者さんの造った劇の劇中歌として歌われたものらしい。このかた、実業家でありながら、劇作家でもあり、帝国劇場の出し物にかかわり、そこで女優を育て、踊りあり、歌ありの喜劇を上演したのである。その代表的な女優が森律子さんで、彼女の等身大の人形が展示されていた。このお人形、<生人形>と云って、江戸時代から続く伝統的な技法なのだそうである。大正時代にこんなハイカラな明るい喜劇が流行していたのである。

益田太郎冠者さんの経歴をみると、三井創始者の御曹司で、ヨーロッパに留学し、実業家で、帝国劇場の役員でもあり、 ~あれも益田太郎冠者 これも益田太郎冠者~ といった感じである。映画『残菊物語』(溝口健二監督)で花柳章太郎さんと共演されている森赫子さんは、帝劇スター・森律子さんの姪にあたる。明治座では、新派の伊井芙蓉・河合武雄が 、益田太郎冠者さんの作品『思案の外』を上演している。

<六世中村歌右衛門展>は4月で終わってしまった。は2005年から10年間開催したので、ひとまずシリーズとしては今年が最終回である。演劇講座「六世中村歌右衛門を語る」講師・渡辺保さん(演劇評論家)/聞き手・児玉竜一さん(演劇博物館副館長)に参加させてもらった。一番印象に残る話は、<戦争という時代に女形が否定されたことである。> 歌舞伎に限らず、あらゆる芸能が戦局の統制下に入ったわけであるが、特に女形は否定される空気であったと思う。修行を積んでそれが否定され、<戦後そこから、また復活するということは、他の役者さんでは考えられないほどの辛苦であった。>女形でありながら、歌舞伎界の頂点に君臨したということは、並々ならぬ思いであったのであろう。<今の人達には判らないであろう。美しさが衰えてから本当の芸が出てくる。だから実際に観ないと駄目である。>との渡辺保さんの話に、あの身体も小さくなられながら、そばでそれとなく補助されながらも、役に成りきられた舞台姿が浮かんできた。『建礼門院』などは、歌右衛門さん自身が一度海深く沈まれたことの思いと重なっておられたのかもしれない。

評論家のかたの見方はなるべく見ないようにしている。それこそ、こちらの見方を否定される結果となることもあるので。ただ、時には、刺激となり観る勢いをもらう事もある。

~明日も見よう 明後日も見よう~

 

明治座 『五月花形歌舞伎』 (昼の部)

夜の部が『伊達の十役』で、昼の部は、『義経千本桜』(鳥居前)、『釣女』(つりおんな)、『邯鄲枕物語』(かんたんまくらものがたり)である。

『義経千本桜』は文字通り<花形>というよりも、先輩諸氏に言わせれば<花蕾>といったところであろう。かつては、諸先輩方は個人の勉強会などで、勉強の成果をお客様に見ていただくといった時期であったと思う。今、それだけ若い役者さんに期待し早く育って欲しいと思われているのであろう。

『義経千本桜』の鳥居前は、伏見稲荷の鳥居前である。行ったことがあれば、上まで上がるのに結構きつかったなどと思い出すかもしれない。話としては、この前に色々あるらしいが、見ている人は判らないのであるから、弁慶が何か失敗をして義経に怒られているな。『勧進帳』のあの主従関係に比べる、弁慶は軽いな。こんな弁慶の描き方もあるのかと思えばいいのである。静は義経について行きたいのだが、それが許されないのだな。その代り、義経から<初音の鼓>を預かり、お供に忠信を遣わすのか。面白い道化役が出てきて静と忠信の邪魔をするが、やっつけられてしまう。悲劇なのに随分派手な捕り手だなあ。忠信って、花道引っ込むとき、変な仕草をしたように思うが、あれは一体何なの。 義経、イケメンだったなあ。家来の声よかった。静が可愛い。愛嬌のある弁慶で、忠信のほうが動きが大きくて強そうだった。と、こんな見方で楽しめばよいのかも。同じ演目を次に、年配の役者さんで見たときは、緊張感が違うし、一段舞台が高く思える。若さもいいけど、背景に背負っている何かがあるみたい。何なのであろうか。少し調べてみようかな。と、なるかどうか。

忠信・源九郎狐(歌昇)、静(米吉)、早美藤太(吉之助)、義経(隼人)、弁慶(種之助)

『釣女』は狂言の『釣針』を歌舞伎舞踏にした楽しくて明るい出し物である。大名と太郎冠者が、恵比寿様のお告げによって釣竿で妻を釣るのである。大名のほうは美しい上臈(じょうろう)で祝言となるが、太郎冠者のほうは期待に反し醜女(しこめ)である。予想外の結果に二組の男女の違いと、混乱が交差する。

太郎冠者の染五郎さんと醜女の亀鶴さんのコンビは、まだ手探りのところに思われた。亀鶴さんの醜女はふくよかでどこか天然の感じで可愛げもある。そのあたりの呼吸と間があえば、もう少しユーモアの膨らんだコンビになりそうである。

太郎冠者(染五郎)、大名(高麗蔵)、上臈(壱太郎)、醜女(亀鶴)

『邯鄲枕物語』は、船の櫓を作る職人の清吉夫婦が、義理ある主人が紛失した御家の一軸を質屋で探し当てるが、それを請け出すお金がない。引っ越し先で茶店をし、大家さんの知恵をかりるが、うまくいかない。客の荷物の取り違えから、客の置いていった箱を枕に清吉は昼寝をする。清吉が目を覚ますと彼は違う世界にいた。この世界のお金の扱い方が、いままでのの世界と反対の世界で、清吉はお金の使い方の違う苦労をすることとなる。歌舞伎の他の演目のパロディー も入り、役も入り乱れ、おかしな世界が出現する。歌六さんは、今回の明治座で女形に目覚めるかもしれない。『吉田屋』に見立てた場面がある。清吉が花道を二つ折りの深編笠で顔を隠し、伊左衛門よろしく出て来る。紙子の着物のデザインを取り入れた、白地に文字が入り水色が加わり、所々が光るのである。この時の染五郎さんの体の形の美しさには驚いてしまった。ここは和事の出として難しいところであるが、夢の世界にふさわしい出来であった。実は、清吉の見た夢の世界に観客は連れていかれるのである。『櫓清の夢』。

市川染五郎、中村壱太郎、中村歌昇、中村米吉、澤村宗之助、中村亀鶴、中村歌六