歌舞伎座 『團菊祭五月歌舞伎』 (昼の部 1)

<十二世團十郎一年祭>。團十郎さん亡き後も團菊祭が催されて喜ばしい事である。

菊五郎さんの『魚屋宗五郎』が、今まで観た中で一番と言ってよいほどの宗五郎であった。妹のお蔦が主人の殿様に、不義の罪でお手打ちになってしまう。そんな中、今日はお祭りである。近所の人から威勢よく声を掛けられても、宗五郎は小さくなって花道で挨拶をする。お蔦の戒名をもらってきた帰りである。

家に帰ると知り合いの人も弔問に来てくれている。客が帰ると宗五郎の父も出てきて女房のおはまと、使用人の三吉も加わり、悲しみと納得のいかなさから皆溜息である。恨みがましいが、貧乏のどん底の時、お殿様がお蔦を見初めてくれて一家は助かっている恩もあり、不義となればいたしかたないと宗五郎は皆をたしなめる。筋道を立てて物事を考える物のわかった町人である。

そこへ、お屋敷勤めのおなぎが先にお酒を届け、お悔やみにくる。おなぎはお蔦は不義ではなく、悪巧みの密議を聴き、そのために計略にかかり、不義としてお殿様に惨殺されてしまったと真実をはなす。皆は、なんということか、あのお蔦に限ってと思っていた気持ちが救われる。そして、妹思いの宗五郎は禁酒していたお酒を飲むのである。回りの者も飲まずにはいられない宗五郎の気持ちを理解し飲ませたのであるが、宗五郎は酒乱である。次々と酒を要求する。次第に酔っていく。観ていて宗五郎の気持ちがわかるのである。押さえていた気持ちがお酒の力を借りて次第に外へほとばしり始める。それまで殊勝な一人の庶民が自己主張し始めるのである。お酒の力を借りるというところにこの芝居の面白さがある。道理をわきまえていたはずの宗五郎が変身していくのである。この変身には、酔い加減と柔らかさ、周囲の嘘のない立ち回りが必要である。また始まってしまったと女房の時蔵さん。わが息子ながらだらしがないと父親の団蔵さん。親方に楯ついては怒られる三吉の橘太郎さん。お酒を持ってきたのが間違いであったとおなぎの梅枝さん。それぞれの役柄で変身を止めようとする。

ついに宗五郎は屋敷に談判に出かけるのである。作者は河竹黙阿弥、初演は明治である。おそらく観ていた観客は自分のことのように大喝采だったと思う。

お屋敷での玄関先とお庭先でもしっかりと変身宗五郎を見せてくれる。言いたいことが今度はお酒のために上手く表現できない。その気持ちを受け止めるのが、家老の左團次さん。しっかりと受けてくれる。家老がしっかりしているので、お殿様の錦之助さんが品よく素直に頭を下げても、不自然ではない。ありえることに思えてくる。お殿様から金一封を頂き、宗五郎は辞退しつつも、「どうしようか」と女房に尋ね「せっかくだから頂いておいたら」と答えるあたりの庶民感覚も最後の締めを明るくする。

玄関先で唄など気持ちよく口ずさんで寝てしまうところなどは江戸っ子の粋なところである。そして足腰を踊りなどで鍛えているため、酔った状態を作っていると思わせる負担のない自然さが、観ている者を楽しませる要因でもある。今回は、江戸の庶民の生業をそっくり舞台に乗せてくれた。まな板の上の宗五郎さん。出刃でも庖丁でももってきやがれ。うい~。

 

映画 『阿修羅城の瞳』

2000年という事は15年前ということになるが、新橋演舞場で『阿修羅城の瞳』を観ている。記憶に残っているのは、染五郎さんの動きがやはり一番綺麗であったことである。他の出演者は敬称略で、富田靖子、古田新太、江波杏子、加納幸和、平田満、森奈みはる、渡辺いっけい、橋本じゅん・・・。話の入り組んだ芝居で、粗筋を言えといわれると説明がつかず、ただ感覚的には面白い世界であった。その後、DVDのレンタルショップで 映画版『阿修羅城の瞳』があるのを見ていたが、見たいとは思わなかった。ところが明治座の五月歌舞伎を観たら、なぜか見たくなり借りたのである。

こういう世界であったのかと映画だと筋を捉えやすくよくわかった。科白も面白い。舞台と映画の設定は多少違っていると思う。舞台の場合、掴めていて掴めないその空間が魅力の一つでもある。そもそもこの芝居は1987年に<劇団☆新感線>で初演され封印されていたらしい。2003年にも、染五郎さん以外のほかのメンバーを入れ替えて再演している。作者は中島かずきさんで演出はいのうえひでのりさんである。芝居のほうは、劇中歌も入ったように思う。映像で表現出来ない魔の妖しさを歌で観客をいざなったような気がする。

映画のほうは、江戸時代に突然、人の世界に<鬼>が出現し、<人>と<鬼>との死闘が始まる。<鬼>を撲滅させるための組織に、鬼殺しとして恐れられる病葉出門(わくらばいずも)がいた。しかし彼は5年前に少女を殺し、今は四世鶴屋南北一座の役者となっている。芝居の舞台や稽古場面が上手く使われ引き付けられ、病葉出門は歌舞伎役者市川染五郎さんであるゆえに出来る役柄である。<鬼>は、鬼の王でもある<阿修羅>の出現を待っている。<阿修羅>はどういう形で現れるのか。病葉はつばき(宮沢りえ)という美しい娘に出会い縁を感じとる。病葉は、少女・つばき・阿修羅の関係が次第に判明していきながらも、現世には帰れない魔界への橋を渡っていく。つばきとの約束を果たすために。

四世鶴屋南北(小日向文世)は病葉に伝える。おまえとつばきのことは芝居として後世に残すからと。最終的には、病葉とつばきの男と女の話のように思えるが、ここに出てくる四世鶴屋南北さんもまた、芝居という世界で<阿修羅>と一騎打ちを果たすべく<芝居の阿修羅>に取りつかれた人である。

その<芝居の阿修羅>は今どこかの劇場に出現していて、役者さんと一騎打ちをしているかもしれない。現実なのか魔界なのか。もしかして、あなたは今夜、魔界の阿修羅城の瞳に出会うかもしれない。

などと時空を飛んで想像力を喚起してくれる。

監督・滝田洋二郎/原作・中島かずき/脚本・戸田山雅司、川口晴/撮影・柳島克己/出演・市川染五郎、宮沢りえ、樋口可南子、渡部篤郎、小日向文世、内藤剛志