歌舞伎座 『團菊祭五月大歌舞伎』 (夜の部 2)

『極付 番隨長兵衛』。町奴の頭・番隨院長兵衛と旗本・水野十郎左衛門の命の取り合いであるが、水野の屋敷の湯殿で浴衣姿で素手の長兵衛を水野が槍で殺すという卑怯な命の取り方である。町奴と旗本奴の白柄組(しらつかぐみ)とは、小競り合いが絶えなかった。

芝居小屋(江戸村山座)で芝居の最中に、水野の家中のものが暴れ芝居を中断させてしまう。それを見かねた長兵衛が仲裁に入り事を収めてしまう。それを水野が桟敷で観ていて、これまでの経緯もあり殺意を抱くのである。

花川戸の長兵衛宅へ水野から宴の誘いがある。子分や兄弟分の唐犬権兵衛が罠だと言って止め、さらに女房のお時、息子の長松も行くのを止めてくれと頼む。しかし長兵衛はここで男を立てなければ末代の恥と、死を覚悟で水野の屋敷へでかける。

水野の屋敷で、お酒を振る舞われて、そのお酒を家来が長兵衛の着物にこぼしてしまう。これは申し訳ないと、気持ち悪かろうお風呂でさっぱりして下さいとすすめる。長兵衛は断るが、再度のすすめに腹をきめ、湯殿に向かう。そこでだまし討ちに遭うのであるが、もとより覚悟のうえ。水野が槍を構えて現れ、水野に対する啖呵の科白が海老蔵さんきまっていた。殺すならころせいと胸をはだける覚悟の程がきっぱりきまる。長兵衛の男伊達である。

このお芝居、お芝居の中にで芝居が演じられ、その観客と歌舞伎座の観客とを一緒にしてしまい、ことを収めるため長兵衛は観客席から現れ現実のお客様を、芝居の中のお客様として扱う。この辺りはお客様に対する柔らかさと、邪魔者に対する威圧感と大きさが必要である。

もう一つ面白いのが、湯殿が出てきて、そこが長兵衛の死に場所となることである。刀もなく、浴衣である。その姿で、死に際の潔さと大きさを表現しなくてはならない。そして、人の子である長兵衛と長松との親子の別れも見どころであるが、今回は湯殿での男伊達が光っていた。

長兵衛(海老蔵)、お時(時蔵)、唐犬(松緑)、子分(男女蔵、亀三郎、亀寿、萬太郎、巳之助、右近、男寅)、役者(松之助、市蔵、右之助、家橘)、近藤(彦三郎)、水野(菊五郎)

『春興鏡獅子』。最後が大曲の舞踊である。菊之助さんであるから、『娘道成寺』や玉三郎さんとの『二人道成寺』の面白さもあって、わくわくしていた。誘い出され、一旦引っ込み再び出てきて挨拶をして踊りが始まる。美しいし、身体の全てが流麗に動いていく。ところが、何か単調である。ここぞというところが伝わってこない。さらさら流れていく。牡丹の花のところか。 「散るは散るは 散りくるは散りくるは ちりちりちり 散りかかるようで面白うて寝られぬ」 ここでもこない。獅子頭に引っ張られるところで何かが起こるか。起こらない。う~ん。なぜなのだ。帰ってから、他のかたの『春興鏡獅子』を見た。どこかしらで、静ではあるが内面の起伏が伝わる。どうしてなのか。こちらの力の無さか。残念ながらわからないのである。しいて言えば、優等生の踊りなのか。