光る刀剣 『小鍛冶』『名刀美女丸』

歌舞伎によく家宝の名刀が悪人に盗まれ、それを探すのが一つの話の筋として重要になってくるが、それ位で刀には関心が無かった。ところが、しまなみ海道  四国旅(7)での義経の奉納の刀が歌舞伎座5月の『勧進帳』と重なったり、長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』での小鍛冶宗近から、そのあとで栗田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社を訪ねることも出来た。

さらに思いがけず、京都の大本山本能寺の宝物館大寶殿で、この宗近さんの作った太刀にあえたのである。織田信長さんは目利きのかたであったように思える。<三足の蛙>名の銅の香炉も面白い。麒麟(きりん)の角が一本であったり、中国では奇数が吉とされた時期のものである。千利休に愛された釜師・辻与次郎の作品も美しかった。ゆっくり眺めていたら突然、<『小鍛冶』のモデルである宗近作>の一文が目に飛び込んできた。<『小鍛冶』のモデル>と書かれていなければ、<宗近>と一致しなかったであろう。どこかで想像上の人物と思っていたのである。信長公が所持していたとあり、長さ62.7㎝、反り7分6里で、細くて反り具合が美しい。眺めてその美しさを楽しむような刀である。

鍛冶にも幾つか派があったのであろうか。粟田口派鍛冶が北条時頼に召されて鎌倉に下り鎌倉鍛冶の開拓者になったとある。こういう技術も京から東国に流れてきたのである。

東京代々木に「刀剣博物館」があり、企画展 <祈りのかたち~刀身彫刻と刀装具~> とあり<祈りのかたち>にひかれたが知ったのが遅く行けなかった。

そしてふっと思い出したのが、溝口健二監督の映画『名刀美女丸』である。題名の<美女丸>が娯楽映画のように思え期待していなかったが予想外に面白かったのである。しかし、時間もたち、何が好かったのか忘れてしまったのでレンタルして見た。名刀の名を<美女丸>とした溝口監督の裏の意図も判り、刀鍛冶三条宗近の事も出てきて撮影当時の時代背景も判り、初めて見た時と違う想いが重なった。最初に見た時は、刀打ちの場面が興味深く、その場面が長いのでこういう風に打たれていくのかと興味深く、<美女丸>の意味は単純に、笹枝の力と理解していたのを思い出した。

粗筋は、孤児の清音が侍の小野田小左衛門に助けられ刀鍛冶となっていて、やっと御恩返しの刀を打つことが出来、小左衛門も喜んでその刀を差し殿の護衛にたつ。ところがその刀が肝心な役目の時に折れてしまい、小左衛門は蟄居の身となる。そして、娘・笹枝に執心の侍に殺されてしまう。笹枝は敵のための刀を清音に頼み、精魂込めた刀も出来上がり無事敵を討つのである。その刀が<美女丸>ということである。映画の中で、その刀の名は出てこない。その刀を打つとき、笹枝の生霊が現れ、清音の弟弟子清治と三人でその刀は打たれるのである。その時の笹枝は、透明人間のような手法で現れ、効果的である。そして刀も出来上がり、見事敵討ちが果たされるのである。

最初に見た時、清音の師匠が尊王派に傾倒し、このように複雑にしなくても十分面白いのにと思ったが、そこに当時の時代背景があったのである。この映画が出来上がったのが、昭和20年1月、公開が終戦の8月である。まだ国策の空気があったのである。

物資不足ででフィイルムもなく、タイトルも、映画名、配役、演出だけである。スタッフのタイトルもない。

配役/新生新派 清音(花柳章太郎)、清次(石井寛)、清秀(柳永二郎)、小野田小左衛門(大矢市次郎)、東宝 娘笹枝(山田五十鈴)  これだけの名前である。

師匠の清秀は、刀を打つための志を求め勤王と接触している。そして、三条宗近作の刀を借り受け、清音、清次に見せつつ独白する。自分は宗近に劣らない技がありなが何のための技か、誰のための。心が無い。目当てがない。目当てをくれ俺の心に灯をともしてくれ。自刀するとき、えんじゅ鍛冶(科白からの聞き取り)は、足利のためには刀を打たず、足利を倒すために打った。ここに刀鍛冶の魂があるとして帝のために打てと遺言する。その時、清音は、小野田先生の仇討のためでは駄目ですかと尋ねるとそれでは駄目だと言われる。

清音と清次は刀作りに励むが上手くいかない。弟弟子の清次が云う。「何でもいい、俺はただ立派な刀を作りたい。」 そして、精根も尽き清治は相打ちを使ってくれと頼み倒れてしまう。清音はそのまま仕事を続ける。そこに笹枝の生霊が現れ刀を打つのである。清次も起き上がり打ち始める。これは、映画をみている者にのみ判ることとしている。そこに溝口監督の抵抗がある。大義名分は付け足しである。三人は仇討のための刀を打ったのである。その名が<美女丸>である。

特典映像で新藤兼人監督が、語られている。<映画はロングショットとクローズアップで作られるが、溝口はほとんどがロングショットである。役者と役者のぶつかり合いの中で見える、個々の人格、内容をぶつけ合って見えてくるもの、不思議な情念を描いた監督である。>

刀を打つ場面はドキュメントのようである。この場面だけでも見たかいがある。娯楽性もきちんと踏んでいる。制約を受けているが、きちんと刀鍛冶のことも調べている。 脚本/川口松太郎、撮影/三木滋人。

溝口監督と花柳章太郎さんのエピソードを一つ。衣裳に凝る花柳さんが、舞台『細雪』に出るため、<寄せ水>という能の水干に着る衣裳で、寒中でないと麻糸が揃わないといわれる布を三反作らせた。二反は自分が購入し、残りの一反を溝口監督が購入。ところが、舞台上演前に、映画『雪夫人絵図』で小暮実千代さんに着せたため、花柳さんは溝口監督に抗議したそうである。映像では大きく写り舞台より目をひくであろうし、それを先に着られては抗議するのは当然と思う。それを知ったので『雪夫人絵図』のDVDが安く購入できたので見たが、DVDのパッケージの写真が一番その材質を捉えていた。(早稲田演劇博物館 日活向島と新派映画の時代展資料集より)

えっ! 今話題の本屋大賞受賞の『村上海賊の娘』(和田竜著)に鶴姫さんのことが出てくるんだ。今、押して来ないでくださいな!