歌舞伎座 『團菊祭五月大歌舞伎』 (昼の部 2)

『毛抜(けぬき)』。名前のごとく、<毛抜き>が重要な働きをするのである。観たらな~だとおもってしまうが、江戸時代の人は現代の『ガリレオ』の湯川博士の科学的根拠による解明と思って楽しんだのかもしれない。湯川博士ならぬ粂寺弾正(くめでらだんじょう)は、これまたド派手の衣装で花道から現れる。このかた、芝居の途中で~くめちゃんは~と書きたくなるような愛嬌をみせる。

小野家のお姫様が文屋家の若君と婚約しているのが病気のため輿入れが延びている。そこで文屋家の家来・粂寺弾正が催促の使者となり小野家に乗り込むのである。歌舞伎の衣装は派手目が多いがこの衣装も凄い。馬子にも衣装ではなく、まずは衣装に負けない大きさが大事である。左團次さんは似合っていた。こちらはピカピカのグリーン系の模様裃であるが、他の写真で團十郎さんは黒地に赤の火焔模様の裃、着物は黒地に銀の衣装である。推理が解けても、再演されれば、役者さんの芸や衣装など、また新たな目が動く。

お姫様の病気は髪の毛が逆立ってしまうという奇病である。一人になった弾正は考える。考えつつ、毛抜きを取り出して、髭を抜くのである。その毛抜きが超大きいのである。後ろのお客にも見えるように。置いた毛抜きがひとりでに立つのである。大きくないとインパクトが無い。映像のアップである。鉄の物が立ちあがる。姫君の美しく結い上げられた髷には、鉄製の華やか笄(こうがい)が。これは、櫛、かんざしなら日によって変えるかもしれないが、笄は髷を結うための飾り道具である。上手く考えている。弾正はこの笄を取る。すると髪の毛の逆立ちも静まるのである。曲者は天井にあり。弾正の手により、曲者は天井から落ちてくる。大きな磁石を抱えて。全て、小野家の悪家老の仕業であった。弾正は悪家老の首をはね一見落着である。

<くめちゃん>と言いたくなるのは、一人のとき、お茶やたばこを運んでくる、美しい若衆や腰元に戯れをするのである。そして振られては、「面目次第もござりません」と客席に振るのである。左團次さんは声の質から、低音であるが、團十郎さんはこのあたり、高音であったなあと思い出す。最後の花道でも、これで無事役目が済みましたと客席に挨拶する。左團次さんは、襲名口上などで、緊張を和らげる可笑しな話を盛り込んで楽しませてくれるが、役になると、これが可笑しみのあるところでも、客に媚びた崩しかたはしない。形破りではないのでる。この磁石には、江戸の人は凄いと思ったであろう。科学に弱い者は、湯川博士を凄いと思うのであるから。

この楽しい演目が終わると重い『勧進帳』である。ただ歌舞伎の場合、重さの中にも、軽さを入れている。ただ軽いというのではなく、そのことによって、その役の大きさを現す手段である。たとえば、弁慶がお酒を振る舞われて昔の秘め事を話しつつ、豪快に飲む場面などである。そして、酔いに任せ延年の舞となる。機嫌よく舞っていると思いきや、舞いつつ早くこの場を立ち去れと四天王に合図するあたりで、弁慶は油断させていたのかと、弁慶の大きさを感じるのである。花道の上げ幕が上がる前、『勧進帳』の緊張感は、大鼓や笛によって強調され、他の演目にない静寂である。この出は役者さんの緊張も大きいことであろう。ただ能と違い歌舞伎には三味線がつく。その軽快さが、能とは違う楽しみがある。

今回、花道で安宅の関にさしかかり、どうしたものかと思案するところで、弁慶が義経達に、私にお任せ下さいという科白が耳に残った。色々な思いがあり、新たな團菊祭としての響きと重なった。。

弁慶と義経の並々ならぬ主従関係に目をつむる富樫によって救われたあと、義経が自分の運命に嘆くとき、弁慶が長唄に乗り戦話をする。 「鎧にそいし袖まくら片敷くひまも波の上。或る時は船に浮かび、風波に身をまかせ、又或る時は山背の馬蹄も見えぬ雪の中に海少し有り、夕波の立ちくる音や須磨明石。」 今回はこの場面がで義経一行がどれだけ頼朝のために戦ってきたのかが想像が広がった。ここは新たに、追われる身でも自分たちは武士(もののふ)であるという誇りと結束を確認する場面でもあったのだと気が付く。

そのつど、心に呼びかける強弱の場面が違うのも、生の舞台の面白さである。そのきかっけとして しまなみ海道  四国旅(7) での義経の奉納した刀を思い出したからでもある。瀬戸内海に漂う船、馬、鎧、翻る旗、太刀、飛び交う矢などが、戦話を観ていてうごめいたのである。

あらゆる想いが安宅の関で凝縮され、無事通ることが出来る。捕らえられるべき富樫によって凝縮された時間を与えられるのである。姿なき富樫に弁慶は頭を下げ花道から飛び六法での引っ込みとなるわけである。

『毛抜』 左團次、権十郎、松江、梅枝、巳之助、廣松、男寅、秀調、団蔵、友右衛門

『勧進帳』 弁慶(海老蔵)、富樫(菊之助)、四天王(亀三郎、亀寿、萬太郎、市蔵)、義経(芝雀)

 

 

歌舞伎座 『團菊祭五月歌舞伎』 (昼の部 1)

<十二世團十郎一年祭>。團十郎さん亡き後も團菊祭が催されて喜ばしい事である。

菊五郎さんの『魚屋宗五郎』が、今まで観た中で一番と言ってよいほどの宗五郎であった。妹のお蔦が主人の殿様に、不義の罪でお手打ちになってしまう。そんな中、今日はお祭りである。近所の人から威勢よく声を掛けられても、宗五郎は小さくなって花道で挨拶をする。お蔦の戒名をもらってきた帰りである。

家に帰ると知り合いの人も弔問に来てくれている。客が帰ると宗五郎の父も出てきて女房のおはまと、使用人の三吉も加わり、悲しみと納得のいかなさから皆溜息である。恨みがましいが、貧乏のどん底の時、お殿様がお蔦を見初めてくれて一家は助かっている恩もあり、不義となればいたしかたないと宗五郎は皆をたしなめる。筋道を立てて物事を考える物のわかった町人である。

そこへ、お屋敷勤めのおなぎが先にお酒を届け、お悔やみにくる。おなぎはお蔦は不義ではなく、悪巧みの密議を聴き、そのために計略にかかり、不義としてお殿様に惨殺されてしまったと真実をはなす。皆は、なんということか、あのお蔦に限ってと思っていた気持ちが救われる。そして、妹思いの宗五郎は禁酒していたお酒を飲むのである。回りの者も飲まずにはいられない宗五郎の気持ちを理解し飲ませたのであるが、宗五郎は酒乱である。次々と酒を要求する。次第に酔っていく。観ていて宗五郎の気持ちがわかるのである。押さえていた気持ちがお酒の力を借りて次第に外へほとばしり始める。それまで殊勝な一人の庶民が自己主張し始めるのである。お酒の力を借りるというところにこの芝居の面白さがある。道理をわきまえていたはずの宗五郎が変身していくのである。この変身には、酔い加減と柔らかさ、周囲の嘘のない立ち回りが必要である。また始まってしまったと女房の時蔵さん。わが息子ながらだらしがないと父親の団蔵さん。親方に楯ついては怒られる三吉の橘太郎さん。お酒を持ってきたのが間違いであったとおなぎの梅枝さん。それぞれの役柄で変身を止めようとする。

ついに宗五郎は屋敷に談判に出かけるのである。作者は河竹黙阿弥、初演は明治である。おそらく観ていた観客は自分のことのように大喝采だったと思う。

お屋敷での玄関先とお庭先でもしっかりと変身宗五郎を見せてくれる。言いたいことが今度はお酒のために上手く表現できない。その気持ちを受け止めるのが、家老の左團次さん。しっかりと受けてくれる。家老がしっかりしているので、お殿様の錦之助さんが品よく素直に頭を下げても、不自然ではない。ありえることに思えてくる。お殿様から金一封を頂き、宗五郎は辞退しつつも、「どうしようか」と女房に尋ね「せっかくだから頂いておいたら」と答えるあたりの庶民感覚も最後の締めを明るくする。

玄関先で唄など気持ちよく口ずさんで寝てしまうところなどは江戸っ子の粋なところである。そして足腰を踊りなどで鍛えているため、酔った状態を作っていると思わせる負担のない自然さが、観ている者を楽しませる要因でもある。今回は、江戸の庶民の生業をそっくり舞台に乗せてくれた。まな板の上の宗五郎さん。出刃でも庖丁でももってきやがれ。うい~。

 

映画 『阿修羅城の瞳』

2000年という事は15年前ということになるが、新橋演舞場で『阿修羅城の瞳』を観ている。記憶に残っているのは、染五郎さんの動きがやはり一番綺麗であったことである。他の出演者は敬称略で、富田靖子、古田新太、江波杏子、加納幸和、平田満、森奈みはる、渡辺いっけい、橋本じゅん・・・。話の入り組んだ芝居で、粗筋を言えといわれると説明がつかず、ただ感覚的には面白い世界であった。その後、DVDのレンタルショップで 映画版『阿修羅城の瞳』があるのを見ていたが、見たいとは思わなかった。ところが明治座の五月歌舞伎を観たら、なぜか見たくなり借りたのである。

こういう世界であったのかと映画だと筋を捉えやすくよくわかった。科白も面白い。舞台と映画の設定は多少違っていると思う。舞台の場合、掴めていて掴めないその空間が魅力の一つでもある。そもそもこの芝居は1987年に<劇団☆新感線>で初演され封印されていたらしい。2003年にも、染五郎さん以外のほかのメンバーを入れ替えて再演している。作者は中島かずきさんで演出はいのうえひでのりさんである。芝居のほうは、劇中歌も入ったように思う。映像で表現出来ない魔の妖しさを歌で観客をいざなったような気がする。

映画のほうは、江戸時代に突然、人の世界に<鬼>が出現し、<人>と<鬼>との死闘が始まる。<鬼>を撲滅させるための組織に、鬼殺しとして恐れられる病葉出門(わくらばいずも)がいた。しかし彼は5年前に少女を殺し、今は四世鶴屋南北一座の役者となっている。芝居の舞台や稽古場面が上手く使われ引き付けられ、病葉出門は歌舞伎役者市川染五郎さんであるゆえに出来る役柄である。<鬼>は、鬼の王でもある<阿修羅>の出現を待っている。<阿修羅>はどういう形で現れるのか。病葉はつばき(宮沢りえ)という美しい娘に出会い縁を感じとる。病葉は、少女・つばき・阿修羅の関係が次第に判明していきながらも、現世には帰れない魔界への橋を渡っていく。つばきとの約束を果たすために。

四世鶴屋南北(小日向文世)は病葉に伝える。おまえとつばきのことは芝居として後世に残すからと。最終的には、病葉とつばきの男と女の話のように思えるが、ここに出てくる四世鶴屋南北さんもまた、芝居という世界で<阿修羅>と一騎打ちを果たすべく<芝居の阿修羅>に取りつかれた人である。

その<芝居の阿修羅>は今どこかの劇場に出現していて、役者さんと一騎打ちをしているかもしれない。現実なのか魔界なのか。もしかして、あなたは今夜、魔界の阿修羅城の瞳に出会うかもしれない。

などと時空を飛んで想像力を喚起してくれる。

監督・滝田洋二郎/原作・中島かずき/脚本・戸田山雅司、川口晴/撮影・柳島克己/出演・市川染五郎、宮沢りえ、樋口可南子、渡部篤郎、小日向文世、内藤剛志

 

コロッケと「早稲田大学演劇博物館」

ものまね芸人のコロッケさんが、地下鉄の関係の小冊子だったと思うが、人形町のすき焼きの「今半」の<すき焼きコロッケ>をお勧めと紹介していた。明治座に行った時思い出した。水天宮駅前店のほうで、お客さんが少なかったので1個購入し、お店で食べて行きたいのですがとことわると快く紙の包みにいれてくれた。温かくて、すき焼きのたれの味つきなので美味しかった。

~ いつも出てくるおかずはコロッケ 今日もコロッケ 明日もコロッケ これじゃ年がら年中コロッケ ~

この歌は、誰が歌っていたのか記憶にないが、なぜか知っている。ところが、よく知らなかったのである。「早稲田大学演劇博物館」へ、<六世中村歌右衛門展>を見にいったところ、<今日もコロッケ、明日もコロッケ “益田太郎冠者喜劇”の大正>企画展示もやっていた。初めて目にする名前である。この歌は大正時代に作られていて、益田太郎冠者さんの造った劇の劇中歌として歌われたものらしい。このかた、実業家でありながら、劇作家でもあり、帝国劇場の出し物にかかわり、そこで女優を育て、踊りあり、歌ありの喜劇を上演したのである。その代表的な女優が森律子さんで、彼女の等身大の人形が展示されていた。このお人形、<生人形>と云って、江戸時代から続く伝統的な技法なのだそうである。大正時代にこんなハイカラな明るい喜劇が流行していたのである。

益田太郎冠者さんの経歴をみると、三井創始者の御曹司で、ヨーロッパに留学し、実業家で、帝国劇場の役員でもあり、 ~あれも益田太郎冠者 これも益田太郎冠者~ といった感じである。映画『残菊物語』(溝口健二監督)で花柳章太郎さんと共演されている森赫子さんは、帝劇スター・森律子さんの姪にあたる。明治座では、新派の伊井芙蓉・河合武雄が 、益田太郎冠者さんの作品『思案の外』を上演している。

<六世中村歌右衛門展>は4月で終わってしまった。は2005年から10年間開催したので、ひとまずシリーズとしては今年が最終回である。演劇講座「六世中村歌右衛門を語る」講師・渡辺保さん(演劇評論家)/聞き手・児玉竜一さん(演劇博物館副館長)に参加させてもらった。一番印象に残る話は、<戦争という時代に女形が否定されたことである。> 歌舞伎に限らず、あらゆる芸能が戦局の統制下に入ったわけであるが、特に女形は否定される空気であったと思う。修行を積んでそれが否定され、<戦後そこから、また復活するということは、他の役者さんでは考えられないほどの辛苦であった。>女形でありながら、歌舞伎界の頂点に君臨したということは、並々ならぬ思いであったのであろう。<今の人達には判らないであろう。美しさが衰えてから本当の芸が出てくる。だから実際に観ないと駄目である。>との渡辺保さんの話に、あの身体も小さくなられながら、そばでそれとなく補助されながらも、役に成りきられた舞台姿が浮かんできた。『建礼門院』などは、歌右衛門さん自身が一度海深く沈まれたことの思いと重なっておられたのかもしれない。

評論家のかたの見方はなるべく見ないようにしている。それこそ、こちらの見方を否定される結果となることもあるので。ただ、時には、刺激となり観る勢いをもらう事もある。

~明日も見よう 明後日も見よう~

 

明治座 『五月花形歌舞伎』 (昼の部)

夜の部が『伊達の十役』で、昼の部は、『義経千本桜』(鳥居前)、『釣女』(つりおんな)、『邯鄲枕物語』(かんたんまくらものがたり)である。

『義経千本桜』は文字通り<花形>というよりも、先輩諸氏に言わせれば<花蕾>といったところであろう。かつては、諸先輩方は個人の勉強会などで、勉強の成果をお客様に見ていただくといった時期であったと思う。今、それだけ若い役者さんに期待し早く育って欲しいと思われているのであろう。

『義経千本桜』の鳥居前は、伏見稲荷の鳥居前である。行ったことがあれば、上まで上がるのに結構きつかったなどと思い出すかもしれない。話としては、この前に色々あるらしいが、見ている人は判らないのであるから、弁慶が何か失敗をして義経に怒られているな。『勧進帳』のあの主従関係に比べる、弁慶は軽いな。こんな弁慶の描き方もあるのかと思えばいいのである。静は義経について行きたいのだが、それが許されないのだな。その代り、義経から<初音の鼓>を預かり、お供に忠信を遣わすのか。面白い道化役が出てきて静と忠信の邪魔をするが、やっつけられてしまう。悲劇なのに随分派手な捕り手だなあ。忠信って、花道引っ込むとき、変な仕草をしたように思うが、あれは一体何なの。 義経、イケメンだったなあ。家来の声よかった。静が可愛い。愛嬌のある弁慶で、忠信のほうが動きが大きくて強そうだった。と、こんな見方で楽しめばよいのかも。同じ演目を次に、年配の役者さんで見たときは、緊張感が違うし、一段舞台が高く思える。若さもいいけど、背景に背負っている何かがあるみたい。何なのであろうか。少し調べてみようかな。と、なるかどうか。

忠信・源九郎狐(歌昇)、静(米吉)、早美藤太(吉之助)、義経(隼人)、弁慶(種之助)

『釣女』は狂言の『釣針』を歌舞伎舞踏にした楽しくて明るい出し物である。大名と太郎冠者が、恵比寿様のお告げによって釣竿で妻を釣るのである。大名のほうは美しい上臈(じょうろう)で祝言となるが、太郎冠者のほうは期待に反し醜女(しこめ)である。予想外の結果に二組の男女の違いと、混乱が交差する。

太郎冠者の染五郎さんと醜女の亀鶴さんのコンビは、まだ手探りのところに思われた。亀鶴さんの醜女はふくよかでどこか天然の感じで可愛げもある。そのあたりの呼吸と間があえば、もう少しユーモアの膨らんだコンビになりそうである。

太郎冠者(染五郎)、大名(高麗蔵)、上臈(壱太郎)、醜女(亀鶴)

『邯鄲枕物語』は、船の櫓を作る職人の清吉夫婦が、義理ある主人が紛失した御家の一軸を質屋で探し当てるが、それを請け出すお金がない。引っ越し先で茶店をし、大家さんの知恵をかりるが、うまくいかない。客の荷物の取り違えから、客の置いていった箱を枕に清吉は昼寝をする。清吉が目を覚ますと彼は違う世界にいた。この世界のお金の扱い方が、いままでのの世界と反対の世界で、清吉はお金の使い方の違う苦労をすることとなる。歌舞伎の他の演目のパロディー も入り、役も入り乱れ、おかしな世界が出現する。歌六さんは、今回の明治座で女形に目覚めるかもしれない。『吉田屋』に見立てた場面がある。清吉が花道を二つ折りの深編笠で顔を隠し、伊左衛門よろしく出て来る。紙子の着物のデザインを取り入れた、白地に文字が入り水色が加わり、所々が光るのである。この時の染五郎さんの体の形の美しさには驚いてしまった。ここは和事の出として難しいところであるが、夢の世界にふさわしい出来であった。実は、清吉の見た夢の世界に観客は連れていかれるのである。『櫓清の夢』。

市川染五郎、中村壱太郎、中村歌昇、中村米吉、澤村宗之助、中村亀鶴、中村歌六

 

明治座 『伊達の十役』

『伊達の十役』を見ていて、五日市の大悲願寺<伊達政宗白萩文書>のことを思い出した。仙台と花の萩は昔から縁があるのであろうか。仙台市の市の花は萩であるらしい。伊達騒動は「樅の木は残った」(山本周五郎著)や「赤西蠣太(あかにしかきた)」(志賀直哉著)等にも書き表され、さらに歌舞伎には「伽羅先代萩(めいぼくせんだはぎ)」というのがある。<伽羅>は<きゃら>で高価な良い香りを放つ香木である。それを<めいぼく>と読ませ、<先代>は<仙台>の事である。

歌舞伎では、時代は鎌倉時代とし、奥州の足利頼兼が伽羅の下駄をはき、廓に通ったことからきている。頼兼が花魁の高尾に入れ込み、その遊蕩からお家がぐらぐらと怪しくなるのである。今上演されるもとを作ったのが桜田治助で、それを改訂して四世鶴屋南北が『慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)』(伊達の十役)をあらわし、その原本が残っていないのを復活させたのが、三代目猿之助さんである。その役に染五郎さんが初役で挑んだ。

先ず、始めに口上で『慙紅葉汗顔見勢』は文字通り、恥も外聞もなく顔を紅葉のように真っ赤にして汗をかいてお見せしますと述べられ、演じる十役を写真によって善と悪のグループにわけ説明された。善グループ〔足利頼兼・絹川与右衛門・高尾太夫・腰元累・乳人政岡・荒獅子男之助・細川勝元〕 悪のグループ〔仁木弾正・赤松満裕・土手の道哲)である。この十人の登場人物を演じ分けるのである。そのため、40数回の早変わりである。

舞台装置の関係であろうか、早変わりに心奪われて、内容が判らないということはなかった。通しであったり、単発であったりで『先代萩』『伊達の十役』を見ているが、ダイジェスト版としても良く理解できた。口上の説明もよかったと思う。

仁木弾正(染五郎)は亡き父・赤松満祐の亡霊(染五郎)から、鼠の妖術を授かり特殊な能力を持つこととなる。そして、高尾太夫(染五郎)と累(かさね)(染五郎)は姉妹で、絹川与右衛門(染五郎)は累の夫であるが、主君・頼兼の事を思い高尾を殺してしまう。その高尾は妹・累にのり移りそのため与右衛門は累を殺すこととなる。与右衛門は子年、子月、子日、子の刻生まれで、その生き血で仁木弾正の妖術を破ることができるため、自ら鎌で自刃し、その鎌を渡辺民部之助(亀鶴)に渡し、民部之助は仁木弾正の妖術を破るのである。ここの筋だけでも、亀鶴さん以外は全て染五郎さんであるから、その早変わりがどうなっているのかと疑問に思うところであろうが、きちんとそれぞれの役になって現れるのである。

染五郎さんの累はどこか儚くて、この人に不幸が覆いかぶさるなと想像できた。高尾太夫の花道の出も艶やかでありながら、累と通じるものがあった。科白はきちんとは判らないが、ちょっと太夫をも演ってみましたというような表現があり、他の場面でも、舞台装置の工夫を科白として言及したり、土手の道哲では、だからこういう役はやめられなとの悪戯もあって、客に媚びるのではない流れでクスッと笑わせてくれる。

乳人政岡と、その子千松が幼君に代わって毒菓子を食べる御殿の場は、仁木弾正の妹・八潮を歌六さんが、栄御前を秀太郎さんが演じられ整った場面となった。

細川勝元の評定では、先輩のあの役者さんはもっと上手かったなあと思わせられたが、そのあともろもろの事があり、最後、渡辺外記左衛門(錦吾)に、外記左衛門の言い分が通り目出度く決着が付き「外記、よかったなあ」と声をかけるあたりは情がありほろりっとしてしまい、いい終わり方であった。

評定の後から亀鶴さんも大活躍で、だれることなく引っ張り最後にこの情がでたのが、染五郎さんの『伊達の十役』の一番のお手柄と思えた。そして、それぞれの役の鬘が染五郎さんの顔によく合っていたのもすっきりとした流れに一役かっていたと思える。

これからも女形に挑戦していただきたい。『色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)』の累が見てみたいものである。

 

五日市と秋川渓谷

JR五日市線の終点武蔵五日市駅の近くに、行きたい食事処何ろがあるがどうかと仲間に誘われる。ふらふらしているのが好きなので、食事だけの誘いには乗り気になれないが、五日市の名前に魅かれて承諾する。

調べてみると、秋川のそばで、秋川沿いの寺めぐりも出来るかもしれない。武蔵五日市駅の一つ手前の武蔵増古駅から歩くのはどうかと提案すると、旧東海道歩きの仲間一人がO・Kで他の二人は1時間遅れの武蔵五日市駅集合となる。

同道する仲間とは、途中何処かの駅か電車の中で会おうということで、拝島駅で会えた。旧東海道の箱根のことが話題となる。日帰りでの箱根越えがやはり皆の可能性が高いので、その方向でと、予定していた<保土ヶ谷から戸塚>の日を、<小田原から行けるところまで>と変更することにする。彼女はすでに小田原に行き、旧東海道の出発位置は確かめていた。さすがである。残念ながら、予定の日は雨となり中止となってしまったが、天候のこともあるので、仕事を休む人のことを考えると、日帰りが望ましいということが実証されたのである。

武蔵増戸駅から<大悲願寺>に行く途中で<横沢入>の看板があった。何であろうとそちらを訪ねる。ガマガエルの声が元気である。里山保全地域で、仕事中の方に尋ねると、夏は蛍も飛ぶそうである。奥まで行きたかったが時間がないので、<大悲願寺>へ脇道から入る。源頼朝の開基と伝えられる古刹で、十五世秀雄僧正は伊達政宗の末弟といわれている。

<伊達政宗白萩文書>の案内板がある。伊達政宗からの当寺への書簡がある。本堂前に白萩があり、政宗がここを訪れたおり、見事な白萩に心奪われ、この白萩を所望してきたものである。本堂は元禄8年(1695年)の建立である。観音堂の彫刻も修復され色あざやかである。重文の木造伝阿弥陀如来三尊像は4月21、22日ご開帳だそうで忘れていなければ来年でも拝観したいものである。映画「五日市物語」のロケ地ともあったが、この映画は記憶にない。車の少ない道の住宅の花々を見つつ武蔵五日市駅である。観光案内でパンフレットを貰い4人合流し目的地へ歩く。

途中、郷土館があるのだが食事を予約しているので寄らなかった。後でこの五日市には<五日市憲法>といわれるものがあり、明治時代に有志で日本憲法の草案を作ったのだそうで、国民の権利を考えたきめ細かなものであるらしい。寄れずに残念であるが、ここに来なければ気にも留めなかったかもしれないので良しとする。

食事何処ろは250年前に立てられた庄屋造りの家で水車が回っている。かつては繭から糸を紡ぐ製糸工場で、大勢の若い女工さん達が糸を紡いでいたのである。静かで瀬音がかすかに聞こえ食事も美味しかった。献立表と照らし合わせながら味わった。山菜で知らなかった、野良坊やコシアブラとも出会えた。誘った仲間は山登りの格好で入るわけにもいかず、一度来たかったのだそうである。皆満足であった。

食事の後は周囲を見てから、少し奥に進み、秋川沿いに歩いて帰る予定が、観光案内の地図に歩きたい道が赤く☓となっている。その後何かの災害で歩けなくなったのであろう。仕方がないので途中まで来た道をもどり、川の方向に道をかえ、秋川をながめつつ駅までもどることにする。奥多摩のイメージでもう少し渓谷だと思って居たが、武蔵五日市駅の周辺は想像していたような田舎ではなかった。もう二つほどお寺に寄りたかったが忙しくてはせっかくのゆったりした時間が逃げるので、皆でのんびりと川の流れと芽吹いた山の木々の色の違いを楽しみつつ帰路についたのである。

 

『源氏物語』から『愛宕信仰』そして『源氏物語』

栄西禅師から明恵上人そして清滝とつながったが、その後の旅で『愛宕信仰』に出会った。予想外にである。京都でそれまでの旅のルートから外れて、行っていないところを訪ねることにした時、『源氏物語』執筆地といわれ、紫式部宅址と言われている<蘆山寺>をまずと思った。

地下鉄今出川駅を降りたら同志社大学である。素敵なキャンパスである。ここは歩かなければなるまい。眼にも楽しい古い建物を見つつ進んでいくと、同志社の歩みを紹介しているらしい案内の建物があり、そこで一通りの同志社の沿革や新島襄さんの思想などを学ばさせてもらう。さらに、襄さんと八重さんの住んで居た旧宅が公開されているのを知る。是非寄らねば。

京都御所に向かうとき、この同志社と相国寺が近いのに気がつく。特別公開の時期をめざし、お寺のみを駆け足で巡っていたころであろう。大学など眼中になかった。清滝を歩いたのもそのころである。京都御所も『源氏物語』の舞台であるが、予約していないので建物の中には入れない。御苑の中を通り清和院御門を出ると<梨木神社>がある。この説明板に、このあたりは中川と呼ばれ、『源氏物語』で貴族の別荘が多くあった地で、「花散里」や「空蝉」と逢ったのもこのあたりとしている。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱の母も、中川の近くに住んでいたとある。工事中のところもあったが、ここは京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうち唯一現存しているところで<染井の水>は、現在も名水を求めて人々が並んでいた。

<梨木神社>の向かいが<蘆山寺>である。このお寺はもとは、京都の北にあったが、応仁の乱、信長の比叡山焼き討ちに遭遇し、現在地・紫式部邸宅址に移転したのである。ここは、紫式部の曽祖父・中納言藤原兼輔の邸宅で、鴨川の西側の堤防に接していたので「堤邸」と呼ばれ、兼輔は「堤中納言」の名で知られていた。その後、息子の為頼、為時(紫式部の父)へと伝えられ、紫式部は、ここで結婚生活を送り、娘・賢子(かたこ)を育て『源氏物語』を執筆したとされる。あれ!では<石山寺>は。あそこは、構想を練ったところでしたかな。

<蘆山寺>の源氏庭と命名された苔と白砂の庭をゆったりと一人占めして眺めた。桔梗の庭としても有名であるが、桔梗は想像の中で咲かせる。そういえば、東福寺の塔頭の一つで桔梗を愛でたなと思って調べたら天得院であった。<天得院>は内輪という感じで、<蘆山寺>は少し余所行きに気取らせて貰いましたという感じである。

寺町通りを<新島襄旧邸>目指して丸太町通りに向かうと、<京都市歴史資料館>がある。覗かせてもらうと、何か難しそうである。「愛宕信仰と山麓の村」。ではさらさらと分かる範囲で。火を防ぐ、火伏せ信仰で、映画で見たような気がするが、京都の家の台所に張ってあるお札の事のようである。あのお札「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれているのだ。この火伏せ信仰として名高いのが愛宕信仰で、その総本社が愛宕山の愛宕神社なのである。

あの鳥居はずっと下であったのか。道理で神社などありそうもなかったのだ。愛宕山は神仏習合の霊山で祭神は天狗である愛宕権現太郎坊と称する火神で、江戸時代には庶民から武士まで信仰したらしい。そのお参りの人々の宿泊所として愛宕山を支えたのが、水尾、樒原、越畑の3村で、愛宕山へのそれぞれの登山口であった。航空写真もあり、愛宕山の下の3村が写っている。博打はしてはいけない、身元の判らない者は泊めてはいけない、病で倒れたら介抱し、亡くなったら村の墓地に葬るなど色々なきまりもあったらしい。それから、日本地図を作った伊能忠敬さんも、愛宕山付近を測量して、越畑から樒原を通過し水尾・清滝へと向かっていた。それらのことを実証する当時のこちらには全然読めない文書が展示されていて、いいとこ取りをさせてもらいまいした。こういう地道な仕事をされているかたがおられるから歴史が残るのである。

東京の愛宕山の方は、町歩きであの急な階段を馬で降りたか登ったかしたという説明を聞いた覚えがある。あそこも火の神様なのであろう。

新島襄旧邸は機能的にハイカラに作られていた。台所も土間ではなく床で、井戸も室内にある。襄さんの両親の隠居所は江戸藩邸にあった住居に準じている。配られた小冊子が写真入りで丁寧なつくりであった。最初に、見学は無料であるが、東日本大震災の支援金300円を帰りにいただきますと言われ、帰り出口にきちんと係りの人が立っておられ、お願いしますと言われ、襄さんが、同志社の為に寄付をお願いして回った精神と似ているように思われた。

最後の『源氏物語』は、東京の<五島美術館>で展示されている源氏物語絵巻である。今回は、「鈴虫一・鈴虫二・夕霧・御法」で、絵の復元もある。この源氏物語絵巻は『源氏物語』が出来てから百数十年後の12世紀に誕生していて、その中でも現存する日本の絵巻の中で最も古い作品とされている物である。気が遠くなるような年数である。詞書と絵は別にしている。絵の方を楽しむ。現存しているのが不思議なくらいである。色は薄くなっているが、構図ははっきりしている。それをさらに原本に近い色使いで復元したものも展示されているので、美しい色使いの絵をながめつつ、心踊らせて読んだ平安の人々の様子が想像できる。

この旅はこの辺で閉じる事とする。