雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

10月に鎌倉に行った時、大佛次郎さんが戦後に創刊した『苦楽』という雑誌のことを知った。 鎌倉『大佛次郎茶亭(野尻亭)』

鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>を訪れた。

<鏑木清方記念美術館>は、「清方描く 季節の情趣 -大佛次郎とのかかわりー」であった。雑誌『苦楽』の表紙絵に大佛さんは鏑木さんの絵をお願いした。鏑木さんは目の不自由さもあり、当時の紙の質の悪さからも断られたが、最終的には引き受けられた。その原画と、雑誌『苦楽』の表紙絵が並べられていた。季節に合った12ヶ月の美人画で、基本的に新作を描かれていて、体調を崩されたときのみ既成作品とし、その力の入れようが伺えた。

原画の寸法と雑誌の寸法が違うので、原画よりも雑誌の人物の顔などが、細面になってしまう。そういう事も承知されて、受けられたのであろう。

2月は、泉鏡花の『註文帳』に登場する吉原の二上屋の寮のお若(紅梅屋敷)。6月は、歌舞伎『生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)』の深雪と宮城野曽次郎が逢う場面(宇治の蛍)。新年号には『道成寺』、その他、『堀川波の鼓』のお種、『たけくらべ』の美登利などもあった。清方さんの『苦楽』のために描かれた最後の絵は『高野聖』で、清流で身体を洗ったあとの婦人図で、バックに馬の絵が影のように描かれていて、薬売りが馬にされたことを暗示している。

横浜の<大佛次郎記念館>では、「大佛次郎、雑誌『苦楽』を発刊す」のテーマ展示である。

この雑誌『苦楽』は、大正時代大阪のプラント社で出していた雑誌『苦楽』を受け継いでいて、大正時代の雑誌『苦楽』の編集に携わっていたのが、川口松太郎さん、小山内薫さん、直木三一五さん等である。『空よりの声ー私の川口松太郎ー』(岩城希伊子著)に、川口さんが、大阪の小山内薫さんの家に住みそこからプラント社に通ったことが書かれている。展示品の中には、大阪から川口松太郎さんが、大佛さんに出した手紙があった。川口さんは自分の作品を、大佛さんが執筆している博文館発行の『ポケット』に掲載して欲しいとの依頼をしている。川口さんは、まだまだ、物書きとして認められていない頃である。大佛さんの出した『苦楽』には、川口さんは、直木賞も受けられた作家で、小説『さのさ節』を載せられている。

清方さんは、表紙絵のほかにも、『日本橋』や『金色夜叉』の名作物語の一文に絵を描かれている。

今回は、大佛次郎さんと鏑木清方さんの関連するところが、雑誌『苦楽』という共通のテーマで展示されていたため、『苦楽』という雑誌が、如何に絵画的な分野にも力を入れ、そこから視覚的にも楽しめるように考慮していたかが解った。清方さんの原画に多数見れたのも嬉しかった。さらに、第十三回大佛次郎論壇賞として『ブラック企業ー日本を食いつぶす妖怪』(今野晴貴著)が<大佛次郎記念館>の閲覧室に紹介されていて、これは読まなくてはと思った。若者たちを犠牲にするブラック企業と思っていたが、日本をもくいつぶすのか。良い物を見たあとは、少しは社会的思考も加えなくては。