歌舞伎座12月『義賢最期』『幻武蔵』『二人椀久』

『義賢最期』は、今年の新春に愛之助さんは演じられていて、今年の末、これで締めるということになる。 浅草公会堂 新春浅草歌舞伎 (第一部)

今回の愛之助さんには、悲壮感が強く表れた。小松の枝で手水鉢の角を割り、下部折平が源氏方の多田蔵人(亀三郎)と見抜いて平氏打倒を打ち明けたときからの決意が、兄の髑髏を踏むことが出来ず、紫の病鉢巻をぱっと投げ捨てる。思った。まだまだ、格好良く伝える工夫はあるのだと。そして、ここで討死にするぞとの意気が湧きたち、その流れの頂点としての<仏倒し>となった。源氏の御印である白旗の行方を見る側も追っていた。平家側の矢走兵内(猿弥)の手にあるのを多田蔵人の妻小万(梅枝)に手渡し<仏倒し>となる。ついに力尽きて倒れたという感じで、生身の愛之助さんのことを心配する余裕を与えない最期であった。義賢の生から死への最期である。亀三郎さんは声が張り過ぎかなという箇所もあったが、良く通る声で声量豊富なので、この声を自由自在に使い、幅広い役に挑めるのがこれからの強みになりそうである。

『幻武蔵』。森山治男さんの新作で玉三郎さんの演出である。森山治男さんは、中将姫伝説をもとに『蓮絲恋慕曼荼(はちすのいとこいのまんだら)』を書かれた方で、期待していたのであるが、武蔵や千姫、淀君が伝説ではなく歴史上の人物として現前としているので、物語としての幻想性を薄めてしまった。 揺るぎなき剣豪宮本武蔵(獅童)は姫路城の天守閣に妖怪が現れるとして、妖怪退治を頼まれる。千姫(児太郎)を脅かす淀君の霊(玉三郎)、坂崎出羽守の霊(道行)、秀頼の霊(弘太郎)が現れそれらから武蔵は千姫を救い出す。しかし、それだけでは無さそうである。天守に祀っている小刑部明神(松也)が姿を現し、宮本武蔵という一人の人間の持っている多面性を、多数の武蔵を登場させ、武蔵の闘ってきた姿を通して語り追求しはじめる。この辺りの台詞は、幸いなことに少し前に映画『宮本武蔵』を見ていたので、その場面が浮かんでくる。しかし、宮本武蔵に興味ない方は苦手な部分となるかもしれない。武蔵はその言葉に耳を傾けつつ、過去の自分と向き合いそこから、脱却するのであるが、その振り下ろされた一刀が、武蔵自身と小刑部明神・実は小刑部姫をも救うこととなる。 小刑部明神が、武蔵が試合に遅れて来たとか、子供まで殺したとか、試合にまつわることを指摘していく。しかし、無勢に多勢の試合であるから戦略は必要であったと考えられる。そういう意味では、武蔵の世界を理詰めに幻想的に捉えるのは無理であるように思えた。歌舞音曲で武蔵をたぶらかせたほうが面白かったように思うのだが。笛の音とか。通俗的過ぎるであろうか。

森山さんは、三年前に亡くなられておられるようである。残念である。新しい作品を生み出され想像の世界を広げて下さったことに感謝いたします。そう言えば、姫路城の天守閣最上階に何かを祀ってあったようであるが、あれが、小刑部明神だったのであろうか。姫路城の伝説など考えもしなかった。

『二人椀久』は、椀久の海老蔵さんが松山を失って心ここに非ずと淋しさに耐えつつの花道での姿がいい。でもあれだけ想い焦がれたのだから、二人が逢った時くらいはもう少し華やかでもいいと思うのだが、流れの緩急もあまり変えず静かに二人の時間を慈しむ。夢の中なのだから幻想的にということなのであろうが、『幻武蔵』でも思ったが、玉三郎さんの<幻想>には、まだまだ到達しえない若い方達である。 『二人椀久』、『鳴神』でも、玉三郎さんの大きさをやはり見せつけられたように思う。『鳴神』は<幻想>ではなく、手練手管である。それは芸の手練手管でもある。千手観音の手のようである。