旅の前の戯言

歌舞伎座11月、話題は「十一世市川團十郎50年祭」に血筋の堀越勸玄さんの初お目見得であろう。花道から海老蔵さんに手を引かれての堂々の登場である。舞台正面にきちんと正座して、子供独特の言い回しでの自己紹介である。その可愛らしさとあどけなさと真摯さはどの役者さんもかなわない。プロとしての初舞台大成功である。

幼い頃からプロとして舞台に立つ運命であり、そこを成長に従ってどう埋めていくのか測り知れない道が続くのである。先輩の左近さんが『勧進帳』の富樫の太刀持ちをしている。左近さん、10月は丁稚長松を無難にこなされた。今月はじーっとお行儀よく、富樫のこれぞというときに太刀を渡す。大先輩たちと同じ舞台にあって、その空気を意識せずに身体に吸い取っていくのであろう。

勸玄さんもそうした経験をこれから沢山積んでいくわけである。煩い外野の声を聞きつつ答えのない道を歩き続けるわけである。初舞台の真摯な目で、観客席をにらみ返すことを願っている。

その勸玄さんに銘じて余計なことを少し。『若き日の信長』の海老蔵さんの発声に疑問。籠ったたような声を押し出して響かせていたが、信長の人物の味を薄めてしまう言い回しの発声である。

『河内山』では、目での演技が多く、河内山の腹がない。ふっと小馬鹿にしたような視線はいいが、絶えず心のうちの視線であろうか動く。腹の座った愛嬌は何回も見せては価値がさがる。玄関での見せ場があるのであるから。

これまた、左近さんに免じて松緑さんへも一言。義経の台詞の声は、工夫が伺え松緑さんの初めて聞く声質である。それは良い。しかし、義経の顔の作りが濃すぎるように思えた。『若き日の信長』での藤吉郎では、癖ある藤吉郎をあえて信長の影に隠れて仕えるという押さえた顔の作りでよかった。義経は品格を持っての隠れての逃避行である。口の赤さも気にかかった。

気の置けない友人との旅の前のあわただしさの中で、言わなくても良い戯言を言ってしまった。旅の準備にかかる。雨の日がありそうだ。本数の少ない路線バスを使う日にぶつかりそうである。言わなくても良い戯言は言わない友人たちなので、大いに助かる。

断捨離予定本が復活『東京人』

本棚の板が重みで歪曲して、ビスの部分がひび割れている。まずい。断捨離である。悪魔の手が伸びて生贄は、『東京人』(1999年8月号」)<特集 世紀末は落語で笑え!>。開いてしまったのが悪魔の運の尽き。面白くて、復活し、断捨離終了である。

立川談志さんと吉岡潮さんが、談志さんが「ゆめ寄席」に実際に選んだらどんな芸人さんが並ぶのかということで、選んでいく。人の並べ方だけでなく、この人のこれという指定がある。その中に、柳家紫朝さんの「両国」が入っている。この雑誌が出たとき、こちらは、紫朝さんは知らない。寄席で紫朝さんの都々逸などを聴いて気に入りCDを買った。ところが、響いてこない。骨折して時間を持て余し静かに聞いたところ微妙な声の響きと節つけに気がつく。紫朝さん選ばれたたのが嬉しい。かつて『文芸寄席』をやったことがあり<永六輔が講談、清川虹子と宮城千賀子の座談、手塚治虫先生が漫画を描き、俺と前田武彦が漫才、はかま満緒が手品、前座が円生師匠>との話しあり。止まらなくなる。

金原亭馬治さんが、馬生襲名予定の年で志ん朝さんも出てくる。

東野圭吾さんが、自分の作品に『快笑小説』『毒笑小説』という短編があって、「笑い」をテーマにしていて、「笑い」をテーマにすることは東野さんにとっては修業の一つであるとしている。そして『しかばね台分譲住宅』は志の輔さんが『しかばねの行方』と改題して創作落語にしていた。知りませんでした。

池内紀さん。どこかで目にしたお名前である。日本近代文学館の今年の夏の文学教室で、「森鴎外の「椋鳥通信」」の講演をされたドイツ文学者である。そのかたが「明治の大名人三遊亭円朝」を書いている。鏑木清方の高座での円朝の画像が有名であるが、清方さん、円朝さんについて旅をしているのである。明治28年、円朝さん56歳、清方さん17歳である。新し噺の取材旅行である。茶店があると疲れていなくても寄り、話しを聴くのだそうである。

「牡丹灯籠」にもふれ、下駄の音を「カラコロ」とでてくるのは、樋口一葉さんの「にごりえ」で、10年あとに円朝さんは下駄の音を「カランコロン」とする。

「「牡丹灯籠」では、因果物語と恋の怪奇がかわるがわる語られる。それぞれをA、Bとすると、ABABABといったぐあいに進んでいる。」

今日はAかなと思うとBの話しで、次はまたAの話しになるという続けかたである。聞き手の興味を裏切りつつ、その手の内にハマらせ、次を聴きたくさせるのである。

速記本として出し、手直しをしてまた発表して「原稿料」をとる。手直しは高座での客の反応を批評家として見立ててなおすのだそうで、清方さんの絵の円朝さんのじーっと客を見つめる眼が座っている。

「浅草十二階をつくった男」(稲葉紀久雄・文)浅草にあった<凌雲閣>の設計者バルトンさんの話しである。バルトンさん、衛生工学が専門で、日本や台湾の上下水道の整備をされたかたで、浅草っ子に気に入られ、高い塔を建てることに参加したのである。大阪に<凌雲閣>(のちの通天閣につながる)があり、いつしか<浅草十二階>と呼ばれるようになる。

最初は、浅草寺の五重塔の修理費用のため周囲に足場を組みお金を取って五重塔の上まで登らせたところ凄い人気となり、修理後、高いところを人々が好むことに眼をつけたのが始まりということである。<浅草十二階>は関東大震災で八階から折れてしまう。

しかし、バルトンさんは、日本各地に上下水道の設計をして衛生のために尽力されたことは残された。日本人女性と結婚し、日本で亡くなられている。明治の浅草の写真に写されている<浅草十二階>にはそんな歴史があったのである。

その他「ミステリー小説の東京・乃南アサ」(川本三郎・文)「川端康成と少女論」(小谷野敦・文)等、この一冊を選んだがゆえに断捨離の時間は、読書の時間になってしまった。

吉川潮さんが本格派声帯模写の丸山おさむさんを紹介していた。このかたの流行歌手の物真似は本格的で、時間的長さが必要のため、テレビでは無理であり、やはりな生で味わう人である。

東野圭吾さんの本は、旧東海道の帰りに古本屋で手に入った。友人は、値の下がるのを待っていた本が5冊見つかり重いリュックも何のそのである。

円朝さんの話から、歌舞伎座10月『文七元結』で感じたのは、円朝さんの眼は、角海老の女将として、和泉屋清兵衛の眼として見まわしている。清兵衛が文七を認めてはいるが、自信過剰の部分を見抜いている。それが、お金紛失と左官屋長兵衛との出会いによる経験で、独立させてもいい時期と思うのである。単に、めでたしの付け足しではなく、文七の成長をもきちんと描いていると思う。そして、お久の人間性。それらを見定めてのめでたしで、さらに、一皮むけた文七は、元結のアイデアをだすのである。円朝さんはきちんとその辺りを計算に入れていたように思えた。

一冊も断捨離できない原因は、本を開いたことである。しかし、16年前、一冊の本をこんなに愉しんではいない。それだけ少しは、振り幅が広がったのであろうか。

来年こそは、断捨離で本棚の歪みを正常にしよう。

 

 

 

 

笠間と益子へ

藤の咲くころ、友人に茨城の美味しいお蕎麦屋さんへ連れて行くと声をかけられ、美味しいと聞くと執念を燃やす友人も加わり連れて行ってもらう。

笠間なのだそうで、『笠間稲荷神社』、『笠間日動美術館』、魯山人の『春風萬里荘(しゅんぷうばんりそう)』、『茨城県陶芸美術館』など、見どころの多い所で三回ほど訪れている。彼女は、日常に疲れると笠間、益子を訪れ、時には車を近くに置いて半日の登山などもするらしい。全くのお任せコースである。日動美術館と春風萬里荘は入っている。

お蕎麦屋さんは、こんなところにお蕎麦屋さんが本当にあるのという一本道を入って行く。途中に営業中の小さな木の板が出ていて、ここで営業中かどうかを知るらしい。営業時間が短いので、電話で聴くのを忘れてしまうが、今回は私たちを連れていくので営業していると確かめてくれた。家があった。普通の別荘風の家でお蕎麦屋をしようと思っての建物ではない。のれんもなく、中はレストラン風であるが、お蕎麦屋さんである。リピーターがいて、次第に席が埋まっていく。友人が薦めるだけあって美味しかった。

次に、早めにいかなければ売り切れる時もあるからと、お豆腐屋さんへ。小さなお店である。お豆腐、がんも、あげ、厚揚げなどが取りやすいように何個か紙袋に入れられたりしていて、効率よく並べられている。おからの冷凍したのが保冷材として10円で売られていて、解ければそのまま調理すれば良いわけである。このアイデアは素晴らしい。狭いながら、豆腐ソフトクリーム座って食べているお客さんもいる。私たちは外の日蔭で食する。

笠間稲荷では、見せたいのは後ろと、後ろにまわる。見事な彫刻である。ただこのままでの野ざらしで大丈夫であろうかと保存状態が気にかかる。ここも来ているが後ろまでは気がつかなかった。日動美術館。春風萬里荘へとまわる。この江戸時代の日本家屋は北鎌倉で北大路魯山人さんが30年間住んで居た旧宅を移築したのである。驚いたことに春風萬里荘は以前きたときは、だれも見学者がいなくて係りの人も一人であったが、今回は外人さんが多く訪れていて、係りの人も二人いた。ぼんやりと庭を眺めつつ抹茶を口にするところであるが、賑やか過ぎ時間もないのであきらめる。

最期は、友人のお気に入りの喫茶店で、ギター制作のお店と小さなギャラリーと喫茶室のある建物である。彼女も何があるのだろうと入って知ったのだそうであるが、その作家さんの変わるギャラリーも喫茶も彼女のお気に入りとなったようである。その日は古布を洋服や小物に作り変えている方の展示であった。入ったらミシンの前にいた作家さんがいなくなってあれっと思ったが狭いので勝手に見て下さいと席をはずされたのかもしれない。

それからお茶をして、帰るときもう一度のぞくと居たので、気に入った藍染めのマフラーの布は何かと尋ねると紬だという。肌触りが良かったが値段から考えると信じられない。友人にこれ買いなさいと薦める。友人が「えっ、いいの!」という。「譲る!お金は出さないけど連れて来てくれたんだから、いい買い物してよ。」オーナーで喫茶室のママさんが「売れなかったら私が買うつもりだったのよ。」といわれる。皆、目をつけていたのだ。友人は自分の快適と思う解放の場所を時間をかけて見つけていた。

その友人から再び、お蕎麦食べに行くと声がかかる。メンバーは同じである。日動美術館に鴨居玲さんの部屋が出来たとの情報を知っていたので、行きたいと思っていた。調べると企画展が<孤高の画家 熊谷守一と朝井閑右衛門>である。願ったりである。お蕎麦のあと、美術館へ。鴨居玲さんも激しい魂の慟哭と闘った絵描きさんである。何回か自殺未遂をされ、「司馬先生くるい候え」と赤ペンでかいた原稿用紙への遺書的文もあった。あごから頭にかけタオルを巻き、自分の自画像を描いている写真があったが、まるでゴッホが耳を切り落とした時のような姿で自分を描いていて、その闇ははかりしれない。教会が空を飛んでいる青い絵。

朝井閑右衛門さんは初めてである。ルオーのような画風の時期もあり、絵の具との葛藤も見受けられる。熊谷守一さんは好きなのでただ色と空間と形を愉しむ。どうしてあらゆる可能性のある無数の線の中から一本確定し簡単そうに決めれるのであろうか。

友人が書が気にいったという。私が最初に熊谷守一さんを知ったのは、白洲正子さんの旧白洲邸『武相荘(ぶあいそう)』の日本間に掛っていた「ほとけさま」と書かれた書の掛け軸からである。文字でありながらそこに仏さまがいるような不思議な温かさがあった。大きすぎてはいけないバランスのよさがある。それを書いた人が熊谷守一さんで画家であった。仙人のような方である。

それから、水戸の茨城県近代美術館へ 中村 彝さんの絵を見に行こうかという話しになったが、時間的に慌ただしいから、益子にしようということになり、益子の友人のお気に入りのお店を案内してもらう。藍染めの作業場のあるお店はお休みであったが、少し見せてもらう。藍の入ったかめの多さに驚いた。

益子には沢山の陶器のお店があるので、彼女の行くままに覗いて楽しませてもらった。帰りに寄ったお店のビーフカレーも美味しかった。まろやかでありながらきちんと辛さもある。ピザも味見をさせてもらったが美味しい。彼女がお勧めのお店はお値段もリーズナブルなのが嬉しい。そして、土地柄、器も楽しませてくれる。かなり通い気に入ったところを案内してもらうのであるから、こちらは、全身が、栄養満点の旅であった。

 

『夢酔独言』(勝小吉著)(2)

小吉さん、あちこちうろうろして、やっと江戸に帰ることにする.

山の中で崖より落ちて大事なところを打ってしまいながら箱根に向かう。関所のことは出てこないが箱根から、三枚橋へ着いているから手形を持っていたのでろうか。書かれていない部分が気になる。小田原では漁師の家で漁師の仕事を手伝い息子にと請われるが、こんなことをしていてもつまらないとお金をちょっと拝借し江戸に入る。ところが鈴が森、高輪、愛宕山、両国橋、回向院の墓場と家の敷居が高く何日か帰る時間を伸ばしやっと家の敷居をまたぐ。四カ月ぶりの帰宅である。

21歳の時の出奔は、吉原に寄ってからである。剣術修行もしたが他の修行もしていたわけである。やはり、一泊目は藤沢である。昔の人は朝の出立が早い。朝4時である。先日、藤枝から途中までバスなので、朝一番のバスで初めて朝6時出立としたら予定より早く目的地に到着したので、早朝出立は検討の余地ありである。

さて、小吉さんは小田原で世話になった漁師の家により、盗んだお金も返し、三枚橋まで送られている。仲間にお酒もご馳走し、きっとにぎやかにあの道を歩いたのだろうと想像する。手形がないので、剣術の道具一式と雪踏(せった)のいで立ちで、剣術修行だからお通し下されと言って通してもらう。夜である。そこから三島に行く。真っ暗でなんぎしたとあるが、もっともな話である。三島宿に着いたのが夜中の12時である。

三島宿では、ひとり旅は泊められないという。問屋場(とんやば)に交渉する。ここは宿の事務手続きをするところである。そこでも断られるので、水戸のはりまの守の家来とうそをつき、脇本陣にとまる。旧東海道を歩くときは、宿場に入るとこの問屋場跡、本陣跡、脇本陣跡などを探すのである。小吉さんのお陰で流れが分るし、小吉さんもどうすれば人が動くかを学んでいて、堂々と嘘をついて押し出すのである。かごまで出してくれる。

14歳の時と大きく違うのは、剣術を身につけたことである。「なんぞあったら切り死に覚悟して出たからは、なにもこわいことはなかった。」

大井川である。96文川になっている。川の水位によって渡しの値段が違うのである。私が見た説明板では、一番深いのが人の脇のしたで94文、約2820円であった。96文川とは増水で渡れないということである。名前が功を奏し水戸のはりまの守の家来はきちんと渡っている。蓮台がついた渡しである。4人が担いだとして、前を4人水よけをしていて、荷物は別の人足が担いで運んでいる。川越人足は、12、3歳から先輩のお茶出しや食事の世話などの雑用をやり、15、6歳で荷物を運び、それから一人前に人を運べるようになる。14歳の時の小吉さんは、大井川のことは何も書かれていないが浅いときは、大人の股下くらいであるから自分の力で渡ったのかもしれない。

川止めの最高は28日ということである。川止めとなると、宿が幾つか前の宿場まで宿泊客で埋まり相部屋となる。そこを狙うゴマの蠅もいるわけで、旅人にとって川止めは大変である。大井川に架かる大井川大橋は渡る時間12分であった。

小吉さんそこから掛川宿に入っているが、私たちは掛川まで入れなかったのである。この前に<小夜の中山>があり、東海道の三難所の一つであった。七曲り坂は、日光のいろは坂の徒歩バージョンと名付けたが、小吉さん元気であれば、難所などありはしない。

掛川から遠州の森町の昔の知り合いのところで逗留していたが、甥が迎えに来て江戸へ帰ることとなる。遠州森は、実在したかどうかは判らないが森の石松さんの生まれ故郷である。そして小吉さんは江戸にて座敷の三畳の檻の中である。

これにて、小吉さんとの東海道の旅も終了である。

舟木一夫さんの芝居『気ままにてござ候』は、この後からの話となるのであろう。斎藤雅文さんの脚本である。

『夢酔独言』(勝小吉著・勝部真長編)のまえがきに、坂口安吾さんの『青春論』『堕落論』、大仏次郎さんの『天皇の世紀』に『夢酔独言』に触れているとする編者の一文も好奇心を誘う。

 

 

『夢酔独言』(勝小吉著)(1)

新橋演舞場の12月『舟木一夫特別公演』のチラシに、勝海舟の父である勝小吉の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』とあり、視線がとまった。歌舞伎でも、勝小吉をモデルとした、真山青果作の『天保遊侠録(てんぽうゆうきょうろく)』がある。今年の6月に歌舞伎座で上演されている。

勝海舟さんの『氷川清話』が面白かったが、父・小吉さんの『夢酔独言』がこれまた面白い。 勝海舟 『氷川清話』

勝海舟ありて、この親・勝小吉あり。勝小吉ありて、この子・勝海舟あり。と言えるであろう。とにかく好き勝手に自分の思うがままに生きた人で、自分のような生き方はするなと書き残したのが『夢酔独言』である。小吉さんは自分から渦を起こしていて、海舟さんは外からの渦の流れを見つめつつ、思うように生きた人である。人の見分け方は、同じ目を持っているように思える。

一番面白かったのは、やはり東海道中である。14歳で江戸から飛び出す。21歳で再び飛び出し、戻ったときには、座敷の檻の中の人となる。その三年間の間に字を覚えるのである。14歳の時は、何も知らずに世間に飛び出し、21歳の時は旅の経験も人生経験も積んでいるから、その道中の違いが面白い。

14歳の時は先ず江戸からでて藤沢で泊まっている。50キロは歩いていることになる。次が小田原、箱根の関所は旅人から言われお金で手形を手に入れる。その親切な人に浜松の宿で着ぐるみ奪われてしまうのであるから、このごまのはいは最初から手形を用意していたのかもしれない。

宿の亭主が柄杓(ひしゃく)を一本くれて、これに銭を一文ずつもらって伊勢参りをしてこいという。<おかげ参り><抜け参り>というのがあって、ひしゃく一本持って歩くと銭や米を恵んでもらえるのである。使用人が主人に黙って、子供が親に黙って伊勢参りに出かけ、お金がない場合はほどこしを受けつつ行くのである。小吉の場合は、上方へ向かったのであるが、ごまのはいに会い伊勢参りとなる。

伊勢の相の坂で、同じこじきから龍太夫という御師のところへ行けば留めてくれるといわれる。『伊勢音頭恋寝刃』の世界につながる。10月国立劇場の『伊勢音頭恋寝刃』の序幕に<伊勢街道相の山の場>があった。<間(あい)の山>とも書かれ、外宮と内宮の間で、この道にお杉とお玉という二人の女芸人が間の山節を歌って人気を得ていたらしい。お杉を蝶紫さん、お杉が梅乃さんが演じられていた。御師のことなど筋書に詳しく載っていたが、先に進まないのでこれくらいにする。

小吉さんが乞食が教えてもらった江戸品川宿の青物屋大阪屋の名は、御師にとってお得意さんであったのであろう。その名によって良い待遇を受けお札とお金をもらう。しかしまた乞食となり、府中(静岡)の宿へ着く。ここで、馬の乗り方を披露する。初めて小吉さんが旅で自分の技量を見せた場面である。宇津ノ谷峠の地蔵堂で寝たり、毬子の賭場へ連れていかれたりとこちらが歩いたところが次々と出てきて、風景が浮かび、夜の暗さが想像できて可笑しいやら、度胸の良さやら、体を壊し水杯の状態やらといやはや大変である。

今まで、生きてきた体で覚えたことを全部出し切り、そこに新しい体験を加えて、ぎりぎりのところを生きているのに、嘆きや弱音はない。死と隣あわせなのに、生しかない。そして人の意見はよく聞く。それでいながら、絡めとられずに、自分の生き方をつき進んでいく。

 

 

邦楽名曲鑑賞会『道行四景』

国立劇場で、<邦楽公演>というのがあり、拝聴させてもらった。邦楽とは、日本の伝統古典音楽ということで、敷居が高い。観て聴いての方は、どちらかが観客を助けてくれるという感じであるが、詞と音楽(楽器)だけとなると、退いてしまう。一中節、宮薗節、義太夫節、清元節の競演である。

ではなぜ行くことになったのか。夏に歌舞伎学会で「演劇史の証言 竹本駒之助師に聞く」という企画があった。そこで初めて女流義太夫竹本駒之助(人間国宝)さんの存在を認識したのである。申し訳ないが、女性の浄瑠璃は聴きたいとは思わなかった。そのためチラシなど目にしても、手に取ることはなかった。今思うに、何と勿体ないことをしていたのであろう。

学会では始めに駒之助さんの語りの映像があり、ご本人のお話(聞き手・濱口久仁子)があった。映像での声の艶と、女性でも浄瑠璃は大丈夫であるということを知らされた。そして、ご本人が、魅力的なのである。気取りがなく、修行のこともさらりとテンポよく語られ、後輩に対しても、小気味よくもう少し頑張ってもらわなくてはとからっと激をとばされる。人間国宝のかたにこんな言い方はと思われるかもしれないが、茶目っ気もおありになる。これは生でお聴きしなくてはと思っていたら、10月の国立劇場での<邦楽名曲鑑賞会>まで空いてしまったのである。

駒之助さんは、「道行初音旅」で、『義経千本桜』の静御前と狐忠信との道行である。狐忠信の戦さの様子を語る部分もあるが、女性であっても全然違和感がなく、独特の絵巻ものを繰り広げるような面白さがあった。三味線も勢いがあり、どこかに潜んでいた固定観念も払拭である。

『道行四景』ということで、一中節「柳の前道行(やなぎのまえみちゆき)」、宮薗節「鳥辺山(とりべやま)」、義太夫節「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」、清元節「道行思案余(みちゆきしあんのほか)」の四分野の浄瑠璃の競演である。詳しくはわからないのであるが、浄瑠璃も枝分かれしているようなのである。このあたりも、邦楽のややこしさであるが、『ワンピース』ではないが、自分流の楽しみ方をさせてもらった。

はじめに、橋本治さんの「未知への憧れ」と題したお話しがあり、これも楽しみの一つに入っていた。橋本さんは、ジャンルが広く、なんでもござれのかたである。任侠映画の道行きから、水杯の旅のことなど楽しく話してくれ、思わず知らないお隣の人と顔を見合わせて笑ってしまった。

こちらも、小分けに東海道を歩いているので、不安が伴ったことがよくわかる。何があるかわからないのである。新幹線でぴゅーと行ったり来たりするわけではないのであるから、行ったところで、動きが取れない状態もありえるので水杯ともなるであろう。東海道は江戸時代に整備された道で、それまでは、伊豆半島で行き止まり、そこから船で房総半島に渡り、そこから関東に入ってくるのである。

そうなのである。頭の中の街道が、東海道になっているが、時代によってはそれも消さなくてはならないのである。憧れに伴う不安の入り組んだかなり感情起伏のある道行である。

「柳の前道行」には、田子の浦、富士川、鳴海潟、熱田の宮、亀山、関などの詞がでてきて移動がわかる。「鳥辺山」は「鳥辺山心中」があり心中道行とわかる。「道行思案余」は、お半、長右衛門の親子差の年の離れた心中道行である。どうこう説明はできないが、それぞれの旅の世界に入っていたことだけは確かである。

一中節は宇治紫文(人間国宝)さん、宮薗節は宮薗千碌(人間国宝)さん、清元節は清本清寿太夫(人間国宝)さんと最高級の方々の浄瑠璃を拝聴させてもらいながらもそれがどう凄いか言えないのであるから困ったものである。それだけまだまだ、汲み取る宝水が豊富にあるということである。

こちらの旧東海道の道行は、大井川歩道橋を歩き大井川を越し島田から金谷に入れた。時間的にゆとりができ、帰りには島田の蓬莱橋を往復し、大井川を三回歩いて渡ることとなった。現実の旅の未知への憧れと不安は満足感と疲労感でぼんやりしている。